2010年6月8日火曜日

江戸城 二の丸庭園 菖蒲田のハナショウブ(3) ピークに近づく

江戸城二の丸庭園の菖蒲田へ、6月3日に引き続いて行きました。
今年のハナショウブでは3度目です。
今日は、あいにくの曇天。
菖蒲には雨が似合うとか?
でもやはり、晴れているのにこしたことはない。
下の写真は、全て今日(6月8日)の状況です。
もうそろそろピークです。
*


*
加茂川
*
*
玉鉾
*
*
七福神
*
*
深窓の佳人
*
*
酔美人
*
*
大江戸
*
*
大盃
*
*
藤娘
*
*
濡鳥
*
*
武蔵川
*
*
夕日潟
*

2010年6月7日月曜日

大逆事件への処し方(2) 与謝野鉄幹 詩「大石誠之助の死」 平出修への被告弁護の依頼

大逆事件への処し方(2) 与謝野鉄幹の場合
*
紀州派の頭目とされ死刑となった大石誠之助を悼む詩
明治44年(1911)4月1日
鉄幹は、「三田文学」に詩「誠之助の死」を発表。
*
大石誠之助は死にました
いい気味な
機械に挟まれて死にました。
人の名前に誠之助は沢山ある
然し
然し
わたしの友達の誠之助は唯一人。
わたしはもうその誠之助に逢はれない。
なんの
構ふもんか
機械に挟まれて死ぬやうな
馬鹿な
大馬鹿な
わたしの一人の友達の誠之助。
それでも誠之助は死にました
おお死にました。
日本人で無かった誠之助
立派な気ちがひの誠之助
有ることか
無いことか
神様を最初に無視した誠之助
大逆無道の誠之助。
ほんにまあ
皆さん
いい気味な
その誠之助は死にました。
誠之助と誠之助の一味が死んだので
忠良な日本人は之から気楽に寝られます。
おめでたう
*
(一部不適切な表現がありますが、原本の表現をそのままにしました)
*
彼なりに精いっぱいの怒りをぶつけている、と思います。
1月24日に誠之助は処刑されていますので、鉄幹は処刑直後に堪らず筆をとったんでしょう。
*
被告崎久保誓一・高木顕明の弁護を平出修に依頼
大逆事件の検挙は、明治43年(1910)5月25日の明科で宮下太吉が、ついで新村忠雄が検挙されたことに始まります。
その後、6月1日に幸徳秋水が逮捕されます。
大石誠之助については、6月3日に家宅捜査がなされ、新村忠雄からの絵葉書2枚が押収されています。
6月4日から宮下太吉の予審が始まりますが、翌日5日に、松室検事総長と平沼民刑局長主導で、誠之助の起訴が決定され、誠之助は、この日午後11時30分に新宮署に拘引されます。
*
そして、7月、鉄幹は紀州派の被告崎久保誓一・高木顕明の弁護を平出修弁護士に依頼します。
依頼までの経緯は、被告崎久保誓一が新宮の牧師沖野岩三郎に相談し、沖野が知り合いの鉄幹に相談、鉄幹は親しい平出修に依頼したといいます。
紀州派の被告大石誠之助は、明星派歌人でもあり、鉄幹や沖野とも親しい間柄でした。
また、高木顕明、崎久保誓一は誠之助と親しく、沖野とも知り合いです。
更に、平出修の法律事務所の事務員和員彦太郎は、新宮出身の明星派歌人で、鉄幹・誠之助とも親しく崎久保、高木顕明の友人として、平出修に仲立ちか助言出来る立場にいました。
*
その後、平出修は、弁護に備えて鉄幹とともにしばしば鴎外を訪れ、思想問題の理解を深めています。
*
のちに鉄幹は、この事に関連して、
「私の間接直接に知っている二三の被告のために、弁護士である平出君を弁護に頼んだが、研究心に富んだ平出君は私に伴われて行って一週間ほど毎夜鴎外先生から無政府主義と社会主義の講義を秘密に聞くのであった。」
と書いています(1928年)。
*
誠之助の大逆罪とは
明治41(1908)11月19日~23日、誠之助は幸徳の平民社に滞在します。
実は、10日頃に上京し医療器具・書籍など調達していました。
22日、「大石誠之助君を歓迎する集い」が開催されます。この時、誠之助は初めて新村忠雄と会います。
誠之助は、26日に帰郷しますが、裁判では、この間の誠之助の平民社滞在が天皇暗殺の共同謀議とされます。
幸徳・大石二人きりで、身を捨てて働く者が50人もいれば、二重橋に迫り錦旗革命のようなものができるとの「革命ばなし」をしたといいます。
被告奥宮健之「調書」では、幸徳が「二重橋をおそい番兵を追っばらって、宮城のなかにはいり、天子を擁して綸旨をうけようじゃないか」との「笑話」をしたといいます。
*
誠之助は27日に京都に着き、ここに2日間滞在します。歯科医山路二郎のところで歯に治療をし、宿舎柊屋に「日の出新聞」記者徳美松太郎が訪問したので、東京の土産話で「革命ばなし」をします。
そして、29日に大阪に着き、12月1日夕方には、食事後、旅館の裏の下座敷で茶菓をだして雑談しますが、ここでも東京の「革命話」の茶のみ話を話題にします。
出席者は武田九平・岡本頴一郎・三浦安太郎・岩出金次郎・佐山芳三郎で、裁判ではこれが「同志糾合」の策略とされます。
*
鉄幹は、明治39年10月と明治42年(1909)年8月に新宮を訪れ誠之助と交遊しています。
鉄幹という人は、若い頃は閔妃暗殺事件に絡み(関与の度合いは不明ですが)、またずっと後年の60歳の時、上海戦争での肉弾三勇士に感動し讃える歌の懸賞募集に応募(昭和7年3月)するなど、思想的には社会主義・無政府主義を理解する(できる)人ではなかったと思います。
決めつけは危険ですが、どちらかというと国権派~皇国思想の系譜に属する人であったんでしょうが、その鉄幹がこの事件の被告の弁護を頼むほどに、この事件のフレームアップぶりが明白であったということなんでしょう。

*
*
尚、平出修が弁護を担当した、高木顕明は、新宮市の浄泉寺の住職で、死刑判決後、翌日特赦で無期懲役に減刑され、秋田監獄に服役しますが、1914年6月に自殺します。特赦された12名中の5名は狂死、自殺、病死で獄死してます。
*
もう一人の崎久保誓一は、「牟婁新報」記者で、死刑判決後無期懲役に減刑され、秋田監獄で服役、昭和4年(1929)4月に仮出獄、1955年10月に死亡します。
*
*
*
*

2010年6月5日土曜日

江戸城 北桔橋門(きたはねばしもん) 平川濠 乾濠 城壁の刻印 さくらんぼ

江戸城北桔橋門。
私がいつもお世話になっている門で、「きたはねばしもん」と読みます。
下の写真のように、深い濠、高い石垣に囲まれています。


*
下の写真のように、この門を入るとすぐに天守閣(跡)があります。
 更に、城の心臓部を守るために、この橋は「はねばし」になっています。
下の写真でも橋を引っ掛ける部分が分かります。
*

*
下の写真は、門の外側から見て右側の乾濠。
*
*
下は、濠の外側にある歩道橋から見たところで、同じく乾濠。
*
*
この乾濠の石垣に刻印を見付けました。
普請を担当した藩を示すものらしいのですが、内容は不明です。
*

*
*
下は、門の外側から見て左側の平川濠。
*
*
平川濠から門を撮ろうとしたら、めずらしく大きめのさくらんぼがあったので、さくらんぼを主役にしてしまいました。
*
*
多分、江戸城一に美しい平川濠の石垣とさくらんぼ。
*

*
「★東京インデックス」をご参照下さい。
*

明治5年(1872)8月~9月 学制発布「・・・邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン・・・」 琉球藩設置 初めての軍艦の海外派遣 [一葉0歳]

明治5年(1872)8月
*
この月
・東京府が、一葉の父、則義を貫族士族と認定。
*
・地租改正局設置。
地租改正事業を推進するため、大蔵省租税寮に地租改正局が置かれる。この年6月18日、大蔵大輔井上馨が神奈川県令から大蔵省租税頭に抜擢した陸奥宗光が、権頭松方正義と共に地租改正法案策定にあたる。
*
・為替座廃止。
三井・小野組合銀行に大蔵省為替御用命ず。第一国立銀行設立準備機関的役割。
*
・大蔵省が建議して、地方官の任期延長と国税府県税の区別が決まる。
*
・開拓使、羅卒屯所をクシュンコタンに置く
*
・星亨、車夫殴打事件により、司法省に閉門100日の刑を科せられ、この月、大蔵省租税寮御雇を免職。
免職後の生計の為、星は西洋偉人伝の翻訳、出版により生計の資を得ようとし、「海外万国偉績叢伝」として出版。しかし、食客を抱える所帯を維持できず、食客ともども深川清澄河岸の陸奥宅の食客となる。
*
・坪内逍遥(13)、長兄の勧めで名古屋県の洋学校に入学、英語を学ぶ。
翌年12月、県立成美学校と改称。明治7年9月、新設の官立愛知外国語学校(のち愛知英語学校と改称)に入学。外国人教師からシェークスピヤの講義などを受ける。
*
・「資本論」フランス語版第1分冊1万部、刊行。
*
・オイステルウェイクの学校に通っていたゴッホ弟テオ(15)がハーグを訪れる。
これを機に4歳違いの兄弟の間の生涯にわたる文通が始まる。
*
8月2日
・大政官、「学事奨励ニ関スル被仰出書」布告。個人の自立に不可欠な学問の効用を力説、全国民教育実現への決意宣言。
*
8月3日
学制発布。全国53,760校の小学校設立布告。
8年の義務就学(但し、有名無実)。この日、設置を決めたのは4校のみ。3月、文部卿大木喬任により原案作成
*
学制の理念:
前文(「被仰出書」太政官第214号)に
「人々自ラ其身ヲ立テ其産ヲ治メ其業ヲ昌ニシテ、以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ長スルニヨルナリ、而テ其身ヲ脩メ知ヲ開キ才芸ヲ長スルハ学ニアラサレハ能ハス」
と学校設立の趣旨が述べ、
「以後一般ノ人民華士族農工商及婦女子必ス邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」
と国民皆学の原則をうたう。
但し、学問にかかる費用は、民衆自らが負担することも述べられる。
当初の学制構想は日本全体を8大学区・256中学区・5万3760小学区に分け、小学校は人口600人に1校、中学校は人口13万人に1校の割合で設置するというもの。
*
8月3日
・太政官、「司法省職務章程」制定。
22章108条。司法省職制・事務章程・裁判所構成・判検事職制・裁判事務規定。近代的司法制度の体系化。
司法省の役割は「全国法憲を司り各裁判所を統轄す」。
省務は、裁判所、検事局、明法寮に分ける。
地方官(府知事・県令・府県参事など)から裁判権接収。
5種類の裁判所(司法省臨時裁判所、司法省裁判所、出張裁判所、府県裁判所、区裁判所)。
*
8月5日
・府県裁判所設置開始。
神奈川・埼玉・入間3県裁判所開設。12日、足柄・木更津・新治・栃木・印旛・群馬・宇都宮の8県。9月13日、兵庫。19日、山梨。10月7日、京都。20日、大阪裁判所開設。
*
8月7日
・一葉家族の住居移転。
一葉が生まれた長屋が東京師範学校の前身東京府教則講習所の建設予定地にかかるため立ち退き、第5大区4小区(現台東区)下谷練塀町43番地桜井重兵衛方(4小区扱所に隣接)に転居。
*
8月8日
・池上四郎、太政官正院から清国派遣の命を受ける。池上、外務省十等出仕に任官。池上四郎・武市正幹・彭城中平(さかきちゅうへい)、「御用候條清国牛荘へ差遣」する旨の命を受ける。
9日、外務省から清・露・鮮探偵として派遣の命を受ける。同日、樺山資紀、台湾生蕃琉球人暴殺の件で池上四郎に面会。
15日、外務卿副島種臣から外務省十等出仕池上四郎(薩摩)・外務省十等出仕武市正幹(土佐)・外務権中録彭城中平(肥前)への内諭「外務省十等出仕池上四郎外二名清牛荘差往探察ノ要件」あり。
16日、英船セート号で横浜を出航、神戸で下船。
18日、神戸で劉少丞と会う。25日、神戸出航、9月1日午後2時、上海に到着。
*
8月9日
・鎮西鎮台第2分営長(鹿児島)陸軍少佐樺山資紀、上京。陸軍元帥兼参議西郷隆盛・実弟陸軍少輔西郷従道に報告。琉球総難事件への積極的対処建言。
*
8月10日
・司法卿江藤新平、「聴訴ノ儀ハ人民ノ権利ヲ伸シムル為二、・・・」布達。
*
8月12日
・清国でアメリカ留学開始。中国初の官費による留学生が米に旅立つ。
*
8月13日
・文部大輔福岡孝弟(元土佐藩士)、司法大輔に転任。
*
8月14日
・鹿児島県使者伊地知真馨、副島外務卿に面会。琉球宮古島民の台湾遭難の報告、及び、鹿児島県参事大山綱良の問罪の軍隊派遣建言、提出(台湾出兵論登場)。
先に東京に来ていた樺山資紀は、伊地知とも打ち合わせ、いきなりの「問罪の」軍隊派遣でなく、とりあえず現地調査を行う穏当な線に後退。
当初「異論」をみせた西郷隆盛もこれには了解。
*
8月15日
・教育費受益者負担が確定
*
8月17日
・(旧7/14)使節団、イギリス着。アメリカ滞在が長びき、イギリス到着は遅れる。女王・政府高官は避暑にでかけており、使節団はロンドンで空しく待機。
*
8月18日
・諸派合同の第1回宣教師会議が開催
*
8月19日
・この日付の樺山資紀の日記。「台湾事件により琉球王を出府せしめ、三ヶ条の条約を立てられ、そのうえ何分の決断する内議なり」。
琉球藩設置と宮古島島民遭難(台湾出兵問題)とが結合。
*
8月23日
・太政官布告。華士族・平民相互の結婚許す。
*
8月25日
・マリア・ルーズ号事件。裁判長大江卓、移民契約書は人身売買にあたる、清国人は帰国させる判決。
ペルー側に雇われた在日イギリス人弁護士ディッキンズは、遊女売買の実情を紹介し、これを許す日本政府に外国人を裁く資格はないとの弁護を展開。
*
8月28日
・近代警察の始め。司法卿江藤新平、軍事・警察を分離。東京府の羅卒約4千人を司法省管轄下に入れ警保寮(2等)とする。羅卒総長川路利良を警保助に昇格、大警視兼務とする。9月3日、司法大丞大検事(検事総長)島本仲道を警保頭に兼任させ、司法省3等出仕(勅任官処遇)とする。警保寮は近衛兵(約5,500人)と拮抗する勢力となる。
*
下旬

・マルクス、ハーグ大会に提出する総務委員会報告書作成。30日の総務委員会で採択。
*
*
9月
*
この月
・東京市町鑑が東京市内町名を公示。
*
・大谷光瑩、成島柳北ら欧米視察に出発
*
・クシュンコタン公議所を開拓使樺太支庁に改称
*
9月1日
・清・露・鮮探偵の外務省十等出仕池上四郎(薩摩)・同武市正幹(土佐)・外務権中録彭城中平(肥前)、午後2時、上海着、田代屋弥平宅に寓居し通訳兼案内人周紫卿を傭う。
5日、池上四郎、西郷宛に書簡。16日、池上ら英国郵船四川に乗船。17日、上海出発、
21日、山東省煙台(芝罘)到着。25日、池上四郎、外務省経由で西郷に書簡と朝鮮地図を送る。26日、煙台出発、
28日、遼寧省海城県営口(牛荘)到着、通訳兼案内人蓋平県人王某を傭う。以後、営口で商人として清国の地形・政治・兵備・財政・風俗・人情を探索。28日~10月17日、外務卿副島種臣、正院・外務省・大蔵省間で追加金1500弗送付調整を行なう。
*
9月1日~7日
・国際労働者協会(第1インタナショナル)第5回ハーグ大会。
マルクス出席。階級廃止を終局目的とする「社会革命」のために闘う労働者政党設立の必要性を規約化。総務委員会の権限拡大、バクーニンとギヨムの国際労働者協会からの除名、総務委員会のニューヨーク移転、可決。
*
9月3日
・琉球使節伊江王子朝直(尚健)一行、東京着。
*
9月4日
・大元帥の制服を定める。
*
9月7日
・田畑作付け自由を許可する。
*
9月8日
・マルクス、アムステルダム支部集会にハーグ大会代議員多数と共に出席、大会成果に関する演説。
*
9月12日
・新橋~横浜間、鉄道開業式。新橋(現汐留)と横浜(現桜木町)間鉄道開通(開通式)。片道1時間で運行。9日の予定が台風の為この日に延期、実施される。
*
9月13日
・マリア・ルーズ号の奴隷清国人の苦力229人解放。清国使節(江蘇補用同知の官職にある陳福勲、3世紀ぶりに公式に来日した中国官人)に引き渡す。清国船で帰国。
*
9月14日
琉球藩設置
天皇、琉球国王尚泰の名代伊江王子朝直(尚健)に尚泰を琉球藩主・華族とする詔勅。鹿児島県からの自立。
*
9月14日
・(10/16)司法少丞河野敏鎌、明法助鶴田皓、権中判事岸良兼養、警保助川路利良、司法中録井上毅、司法省七等出仕沼間守一、同名村泰蔵、同八等出仕益田克徳、フランス郵船「ゴタベリイ」で出発。同船者に、姉小路公義・松田正久、かつての幕臣(騎兵頭、外国奉行)で後の「朝野新聞」社長成島柳北。
*
9月15日
・外務大丞花房義質、陸軍中佐北村重頼・同大尉別府晋介らと軍艦「春日」で朝鮮派遣、草梁倭館着(明治政府の初めての軍艦の海外派遣)。
16日(10/18)、旧対馬藩役人を退去させ、「草梁倭館」を外務省に接収、一方的に外務省直轄「日本公館」とする(元来は朝鮮政府の所有、伝統的に対馬藩が役人・商人を滞在させていた)。朝鮮側は硬化、全ての交渉を拒否、生活物資供給制限などする。
*
9月15日
・スイス、サン・ティミエ、バクーニン指導アナキスト国際会議開催。
*
9月18日
・司法省明法寮教育開始。ボアソナード、プスケ招聘。
*
9月18日
・アメリカ公使デロング、副島外務卿に1854年琉球条約を日本が引継ぐか否か問い合せ
*
9月21日・東京府下の劇場に興行免許鑑札を交付。3座以外の芝居も認められる。
これまでは、劇場は浅草の3座に限定。
①中村勘三郎の主宰する1丁目の猿若座、
②市村羽左衛門の主宰する2丁目の市村座、
③守田勘弥が営む3丁目の守田座
であった。
*
明治5年以降、各地に劇場を建てることが自由になり、多くの劇場が東京の方々に出来る。
芝の森元町に森元座、その近くに開成座、高砂座など。次に池之端七軒町に大和座、日本橋の浜町に中島座、中橋広小路に結城座等ができる。
明治7年には、金杉2丁目に河原崎権十郎が河原崎座を作り、養家の河原崎 家を去り生家の市川家に戻り、9代目市川団十郎を名乗る。
守田勘弥は明治5年、市内進出を志し、島原跡の新富町に守田座を作り、やがて新富座と改称。守田勘弥は、12代目であるが、俳優としてより劇場経営者、企画者として優れ、新時代にふさわしい劇場建築、演出技術、舞台装置等の改良を考え、実行する大胆な演劇企業家である。
守田は市川団十郎と和解し、明治9年から団十郎を新富座の主演俳優として招く。
市川団十郎は、この頃、大根役者と言われていた。彼の演技は新しく、古風な誇張的な科白を止め、日常会話の形を生かそうとし、また身体を徒らに大きく動かす派手な演技よりも、精神的な印象を客に伝える表現を作り出すのに苦心した。
それは守田勘弥の企てた演劇改良の思想と一致するものであった。
「明治の新しい知識階級者は、団十郎のこの写実的でかつ人間的な迫力のある演技に次第に慣れ、彼を認めて当代第一の役者と見なすに至った。 」(伊藤整「日本文壇史1」)
*
9月24日
・メートル原器が制定
*
9月25日
・副島・デロング会談。アメリカ公使デロング、外務省に副島を訪問。厦門駐在米領事リゼンドルの存在、台湾に関する知識紹介。
台湾は「浮きもの」(国際法上どの国家にも属さない無主の地)と教える。リゼンドル流の先住民との平和的交渉を勧め、副島の派兵論を牽制。
*
リゼンドル:
1830年フランス生まれ。1854年アメリカ人と結婚しアメリカに移住。南北戦争従軍、負傷、退役。1866年清国厦門駐在領事就任。難破アメリカ商船が台湾に漂着、船長以下14人が先住民に殺害。アメリカは軍艦を派遣するが、うまく行かず。1867年リゼンドルが現地に赴き、島内を踏査し、先住民代首長トウキトクと交渉、今後は渡来の西洋人に危害を加えないという約定を締結。以降、リゼンドルは台湾通として知られるようになる。
*
9月26日
・副島・リゼンドル会談、外務省横浜出張所。27日、東京迎賓館で続行。リゼンドル、清国政府に灯台設置要請から台湾領有論まで展開。
*
9月28日
・外務省、琉球藩の外交権回収し外務省に移管。
*
*
「★一葉インデックス」をご参照下さい
*

治承4(1180)年8月24日~25日 小坪合戦(由比ヶ浜の合戦)。平氏方の畠山重忠破れる。甲斐源氏挙兵。波志田(ハシダ)合戦

治承4(1180)年8月24日
小坪合戦(由比ヶ浜の合戦)
平氏方の畠山重忠(父重能は京都大番役で在京)、頼朝敗戦を知り帰還する源氏方の三浦義澄(母方の伯父)・和田義盛(従兄弟)の軍勢に遭遇。
三浦は小坪の峠に300、畠山は稲瀬川の辺に500で対陣、戦闘の末、畠山重忠は逃走。上総広常70余、三浦軍に参戦。
*
□「吾妻鏡」。
「三浦の輩城を出て丸子河の辺に来たり。去る夜より暁天を相待ち、参向せんと欲するの処、合戦すでに敗北するの間、慮外に馳せ帰る。その路次由比浜に於いて、畠山の次郎重忠と数刻挑戦す。多々良の三郎重春並びに郎従石井の五郎等命を殞す。また重忠が郎従五十余輩梟首するの間、重忠退去す。義澄以下また三浦に帰る。この間上総権の介廣常が弟金田の小大夫頼次、七十余騎を率い義澄に加わると。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
□「現代語訳吾妻鏡」。
「三浦の者たちが城を出て丸子河(酒匂川)の辺りまでやって来て、昨夜から夜が明けるのを待って参上しようと思っていたところ、合戦ですでに敗北したというので、思いがけぬことと急ぎ帰った。
その途中の由井浦で、畠山次郎重忠と数刻にわたって戦った。
多々良三郎重春ならびにその郎従の石井五郎らが命を落とした。
一方で重忠の郎従五十余りの首が取られたので重忠は退去した。
義澄らはまた三浦へと帰っていった。
この間に、上総権介広常の弟である金田小大夫頼次が七十余騎を率いて義澄の軍に加わったという。」
*
○畠山重忠(1164~1205):
父は畠山重能。母は三浦義明の女。本領は武蔵国畠山庄。
大蔵合戦(久寿2年8月)後、秩父平氏の家督と武蔵国の留守所惣検校職(武蔵国の事務・国内武士の統率権)は、河越氏が継承し、庶流となり、父能重と共に平家に仕える。
石橋山合戦直後、由比ヶ浜で三浦氏に遭遇し敗北、河越重頼を介して軍勢を集め、衣笠城の三浦義明を自害させる。
しかし、同年10月、頼朝に帰順、鎌倉入りの先陣を勤める
義仲追討・平家追討で軍功を挙げ、文治5年(1189)8月、奥州合戦では頼朝本隊の先陣を命ぜられ、阿津賀志(アツカシ)山の戦いで藤原国衡と合戦、恩賞として陸奥国葛岡郡の地頭職を得る。
神楽の付歌や今様などの芸能に通じ、「京都に馴るるの輩」(「吾妻鏡」元暦1年6月1日条)と称され、文治2年(1168)4月、鶴岡八幡宮で催された静御前の舞では銅拍子を伴奏。
二度の頼朝上洛(建久元、6年)で先陣を任され、頼家の後見役として頼朝の指名を受けた有力御家人であり、北条時政の娘との間に子の重保がいる。
文治元年(1185)、河越重頼に替わり留守所惣検校に任じられ、武蔵国の事務・軍路を掌握。元久元年(1204)10月、重保と武蔵守平賀朝雅(時政の娘婿)との口論を機に、武蔵の国務を巡り北条氏と対立。時政・牧方(マキノカタ、時政の後妻)と政子・義時との内部抗争に巻き込まれる。
「吾妻鏡」では時政・牧方が畠山父子追討を画策とするが、追討軍を主導したのは義時。
翌年6月22日、稲毛重成の招きで鎌倉入りしていた重保が三浦義村・佐久同家盛に謀反人として討たれ、同日、男衾郡菅谷の館から鎌倉に向かう途中、武蔵国二俣河の鶴ヶ峰で事態を知り、義時を大将とする討伐軍と合戦を決意、愛甲季隆に射られ討死。後、
妻(時政の娘)は足利義純に嫁ぎ、畠山氏の名跡は足利氏に継承。
*
8月25日
・甲斐源氏、挙兵。波志田(ハシダ)合戦
安田義定・工藤景光ら、富士北麓波志田山(正確な場所は不明)において平家方の俣野景久・駿河目代橘遠茂軍を破る。
*
□「吾妻鏡」。
「大庭の三郎景親、武衛の前途を塞がんが為、軍兵を関に分ち方々の衢を固む。俣野の五郎景久、駿河の国の目代橘の遠茂が軍勢を相具し、武田・一條等の源氏を襲わんが為、甲斐の国に赴く。而るに昨日昏黒に及ぶの間、富士の北麓に宿すの処、景久並びに郎従帯する所の百余張の弓弦、鼠の為喰い切られをはんぬ。仍って思慮を失うの刻、安田の三郎義定・工藤庄司景光・同子息小三郎行光・市川別当行房、石橋に於いて合戦を遂げらるるの事を聞き、甲州より発向するの間、波志太山に於いて景久等に相逢う。各々轡を廻し矢を飛ばし、景久を攻め責む。挑戦刻を移す。景久等弓弦を絶つに依って、太刀を取ると雖も、矢石を禦ぐこと能わず。多く以てこれに中たる。安田已下の家人等、また剱刃を免れず。然れども景久雌伏せしめ逐電すと。
*
武衛筥根山に御坐すの際、行實が弟智蔵房良邏、故前の廷尉兼隆の祈祷師を以て、兄弟行實・永實等に背き、忽ち悪徒を聚め、武衛を襲い奉らんと欲す。永實この事を聞き、武衛と兄行實とに告げ申すの間、行實計らい申して云く、良暹の武勇に於いては、強ち怖るべきに非ずと雖も、謀り奉るの儀に及ばば、景親等定めてこれを伝え聞き、競い馳せ合力せんか。早く遁れしめ給うべしてえり。仍って山の案内者を召し具し、實平並びに永實等、筥根通を経て土肥郷に赴き給う。北條殿は事の由を源氏等に達せんが為、甲斐の国に向かわる。」(「吾妻鏡」同日条)。
*
□「現代語訳吾妻鏡」。
「乙巳。大庭三郎景親は武衛の行く途をふさごうと軍勢を分散させ、方々の道を固めた。
俣野五郎景久は、駿河国目代の橘遠茂の軍勢を引き連れ武田・一条らの(甲斐)源氏を襲撃するために甲斐へ向かった。
しかし昨日、辺りが暗くなったので富士山の北麓を宿としていたところ、景久ならびに郎従が持っていた百余の弓の弦が鼠によって食いちぎられてしまった。そこでどうしようかと途方に暮れていたところに、安田三郎義定、工藤庄司景光、その子息小次郎行光、市河別当行房が石橋で合戦が行われた事を聞き、甲斐国を出発していたので、波志太山において景久らに遭遇した。おのおのが轡を廻らし矢を放ち、景久を攻め立てた。
戦うこと数刻、景久らは弓の弦が絶たれていたので太刀を手にとって戦ったが矢を防ぐことができず、多くがその矢に当たった。また安田以下の家人らも剣刃をまぬがれることはなかった。こうして景久は敗れ去ったという。
*
頼朝が箱根山にいる間に、行実の弟の智蔵房良邏は故廷尉(山木)兼隆の祈疇師だったので、兄弟の行実・永実らに背いてすぐに悪徒を集め、頼朝を襲おうとした。
永実はこれを聞いて頼朝と兄の行実に報告したので、行実は考えて、
「良邏の武勇は大したことはないけれども、謀を企てようならば、景親たちはきっとそれを伝え聞き、我先にと急ぎ来て合力するであろう。早く逃げて下さい。」と云う。
そこで山の案内人を連れになって、実平と永実とともに箱根路を経て土肥郷へ向った。
時政は、これまでの事情を源氏に伝えるために甲斐国へと向かった。
・・・しかし、頼朝の到着する場所を見定めなければ、源氏の軍勢を集めようとしても彼らはやって来ないだろう。それならば、すぐに(頼朝の)後を追って参上し、御居所から御使者として彼らに会うのが良い、と思案したので、途中で引き返して土肥の方へ(頼朝を)尋ねて行った。・・・」
*
○工藤景光:
頼朝の伊豆蜂起、石橋山の戦いの報を聞き、子の行光や安田義定等と共に進発、波志太山で平家方大庭景親の軍兵俣野景久等と戦う。
黄瀬川の陣で、頼朝に拝謁し、波志太山合戦で忠節したことを自ら言上(「吾妻鏡」治承4年10月18日条)。
翌年早河合戦の際、北条宗時を殺害した平井紀六を生け捕る(「吾妻鏡」治承5年1月16日条)。
文治5年(1189)7月頼朝奥州進発、建久元年(1190)11月頼朝上洛に際し供奉。
建久4年(1193)5月頼朝富士野夏狩の際、無双の大鹿一頭が、頼朝の前に走り来たところ、工藤庄司景光が矢を射るが命中しなかった。
景光は、「十一歳より以来、狩猟をもって業となす。しかうしてすでに七旬余、いまだ弓手に物を獲ずということなし。しかるに今心神惘然としてはなはだ迷惑す」と述べ、さらに鹿は山の神の化身であって自分の「運命縮まりおはんぬ」と予言し、その晩より発病(「吾妻鏡」建久4年5月27日条)。
この後、景光に関する「吾妻鏡」 の記載はなく、この病気がもとで没したと推測される。
*
*
「治承4年記インデックス」をご参照下さい。
*

本能寺の変(14) 信長の京都の宿所の移りかわり 妙覚寺 相国寺 二条御新造 本能寺 義昭の二条御所について

京都における信長の宿所の移りかわり
*
第1回上洛(永禄2年(1559)2月2日~7日):
この年1月下旬、信長(26歳)は、家臣500余率い、清洲城~伊勢路~八風峠を越えて近江入り。
琵琶湖畔の志那の渡しから坂本に着岸し、志賀越えに京都の北白川口に至る。
2月2日、「室町通り上京裏辻(上京区裏築地町)」の宿に入る(「言継卿記」、「信長公記」首巻)。
「異形者多云々」(「言継卿記」)という。
近江朽木から5年ぶりに帰京した将軍足利義輝に謁見し、2月7日に帰国。
*
足利義昭を奉じて上洛した永禄11年(1568)から天正10年(1582)までの15年間に本能寺を宿所として利用した時期は、元亀元年と、天正9、10年の前半・後半がある。
この二つの時期には11年間の隔たりがあり、併せて4回ほどが本能寺利用となっているに過ぎない。
この11年間は、妙覚寺・相国寺などの寺院や、本格的な京都屋敷として造営された二条御新造が宿所として利用されている。
*
初めての本能寺宿泊
元亀元年8月23日、三好三人衆と本願寺を攻撃するため上洛した信長は初めて本能寺に宿泊。
翌9月23日、摂津攻撃からの帰陣の際にも宿泊。
*
12月、信長は本能寺に3ヶ条の禁制を与える(「本能寺文書」)。
「条々     本能寺
一為定宿之間、余人寄宿停止之事、付、四壁竹木不可伐採事、
一祠堂物之儀、御代々任御下知之旨、不可有相違之事、
一非分諸役不可申懸之事、
右、於違背之輩者、速可被處厳科者也、仍執達如件、
元亀元年十二月 日 弾正忠(朱印)」
*
第一条「定宿たるの間、余人の寄宿停止の事」と、本能寺を定宿と定め余人の寄宿を禁止すると指令する。
しかし、実際は天正9年2月20日の上洛まで11年間の間、本能寺を宿舎とはしていない。
*
妙覚寺と相国寺
永禄12年(1569)1月5日、将軍義昭の居所本圀寺(下京区堀川五条西南一帯)が三好三人衆に攻撃され、信長は6千を率いて急遽10日に上洛。
1月27日、信長は、本圀寺の防御が弱いことを懸念して村井貞勝・島田秀満に命じて二条御所(勘解由小路室町真如堂の足利義輝旧邸の再興)の造営を着工させる。
2月2日、石垣普請開始。14ヶ国衆(通常2万5千、少ない時でも1万5千)が従事。
7日午前、山科言継、普請場に信長を見舞う。西方石垣は大方完成。聖護院道澄・三好義継が見舞に来訪。聖護院道澄・徳大寺公維以下方々より多くの贈物が届けられ山科言継は驚く。
9日、石垣南岸が崩壊し人夫7、8人が死亡。普請には日々数千人が携わる(「言継卿記」4)。
13日、義昭が見物。
14日、山科言継、普請場に信長を見舞う。19、23、24、26~29日、3月1、2日にも。以降も続く。
信長は工事現場に泊まり込んで普請指揮を取っている。
4月13日、この御所が竣工し、信長は妙覚寺を宿所とする。
*
二条御所跡はコチラ(三つの二条城①)
現在の二条城(家康の二条城)内にある旧二条城の石垣遺構はコチラ
現在の京都御苑内にある旧二条城の石垣遺構はコチラ
*
以後、妙覚寺はしばしば宿所と使用され、特に元亀2年以降、天正5年(1577)に二条御新造が竣工するまでは妙覚寺と相国寺が恒常的な宿所となる。
但し、義昭との対決で知恩院に宿陣するという例外もある。
相国寺はコチラ
*
また、元亀3年3月、本能寺を宿所とする予定が妙覚寺に変更されたこともある。
*
しばらく妙覚寺が宿所となった後、天正2年~3年には、相国寺が使用されるようになる。
この時期に相国寺を宿所したのは、信長が、足利将軍に代わり京都の支配者となったことをアピールする狙いがあったと考えられる。
*
天正2年3月17日、信長は正倉院の名香木「蘭奢待」切り取りの為に上洛。
「蘭奢待」の切り取りは、将軍義政以来一度も許されなていない「唯ならぬ事」で、信長は、義政の香火所である相国寺塔頭慈照院に寄宿した後、奈良に下り、帰洛後の相国寺での茶会で陪席した堺の豪商に「蘭奢待」を分け与えるという政治的演出を行う。
*
3月12日

・信長、岐阜発。佐和山に逗留。16日、永原宿泊。17日、志那から坂本へ琵琶湖を渡る。初めて相国寺泊。東大寺所蔵「蘭奢待」を所望する旨を正親町天皇へ奏聞。
3月18日
・信長、従三位・参議勅定。
信忠・信雄・信孝・信包・家康、従五位上。柴田・佐久間・林・滝川・明智・丹羽・稲葉・伊賀・蜂屋、羽柴従五位下。大内義隆は従二位だが官は兵部卿・太宰大弐、六角当主は権中納言・参議。
3月22日
・塙直政、奈良に下向、蘭奢待の存在を確認。その後、天皇の了解と東大寺への受け入れを依頼。正親町天皇は、これを憤り、口を極めて信長の理不尽を罵倒。23日、塙直政、大和多聞山城に在番(「多聞院日記」2)。
3月24日
・信長、蘭奢待拝領希望を禁裏奏聞。
この日、・信長、相国寺茶会。堺衆を招く。茶会の後、宗久・宗及・宗易(利休)のみ、書院で千鳥の香炉を拝見。
3月26日
勅許。勅使日野輝資・飛鳥井大納言を奈良に派遣、東大寺へ蘭奢待切り取り院宣が下された旨を伝えさせる。東大寺僧衆は蘭奢待開封を認める。
3月27日
・信長出迎えのため大和国神人は100人、地下衆は1町より10人ずつ肩衣・袴の装束で木津に出向く。信長、原田直政・菅谷長頼・佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・蜂屋頼隆・荒木村重・武井夕庵・松井友閑・津田某らの奉行衆を従え、軍勢3千余を率い大和国多聞山城へ到着、奈良中僧坊以下へは陣取りを厳重に禁止。筒井順慶、大和国多聞山城で信長に夕飯を振る舞う。
3月28日
・信長、正倉院に入り、勅使立会いのもとに御物の香木「蘭奢待(らんじゃたい)」を運び出してその一部5.5cmほどを切り取る。切り取りの奉行は9名、柴田勝家・丹羽長秀・松井友閑など。荒木村重も随行(正倉院へは名代を派遣、信長自身は多聞山城で到着を待つ)。
「自らを将軍に擬するパフォーマンス」(今谷明)。
4月1日
・信長、朝早々に奈良を出立。
4月4日
・信長、相国寺茶会。堺衆のうち宗及・利休のみ蘭奢待を扇に添えて与えられる。
*
この天正2~3年は、室町幕府滅亡後の軍事作戦で各地の一向一揆を討ち、長篠の戦いで武田勝頼を大破して、織田家領国の安定化と信長の中央政権樹立の時期である。
*
次に、天正3年10月13日、長篠の戦い勝利の凱旋記念祝賀と、翌11月に従三位権大納言に叙任され、さらに右近衛大将を兼任する為の上洛の際には、再び妙覚寺が宿所となる。
公卿に列せられ、頼朝以来の武門の棟梁としての地位を確保し、足利将軍を凌駕した信長にとって、相国寺を宿所とする意味あいも薄れ、再び妙覚寺が2年間ほど信長の宿所となる。
*
幻の京都屋敷:
元亀3年(1572)3月21日、将軍義昭命で、徳大寺公維邸跡地(新町今出川下ル)に屋敷の普請が始まる。
・義昭が、信長の京都「御座所」として上京武者小路の空地(徳大寺公維邸地)に屋敷を構えるよう指示。義昭命で「畿内の面々」による普請着手を決定。尾張・美濃・近江3国の信長御供衆は普請役を免除(「信長公記」巻5)。
大覚寺尊信・久我通堅・高倉永相・北野社・吉田兼見ら諸家にも普請夫役を賦課。
22日には、安威藤治・三上輝房・狩野光茂ら幕府衆、吉田兼見へ信長屋敷普請に際し、「御使」として簀板用に社頭の木の徴収を伝達。
吉田兼見は、神木の免除を申請するも宥免されず(「兼見卿記」1)。
24日、信長の京都屋敷普請の「御鍬始」。「御普請奉行」は村井貞勝・島田秀満・「御大工棟梁」池上五郎右衛門(「信長公記」巻5)。
*
この普請は、公家、幕府奉公衆、信長配下の部将を動員する大規模な工事であったが(「兼見卿記」「信長公記」)、翌天正元年4月、信長との抗争が激化する中で、義昭は屋敷の破壊を命じる。
この頃までには門が完成し、座敷の普請に着手していたが、破壊が始まると良質な資材を略奪する者が現れたという。
その直後、大軍を率いて入京した信長は、義昭を威嚇するため上京を焼き討ち(4月3~4日)、この屋敷も灰燼に帰すことになる。
*
4月3日
洛外の堂塔寺庵を除外して放火(「信長公記」6)。
賀茂から嵯峨に至る在所を悉く焼き払う(「兼見卿記」1)。
洛外を悉く放火(「京都市小石暢太郎氏所蔵文書」)。
4月4日
足軽以下を派遣し洛中諸所に放火、二条より上京が焼失。類火が禁裏近辺に及ぶ(「兼見卿記」1)。
京都上京を放火(「信長公記」6)。
「同地にあった全ての寺院、僧院、神、仏」が財産、家屋もろとも焼失、都周辺の平地2~3里は「(最後の)審判の日の情景さながらであったという」(フロイス)。
*
二条御新造:
天正4年(1576)4月、信長が安土に築城する頃、押小路室町の関白二条晴良邸跡地(妙覚寺の隣)に居館が造営される。
御池あるいは龍池と呼ばれる泉水に囲まれた名園として知られている二条邸であったが、信長は、半強制的に二条晴良を報恩寺(一条川端)に移住させ、所司代村井貞勝を奉行として普請を開始。
居館は翌5年9月晦日に竣工し、信長は、閏7月6日に新邸に入る。
以後、この居館は二条御新造と呼ばれ、信長政権の京都政庁となり、信長の宿所ともなる。
*
その後、天正7年11月、この二条御新造は誠仁親王を囲い込むために親王に献上され、天皇の御所に対して下御所あるいは二条御所と呼ばれた。
*
11月16日
・信長、二条屋敷を出て、妙覚寺へ座を移す。
11月22日
誠仁親王、二条屋敷に移る。
*
「その邸は天下において安土についで比べるものがないほど美しく豪華」であるとフロイスは記す(フロイス「日本史」)。
二条御新造跡(三つの二条城②)はコチラ
*
本能寺の小城郭化:
その後は、再び妙覚寺が宿所となるが、翌8年2月26日、所司代の村井貞勝に対し本能寺を新たな京都宿所に改造する普請を命じる(「信長公記」)。
付近の民家を退去させ四方に掘りをめぐらし、内側に土居を築いて木戸を設け、内には仏殿以下客殿その他の殿舎を建て、厩舎も造り、小城郭ともいえる機能を持つ居館であった。
起工の1年後の天正9年2月20日の上洛によって、四条西洞院に所在する本能寺は、信長の本格的な京都宿所となる。
しかし、大規模造営を終えたこの本能寺には、信長は2度宿泊しただけである(「信長公記」)。
*
*
「★信長インデックス」をご参照下さい。
*
*

2010年6月3日木曜日

江戸城 二の丸庭園 菖蒲田につぎつぎとハナショウブが花開く

昨日に続き、今日も江戸城二の丸庭園の菖蒲田に行きました。
たった1日で状況は変わるもんですね。
新しい花が次々と花開いていました。
昨日は、「まだまだこれからが本番のようです」、などと悠長なことを言ってましたが、この調子だとスピードはもっと早いんではないでしょうか。
以下、新顔を中心にご紹介。
写真は全て本日6月3日の状況です。
*
あっと、それから、ここ東御苑は金曜日と月曜日は閉まってますので要注意です。
*
磯千鳥
*
*
霓(にじ)の巴
*
*
錦の褥
*
*
四方の海
*
*
七宝
*
*
小町娘
*
*
不明(名札が見えなかった)
周囲の蕾の状況を見ると明日はどっと咲くんでしょうね。
*
*
昨日ご紹介した十二単衣を中心にして菖蒲田を見たところ。
人々が居るその右側にも田は広がっています。
*
*
昨日ご紹介した日出鶴
*
*
これも昨日ご紹介した淡仙女
*
*
私は、土日曜日はこちらに居ないのと、月曜日(と金曜日)はお休みのため、次回ご紹介は早くて火曜日です。

2010年6月2日水曜日

江戸城 二の丸庭園 菖蒲田にハナショウブが咲き始め 天守閣跡辺にアジサイが咲き始め 初夏の訪れを告げている

江戸城二の丸庭園の菖蒲田。
いろんな種類のハナショウブが咲き始め、初夏の訪れを告げている。
ハナショウブには夫々に名前がつけられています。
以下は、本日6月2日の状況です。
*
藤娘


*
淡仙女
*
*
十二単衣
*
*
浪乗舟(2ヶ所に)
*

*
鳳凰冠
*
*
日出鶴
*
*
佐野渡
*
*
五月晴
*
*
鏡台山
*
*
猿踊
*
*
葵形
*
*
菖蒲田全体は下の様な状況なので、まだまだこれからが本番のようです。
*





*
更に、天守閣跡と北桔橋門の間にはアジサイが咲き始めました。
かなりの量が植わっていますので、満開となれば壮観なものになるんではないでしょうか。
*