5月倒産、14カ月連続で増加 34%増、物価上昇で高水準 | 2023/6/8 - 共同通信 https://t.co/8TdBmHZJos
— 黙翁 (@TsukadaSatoshi) June 8, 2023
高水準の増加率が続き、1~5月で計3272件に達し、22年上半期(1~6月)の3060件を超えた。...
産業別では、建設業が40.4%増の132件、卸売業は54.8%増の96件だった。
2023年6月8日木曜日
5月倒産、14カ月連続で増加 34%増、物価上昇で高水準 | 2023/6/8 - 共同通信 ; 「高水準の増加率が続き、1~5月で計3272件に達し、22年上半期(1~6月)の3060件を超えた。... 産業別では、建設業が40.4%増の132件、卸売業は54.8%増の96件だった。」
〈藤原定家の時代385〉建仁3(1203)年9月2日~6日 比企氏事件(時政の陰謀)Ⅳ 北条氏の陰謀(『吾妻鏡』の虚構) 慈円『愚管抄』が記す事件のあらまし 頼朝の未完の路線を継承した頼家の不幸 政子の役割
建仁3(1203)年9月2日 比企氏事件(時政の陰謀)Ⅳ
□北条氏の陰謀(『吾妻鏡』の虚構)。
定家『明月記』によれば、9月7日、幕府の使者が上洛、「頼家が没し、この一幡は時政が討った。弟千幡を跡継ぎにするので許可して欲しい」と言ったという。しかし、その時点で頼家はまだ生存している。通例で推測すると、この使者は遅くとも9月1日には鎌倉を出発している。つまり、時政はこの時点で頼家・一幡の殺害を予定していたことになる。
また、『小代文書(しようだいもんじよ)』によれば、比企能員は単身・平服で時政邸にきたことが確認できる。頼家の家督相続が焦点となっている緊迫した状況で、こんな隙だらけの無防備な行動をとるだろうか。
頼家が重篤な病気に罹った。これを機に能員を暗殺して、比企一族を不意打ちする、というのが時政の考え付いた陰謀ではないか。
まず、京都に使者を立てて、頼家の弟である千幡嗣立の準備をしておく。次に、法事と称して能員を呼びつけて暗殺する。そして、すかさず能員殺害を正当付けるための家督相続に関する能員の強い不満について御家人の間に広め、比企一族を壊滅させる。という推測が成り立つ。
「吾妻鏡」で、頼家近臣として所領没収・遠流とされた信濃国の御家人中野能成は、時政の子の時房と深い関わりがあり、比企氏滅亡2日後の日付で、時政によって所領を安堵される。
近衛家実(いえざね)の日記『猪熊関白記』建仁3年9月7日条には、7月1日に頼家が薨去した、その遺跡をめぐって郎従が「権を争」った、翌2日には比企能員が実朝によって討たれたと大略伝えられたとある。同日(7日)には、頼家の弟・千幡の将軍任命、従五位下叙任、実朝の名のりが後鳥羽上皇によって与えられているという手回しの良さ。
「故比企判官能員残党中野の五郎義成以下の事、猶以てその沙汰有り。所領等を収公せらると。」(「吾妻鏡」19日条)。
「信濃の国春近領志久見郷地頭職の事 藤原能成(中野の五郎) 右件の人、本の如く彼の職たるべし。抑も能員が非法に依って、安堵し難きの由聞こし食すに依って、得分に於いては免ぜらるる所なり。然れば安堵の思いを成し、官仕の忠を致すべきの状、鎌倉仰せに依って、下知件の如し。 建仁三年九月二十三日 遠江の守平(時政花押)」(「市河文書」)。
時政と中野能成は、能員一族の滅亡以前から手を組んでいた。能成は、頼家が鎌倉中での狼籍を不問とした5人の1人で、頼家が懸想した安達景盛の妾を「北向御所」に拘束し、その出入りを限った5人の1人でもあり、頼家の側近であった。また、時政の子時房も頼家が時折行う蹴鞠の相手の一人として加わっていた。時房の行動も疑惑の渦中にあるといってよい。
時政は早くから比企氏への対策を講じていたと推測できる。
□慈円『愚管抄』が記す事件のあらまし
「重病にかかった頼家が長子一幡にすべてを相続させようとしており、それによって能員が幕政の実権を握ろうとしていることを聞いた時政は、千幡こそ後継者だとして、能員を呼び寄せて刺殺してしまった。
つづいて時政は、8月末に出家をとげ、大江広元邸で療養中の頼家を監視させる一方、一幡の館を襲撃させた。一幡は母親が抱いて脱出したが、立てこもっていた郎等はみな討たれた。建仁3年9月2日のことである。なお一幡は11月3日、北条氏方の追手に捕えられ、刺殺された。
9月2日の事件を聞いて驚いたのは、すでに一幡の世となり、人々が仲良く暮らしていると思っていた頼家である。頼家は太刀をとって立ちあがったものの、病みあがりのため、どうすることもできず、さらに母の政子らにすがりつかれたりして、やがて修善寺へ押しこめられ、翌年7月18日、刺し殺されてしまった。首に紐を巻きつけられ、ふぐりを取られるなどして殺害されたという。
一方、千幡は実朝の名を賜わって、将軍宣下をうけ、関東は外祖父時政の世となった」。
そこには、
①一幡の具体的な殺害の様子、
②大江広元邸における頼家の病気療養、
③頼家の修善寺下向を政子・北条氏による幽閉としていること、
④頼家の死を、暗殺者による刺殺としていることなど、『吾妻鏡』には見えない、あるいはそれと異なる話がいくつも載せられている。
『愚管抄』は、比企氏の乱 - 頼家殺害も含めて - は、将軍一幡を擁する外祖父比企氏の権勢の強大化を恐れた北条氏側によって仕組まれたものにほかならず、『吾妻鏡』の記事の不自然さも、北条氏側の立場から事実を改変したがゆえに生じたものではないかということである。
□頼朝の未完の路線を継承した頼家の不幸。
頼朝の路線には、①東国独立路線と②王朝協調路線があり、この両者が頼朝時代は均衡を保っていた。頼朝の前半の内乱期に①、後半の建久年間は②で、大姫・乙姫の入内方策は②産物である。
しかし、②は、御家人の総意ではなく、上総介広常は、その貴種性の持つ危うさに危惧を表明し誅殺される。東国出身御家人の多くは、独立路線への傾きが強く、頼朝自身が内在的に持つ協調路線とは方向性を異にしていた。大江広元・三善康信などの京都出身者が、政権内部に参画しているのは、そうした頼朝の意志の反映である。頼朝の独裁は二つの路線を調和させることで成立しており、頼家の不幸は、未完に終わった頼朝の政治を、どのように受け継ぐべきかの用意がないままに鎌倉殿の立場についたことである。
更に、御家人との関係における「独裁」か「合議」かの選択がこれに絡んでくる。将軍になるべくして生まれ、将軍としての父の威厳を見て育った頼家は、独裁志向をを持つが、父のカリスマ性を継承できる筈もなく、御家人たちの不満は募ることになるが、政子は、これが御家人の離反、内部抗争となり関東の秩序破壊を危惧する。
□政子の役割。
「吾妻鏡」では、比企氏討伐・頼家幽閉は政子の「仰」とされ、頼家没後の一幡と千幡の諸国守護分掌も政子の積極的関与が見られる。実朝の代でも、政子が決定的役割を担う事も多く、政子は、北条氏を含む東国御家人勢力とは別個の調停者として機能していると考えられる。
政子は、頼朝の後家として、頼朝の法事を含め幕府の宗教体制の中心的存在であり、また、実務官僚である大江広元ら京下りの吏僚たちを掌握している。彼らは、幕府内で将軍権力と有力御家人の間の中間勢力をなしおり、彼らを掌握している政子は調停者として振る舞うことが出来る。頼朝没後の将軍権力は、将軍職は頼家が継ぐが、頼朝が持っていた地位と権力は実際は政子と頼家が分掌していた見ることも出来る。政子の関与により、頼家から実朝へ将軍職委譲がなされた訳だが、幕府の権力構造の中で、後の執権職に繋がる役割の萌芽がここに見て取れる。
□その後の比企氏。
比企能員の末子能本は、京都に落ちのびて学問で身をたてる。のち、姉の若狭局の長女竹の御所(4代将軍藤原頼経の室)のはからいで鎌倉に戻る。能本は、日蓮に深く帰依し、自邸を捧げて法華弘道の根本道場を創建。これが日蓮門下最初の寺となる。寺号は長興山妙本寺という。日蓮より父能員の法号に「長興」、比企尼の法号に「妙本」を授かり、寺号はこれに由来する。能本は文永8年の竜の口の法難の際、日蓮救済に奔走。安達泰盛とは書を通じての友人であり、日蓮の「大学三郎御書」には、「城殿と大学殿は知音にてをはし候。其の故は大がく殿は坂東第一の御てかき、城介殿は御手をこのまるる人也」とある。
つづく
2023年6月7日水曜日
維新・京都府総支部の幹事長の政治団体が2年連続で政治資金収支報告書を未提出 幹事長辞任(読売テレビ) ; 「京都府総支部では、他にも、2人の府議と市議が同様に提出期限を守っていなかったことが分かり、維新は、3人を3か月から6か月の党員資格停止の処分」 / 京都の維新議員にまたもや「ずさん」事務処理が発覚 党員資格の停止処分に(京都新聞);「日本維新の会京都府総支部幹事長を含む府議2人の政治団体が、2年連続で政治資金収支報告書を提出せず、.....」
維新・京都府総支部の幹事長の政治団体が2年連続で政治資金収支報告書を未提出 幹事長辞任(読売テレビ)https://t.co/y2RqFEVoh7 「京都府総支部では、他にも、2人の府議と市議が同様に提出期限を守っていなかったことが分かり、維新は、3人を3か月から6か月の党員資格停止の処分」
— deepthroat (@gloomynews) June 7, 2023
京都の維新議員にまたもや「ずさん」事務処理が発覚 党員資格の停止処分に | 京都新聞 https://t.co/EdFvy0bGzP
— 黙翁 (@TsukadaSatoshi) June 7, 2023
日本維新の会京都府総支部幹事長を含む府議2人の政治団体が、2年連続で政治資金収支報告書を提出せず、.....
〈藤原定家の時代384〉建仁3(1203)年9月2日~6日 比企氏事件(時政の陰謀)Ⅲ 『吾妻鏡』の記述 病気から回復した頼家、和田義盛・仁田忠常らに時政の暗殺を命じるが失敗
〈藤原定家の時代383〉建仁3(1203)年9月1日~2日 比企氏事件(時政の陰謀)Ⅱ 比企能員は時政に謀殺され、一族は政子の指示により強襲され滅亡 より続く
建仁3(1203)年9月2日
『吾妻鏡』
「今朝、廷尉能員息女(将軍家の愛妾、若公母儀なり。元若狭の局と号す)を以て北條殿を訴え申す。・・・将軍驚いて能員を病床に招き、追討の儀を談合せしめ給う。且つは許諾に及ぶ。而るに尼御台所障子を隔て、潛かにこの密事を伺い聞かしめ給う。告げ申されんが為、女房を以て遠州を尋ね奉らる。・・・遠州下馬しこれを拝見す。頗る落涙し、更に乗馬の後、駕を止め暫く思案等の気有り。遂に轡を廻し大膳大夫廣元朝臣が亭に渡御す。・・・大官令答え申して云く、幕下将軍の御時以降、政道を扶けるの号有り。兵法に於いては是非を弁えず。誅戮の実否は宜しく賢慮に有るべしと。
遠州この詞を聞き、即ち起座し給う。天野民部入道蓮景・新田の四郎忠常等御共たり。・・・蓮景云く、軍兵を発するに能わず。御前に召し寄せこれを誅せらるべし。彼の老翁何事か有らんや。・・・遠州工藤の五郎を以て使いとし、能員が許に仰せ遣わされて云く、宿願に依って佛像供養の儀有り。御来臨聴聞せらるべきか。
・・・廷尉子息・親類等諫めて云く、・・・家子郎従等をして甲冑を着し弓矢を帯び相従えらるべしと。能員云く、・・・急ぎ参るべしてえり。遠州甲冑を着け給う。・・・小時廷尉参入す。・・・時に蓮景・忠常等造合脇戸の砌に立ち向かい、廷尉の左右の手を取り、山本竹中に引き伏せ、誅戮に踵を廻さず。・・・
廷尉の僮僕宿廬に奔帰し、事の由を告ぐ。仍って彼の一族・郎従等、一幡君の御館(小御所と号す)に引き籠もり謀叛するの間、未の三刻、尼御台所の仰せに依って、件の輩を追討せんが為軍兵を差し遣わさる。所謂江間の四郎殿・同太郎主・武蔵の守朝政・小山左衛門の尉朝政・同五郎宗政・同七郎朝光・畠山の次郎重忠・榛谷の四郎重朝・三浦平六兵衛の尉義村・和田左衛門の尉義盛・同兵衛の尉常盛・同小四郎景長・土肥の先次郎惟光・後藤左衛門の尉信康・所右衛門の尉朝光・尾籐次知景・工藤の小次郎行光・金窪の太郎行親・加藤次郎景廉・同太郎景朝・新田の四郎忠常已下雲霞の如し。各々彼の所に襲い到る。比企の三郎・同四郎・同五郎・河原田の次郎(能員猶子)・笠原十郎左衛門の尉親景・中山の五郎為重・糟屋籐太兵衛の尉有季(已上三人能員聟)等防戦す。敢えて死を愁えざるの間、挑戦申の刻に及ぶ。景廉・知景・景長等並びに郎従数輩疵を被り、頗る引退す。重忠壮力の郎従を入れ替えこれを責め攻む。親景等彼の武威に敵せず、館に放火し、各々若君の御前に於いて自殺す。若君同じくこの殃に免れ給わず。廷尉嫡男余一兵衛の尉姿を女人に仮て、戦場を遁れ出ると雖も、路次に於いて景廉が為に梟首せらる。その後遠州大岡判官時親を遣わし、死骸等を実検せらると。夜に入り渋河刑部の丞を誅せらる。能員が舅たるに依ってなり。」(「吾妻鏡」同日条)。
「能員が余党等を捜し求めらる。或いは流刑或いは死罪。多く以て糺断せらる。妻妾並びに二歳の男子等は、好有るに依って和田左衛門の尉義盛に召し預け、安房の国に配す。今日小御所跡に於いて、大輔房源性(鞠足)、故一幡君の遺骨を拾い奉らんと欲するの処、焼ける所の死骸若干相交りて求める所無し。而るに御乳母云く、最後に染付けの小袖を着せしめ給う。その文菊枝なりと。或る死骸の右脇下の小袖僅かに一寸余り焦げ残り、菊文詳かなり。仍ってこれを以てこれを知り、拾い奉りをはんぬ。源性頸に懸け高野山に進発す。奥院に納め奉るべしと。」(「吾妻鏡」同3日条)。
「小笠原の彌太郎・中野の五郎・細野兵衛の尉等を召し禁めらる。この輩外祖の威を恃み、日来能員に與し骨肉の昵みを成す。去る二日合戦の際、廷尉の子息等に相伴うが故なり。島津左衛門の尉忠久、大隅・薩摩・日向等の国の守護職を収公せらる。これまた能員が縁坐に依ってなり。加賀房義印手を束ねて遠州の侍所に参ると。」(「吾妻鏡」同4日条)。
「能員をよびとりて、やがて遠景入道にいだかせて、日田の四郎にさしころさせて、やがて武士をやりて頼家がやみふしたるを、大江廣元がもとにて病せて、それにすえてけり。さて本体の家にならいて、子の一万御前はある人やりうたんとしければ、母いだきて小門より出逃にけり。されどそれに籠りたる程の郎等のはじあるは出ざりければ、皆うち殺てけり。その中にかすや有末をば由なし。出せよ出せよと敵もうしみて云けるを、ついに出ずして敵八人とりて打死しけるをぞ。人はなのめならずをしみける。その外笠原の十郎左衛門親景、渋河の刑部兼忠など云者みなうたれぬ。ひきが子共、むこの兒玉党など。ありあいたる者は皆うたれにけり。」(「愚管抄」)。
9月5日
・頼家、死病から生き返る。既に、北条氏は朝廷には死去と報じている。
頼家、和田義盛・仁田忠常らに時政の暗殺を命じる。和田義盛、時政に密告。対応をためらった忠常は、6日、北条氏に討たれる。(「吾妻鏡」同日条)。
仁田忠常の弟ら、義時を討たんとして失敗
頼家は、病が回復し、舅の比企一族の滅亡と一幡、若狭局の死を知り激怒。頼家は、和田義盛と仁田忠常に御教書を送って北条討伐を命じる。しかし和田義盛はこの御教書を北条方へ送って頼家を裏切り、仁田忠常は滅ぼされる。その日(9月7日)のうちに尼御台(政子)の命で頼家は将軍職を剥奪され、伊豆修善寺へ幽閉され、実朝が将軍職を継ぐ。
仁田忠常;伊豆の住人。新田とも書き、四郎と称す。源頼朝の挙兵以来の家人として信任が厚く、文治元年(1185)源範頼に従い平氏追討のため西海に転戦。同5年の奥州合戦、建久元年(1190)の頼朝の上洛にも従う。同4年の富士の巻狩に曾我祐成を誅す。源頼家の信任厚く、建仁3年北条時政が外戚の比企一族を滅亡させたことを憤った頼家から、時政追討を命ぜられ、局外に立とうとしたが、一族郎従たちの誤解もあり、北条氏に討滅される
「将軍家御病痾少減す。なまじいに以て壽算を保ち給う。而るに若君並びに能員滅亡の事を聞かしめ給い、その欝陶に堪えず。遠州を誅すべき由、密々に和田左衛門の尉義盛及び新田の四郎忠常等に仰せらる。堀の籐次親家御使いたり。御書を持ち向かうと雖も、義盛思慮を深め、彼の御書を以て遠州に献ず。仍って親家を虜え、工藤の小次郎行光をしてこれを誅せしむ。将軍家いよいよ御心労と。」(「吾妻鏡」同5日条)。
「晩に及び、遠州新田の四郎忠常を名越の御亭に召す。これ能員追討の賞を行われんが為なり。而るに忠常御亭に参入するの後、昏黒に臨むと雖も、更に退出せず。舎人男この事を怪しむに於いて、彼の乗馬を引き帰宅す。事の由を弟五郎・六郎等に告ぐ。而るに遠州を追討し奉るべきの由、将軍家忠常に仰せ合せらるる事、漏脱せしむの間、すでに罪科せらるるかの由、彼の輩推量を加う。忽ちその憤りを果たさんが為、江間殿に参らんと欲す。江間殿折節大御所(幕下将軍御遺跡、当時尼御台所御座)に候ぜらる。仍って五郎已下の輩奔参し矢を発つ。江間殿御家人等をして防禦せしめ給う。五郎は、波多野の次郎忠綱が為に梟首せらる。六郎は台所に於いて放火自殺す。件の煙を見て、御家人等競い集う。また忠常名越を出て私宅に還るの刻、途中に於いてこれを聞く。則ち命を棄つべしと称し、御所に参るの処、加藤次景廉が為に誅せられをはんぬ。」(「吾妻鏡」同6日条)。
「日田の四郎と云者は、頼家がことなる近習の者なり。頼家まだかかるべしともしらで、能員をもさしころしけるに、このように成にけるに、本体の頼家が家の侍の西東なるに、義時と二人ありけるがよきたたかいしてうたれにけり。」(「愚管抄」)。
つづく
2023年6月6日火曜日
大あくび…猪瀬議員 スマホの音で国会一時中断 以前はガムで「厳重注意」も(NTV) / 維新・猪瀬直樹氏が今度はスマホ操作で審議中断…4月には国会審議中にガム噛み厳重注意(日刊ゲンダイ) / 批判された腹いせのガキ・ツイート → 「立憲の杉尾議員、元TBSキャスター、陳腐な左翼でマイナカードを持っていないと自慢しているアナログなアホです。」(猪瀬直樹 【作家・参議院議員、日本維新の会 参議院幹事長】)
大あくび…猪瀬議員 スマホの音で国会一時中断 以前はガムで「厳重注意」も
— tomonao1971♪南へ❗️ (@tomonao1971) June 7, 2023
超劣化議員 https://t.co/ybWhLFbZZn
【政治】維新・猪瀬直樹氏が今度はスマホ操作で審議中断…4月には国会審議中にガム噛み厳重注意 https://t.co/ixLCwUzWYI #日刊ゲンダイDIGITAL #猪瀬直樹 #日本維新の会
— 日刊ゲンダイDIGITAL (@nikkan_gendai) June 6, 2023
大あくび…猪瀬議員 スマホの音で国会一時中断 以前はガムで「厳重注意」も
— tomonao1971♪南へ❗️ (@tomonao1971) June 7, 2023
超劣化議員 https://t.co/ybWhLFbZZn
マイナンバーカードに関する質疑が行われている最中に、携帯の音をけたたましく鳴らしてしまう 維新・猪瀬直樹。
— 治兵衛 (@kero2pyon3) June 5, 2023
音なってまうのは事故かもしれん。が、問題は、その後の態度。 足組んだままふんぞり返って半笑いで「ごめんごめん」って…
こいつ、ほんまクソやな。維新ってこんなんばっかりやな pic.twitter.com/wfomflBmXj
なんでこんな人が当選するんだろうね。 https://t.co/hmo5Qm3cT4
— サイダー(全ての人々に補償と給付を!) (@saida248) June 5, 2023
猪瀬氏はこの委員会で、椅子にふんぞり返って私語を続けたり、品のないヤジを繰り返すなど、委員会の品位を汚す行為が目に余っていました。今日の出来事は、まさに起きるべくして起きたと言って過言ではありません。
— 杉尾ひでや 参議院議員 長野県選出 (@TeamSugioHideya) June 5, 2023
猪瀬直樹さんは「東京五輪は金のかからない五輪」と言って国民を騙し、不正に5000万円の選挙資金を受けて都知事を辞任したのに、維新の比例区で参議院議員になり、税金から2000万円以上の年収を受けながら、国会ではガムをかんだり、スマホをいじったり、国民を舐めきったアホですよね? https://t.co/4bUaVDBKIj
— 町山智浩 (@TomoMachi) June 5, 2023
立憲の杉尾議員、元TBSキャスター、陳腐な左翼でマイナカードを持っていないと自慢しているアナログなアホです。 https://t.co/ZUzoSc2kfg
— 猪瀬直樹 【作家・参議院議員、日本維新の会 参議院幹事長】 (@inosenaoki) June 3, 2023
#猪瀬直樹の議員辞職を求めます
— 身代わり地蔵 (@Shin17469858) June 5, 2023
猪瀬の講演会がどこかであれば、
猪瀬が話している前で、ガムを噛んだり、スマホを鳴らしてやりましょう。
「非常識だ!」と猪瀬は怒れないはず。
議員どころか、社会人としてもあり得ない。
政治家を辞めて猛省しろ! pic.twitter.com/JFyxXLihiD
な?当選さえしたらコレや
— Fight the Power (@anti_mass_gomi) June 5, 2023
ガム噛んでアクビして携帯鳴らして税金でメシ食うて
維新の議員はこんなんばっかりやの#維新の支持者は情報弱者 #維新は日本の恥 #維新は大阪の恥 https://t.co/Q29wVgCItz pic.twitter.com/eouWy2f2F0
世襲と特権意識(公邸で忘年会) → 「地盤・看板・カバン」政治家の世襲制限が進まない理由は?【風をよむ】サンデーモーニング ; 「イギリスでは、候補者は、地元に縁のない選挙区から立候補することとなり、事実上、世襲は難しい」 / 米・タイム誌 「このスキャンダルは日本で長らく続く世襲主義の問題だ」 仏『ルモンド』東京特派員 「先進国の中で日本は世襲議員の多さで最悪の国だと思う。世襲主義が蔓延すると政治家と国民の間に乖離ができてしまう。フランスでは世襲議員はほぼいない」 / この失われた30年間の総理大臣って「6割が世襲」なんです、これ自民党の総理大臣になると「8割が世襲」です。、、、世襲議員っていうのは基本的に「究極の既得権益者」なわけですつまり親から地盤、看板、カバンを引き継いで、それを「守る」ってことを目的とする人たちであって、岸田さんのように「息子さんを秘書官にする」などして、更に引き継ごうとしてる人達は、自らの政治基盤を支える「既得権」を根本から崩すような「改革」は基本的には出来ないし「しようとしない」ってことです。やっぱり世襲による「政治階層の固定化」っていうのは「階層社会」になるし、社会の「多様性や活力を奪う」ことは間違いない。」(青木理)
「同じ議院内閣制の先進国イギリスでは、特権階級が支配する政治に労働者の不満が高まり、選挙制度が改革された。誰でも政治家を目指せるように、候補者は、地元に縁のない選挙区から立候補することとなり、事実上、世襲は難しい」とのこと。
— kelvin(けるびん) (@brandkelvin00) June 4, 2023
『先進国』では世襲は困難。https://t.co/mG2n1ResE1
米・タイム誌
— バジ🐒選挙に行こう (@bazyry2hashiru) June 5, 2023
「このスキャンダルは日本で長らく続く世襲主義の問題だ」
仏『ルモンド』東京特派員
「先進国の中で日本は世襲議員の多さで最悪の国だと思う。世襲主義が蔓延すると政治家と国民の間に乖離ができてしまう。フランスでは世襲議員はほぼいない」#モーニングショー pic.twitter.com/93ezGq7Vkp
⇒世襲は難しくなった。例えばサッチャー氏は雑貨店の娘、メイ元首相は牧師の娘など、多様な人材登用が進み、世襲議員は下院で5%余りとなった」
— 125 (@siroiwannko1) June 4, 2023
関口宏さん
「英国は厳しい処置をとり、なるべく世襲をさせないようにした、なんか弊害があったんでしょうね、そこがまだ日本には分かってないのかな?」 pic.twitter.com/Vb4u5fXl5Z
18世紀のイギリスでは下院議員が代表するのは選挙区の利害である必要はないとする「実質的代表」論が展開され、当該世紀後半には、議会は選挙区の代表ではなく国民代表だというバークの演説があった。そして19世紀にイギリスでは同じ選挙区から立候補できなくなって地縁から切り離されていくわけだ。
— 住友陽文 (@akisumitomo) June 4, 2023
⇒つまり親から地盤、看板、カバンを引き継いで、それを「守る」ってことを目的とする人たちであって、岸田さんのように「息子さんを秘書官にする」などして、更に引き継ごうとしてる人達は、自らの政治基盤を支える「既得権」を根本から崩すような「改革」は基本的には出来ないし⇒
— 125 (@siroiwannko1) June 4, 2023
⇒「しようとしない」ってことです。やっぱり世襲による「政治階層の固定化」っていうのは「階層社会」になるし、社会の「多様性や活力を奪う」ことは間違いない。なので英国を見習って、世襲政治のありようは「いい加減」根本から見直すべきだと思います
— 125 (@siroiwannko1) June 4, 2023
⇒しなきゃいけない。ところが自民党もそうだけど「小選挙区の時には党の候補」なんですね、その時に「党の候補」にどうやってなるか?と言ったら、候補者の「親の力」なんです、それで世襲ができるんです、ちゃんとその人の「資質をチェックしてない制度」これは問題ですね pic.twitter.com/gz8ZdPcy86
— 125 (@siroiwannko1) June 4, 2023
イギリスの世襲を防ぐ制度、自民党が全力で阻止するでしょう。自民党の首相の殆どが世襲議員。 https://t.co/t53GplQEn8 pic.twitter.com/cmiK6bMa7t
— はなちゃん (@Hanakayo2701) June 4, 2023
実質賃金の13カ月マイナスで思い出す…安倍元首相「10年前の発言」の答え合わせ(日刊ゲンダイ) / 4月の実質賃金3.0%減 13カ月連続で前年割れ、物価高が響く(朝日) / 今年4月の「実質賃金」13か月連続で減少 1人あたりの現金給与総額は「28万5176円」賃金上昇も物価上昇には追いつかず(TBS)
実質賃金の13カ月マイナスで思い出す…安倍元首相「10年前の発言」の答え合わせ https://t.co/Bfu9ghItov #日刊ゲンダイDIGITAL 「10年後には現在の水準から150万円増やすことができる」と言っていた。詐欺、虚偽、妄想、愚政
— 本田由紀 (@hahaguma) June 7, 2023
4月の実質賃金3.0%減 13カ月連続で前年割れ、物価高が響く https://t.co/1Tm6By2uID
— 朝日新聞(asahi shimbun) (@asahi) June 5, 2023
厚生労働省が6日発表した4月分の毎月勤労統計調査で、物価を考慮した働き手1人あたりの「実質賃金」は前年同月比で3・0%減った。減少は13カ月連続。物価が高止まりし、賃金が目減りする状況が続いている。
今年4月の「実質賃金」13か月連続で減少 1人あたりの現金給与総額は「28万5176円」賃金上昇も物価上昇には追いつかず https://t.co/0HS76CZxxu
— TBS NEWS DIG Powered by JNN (@tbsnewsdig) June 5, 2023
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遂にこれから十年です!
— ネトウヨ撲滅委員会 (@G95uxANjaB76488) June 4, 2023
あと7時間で150万増えるのか楽しみですね! pic.twitter.com/oBNn5wpyhB
君が所得150万円増と言ったから
— Hiromi1961 (@Hiromi19611) June 6, 2023
6月5日はアベノミクス失敗記念日 pic.twitter.com/f86Pe0Wcu0
〈藤原定家の時代383〉建仁3(1203)年9月1日~2日 比企氏事件(時政の陰謀)Ⅱ 比企能員は時政に謀殺され、一族は政子の指示により強襲され滅亡
建仁3(1203)年
9月1日
「将軍家御病悩の事、祈療共にその験無きが如し。これに依って鎌倉中太だ物騒す。国々の御家人等競い参る。人々相謂う所は、叔姪戚等不知の儀忽ち出来すか。関東の安否、蓋し斯時なりと。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月2日
・比企氏事件(比企氏の乱、比企氏の変)
頼家が回復する。比企能員(ひきよしかず)は時政の強引な家督相続を頼家に訴え、頼家は「北条時政追討」を能員に密かに命じる。この一部始終は、頼家の母・政子が聞いていて時政に急ぎ知らせる。能員は逆に法事を名目に時政の邸に呼び出され、殺害。その後、政子の指令により比企一族・源一幡(6)殺害。
〈事件の詳細〉
9月2日朝、能員は、娘の若狭局を通じて病床の頼家に北条氏の専断を訴える。頼家はここで初めて家督譲与のことを知る。
能員は、千幡への地頭職分与は将軍権力の二分につながり、「乱国ノ基ヲ招ク」と説き、実朝の乳母父たる時政一族討減を要請。かねてより北条氏が将軍の権力を押さえつけている事に不満を持つ頼家は能員の訴えに応じ北条氏討伐を命じる。
この密謀を隣室に居た政子が障子越しに聞きつける。政子は、名越の北条邸(名越)に帰宅途中の時政に使いの女房を送り、頼家と能員の密謀を知らせる。
時政は、政子からの連絡を受けるや、政所別当大江広元邸に向かい、広元に対し頼家の病気を利用して逆謀を企てる比企氏の討減を申し入れる。
これに対して広元は、「幕下将軍(頼朝)御時以降、政道を扶(たす)くるの号あり。兵法においでは是非を弁(わきま)えず。誅戮や否や、よろしく賢慮有るべし」(私は、頼朝様以来政道を補佐するものではありますが、兵法のことはよく分かりません。比企氏を討伐するかどうかについては、賢明な判断を下すべきです)と応える。広元は、比企氏追討に賛意を示した訳ではなく、「よろしく賢慮有るべし」と明言を避けている。ところが時政は、この返答を得るやいなや、すぐさま広元邸を出て、天野遠景(とおかげ)・仁田(にった)忠常に能員追討を命じる。
時政は、比企討伐臨むべく政子邸(名越殿)で協議を始め、大江広元も招かれた。
広元は、随行を申し出る家人たちをおしとどめ、飯富宗長一人を伴って政子邸に向かう。宗長は本名を宗季といい、平家方の侍大将源季貞の子であったが、武芸と弓矢作りの技術を頼朝に買われて御家人に列することを許されたという過去を持つ人物。
広元は政子邸に向かう途中、宗長に「世上のていたらく、もっとも怖畏すべきか。重事においては、今朝細砕(さいさい)の評議を凝(こ)らされおわんぬ。しかるにまた恩喚(おんかん)の条、はなはだその意を得がたし。もし不慮の事あらば、汝まず予を害すべし」(世上は不穏で、恐ろしい。今朝十分な協議をしたばかりだとういうのに、また召集されるというのは、誠に納得がいかない。何か不慮の出来事が起きたら、お前はまず私を殺しなさい)と述べたという。なお、北条本『吾妻鏡』原文は「予を害すべし」だが、吉川本では単に「害すべし」となっており、「相手を殺せ」という表現にもとれる。時政との話を終えた後に再び呼び出しを受けたことに、広元は身の危険を感じ取っていた。
頼家は広元の邸で療養していた。その頼家が比企氏の陰謀に関与していたのかどうかを、広元は十分に認識していたにちがいない。景時追放の時と同様に、頼朝の幕府草創を支えた有力武士が軽々しく討伐されることに疑問をいだいていた広元は、北条氏の行動に全面的に同意することができなかったのだろう。比企氏討伐における広元の立場は、北条氏にとってかなり不都合なものだったのであり、それ故に広元は自身の危険な状況を察知していたと考えられる。
時政は、その日のうちに使者を能員のもとに送り、名越の北条邸での薬師如来像の供養会への参列を求める。能員は密謀が北条氏に知られているとは全く気づかず、平服で僅かな供とともに北条邸に入り、天野遠景と仁田忠常に討ち取られる。能員による時政追討計画が露顕したその日のうちに仏像供養を行うとは、かえって時政の行動には綿密な計画性が認められる。
能員謀殺を知った比企一族は、一幡の小御所に入る。尼御台(政子)が病床の将軍代行となり、鎌倉の御家人に比企氏討伐令を出す。午後3時、時政の嫡子義時を大将とする泰時・平賀朝政・畠山重忠らの軍勢が小御所を取り囲み、攻め寄せた。比企一族は一幡と若狭局を守って戦うが、劣勢となり、小御所に火をかけ、比企一族は一幡を囲んで自刃。頼家の外戚として権勢を誇った比企一族は、1日で滅亡。
この時、若狭局が産んだばかりの嬰児(女、のちの媄子(よしこ))は、難を逃れ、政子が誰かに命じてこの娘を養育させた。のち、実朝没後、京都から将軍として迎えた藤原頼経に、この娘を嫁がせる。
比企能員:
養母が頼朝の乳母・比企尼(伊豆流人時代、頼朝に米などの仕送りを続ける)。頼朝の旗揚げ以来、側近として活躍。妻は2代将軍頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻で、子の一幡を生む。将軍の外戚・能員は北条時政と並ぶ権力者だが、将軍後継ぎ問題に端を発して、時政との不和が表面化。時政は先手を打ち、仏事と偽り能員を自邸に招いて謀殺。能員が時政により殺害されたとの報を受けた比企氏一族郎党は小御所(一幡の館)に篭城し抗戦の構えに出る。これに対して政子は、北条氏が中心の比企氏追討部隊を派遣。一幡・若狭局共々比企氏一党を滅ぼす。更に兵を比企の屋敷(現妙本寺)に差し向け、比企一族を皆殺し。
比企氏の没落は若狭・越前を直撃。能員妹が母の若狭忠季・同腹の兄島津忠久は全所領を没収される。
若狭:守護忠季はその地位を失い、12月22日、今富名・国富荘・前河荘などの遠敷・三方両郡16ヶ所は二階堂行光、太良保・瓜生荘などの遠敷郡9ヶ所は中条家長に与えられる。翌元久元年(1204)8月29日行光の16ヶ所は忠季に返還。家長の9ヶ所は返還されず。守護については不明。いずれにせよ、建久当時の忠季の若狭における圧倒的な立場が崩れたことは間違いない。
越前:守護は交替して大内惟義が就任と推測(惟義の守護在職を示す初見は「天台座主記」建暦3年(1213)5月4日条であるが、補任はこの時期ではないか(後、大内氏に替わって島津忠久が守護となる)。
大内惟義:義光流の源氏の武蔵守義信の子として幕府内で高い地位をもち、相模守・駿河守に補任、摂津・伊賀・伊勢・美濃・丹波の諸国守護を兼ね、在京後家人で検非違使にもなる。
島津家初代当主島津忠久:比企能員の乱に縁座(能員の義姉の子)し、3ヶ国(大隅・薩摩・日向)守護などを罷免。まもなく薩摩守護にのみ復する。
つづく
2023年6月5日月曜日
横浜アジサイ散歩 新港中央広場のアジサイ(アナベル、ダンスパーティー) 山下公園・山下公園通りのアジサイ(アナベル他) 2023-06-05
6月5日(月)晴れ
今日は、久しぶりに横浜、桜木町~みなとみらい~汽車道~新港中央広場~山下公園~元町中華街を歩いた。
いま、横浜、新港中央広場では、アジサイ(アナベル、ダンスパーティー)が満開。
〈藤原定家の時代382〉建仁3(1203)年8月24日~8月30日 比企氏事件(時政の陰謀)Ⅰ 頼家が承知しないまま、政子らが頼家の家督相続を発表(8/27) これに不満の比企能員は、「独歩ノ志ヲ挿ム」(『吾妻鏡』)
建仁3(1203)年
8月24日
・終日甚雨。辰の時許りに女院の御所の良経の許に参上す。はじめて宇治におわしますなり。よろしく二藍(ふたあい)、綾の襖、薄色の指貫(さしぬき)、練り薄色の張り衣を着くべし(老いにより、生衣を着けず)。出でおわしますの期に臨みて、剣を帯す。随身四人、狩衣には、墨を以て、尾長鳥を丸に画く、狩胡籙(かりやなぐい)を帯す。殿上人甚だ少なし。中納言中将殿、浮線綾(ふせんりよう)の赤色の狩衣、浮文(うきもん)女郎花の生衣の指貫。良経の近衛武頼、御供に在り。巳終に、雨を凌ぎて出でおわします。冨小路を南に行く。予、伏見の辺りに於て手輿に乗る。先ず橋を渡り、平等院に入る。御車、向いの岸に於て、御船におわします。直ちに釣殿に着けられ、下におわします。釣殿の廓、御堂の後を経て、先ず御所に入りおわします。御饌。予、御沓を取る。阿弥陀堂に入りおわします。次第に仏経等を閑かる。此の間、予・長兼廻廊の辺りに在り。小時ありて召しにより、参じて進む。仰せていう、もたせたりつる物、進むべきの由、御供の侍に仰ぐべしと。予、帰り出で、大膳進(だいぜんのじよう)敦尚に仰す。檀紙につつむ巻物を、御硯の蓋に入れ、持ち来る。予・これを取り、持ちて参ず。これ納め加えらるる物なり。しばらく戸の外にいる。小々大師の像を拝し、又退下す。又召しによりて参ず。院、御所を新に造らるべきの地を御覧ずべし。その路の間の事、兼時に仰すべしと。出でて、これを仰す。昏黒に、出でおわします。本の路を経て、北の門を出で、各々騎馬す。夜に入りて雨降る。稠人狼籍して興なし。私に輿に乗り、退きて帰る。戌終に九条に着く。沐浴して平に臥す。(『明月記』)
二藍 ;
ふたあい。藍染をした青に、紅花の赤を染め重ねた紫系の色のことを言う。
8月25日
・頼家の病状悪化。
「左衛門の督頼家卿重病、前後不覚の聞こえと。」(「明月記」同日条)。
8月25日
・定家、後鳥羽院水無瀬御幸に参仕。~29日。
召しにより参上す。酉の時許りに退下す。去る夜、院帰りおわします。「世間ニ大事アリ」。夜に入り、良経より葦毛の馬を引き給う。(『明月記』)
8月26日
・早旦、葦毛の馬を大納言に献ず。京を出て、河陽に参ず。船より直ちに御所に参ず。人々いう、関東の病により、夜前の遊女、放ち出さると。未の時許りに、片野におわします。予等、退下す。(『明月記』)
8月27日
・頼家の知らないうちに、政子たち幕府指導層は、勝手に頼家の家督譲りを発表。
関東関西分割。関東28ヶ国地頭職・日本国惣守護職(そうしゆごしき)を頼家長子一幡に、関西38ヶ国地頭職を頼家弟千幡(実朝)に譲与。
比企氏に対する実朝擁立派=北条氏の明らかな挑発。この譲与案に不満をかくさなかった比企能員を『吾妻鏡』は「独歩ノ志ヲ挿ム」と語る。
「将軍家御不例縡危急の間、御譲補の沙汰有り。関西三十八箇国の地頭職を以て舎弟千幡君(十一歳)に譲り奉らる。関東二十八箇国の地頭並びに惣守護職を以て御長子一幡君(六歳)に宛らる。爰に家督の御外祖比企判官能員、潛かに舎弟に譲補する事を憤り怨み、外戚の権威に募り、独歩の志を挿(サシハサむの間、叛逆を企て、千幡君並びに彼の外家已下を謀り奉らんと擬すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
梶原景時滅亡のあと頼家を支えるのは、頼家の妻の実家、比企氏であった。比企尼は頼朝の乳母の一人で、頼朝が伊豆国に流されると自らも所領武蔵国比企郷に下向し、この地から頼朝に生活物資を送って支援した。頼朝にとって、比企尼は母に等しい存在であった。
そのためか比企尼の血縁者は源氏一門と多く婚姻している。範頼、義経の正妻はともに比企尼の孫、源氏の名門である平賀義信の正妻は比企尼の三女である。
頼家に関しては、母政子が彼を生んだのは鎌倉の比企氏の屋敷で、尼の二女河越尼と三女平賀氏の妻が頼家の乳母に付けられた。そして、頼家が成長すると、尼の養子(甥といわれる)能員の娘が正室となり、二人の間には一幡が生れた。
頼朝の信任あつい比企氏の勢力は相当な広がりを見せている。平賀義信は武蔵国の国司と守護を兼ねている。上野国の守護は比企氏、もしくは一女の婿の安達盛長である。信濃国は比企氏が守護でる。武蔵・上野・信濃と、鎌倉街道上道に沿った国々には、比企氏とその縁者の勢力が及んでいた。
また、北陸地方には比企尼の実子である朝宗が、守護の前身である勧農使として派遣されていた。後に若狭国は一女が生んだ若狭氏・島津氏が、越前国には平賀氏・島津氏が、越中・越後両国は朝宗の娘が生んだ名越朝時が守護に任じられている。このように比企氏は広範な地域に影響力を扶植し、さらに頼家を抱えていた。その勢力は北条氏に十分比肩しえるものだった。
8月27日
・午の時許りに参上す。白拍子十余人を召し集めらる。御覧じ終りて、退下す。心神悩むにより、早く出づ。(『明月記』)
8月28日
・午の時許りに参上す。退下するの後、片野におわしまし、人々皆参ず。予、退下す。(『明月記』)
8月29日
「甲子 将軍家御不例日を追って増気す。仍って鶴岡宝前に於いて八萬四千基の泥塔を供養せらる。」(「吾妻鏡」同日条)。
8月29日
・心神悩むにより、所労の由を触る。午の時許りに退出す。船を八幡別当に借り、申終許りに九条に着く。又隆聖の車を借り、昏に冷泉に帰る。(『明月記』)
8月30日
・院、今日、還御と。(『明月記』)
つづく


















