2008年11月9日日曜日

昭和12(1937)年11月 ポイント・オブ・ノーリターン 南京独断侵攻


写真:菅家邸址(かんけていあと) 08/01/02撮影
京都市上京区烏丸通椹木町上る西側(菅原院天満宮前)
菅原道真(854~903)の父是善(812~80)の邸宅があったと云われ、道真の産湯井戸を伝える。
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■嗚呼 ポイント・オブ・ノーリターン(「未完の黙翁年表」より)。
----現地軍の独断、中央の追認。独断者の処罰なし。
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昭和12(1937)年11月
・ソ連の軍事援助飛行機第1陣、蘭州着。/'37~41年、飛行機1250機・2億5千万ドル援助。飛行士(義勇兵)700人など。対価は鉱産物・農産品で償還。
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・関東軍の指導で蒙連合委員会成立。
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・中野重治「ルポルタージュについて」(「文芸春秋」)。「探求の不徹底」(→島木健作と〈「生活の探求」論争〉)
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・河合栄治郎「日支問題論」(「中央公論」)、日中戦争肯定
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・井伏鱒二「ジョン万次郎漂流記」(「河出書房」)
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・徳永直「報告文学と記録文学」
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・和田伝『沃土』
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・小林秀雄(35)、「戦争について」(「改造」)、「夏よ去れ」「中原中也『ランボオ詩集』」「後記」(「文学界」)、「『悪霊』について」(4)(「文藝」)、「実物の感覚」「『現代人の建設』評」「島木健作の『生活の探究』」(「東京朝日新聞」)。
□「日本に生れたといふ事は、僕らの運命だ。誰だつて運命に関する智慧は持ってゐる。大事なのはこの智慧を着々と育てる事であって、運命をこの智慧の犠牲にする為にあわてる事ではない。自分一身上の問題では無力な様な社会道徳が意味がない様に、自国民の団結を顧みない様な国際正義は無意味である」「僕はただ今度の戦争が、日本の資本主義の受ける試棟であるとともに、日本国民全体の受ける試棟である事を率直に認め、認めた以上遅疑なく試煉を身に受けるのが正しいと考へるのだ。この試煤を回避しようとする所謂敗戦主義思想を僕は信じない」(「戦争について」(「改造」))。
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・社会大衆党(議員37人)、「我等はこの事変を通じて日本国民が更に大なる躍進をとげ名実共に極東民族の盟主として人類文化の向上に資せんことを希って止ず」との宣言発表、「国体の本義に基く」国家主義政党として「広義国防の徹底」を政策にうたう。
-・企画院中心に陸海軍・商工・農林等各省委員からなる物資動員協議会開催、物資動員計画(物動)立案
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・近衛首相の非公式補佐グループ「朝飯会」結成。主唱者牛場友彦、岸道三.
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・「唯研事件」。
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・広島文理科大学、「日本国体論講座」新設。翌年より全学生に必修化。39年12月、東洋史学研究室に大陸研究室が附設。更に、「教育国家建設研究所」設立構想あるが、実現せず。
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・映画「風の中の子供」(松竹、清水宏)、「若い人」(東京発声、豊田)上映。
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・松竹より東宝に移籍の林長二郎(長谷川一夫)、暴漢に顔を斬られる。
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・ルーズベルト大統領、住宅建設や公共事業の振興によって企業活動を活性化する計画を導入。
・ルーズベルト大統領、日独伊ファシズムの脅威を食止めるための国際関係調整会議(軍縮、原料の公平な分配など)を翌年1月22日に各国大使をホワイトハウスに集めて開催する構想を持つ。事前にイギリスの同意を取ろうとするが、チェンバレン首相はこれを拒否。
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・モスクワ、山本懸蔵逮捕。39年3月に「日本のスパイ」として銃殺。  
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11月1日
・軍首脳・4相会議、「支那事変処理要綱」。
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11月1日
・消費規制第1号。民需品毛糸・毛織物にスフ混用。
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11月2日
・第2戦区高級軍事会議開催。第7集団軍司令官傅作義を太原防衛軍司令に任命。
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11月2日
・忻口陥落
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11月2日
・上海戦線。第9師団、蘇州河渡河。第101師団は上海西方の江橋鎮に到達。
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11月2日
・【トラウトマン和平工作】
広田首相、ディルクセン独大使に和平条件(内蒙古の自治、華北における非武装地帯と親日行政等)提示。
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11月3日
・方面軍、宋哲元軍掃蕩戦開始。~12月10日。
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11月3日
・国民歌(愛国行進曲)の応募締め切り。歌詞57,578通、作曲9,555通。
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11月3日
・ブリュッセル9ヶ国条約会議、~24日。日本の国際法違反批判、警告のみに終わる。
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11月4日
・閻錫山及び山西省政府首脳、臨汾に退避
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11月4日
・戦艦「大和」、呉海軍工廠で起工。昭和16年12月完成。
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11月5日
・トラウトマン駐中国独大使、蒋介石に日本の和平条件を伝える(トラウトマン和平工作の開始)。
ブリュッセルの9ヶ国条約会議の結果に期待をかける蒋の態度は強く、「日本が事変前の状態に復帰する用意がなければ、いかなる要求も受諾できない」と広田の提案を拒否。
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11月5日
柳川平助中将の第10軍(第6、18、114師団と国崎支隊基幹)、杭州湾上陸。上海戦線の背後つく。中国軍の抵抗、一挙崩壊。
 上陸点の金山衛付近は潮の干満が激しく、海岸から少し入ると湿地帯で道路も貧弱な為、上陸はないと予想されていたせいか、防備は手薄で、虚をついた第10軍は北方へ急進、8日には黄浦江北岸に進出。これより前10月26日、大場鎮陥落後、中国軍の防衛体制は崩壊し、11月9日、日本軍は大上海全域占領を発表。更に、第10軍上陸・北上の報に、包囲を恐れる中国統帥部は西方への全面返却を下命。中国軍の逃げ足は早く、上海西方地区での包囲殲滅戦は実現できず、陸軍中央部が予定していない南京追撃を誘発することになる。
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11月5日
杉山陸相は、柳川平助中将率いる兵団が「上海南方の某地点に上陸を完了した」と閣議で報告。
近衛首相・風見書記官長も事前には知らされておらず
、風見は「某地点」が杭州湾であることを、記者会見の席上、記者に確認を求められて初めて知る(風見「近衛内閣」)。
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11月5日
・木下尚江(68)、没(明治2年生)。
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11月5日
・日満間に満州国における治外法権の撤廃および南満州鉄道付属地行政権の移譲に関する条約が締結される。
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11月5日
・独、ヒトラー総統官邸秘密会議。
スペイン戦争長びく(内線継続・地中海緊張維持)ほどナチス侵略に有利、発言。
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・独、ヒトラー、軍務大臣・外務大臣・3軍最高司令官を呼び生活圏獲得の戦争計画提示(ホスバッハ文書)。'43~'45間、早ければ'38にも東方・チェコ・オーストリアに侵攻すると説明。軍務大臣ブロムベルク、陸軍最高司令官フォン・フリッチェ、外務大臣コンスタンティン・フォン・ノイラートは衝撃受ける
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11月5日
・ブリュッセルの9ヶ国条約国会議、日本の国際法違反を非難。
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11月5日
・英、「空襲予防法案」、下院に提出。
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11月6日
・金沢常雄の雑誌「信望愛」、非戦思想のため発禁。
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11月6日
・【伊、日独防共協定に参加】
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11月7日
中支那方面軍「編合」(正式の軍編成である「戦闘序列」ではない)。
上海派遣軍と第10軍より。司令官松井石根大将(上海派遣軍司令官と兼任)、塚田攻参謀長(参本第3部長、拡大派)、武藤章参謀副官(前参本作戦課長、拡大派、参本に籍を置いたまま派遣軍に出向)。
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□参謀部員6人が出張の形式で方面軍参謀に派遣され、上海派遣軍参謀5~6人が方面軍参謀兼務を命じられる。この構成は、12月2日朝香宮が上海派遣軍司令官、松井が方面軍司令官専任になった以外はこのまま維持される。
人員は参謀部副官・当番兵・通訳など20人ばかりにすぎず、司令部機構に必須の兵器部・経理部・軍医部・法務部(軍法会議)などはなく、直轄部隊もない。
司令官の指揮権限も、①全般的作戦指導、②兵站業務統制、③宣伝謀略並びに一般諜報、に制限されている。
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方面軍参謀中山寧人少佐は東京裁判で、方面軍の権限について、「両軍の協同作戦を調整することを主任務とするもので、実際上の兵力の運用指揮は上海派遣軍及び第十軍の司令官が夫々専管することになっていました」と証言。両軍は、方面軍の指揮・指導を軽んじ、調整程度にしか尊重しない。
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□任務は、北支那方面軍と同様、「敵の戦争意志を挫折せしめ、戦局終結の動機を獲得する」との目的をもって、「上海付近の敵を掃滅」すること。作戦地域は、追撃の範囲を「蘇州・嘉興ヲ連ネル線以東」に制限。(11月7日付臨命600号)
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□11月上旬、武藤章は、上海で海軍軍令部第1部第1課長福留繁大佐に対し、「中支那方面軍は今のところ中央の意を体し、依然として常熟、蘇州、嘉興の線の占拠をもって、当面の作戦の一段落とし、南京進撃の態勢を整えて爾後の計をたてるとの方針を持っている」と語る。武藤は、参謀本部作戦課長から出向してきた身として、参謀本部にはいずれ追認させることができるという自信のもと、独断専行で南京攻略戦を発動する方針を述べる。
11月中旬、上海に戦情視察にいった河辺虎四郎作戦課長(戦争指導課長から武藤の後任に転任)に対し、武藤は、「南京をやったら敵は参る」と言う(「河辺虎四郎少将回想応答録」)。
中国一撃論を強硬に主張して、石原作戦部長を「追い出した」武藤は、拡大戦略の正しさを現実の作戦で実証する必要に駆られている。
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11月7日
・ドイツ大使、広田弘毅外相に国民政府の和平条件に関し内話。
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11月8日
・柳川兵団、黄浦江北岸進出。
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11月8日
・毛沢東、朱徳・彭徳懐に対し、各師を各3個団に拡大する方針で国民党の給費によらず自給自足せよと指令。
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11月8日
・【世界文化グループ検挙】中井正一、新村猛、真下信一ら
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11月8日
・閣議、蔵相兼商工相池田成彬、国家総動員法第11条(資金統制・配給制限)発動に反対。12月13日、妥協成立、発動決定。
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11月8日
・タイ、国会議員の直接選挙
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11月9日
・金沢第9師団、蘇州湾の陣地突破。戦死3,833・負傷8,527(師団の60%)。
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11月9日
・山西省の北支那方面軍第5師団(板垣征四郎中将)、保定の第20師団の支援でようやく太原陥落。太原城内掃討完了、第109師団で太原警備司令部を設置し、警備司令官に同師団長山岡重厚中将が就任。
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11月9日
大上海完全占領発表。中国軍全面退却。
日本軍の企図(上海西方での中国軍包囲殲滅)達せず。日本軍戦死9,115、戦傷31,257。
□被害甚大
。クリークという特殊な地形での戦い。現役師団ではなく召集兵主体の特設師団の場合の損耗度は高い。対ゲリラ戦の戦闘とは異なる物量戦。
上海派遣軍正面で、捕虜(俘虜)処刑を記載する戦闘詳報が存在する(公文書に国際法違反行為を記載するほど、捕虜殺害は当然・公然に行われている)。
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□参本第1部長(石原の後任)下村定少将の回想。
参謀本部では、中国は「上海を陥しまして南京へ行く前に手を挙げて来るだろう」と楽観していたが、見込みは外れる(「下村定大将回想応答録」)。
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11月9日
・この日付け第13師団山田支隊歩兵第65連隊「堀越文雄陣中日記」。
「(一一月九日) 捕虜をひき来る、油座氏これを切る。夜に近く女二人、子供一人、これも突かれたり。」。
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11月9日
・閣議、国家総動員法制定を決定。
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11月9日
・鈴木庫三、企画院書記官奥村和喜男、総動員連盟野田沢軍治、陸軍省調査部久保宗治中佐と会談。
〇奥村和喜男:
東大法卒。逓信省入省、同盟通信社・満州電信電話会社設立に参画。35年内閣調査局調査官(国家電力管理)。37企画院調査官(戦時統制立案)。41年情報局次長。
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11月9日
・日本軍を悩ませる山西農民の抗日闘争。
□「皇軍の北支に進むや向うところ敵なしの慨があったが、ここ山西に向った皇軍はそういう訳にはいかなかった。山岳地帯なること・・・にも増して皇軍を悩ましたものは山西省民の共産意識が燃え立っていることであった。皇軍の前面にあっては頑強なる銃火を浴びせ、後方に廻ってほ執拗なる後方撹乱に出た。村落民衆は老若男女を問わずスパイとなり、武器弾薬運搬の役まで果しているのである。山西攻略の大任を負った○○部隊の如きも全軍が辛酸をなめたのであった」(「東京日日」同日)。
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11月9日
・ブラジル、反ヴァルガス派サーレス、政府を弾劾。10日、ヴァルガス大統領が独裁体制を確立。
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11月11日
・群馬小串鉱山で山津波。死者163。
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11月11日
・スターリン、蒋介石の参戦要請に対し、ソ連の参戦不可を回答。
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11月11日
・米、サンフランシスコ、金門橋竣工
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11月12日
・中国国民政府、重慶遷都を決定。16日、南京の政府機関が重慶、漢口、長沙などへの移転を開始。20日、国民政府、重慶への遷都を宣言。12月1日、国民政府、重慶で執務開始。
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11月12日
・天皇、「北支内蒙ノ陸軍将兵へノ勅語」。
「北支及内蒙方面ニ作戦セル軍ノ将兵ハ・・・向フ所敵陣ヲ撃砕シ皇威ヲ中外ニ宣揚セリ朕深ク其ノ忠烈ヲ佳尚」(「東京朝日」13日)。
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11月12日
・松竹から東宝に移籍した俳優林長二郎(長谷川一夫)が、暴徒に切りつけられ、左顔面に重傷
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11月13日
・上海派遣軍第16師団(中島師団長)、白茆江上陸、南京へ。上海の中国軍の撤退・壊走始まる。
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 上海派遣軍の南京へ向かう追撃過程で、住民に対する殺害・略奪・放火が生じる。
山川草木すべて敵なり」(柳川平助第10軍司令官)。
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①柳川第10軍の進撃が早いのは、「将兵のあいだに『掠奪・強姦勝手放題』という暗黙の諒解があるからだ」(松本重治「上海時代」下)との風聞が現地記者の間に流れていた、と書く。
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②嵐山へ進撃中の第6師団司令部へ、「女、こどもにかかわらずシナ人はみな殺せ。家は全部焼け」との命令が届き、「こんなハカな命令があるか」と平岡副官が握り潰す話が出てくる(平松鷹史「郷土部隊奮戦史」)。
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③従軍カメラマン河野公輝氏の回想(「証言記録・三光作戦」)。第6師団歩45連隊長下義晴氏が、火の始末を注意したところ、部下の大隊長から「中支を全部焼き払えと軍司令官が言っているのを新連隊長は知らないのですか」と反問された話を聞いた(昭和28年11月28日竹下談)。
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④国崎支隊歩41連隊の宮下光盛一等兵は、杭州湾上陸時に、「我が柳川兵団は上陸後 (1)民家を発見したら全部焼却すること、(2)老若男女をとわず人間を見たら射殺せよ」(宮下手記「徒桜」)との命令を受けたという。
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□杭州滞上陸前に交付された第10軍「軍参謀長注意事項」。
軍紀厳守、不必要な家屋焼却禁止、弾薬節約、生水飲用禁止等と並び、「七、支那住民ニ対スル注意」があり、住民には老人、女、子供といえど危険なので注意せよと述べ、「斯ノ如キ行為ヲ認メシ場合ニ於テハ些モ仮借スルコトナク断乎タル処置ヲ執ルベシ」としている。誤解を招きやすく、末端では宮下証言のような主旨で伝わった可能性がある。しかし、民家を焼く悪習は後方部隊を苦しめることになり、軍司令部は禁令を出す。歩兵第9旅団(国崎支隊)の陣中日誌に、「会報ヲ開キ各隊ニ注意ス、1、何等ノ目的ナク故意ニ家星ヲ焼却スルモノケルモ・・・十分取締ラレ度」(12月3日)とある。
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11月13日
・永井荷風、浅草にのめりこむ
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11月13日
・鈴木庫三、国策映画の件で映画製作者渾大坊五郎と会う。44年大映・中華電影公司合作「烽火は上海に揚る。春江遺恨」。戦後「鞍馬天狗」シリーズ。
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11月13日
・トスカニーニのためにNBC交響楽団創立。
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11月15日
・第10軍司令部幕僚会議、「軍全力ヲ以テ独断南京追撃ヲ敢行スル」ことを決す。軍司令官柳川平助中将臨席。
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□列席した作戦参謀の記録。
「軍独力ヲ以テ南京ヲ占領シ得べキ確信ヲ有スルモノニシテ、上海派遣軍ガ仮令急速追撃ヲ困難トスル状態ニ於テモ何等之ニ拘束セラルルコトナク、独断追撃ヲ敢行セソトスルモノトス」(池谷半二郎「第十軍作戦指導ニ関スル参考資料」)という。
南京まで400Kmを支える装備・補給の準備もなく、兵士の多くが軍靴を持たず、地下足袋姿なので追撃は無理ではないか、との声も出るが、作戦主任参謀寺田雅雄中佐が、「地下足袋が破れたら手ぬぐいを巻いても前進できる。弾薬がなくても相手は支那軍、銃剣で足りる。神速なる追撃をやれば現地物資の徴発利用がかえって容易になる」(寺田「第十軍作戦指導ニ関スル考察」)と強気で纏め衆議一決。
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11月15日
・国民政府軍事委員会(長、蒋介石)最高国防会議、南京。~18日。首都を重慶に移し戦闘指揮所を南京・漢口に置くと決定。南京防衛軍司令長官には唐生智。
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[南京防衛策を巡る対立]
 3ヶ月にわたる上海防衛戦に総兵力の1/3(70万)で精鋭部隊の殆どを投入し、戦死者25万前後という甚大な損害を蒙り、南京防衛は不可能で、四川省重慶への遷都、長期抗戦態勢を整備では異論はない。
①名目的抵抗にとどめ自発的に撤退する作戦:
軍事委員会参謀総長何応欽、同次長白崇禧、軍令部長徐永昌ら多くの幕僚は、上海戦以後は持久戦を原則とし一都市の得失を争うべきでない、上海戦で喪失した戦闘力回復には相当長期間が必要、南京は地形的にも防衛困難、などがその理由。
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②少なくとも一定期間は絶対に固守(死守)する作戦。
軍事委員会委員長蒋介石は、南京は中国の首都で世界の注目を浴びている、その失陥は国民心理に重大な影響を及ぼす、南京には国父孫文の陵墓(中山陵)があり敵の手に汚させてはならない、などがその理由。
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蒋は、トラウトマン和平工作に強い期待を寄せ、更にブリュッセル会議での対日制裁措置決定にも期待。欧米列強から武器・財政援助、日本に対する軍事・経済制裁や軍事干渉を引き出す為には、中国の抗日戦力を海外に示さねばならないというのは蒋介石の一貫した抗日戦略。国防会議の最後の夜、蒋介石は多くの幕僚を押し切り南京固守作戦を決定。
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□南京防衛軍司令長官には唐生智(47)が名乗り出て任命されるが、この人選が中国兵の大きな犠牲の原因となる。唐生智は地方軍である湖南軍の軍官出身、過去2度ほど反蒋戦争に参加し、国民政府内では非主流派、政府・軍内に確固とした勢力基盤はなく、生来の野心・功名心から司令官に名乗り出る。
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□唐生智(異なる評価):
湖南軍閥出身、早くから国民革命軍に身を投じ、第8軍を率い北伐戦で活躍。蒋介石直系ではないが、弟分として重きをなし、軍事参議院長、訓練総監を歴任した長老級将領の1人。唐起用は、直系軍を温存し、雑軍整理を狙った蒋の配慮とする見方もあるが、必ずしも当らない。湖南軍、広東軍、広西軍などが中軸であるが、第87、88師のように上海で勇戦した「虎の子」部隊や軍官学校生徒をふくむ教導総隊のような直属の精鋭もいるし、唐自身が開戦以来の首都防衛責任者でもある。
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11月15日
・海軍航空本部教育部長大西瀧次郎大佐、経済倶楽部で「支那事変に於る我海軍航空部隊の活動に就て」講演。
中国大陸内部の都市爆撃は、海軍本来の任務「海上権、制海権の確保」とも、陸軍の使命「攻城野戦」のどちらからも逸脱した作戦形態であるが、この作戦こそ新しい戦争方式だと強調。戦艦廃止・空軍独立論。
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11月15日
・仏、アクシオン・フランセーズ団員ユージューヌ・ドロンクルや退役将軍デュセニュールら行動右翼のクーデタ計画、失敗。首謀者逮捕。
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11月15日
・ブリュッセルでの9ヶ国条約国会議、対日声明案採択、日本の国際法違反を非難。制裁決議には至らず。
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11月15日
・インドの詩人プラサド、没。
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11月16日
・第13師団山田支隊歩兵第65連隊「堀越文雄陣中日記」。
□「(一一月一六日) 午後六時頃一部落を見つけて泊す。高橋少尉殿と藤井上等兵と自分と三人して徴発せし鴨と鶏、全部で八羽を持って夕食うまし。外に豚一匹は油とサトー、塩とで炒め、昼食の副食物にする。 
(一一月二〇日) 昨夜まで頑強なりし敵も今は退却し、ところどころに敗残兵の残れるあり。とある部落に正規兵を発見し、吾はじめてこれを切る。全く作法どおりの切れ工合いなり。刀少し刃こぼれせり。惜しきかな心平らかにして人を斬りたる時の気持ちと思われず、吾ながらおどろかれる心の落ちつきなり、西徐野に一泊す。敵はほとんど退却す、残れるものは使役に服せしめ、または銃殺、断首等をなす。怒りの心わかず、心きおうことなし。血潮を見ても心平生を失うことなし、これすなわち戦場心理ならんか。
(一一月二二日) 鶏の徴発に出かける。クリークをとおる支那人の船を全部止めて方っぱしより調べそれに乗り対岸にいたり、チャンチウ一壺を得てかえる。にわとり凡そ十羽もあるべし。中食うまし。」
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16日
・リオン・フォイヒトワンガー「モスクワ1937」、ソ連讃美、発禁
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11月16日
・郵便局、小額の「愛国国債」売出し初日。大蔵省も購入呼掛け。購入希望者殺到。
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11月18日
・戦時大本営令廃止。軍令第1号大本営令公布。戦争時以外にも大本営設置
 「戦時」のみでなく「事変」に際しても適用しうるとした新「大本営令」を公布し、これに基づく大本営を設置。「宣戦布告」なしに「事変」の名目で押し通す体制を確立。但し、「宣戦布告」問題については、9月段階で風見章内閣書記官長を中心に検討されるが、宜戦布告すると、戦時国際法が適用され、アメリカなどの第3国からの軍需物資獲得が困難になると軍側が反対し沙汰やみになる。
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11月18日
・野村兼太郎『英国資本主義の成立過程』刊行。
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11月18日
・フランス王党派「カグラール団」の共和制転覆の暴動計画、発覚。
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11月19日
・上海派遣軍第9師団(金沢)、蘇州を占領。第10軍第18師団、嘉興を占領。参謀本部が指定した制限線に到達。
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11月19日
・駐蒙第26師団編成
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11月19日
・参謀本部、第10軍(柳川平助)の独断南京追撃知る。
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11月19日
・イギリスのハリファックス卿、ビルヒテスガーデンにヒトラー訪問。英独協調打診
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11月20日
・国民政府、重慶遷都宣言。12月1日、重慶で執務開始。実質的な首都機能の役割をもつ漢口に、政府・軍機関、教育、経済施設などが移転してゆき、南京は防衛軍を除いて40~50万の市民・難民だけが残留する「死の街」と化す。同日、蒋介石は南京防衛軍司令部編成と防衛軍配備を下令、南京城複廓陣地(南京城の周囲に二重三重に陣地を張り巡らす)工事開始を命じる。
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□蒋介石は当初約7万の南京防衛軍配備を計画するが、日本軍の進軍の早さ、総兵力20万近くに増強される状況に動揺し、危幾感を募らせる。更に蒋は、ブリュッセル会議が対日制裁を決定しない為、トラウトマン和平工作に期待し和平条件受け入れ用意をトラウトマンに伝える。
蒋は、日本との停戦・和平を実現する為にも、南京の早期陥落阻止が不可欠と考え、南京近郊区(南京戦区)に兵を急派し、南京外囲陣地を固めようとする。しかし、上海から退却中の満身創痍の部隊の多くが緊急に移動、配備され、農村から急遽大量に徴用された青壮年が新兵として補充される。
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□「国民政府は現在の戦況に適応し、全局の統一的考慮と長期抗戦を図るため、本日重慶に移る。以後最大の規模をもって持久戦闘を行う決意である」と宣言。蒋や軍事・外交機関はなお武漢に転戦し「大武漢保衛戦」を展開、日本軍に時間と血を要求。ここから1年余、「重慶へ、重慶へ」を合言葉に、全中国から四川省奥地をめざす行列が始まる。
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11月20日
・この日前後、国際難民区(安全区)委員会、南京で活動開始。米国大使館アチソン二等書記官の日中両国政府への窓口を依頼。
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□南京城内を東西南北に四等分したその西北部の南半分(南京城内の凡そ1/8)にある。
南京戦がいよいよ現実となり、戦火に巻き込まれる市民・難民を救済する為に南京に留まる事を決意した外国人(ドイツ人商社員・アメリカ人宣教師・教授ら外国人22名)が南京安全区国際委員会(委員長はドイツ人ヨーン・H・D・ラーベ)を組織して、企画・運営・指導にあたる。ジーメンス社南京支社支配人ラーベが委員長になったのは、「ドイツ人なら日本当局とうまく交渉できる可能性がある」と思われたから。
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○[南京難民区で活躍した外国人]
①ジョン・ラーぺ:
ジーメンス社南京支社支配人、ナチス党支部長代理、南京安全区(難民区)国際委員会委員長。帰国後、南京事件をヒトラーに報告、対中・対日政策変更を願うが、ゲシュタポに逮捕される。
②ジョン・マギー:
アメリカ聖公会伝道団宣教師、南京国際赤十字委員会委員長、南京安全区国際委員会委員。日本軍の蛮行を厳しく批判、良心的行動をとった日本人将兵についても記録。ア-ネスト・フォースター:アメリカ聖公会伝道団宣教師、南京国際赤十字委員会書記。カメラが趣味で多くの記録写真を残す。
③ルイス・スマイス:
金陵大学社会学教授、南京安全区国際委員会暑気、社会学者として南京攻略戦の被害状況を纏める。
④ジョージ・フィッチ:
YMCA国際委員会書記、蘇州に生まれ、中国語が堪能で南京安全区国際委員会マネージャー役を務める。
⑤マイナー・ベイツ:金陵大学歴史学教授、南京安全区国際委員会委員、委員会の中心メンバとして財政実務や日本大使館への抗議交渉を担当。知日派。
⑥ロバート・ウィルソン:
金陵大学付属病院(鼓楼病院)医師、南京国際赤十字委員会委員。南京占領時、唯一の外科医として医療活動に従事。
⑦ミニー・ヴォートリン:
金陵女子文理学院教授、宣教師、南京国際赤十字委員会委員。強姦・暴行を防ぐために献身的活動を続ける。1940年アメリカに帰国、翌年自殺。
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11月20日
・【宮中に大本営設置】陸海軍大臣以外閣僚参加認めず。
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大本営政府連絡会議設置。
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大本営陸海軍部に報道部が設置。1938年9日、陸軍省新聞班、情報部と改称。
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11月20日
・第10軍より参謀本部に19日発電の南京追撃命令の報告届く。夕方、中支那方面軍参謀長に宛てて、南京追撃は臨命第600号(作戦地区)支持範囲逸脱と打電。
 第10軍からの報告受信後、参本次長多田駿中将(不拡大派)は、直ちに中止させ、制令線から後退させるよう指示。下村第1部長(拡大派)は内心は南京追撃論で、この問題は中支那方面軍の統帥に任せるべきとの意見。しかし、多田次長の強い意見に従い、夕方の打電となる。
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11月20日
・ウェーバー著・戸田武雄訳、『社会科学と価値判断の諸問題』刊行。
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11月21日
・国民政府の5院、重慶へ移転。
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11月21日
・参謀本部第1部第2課「対支那中央政権方策」。蒋の面子を保持した講和移行が重要と警告。
□「現中央政権が一地方政権たるの実に堕せざる以前において長期持久の決心に陥ることなくその面子を保持して講和に移行する」ことを構想し、その理由として、「蒋政権(継承政権)の否定は彼等を反日の一点に逐い込み窮鼠反噛の勢を馴致し・・・ソ英米荒涼の推進と相俟ちここに永久抗争のため帝国は永き将来にわたりこれに莫大の国力を吸収せらるぺく」、また「支部赤化を最少限度に極限するがためには中央現政権一派の統制力崩壊するの以前において本事変を終結するを可」とすると主張。
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11月21日
・英、フランコ政権に通商代表送る。事実上の承認
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11月21日
・ハリファクス卿、ズデーテン問題でヒトラーと会見
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11月21日
・ショスタコヴィッチ「交響曲第5番」、ムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルハーモニーの演奏で初演。
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11月22日
・中支那派遣軍司令官松井石根、事変解決には首都南京攻撃要を参謀本部に具申。第10軍の独断追撃に同調して軍中央をつきあげ。
 この際、軍を蘇州・嘉興の線に止める事は、敵の戦力の再整備を促す結果となり、かえって「戦争意志を挫折」せしむることを困難にするとし、したがって「事変解決のためには首都南京の攻略」が「第一義的」に必要と意見具申。
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11月22日
・関東軍指揮、察南(張家口)・晋北(大同)・蒙古(綏遠)連盟の3自治政府統括機関、蒙彊連合委員会結成。委員長は徳王、張家口。
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11月22日
・この日付け、国崎支隊歩41連隊第3大隊の戦闘詳報。
□「十一月二十二日 一五〇〇、計家湾ニ到着、コノ時敗残兵約二百白旗ヲ樹テ数家屋ニ終結シアルヲ以テ掃虜トスべク努メタルモ、至近距離ニ達スルヤ、ピストル、手榴弾ヲ持テ抵抗セルニヨHリ全部之ヲ刺殺又ハ射殺ス。一六二〇、八里店東方ニ達スルヤ・・・敵約五、六百ハ全ク退路ヲ失ヒ俘虜トシ敵ヲ殲滅ス」
□国崎支隊の戦闘詳報による捕虜獲得。松江で5286人(11月9~10日)、北橋鎮で733人(11月12日)、湖州地区で650人(11月19~24日)、浦ロで625人(12月12~13日)、揚子江中の江興洲で2350人(12月14日)。
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11月22日
・この日付け第16師団第19旅団(草場辰巳少将)歩兵第20連隊(大野宣明大佐、福知山)牧原信夫上等兵の陣中日記。
□「(一一月二二日) 道路上には支那兵の死体、民衆及び婦人の死体が見ずらい様子でのびていたのも可哀想である。橋の付近には五、六個の支那軍の死体が焼かれたり、あるいは首をはねられて倒れている。話では砲兵隊の将校がためし切りをやったそうである」
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11月22日
・「東京朝日新聞」、誤報に基づきこの日の夕刊1面トップに「無錫脆くも陥落す」報じる。
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11月23日
・日本軍、上海西方の無錫に対し攻撃開始。
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11月23日
・南京市政府(馬超俊市長)が国民政府軍事委員会後方勤務部に送付したこの日付け書簡。
「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約五〇余万である。将来は、およそ二〇万人と予想される難民のための食糧送付が必要である」と記される。戦争前の南京城区の人口は100万以上。
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11月23日
・駐華ジョンソン米大使、漢口へ移転。
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11月23日
・島影盟「戦争と貞操」、自由主義であるとして発禁
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11月24日
・中支那方面軍より、「事変解決を速やかならしむるため」南京攻略必要の意見書、参謀本部到着。下村第1部長の説得に多田参謀次長ようやく作戦区域制限線を撤去を指示。しかし、多田次長は、南京方面には進撃しないよう打電。
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11月24日
・第1回大本営御前会議。
下村第1部長、多田参謀次長の了解なく、現地軍の態勢可能なら南京攻撃実施する旨説明。反対なしという意味で、これが認められたとの既成事実を作る。
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□「この軍〈中支那方面軍)は、上海付近の敵を掃滅するを任務とし、かつ同地を南京方面より孤立せしむることを主眼として編組せられておりまする関係上、その推進力には相当制限がございますのみならず、目下その前線部隊はその輜重はもとより砲兵のごとき戦列部隊すらなお遠く後方にあるもの少なくございません。したがって一挙ただちに南京に到達し得ベしとは考えておりませぬ。」(以下、下村部長の独断の発言)「この場合、方面軍はその航空隊をもって海軍航空兵力と協力して南京その他の要地を爆撃し、かつ絶えず進撃の気勢をしめして敵の戦意を消磨せしむることと存じます。統帥部といたしましては、今後の状況いかんにより該方面軍をして新たなる準備態勢を整え、南京その他を攻撃せしむることをも考慮しております。(「下村定大将回想応答録」)
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27日、下村部長は、中支那方面軍参謀長宛てに、「当部においては南京攻略を実行する固き決意の下に着々審議中なり。いまだ決裁を得るまでにはいたらざるも、取りあえずお含みまで」と内連絡、方面軍参謀長から、「ただ今、貴電を見て安心す。勇躍貴意にそうごとくす」と返電。下村作戦部長と中支那方面軍司令部がぐるになって、参謀本部命令・命令系統を無視し南京攻略作戦を進める。
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□陸軍省田中新一軍事課長の手記。
「南京攻略に関し、陸軍省首脳部は慎重論、軍務課長柴山(兼四郎)大佐のごときは南京攻略は地形上不可能の理由をもって南京作戦阻止を大臣・次官に意見具申す。参謀本部作戦課は積極的なり」(「支那事変陸軍作戦」)。
国民政府の重慶移転宣布(11月20日)により首都でなくなった南京を、上海戦で疲弊し軍紀弛緩した部隊を強行軍・難行軍させてまで短時日で攻略するほどの戦略的意味はない。
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11月24日
・東京帝国大学(東京大学)経済学部長土方成美、教授会で矢内原忠雄教授の言論活動を非難。12月1日、矢内原教授、辞表提出。4日、辞職。
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11月24日
・ブリュッセル9ヶ国条約国会議、日中戦争に関して日本を非難
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11月24日
・仏、社会党常任執行委員会、社共統一の話し合い中止決定
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11月24日
・ヤールマー・シャハト独経済相に代わって、ナチス思想に、より調和した考えを持つと思われるワルター・フンクが就任。
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11月25日
中支那方面軍(松井石根)全軍、南京進撃
この日付け松井石根の日記には、「中央部は尚南京に向ふ作戦を決定しあらざることは明瞭にして、其因循姑息誠に不可思議なり」と記す。
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11月25日
・無錫占領。
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11月25日
・仏、パリ万博閉幕、5億フランの赤字
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11月26日
・蒋介石、唐生智将軍を南京衛戍司令長官に任命し、首都保衛軍の戦闘序列を下命。
□第72軍(孫元良):第88師、第78軍(宋希濂):第36師、首都衛戊軍(谷正倫):教導総隊・憲兵2個団。
「抗日戦史」によれば、第2軍団(第41、48師)、第66軍(第159、160師)、第71軍(第87師)、第74軍(第51、58師)、第83軍(第154、156師)、第103、112師の計11個師が増援される予定だが、上海撤退の中国軍の混乱、日本軍進撃の予想以上の早さの為、南京攻防戦開始時に未到着部隊もあり、予定された外郭防御陣地も未完成部分が少なくない。
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11月26日
・武藤章中支那方面軍参謀副長、第16師団参謀長中沢三夫大佐に書簡。
第10軍第6師団の健闘ぶりを讃え、第16師団をこきおろし、疲弊した上海派遣軍を挑発、第10軍との「南京一番乗り」を競わせる
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11月26日
・第16師団第19旅団(草場辰巳少将)歩兵第20連隊(大野宣明大佐、福知山)牧原信夫上等兵の陣中日記。
□「(一一月二六日) 午前四時、第二大隊は喚声を上げ勇ましく敵陣地に突撃し、敵第一線を奪取。住民は家を焼かれ、逃げるに道なく、失心状態で右往左往しているのもまったく可哀想だがしかたがない。午後六時、完全に占領する。七時、道路上に各隊集結を終わり、付近部落の掃蕩が行われた。自分たちが休憩している場所に四名の敗残兵がぼやっと現れたので早速捕らえようとしたが、一名は残念ながら逃がし、後三名は捕らえた。兵隊たちは早速二名をエンピや十字鍬でたたき殺し、一名は本部連行、通 訳が調べた後銃殺した。八時半、宿舎に就く。三小隊はさっそく豚を殺していた。まったくすばやくやるのにはおそれ入った。」
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「(一一月二七日) 支那人のメリケン粉を焼いてくう。休憩中に家に隠れていた敗残兵を殴り殺す。支那人二名を連れて十一時、出発する・・・休憩中に五、六軒の藁葺きの家を焼いた。炎は天高く燃え上がり、気持ちがせいせいした。 
(一一月二八日) 午前十一時、大隊長の命令により、下野班長以下六名は小銃を持ち、残敵の掃蕩に行く。その前にある橋梁に来たとき、橋本与一は船で逃げる五、六名を発見、照準を付け一名射殺。掃討はすでにこの時から始まったのである。自分たちが前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げていく。何のために逃げるのか解らないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。部落の十二、三家に付火すると、たちまち火は全村を包み、全くの火の海である。・・・哀想だったが、命令だから仕方がない。次、次と三部落を全焼さす。その上五、六名を射殺する。意気揚々とあがる。」
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「(一一月二九日) 武進は抗日、排日の根拠地であるため全町掃討し、老若男女を問わず全員銃殺す。敵は無錫の線で破れてより、全く浮き足立って戦意がないのか、あるいは後方の強固な陣地にたてこもるのかわからないが、全く見えない。 
(一二月一日) 途中の部落を全部掃討し、また船にて逃げる二名の敗残兵を射殺し、あるいは火をつけて部落を焼き払って前進する。呂城の部落に入ったおりすぐに徴発に一家屋に入ったところ三名の義勇兵らしきものを発見。二名はクリークに蹴落とし、射殺する。一名は大隊本部に連行し手放す。」
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11月26日
・シャハト独経済相、軍拡のテンポをめぐってヒトラーと対立し辞職。
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11月27日
・蒙彊銀行成立(張家口)。資本金1200万円。総裁・包悦卿。顧問・山田茂二
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11月27日
・駐蒙軍編成(張家口)。軍司令官・蓮沼蕃中将
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11月27日
・郭沫若、上海を離れる。一旦香港へ逃れる。1週間後、広州に行き「救亡日報」復活手配をする。
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11月27日
・劉仁・長谷川テル、2人で上海より香港へ脱出。
 後、テルは広東にゆき、逮捕、連行。38年7月漢口到着。日本軍将兵向け日本語放送を担当。重慶で劉仁と共に、郭沫若のもとに成立した文化工作委員会で活躍。戦後、東北に向かい、47年1月妊娠中絶手術失敗で没(35歳)。3ヶ月後、劉仁も腎臓炎で没。
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11月27日
・後藤陽之助、近衛首相に、「日本軍は決して南京を陥落させ、これに入城して、中国人のメンツを失わせてはならない。南京を包囲しておいて、これを落さず、蒋介石と和議を結ばなければ、事変は中国全土に拡大されて、結局収拾の道がつかなくなるであろう」との同盟通信松本重治の意見を進言。近衛は「首をうなだれて傾聴したが、やがて〝今の自分にはもはやそうする力がない”と答えた」だけ。
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11月28日
・日本軍、上海共同租界郵便局接収。
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11月28日
・参謀本部、下村定作戦部長、多田駿参謀次長に南京攻略同意させる。翌29日、第1部作戦課作戦班今岡豊大尉は上海に赴き、中支那方面軍の増強案を提示。武藤章参謀副長らは、「南京攻略の大命さえいただければ、あとは方面軍で何とか処理する」と回答。
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□中支那方面軍(上海派遣軍・第10軍)は上海周辺の限定作戦に適する編組となっているので、新たに後方部隊(特に輸送機関)を動員して増加する必要があり、これを提案。
武藤章参謀副長の返答。「内地から新たに動員する部隊の集結を待って作戦を発起していたら、戦機を逸してしまう。今すぐ南京攻略の大命を出してもらえれば、方面軍としては自前の兵力で何とか南京は攻略できる。時機を失して追撃の手を緩めると、敵に立ち直る機会を与えることになる。そうすると南京攻略はむずかしくなる。幸い傷手を蒙った上海派遣軍もおおむね元気をとりもどしつつあるし、新鋭の第十軍は破竹の進撃を日下抑えているところだ。(「軍務局長武藤章回想録」)。
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11月28日
・英仏会議開催(ロンドン)。
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11月28日
・スペインのフランコ将軍、海岸封鎖を開始。
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11月29日
・漂水に中国軍総司令部があるとの情報により、海軍航空隊の戦闘機・爆撃機計36機が漂水市街を爆撃。1時間近くの空襲で、市民1200余死亡、家屋5千間(数千戸)破壊(「漂水県誌」)。
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11月29日
・関東軍参謀長東條英機、講和反対意見具申。中国国民政府との絶縁・新中央政権の樹立を陸軍中央に上申。
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11月29日
・要塞司令部令公布
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11月29日
・政府、スペイン・フランコ政権承認
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11月29日
・イタリア、満洲帝国承認
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11月29日
・ズデーテン=ドイツ党が政治集会を禁止され国会議員を辞職。
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11月30日
・第10軍、中支那方面軍に「南京攻略ニ関スル意見」を提出。イペリット・ガス使用による南京空襲は、松井司令官が不採用。
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①中国軍の防備強化前に追撃の余勢をかって南京城に迫る一拳攻略案、
②中国軍の抵抗を考慮し、南京から約50km外側の句容~摩盤山系西側~漂水付近に進出し、態勢整理後、総攻撃に移る2段階案、
③力攻めを避け、包囲感勢をとったまま、空爆によって南京市街を焦土化し、中国軍の自滅を待つ包囲案。
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第10軍は、①を採用すべきだが、さもなくば③にすべきと主張。但し、③の実行について、「空爆トクニ『イぺリット』及焼夷弾ヲ以テスル爆撃ヲ約一週間連続的ニ実行」するよう説き、「此際、毒瓦斯使用ヲ躊躇シテ再ビ上海戦ノ如キ多大ノ犠牲ヲ払フガ如キハ、忍ビ得ザルトコロナリ」と付記。
上海戦で日本軍は「アカ」と呼ばれる毒ガスを使用したが、はるかに毒性の強いイペリット・ガス使用は控えていた。これを首都爆撃に使えは、外国人にも被害が及び、国際世論を極度に悪化させるのは確かで、松井はさすがにこの提案を採用せず、結論は中間的な②秦に落ち着きく。
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ところが、両軍とも大命を受けるや突進、事実上①に移行する。
第10軍は「糧秣は追送補給せず」「(衛生材料は)必要に応じ一部補給する」だけで、「勇躍南京に向い敵を急追」せよ、と指揮下部隊の尻を叩く。ライバルに刺激された上海派遣軍も、補給を待たずに突進。歩兵第36連隊兵士は、「南京追撃戦において・・・米も副食物も缶詰め一個も支給された記憶がないし、私の日記にも一行も記されていない。まして煙草だの甘味品、酒などの嗜好品は上海戦も南京戦も皆無であった」(山本武「一兵士の従軍記録」)と回想し、また山本上等兵は1日70km歩いた体験を記している。
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11月30日
・首都攻防戦を控える南京周辺の動きを報じるこの日付AP電。
□「日本軍の進撃を前にして、南京の八つの城門は厳重に閉めきられ、残る七つの門に中国軍は土嚢やバリケードを積み、鉄条網を張って防戦準備に熱中している・・・数千人の中国人市民は将校に指揮されて濠を掘っている。濠は南京市から揚子江岸にかけ半円形を形成し、延長は五八キロに達する。市民は続々と避難を始めており、貴重な美術品や骨董品を納めた一万五千箱も奥地に移された」
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11月30日
・大阪商科大学経済研究所編『世界経済年表』刊行。
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11月30日
・日本赤十字、全国17病院を戦傷病者専用とする。
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11月30日
・フランコ軍、ソ連などの人民戦線政府援助阻止のため、スペイン沿岸封鎖を宣言。
                                   to be continued to 12,1937

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