2008年11月23日日曜日

昭和12(1937)年12月7~9日 南京(2) 「来たるべきものへの悲しい予感」 近衛、トラウトマン和平交渉を棚上げ 南京陥落目前と熱狂する日本


日本最初の本格的劇場「ゲーテ座」(Gaiety Theater)跡。
撮影08/11/22。
もともとは、1870(明治3)年12月6日、オランダ人ノールトフーク・ヘフトが横浜居留地68番地(現、谷戸橋北、テレビ神奈川裏辺)に建築。1872年11月パブリックホールと改称され利用されるが、より広い建物が求められ、1885(明治18)年4月18日現在地に350人収容のホールが完成。1908年12月から、ゲーテ座と呼ばれ、音楽会・演劇・講演など各種の催物に利用される。
*
 観客は、外国人主体であったが、滝廉太郎、坪内逍遥、北村透谷、小山内薫、和辻哲郎、佐々木信綱、芥川竜之介、大佛次郎らも観劇した記録あり、明治・大正期の文化に大きな影響を与える。松本克平「日本新劇史」によると、上演演目はオペレッタのような娯楽作品が主流であったとのこと。ゲーテ座は日本で初めて「ハムレット」を上演した劇場である、というのをどこかで読んだ記憶があるが、それがどの本であったか思い出せない。多分、川上音次郎・貞奴を扱った本だったような・・・?
*
■昭和12(1937)年12月南京(2) 「来たるべきものへの悲しい予感」(ゴヤ「戦争の惨禍」1)
*
昭和12(1937)年12月
*
(7日の中国での状況は、前回エントリに掲載済み。今回は、同じく7日の日本の状況から)
*
12月7日
・日本側の和平条件を討議の基礎として受入れる旨の蒋介石からの回答(12月2日)、トラウトマン大使を通じディルクセン大使より広田外相に伝えられる。
 しかし、南京陥落近く、華北に王克敏(傀儡)政権ができ、近衛は変心(蒋介石を相手にしなくても中国を屈服させる事ができると考える)。
* 
 中国側は、「領土主権の確保を条件として、日本側条件を和平会談の基礎とすること」に同意し、改めて、現在も日本側条件に変化はないか確かめてくる。
* 
 南京陥落間近しの興奮にかられた近衛内閣閣僚達は、日本側から要請したにもかかわらず、トラウトマソ和平工作をないがしろにし始める。
 ①広田外相は「犠牲を多くだしたる今日、かくのごとき軽易なる条件をもってしてはこれを容認しがたい」と、
②近衛首相は「大体敗者としての言辞無礼なり」と述べる。
③杉山陸相が、講和促進を主張する陸軍中央部内不拡大派の働きかけを受け、一旦即時和平交渉促進を表明するが、これを覆し、「このたびはひとまずドイツの斡旋を断りたい」と申しでると、近衛首相・広田外相もすぐに賛同。
 近衛内閣は、日中戦争の停戦・和平実現を目指すトラウトマン和平交渉を棚上げにし、戦局収拾の可能性を絶つ
* 
 石射猪太郎、「アキレ果てたる大臣どもである・・・もう行きつくところまで行って目が覚めるよりほか致し方なし。日本は本当に国難にぶっからねは救われlない切であろう」(「日記」8日条)。
* 
 このニュースを報じるマスコミは、南京陥落近しの戦況に力点をおき、「支那内外よりする調停説の俄かに台頭し来たったことは大いに警戒を要するところである」(12月6日「東京朝日新聞」社説「調停説と日本」)とする。
*
12月7日
・株式市場・三品市場は「南京陥落相場」「南京割れ相場」による「大相場」を演じる。
* 
 「大阪朝日」7日の株式欄。
 「南京が落ちればいかに国民政府が長期抗戦を呼号するも政府の威令は行われず、最後の止めを刺す帝国政府の蒋政権取消しも当然起ってくる。従って蒋政権は地方政権に堕してしまうのである・・・。
日本の国威はいよいよ発揚され、大威張りで日本紙幣の流通範囲は拡大され・・・今後蒋政権没落後の躍進日本の対支進出は目醒しいものであるから、戦後好望見越しの人気は年末金融の安心と相まって大衆買いとなって現われ・・・」と、「大相場」の背景を分析。
*
12月7日
・「南京今や風前の灯火、皇軍入城刻々迫る 早くも上海に陥落説」(「東京朝日」)。
 「牙城南京陥落目睫に迫る、の快報は帝都六百万市民に非常な感激を与えているが、東京府、市当局では祝大捷を協議した結果、南京陥落の場合、昼は全市民の旗行列、続いて戦勝奉告祈願祭、それから夜は提燈行列を挙行し、百万人の戦勝祝賀大衆行進により、帝都を旗と堤燈の一色に塗りつぶそうと、今から興奮している」(「東京朝日」)。
*
12月7日
・内務省、活動写真の興業時間(3時間以内)・フィルムの長さを制限。
* 
12月7日
・トルコ、シリアとの友好条約(1926年)を破棄。フランスはアンカラに軍隊を派遣。
*
12月7日
・ソ連、「プラウダ」、メイエルホリド劇場を批判。政治的断罪宣告。翌年1月8日、劇場閉鎖。
*
12月8日
・日本軍、南京城周囲に布陣の鳥龍山~幕府山~雨花台の複廓陣地に迫り、南京城攻囲を完了
*
12月8日
・この頃、漸く南京攻撃部隊第一線に補給物資が届き始める。
* 
12月8日
・第13師団山田支隊歩兵第65連隊第7中隊「大寺隆上等兵の陣中日記」。
* 
□「(一二月八日)途中八時ごろニヤをつかんで、大谷さんと二人で一人のニヤに担がせる。三十分歩いて五分づつ休ませてきたので、大変本隊から離れてきた。ニヤは力があるし、足は速い、乾パンを食わせられて大喜びでいる。
 (一二月九日) 途中ニヤをつかんで無錫に十時とう着。無錫に来るまでの部落には兵隊が宿営しているらしく、火が火災でもあるかの様に空にかがやいている。火災を起こしているところもあった。三里も手前から見えた。今日は休養だ。午後から城内の徴発に行って道に迷い、五時ごろようよう木村上等兵と二人で帰る。
 (一二月十日) 皆ニヤを雇っているので一個中隊が倍になっている。今日は支那人と兵隊と半々だ。青陽鎮の町はまだ火災が起こっていて、戦跡未だ生々しい。」。
*
12月8日
・この日の新聞。
* 
□「南京宛ら死都、残留市民僅かに数千、武器弾薬も全く欠乏」(「東京日日」)。
「南京今や五里、陥落目前戒厳下、全市忽ち大混乱、敵軍対岸へ移動開始」(「東京日日」夕刊)。
一頁をほぼ埋める大々的記事「南京入城に武士道精華、敵に情けの勧降状」、「敵都南京城は完全なる包囲態勢下に置かれ、その運命は全く掌中に帰した。しかし、南京は敵国ながら首都である。一挙に蹂躙するはいと易いが、わが軍は特に武士道的見地に立って、まずわが国諸部隊の勢揃いをした上、威容を正して城内の敵に一応投降の勧告状を出すことになった」(「東京日日」)。
* 
□「きょうこそ世界歴史の一頁をかざる首都陥落を予想して、七日朗、帝都の祝勝気分は先ず銀座街頭から爆発した、宮城前へ、靖国神社へ、明治神宮へ、喜びに満ちた小学生や国防婦人会員の列が続き、旗屋さんや提燈屋さんの大量準備も万事OK! 戦勝気分一色の浅草六区興行街の各常設館でも『祝南京陥落』の看板も出来上った」(「東京朝日」)。
「蒋介石ついに都落ち、燃ゆる南京・掠奪横行、敗戦、断末魔の形相」(見出し)、「南京にはわが航空隊が大空襲をなし、市内には諸所に火災を起し、人影殆ど絶え南京の大市街は、廃墟の如く凄惨な光景を呈している。市中には少数の軍隊、憲兵が警戒に当たり、下関方面にも掠奪が行われ、支那軍常套手段の敗退の際における混乱が起こっている模様である」(「東京朝日)。
*
12月9日
・第5師団国崎支隊(国崎登少将)、太平占領。
* 
12月9日
・夕方、中支那方面軍松井司令官名で、唐将軍宛降伏勧告文を投下。回答期限は翌10日正午。
* 
 「日軍は抵抗者にたいしてはきわめて峻烈にして寛恕せざるも、無辜の民衆および敵意なき中国軍隊にたいしては寛大をもってし、これを犯さず」との勧告文(日本語と中国語)を日本軍機から城内8ヶ所に投下。
*
12月9日
・朝香宮上海派遣軍司令官に上海入場に関する方面軍の統制に服する意志なし。「注意事項」の空文化。
* 
 この日、中支那方面軍塚田攻参謀長が、上海派遣軍参謀部を訪れ、南京入城(政略)を統制する方法たついて、「注意事項」徹底を図りに来るが、「平時的気分濃厚なるため軍司令官殿下のお気に入らず」とある。朝香宮は、方面軍の統制に従い、各師団をこれを遵守させる意志はない(「飯沼守日記」)。
*
12月9日
・安全区国際委員会委員会(ラーベ委員長)、3日間休戦を日本軍に承知させ中国軍を撤退させる案をを唐将軍に提案。唐は賛成だが、蒋説得が必要と回答。ラーベは、蒋説得をアチソンに依頼、アチソンから漢口のジョンソン大使に繋がり蒋とコンタクトするが、10日、蒋から拒絶の回答。
*
12月9日
・「南京自滅の劫火に包まる、我後続部隊続々集結、勇気凛然、入城を待機」(「東京日日」夕刊)。
*
12月10日
南京総攻撃~市内掃蕩へ
*
to be continued

0 件のコメント: