2008年11月25日火曜日

旅するモーツアルト(1) 1756年神童誕生


 モーツアルトは生涯の3割は旅をしていたという話をどこかで見て、自分なりに計算してみたことがあります。かなり前のこととて、そのファイルを探すのに苦労しましたが、96/09/16の作成日付をもつものが見つかりました。
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 殆ど、海老澤敏「モーツアルトの生涯」(白水社Uブックス、全3冊)に依拠してます。
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 モーツアルトは、1756/01/27誕生、1791/12/05没ですので、左にもあるように縦35、横12のマトリックスも最初と最後のセルが夫々誕生月、没月となります。私の表は、便宜上、月は3旬にしてます。
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 私の計算の結果では、
全生涯=(35×12)-2=418ヶ月
旅の期間=106ヶ月(25%)
 となりました。
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 最初の旅は、6歳(詳しくは、旅の途中で6歳お誕生日を迎える)ですが、分母を計算起点をオギャーの瞬間ではなくて、常識的な旅行敢行可能年齢とすれば(例えば6歳とか)、人生の3割旅行説はゆうに成立します。
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 このブログも、叛乱、蜂起、鎮圧、虐殺などなど、話題が変に偏ってしまいましたので、ここらで新シリーズ、題して「旅するモーツアルト」をスタートさせたいと考えます。例によって、黙翁年表のゴッタ煮は踏襲します。但し、途中でフランス大革命期に突入しまが、黙翁年表中でもフランス大革命は最大級の分厚さですので、これをどう回避するか・・・、これから走りながら考えます。前にも申し上げましたが、フランス大革命期はミシュレ「フランス革命史」(中公文庫、上下)により現在最終のお化粧直し中・・・ですが、いつリリース出来るのか、目途立たずの状況です。
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 旅の発想から、信長、秀吉、家康のうち、誰が一番旅をしているかも、計算してみようかと思ったことがありますが、これは多分、秀吉がダントツ一番と推定し、止めました。
 信長は、移動距離は尾張(のち安土)~京都と短く、若死にで、かつ遠方の征服戦争は部将に任せています。武田氏征服も信忠がやりました。
 家康は、三河のあと江戸に移され、ここから何度も京都或いは大阪に移動してますし、何よりも長生きですので、旅の期間は信長よりは上でしょう。じいさんになってからも、鷹狩りお称して、結構移動してます。ただ、熟柿をとる如く権力を獲得した分、征服戦争の為の移動は秀吉よりも少ない。
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 しかし、秀吉は、統一戦で北は伊達領から南は島津領まで、自ら移動し、朝鮮侵略の際は、名護屋~京都間を、確か(?)母親が亡くなった時と、秀頼ができたときに往復してます。それに、若い頃、信長の部将であった時代は、それこそ東奔西走の活躍ですから、この人が一番でしょう。しかし、秀吉にとって、移動は秀吉(太閤サマ)ブランドのマーケティング手段であり、進んで移動(旅)し、ルートもなるべく異なるものを選択し、できるだけ多くの人に対し自らの存在を露出し、移動を権力誇示に活用したそうです。
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■旅するモーツアルト(1) 1756年神童誕生
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1月27日
・ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト、ザルツブルクに誕生。
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 午後8時、ザルツブルクのゲトライデ・ガッセ9番地の商人ハーゲナウアーの持家の4階で、父ヨハン・ゲオルク・レオポルト、母マリア・アンナ(35)の第7子(4男)。姉ナンネルルとヴォルフガング以外の子は夭折。翌28日午前10時半、ザルツブルク大聖堂で洗礼。
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□父レーオボルト・モーツァルト:
 1719年11月14日アウクスブルクに工匠の家系に誕生。36年12月7日ザルツブルク大学入学。翌37年9月学業成績不良と無断欠席が重なり除籍。この年、司教座聖堂参事会員ヨハン・バプティスト・トゥルン=ヴァルサッシーナ・ウント・タクシス伯爵の近侍となる。40年、最初のトリオ・ソナタ集「六曲の三声の教会および室内ソナタ」作曲。43年ザルツブルク大司教宮廷楽団第4ヴァイオリン奏者に登用。44年から少年合唱隊員にヴァイオリンを教える。1747年11月21日、ザルツブルク大聖堂でザンクト・ギルゲン出身の女性マリーア・アンナ・ベルトゥルと結婚、同年ハーゲナウアー家の4階を借りる。この年(56年)、「ヴァイオリン教程」(大司教シュラッテンバッハへの献辞)出版。
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□姉マリーア・アンナ・ヴァルブルガ・イブナーツィア・モーツァルト:
 51年7月30日生まれ。マリアンネ、幼い頃はナンネルル呼ばれる。7~8歳の頃、父レーオボルトが娘のレッスン用に編集した練習帳(「ナンネルルの楽譜帳」)は、弟ヴォルフガングが音楽の基礎的知識を学んだ最初のテキストでもある。
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○ザルツブルク大司教領:
 大司教が支配するカトリックの宗教的小国家。司教座聖堂、大聖堂、フランチスコ派教会、聖ペテロ教会、大学教会、三位一体教会、ノンベルク女子修道院の付属教会など、無数の教会が、狭い町の中にぎっしり建てられている。
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□この年、日本では宝暦6年
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宝暦の大飢饉。前年から3ヶ年間、東北地方一帯を凶作が襲う。
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□「宝暦五乙亥歳、冷気強くして大凶作なり。矢島御領分にては御毛引26,000俵なり。新荘村にては251俵、坂ノ下村にては540俵なり。乞食村里に満ち、餓死人路の辺にたおるもの実に多し。御上にては舞杉に大いなる穴を堀り、餓死人を埋む。或は兄弟妻子別れ去り、家をあけて他所へ出る者多し。百宅、直根に別して多し。家を離れて他所へ出る者は多く餓死せりという。この冬大雪にてとろろ、わらびの根など堀ることならず、餓死人いよいよ多し。御上にては、毎日かゆをにて飢人を救う。山寺に非人小屋をかける。ありがたきことなり。家財諸道具売りに出ることおびただし、盗人大いに起こる。」。
 別の記録、「直根、笹子、中奥の沢方面の餓死実に多く、餓死人御領分にて三千余人。」とあり。
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4月14日・郡上藩一揆(宝暦4~8年)では、郡上郡150ヶ村代表による郡上郡村々傘連判状が作られる。
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1月22日 越前の天領で本保騒動。かつてない大規模一揆。この日と26日、本保陣屋支配下6万石のうち丹生郡・今立郡の百姓の打毀し。本項は「福井県史」に依拠してます。
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□22日昼~夜、南条郡牧谷村や丹生郡の百姓約400(800ともいう)が集結、丹生郡本保村・池上村・二丁掛村・片屋村の頭百姓宅4軒を打毀す。翌日には本保陣屋へ迫る噂あり、代官所は福井藩府中本多氏や鯖江藩に応援を求める(何も起こらず)。
 再び代官所から福井藩へ応援要請あり、26日未明、目付熊谷小兵衛以下400が福井を出発。昼過ぎ、福井藩領今立郡北小山村に到着、同村組頭宅を本陣とする。間もなく、味真野河原に百姓集結、続いて上真柄村庄屋七郎右衛門宅打毀しの報告があり駆けつける。事前通告があったらしく、家人は逃げ出し、家具・戸障子・縁板類まで片付けてあるが、一揆勢約300は「斧・まさかり・懸矢、其外鎌・なた・鳶口」等をもって壁・柱も残らず打毀す。
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 その後、味真野河原に移り、福井藩兵・一揆側対陣の中、一揆側800から今立郡宮谷村・西尾村・萱谷村の百姓3人が代表して決起理由を述べる。
 近年定免で重い負担の所へ昨年は百年来の不作、せめて3分免引きを願うべく頭百姓に江戸への訴願を依頼、苦しい中から高10石に銀1匁5分ずつ与内銀を負担し送り出した。
 ところが、彼等は逆に1千石の「増免」を引き受け、廻米舟の上乗庄屋に任じられるという「良き御褒美」を貰って帰ってきた。外にも囲籾払下げの件で不満がある。裏切られた思いが募り、この上は餓死覚悟と一同決意して制裁に立ち上がったという。
 目付熊谷小兵衛は、彼等の話に理解を示しつつ、これ以上騒動を続ければ実力行動に出ざるをえず処罰も重くなる、この場は鎮まり解散するようにと説得。本保代官所へもよく伝えるというと、百姓側は納得し引き上げ、その後流言あるものの騒動は起きず、2月5日頃には鎮静化。
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□一揆参加者は、「宮谷・大手・西尾・水間之谷・萱谷・服部谷」など今立郡26ヶ村の者ばかりで丹生郡は1人もいないという。各村の庄屋・長百姓などが多数加わる(村役人層が先頭に立つ)。一揆側代表3人の内の萱谷村善右衛門は、自分は高10石を所持し、参加者は「惣小百姓共」であると述べ、打毀しをうけた上真柄村庄屋も、誰1人名前を知らず、全員「名も無小百姓共」と思うと熊谷に答える。
 これらからみて、この一揆は庄屋層を中心に「小百姓」である高持百姓が参加した一揆であったといえる(「国事叢記」)。
 一方、打毀しをうけたのは、本保村丈左衛門・池上村又兵衛・片屋村与次兵衛・二丁掛村加兵衛・上真柄村七郎右衛門の計5軒(坪谷村の村役人を加え6軒という記録もあり、宮谷村新兵衛・坂下村十兵衛の名も上がっていたともいう)。江戸へ赴いたのは池上村・上真柄村・二丁掛村・坪谷村の百姓4人であるが、それ以外の家も打毀しの対象とされ、いずれも一揆側から頭百姓と呼ばれている。本保村丈左衛門と二丁掛村加兵衛は、寛延3年(1750)には郡中惣代であり、大庄屋的な位置にあり、一般の百姓とは離れた関係にある。
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□一揆準備は早くから組織的・計画的に行われる。
 正月16日、糺野で集会、18日には同所で傘連判状を作成。事が事前に露見した場合は府中の米問屋に向かう、という答えも決め、怪しまれないように鯖江町で草履を購入し、大寺へ食事を頼む手配も調える。打毀し前に代表8人が事前通告し、近村へも同じく触れておくこと、火の用心、家財道具を持ち出し焼いた場合は窃盗嫌疑がかからないよう一部を残すこと、農具以外には剃刀のような武器も持たないこと、等々も確認。後の処罪を恐れ「北在は南在辺へ、東之者は西へ」と入り交り、青・黄・赤・白・黒や各氏神等を合言葉とすることも定める。
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□彼等惣百姓の願いは年貢軽減であるが、逆にこれが増加され、与内銀は無駄に終わる。
 江戸へ赴いた頭百姓4人が納庄屋を命じられたことへの反感も大きい(納庄屋には給銀が与えられ、希望者が多く、百姓間の関心は高い)。囲籾払下げも困窮した百姓たちにとっては切実な願い。
 中でも問題にしたのは、頭百姓の裏切り行為で、彼等は「自然の道」を外しており、制裁するのは道理であると主張。代表の萱谷村善右衛門は、頭百姓共が「天然自然之道理」を踏み外したから、逆に小百姓共がその「道理」に従って出現したのであり、「地うぢの涌候道理」と述べる。頭百姓が人々の期待を裏切り、しかも「金子貯家財心之侭」であるのに対し、われわれは「餓死之躰」であるという、同じ身分の百姓として許せないという論理で、制裁行動は正当性があると主張。鎮圧に出動した熊谷に対して「福井様御仕置之通ニさへ候得者ケ様之躰ニ相成候儀者無之」と福井藩政を持ち上げ、本保陣屋の下代が4人と結託していると指摘するが、役人には特別不満はないと領主支配に敵対するものではないことを断っている。幕藩制支配の枠の中での百姓間の問題としている。
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□領主側の百姓一揆鎮圧態勢。 本保陣屋からの要請をうけ、26日には福井藩兵の他に同藩本多氏が100余、鯖江藩も221を派遣。大野藩も124の出兵体制を調える。本多氏・鯖江藩は本保陣屋警固を担当、一揆側と接触したのは上真柄村に向かった福井藩兵。
 福井藩は寛延2年、幕府指示で播磨姫路藩領の一揆に御側物頭太田三郎兵衛を派遣し、一揆の原因や鎮圧・事後の吟味、鉄砲の使用の事などまで確認しており、これらの経験を踏まえて動員体制を組み出動。
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□福井藩は出動前、百姓捕縛しない方針を決定し、騒動鎮静のみ努力して引き上げる。
 しかし、本保陣屋では急遽江戸から到着した代官内藤十右衛門忠尚の指揮のもと、参加者とその頭取の確認及び吟味に努め、8月、幕府が寛保元年(1741)に定めた規定をそのまま適用した厳しい内容で大々的な処罰を強行。獄門1、死罪2、遠島2、追放17、所払4、計15村26人が重罪。これに加え獄門・死罪・遠島者には田畑家財闕所、追放者には江戸10里四方追放の場合は越前での田畑家屋敷闕所か財産没収とされる。所払の者は田畑だけ取上げとなる。これ以外に、庄屋51人に銭5貫文ずつ、長百姓58人に計70貫文、余田村には別に25貫文を、他に余田村・上石田村で10貫文ずつ2人、上野田村・下野田村・小泉村・下氏家村の長百姓6人に7貫文の過料を課す。過料となった百姓たちは全員村役人を解かれる。関係の村数では丹生郡25ヶ村、今立郡20ヶ村、計45ヶ村となる。
 余田村庄屋の処罪理由を示す「獄門札」には、頭百姓共を疑って禁制の徒党頭取となり、上野田村・下野田村・気比庄村の者と申し合わせ、家財破却を実行させ不届至極、とある。尚、宝暦9年6月「本保騒動百姓仕置書付」には、西尾村・萱谷村・大手村について、百姓共は「急度叱」、水呑百姓共は「御叱」となったと代官手代が記す(水呑百姓まで処分)。8月25日、本保村で獄門・死罪。遠島者は直ちに江戸送りとなる。
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□騒動の余波。
 2月1日、福井藩領丹生郡山干飯13ヶ村の百姓が、府中の米会所を襲うという噂あり、本多氏家臣団は警戒、福井藩へも応援を求める。大坂商人で府中に店を開いた米問屋の評判が悪く、米価騰貴は彼の仕業と憎まれ、前年秋にも家に「火札」が2、3度張られる。これは噂に終わる。
 同19日には三国町で尾張屋五郎兵衛・室屋惣右衛門、丸岡藩領梶浦の又兵衛の3軒を潰す風聞が立つ。三国へは福井藩金津奉行が鉄砲を用意し兵を率い到着、混乱するが実際には何も起こらず。*
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□一揆側の成果はなし。
 翌7年夏は前年に続く大水害が発生し、年貢は全体に軽減されるが、翌8年からは元に戻る。本保陣屋支配にも変化はなく、代官内藤十右衛門は7年10月に交代するが、咎を受けた記録はない。
 しかし、この一揆は越前においてかつてない大規模なもので、越前各地に与えた影響は大きいと推測できる。
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前年1755年7月8日~、北米でフレンチ・インディアン戦争開始
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□フランス領ルイジアナ植民地にブラドック将軍のイギリス正規軍が侵入。フランスはインディアンと共同しこれを迎え撃つ。ウィルダネスの戦闘。イギリス軍は大敗。
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□ブラドック少将率いる2個聯隊約1,500人、フランス要塞フォート・デュケーヌ(現在のペンシルヴァニア州西部)に向かう。幕僚ワシントン、資材調達ベンジャミン・フランクリン担当、馭者としてダニエル・ブーン(21)が参加。ブラドック軍後衛がモノンガヒーラ川浅瀬を渡りきる寸前にフランス軍の攻撃。ブラドック軍には地理に詳しいインディアン8人のみ。フランス軍は士官・兵士73人、民兵150人、友好インディアン37人。大混乱。ブラドックは負傷、のち没。死傷者977人(全軍の2/3)。
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1756年5月28日~
 フランス、東部のインディアン全部族巻き込んでイギリスと全面的戦争に突入。
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to be continued

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