2008年11月27日木曜日

昭和12(1937)年12月10日 南京(3) 「理由があろうとなかろうと」 南京総攻撃


横浜、山下公園外の大通り。
撮影2008/11/22。
この道をもう少し進むと通りの向い(右側)にヘボン邸跡の碑があります。
 ヘボンは1815年3月生まれ、ニューヨークなどで医者を開業していたが、プロテスタント長老教会の日本伝道に応募、1859(安政6)年10月来日。大村益次郎らに英語を教えるが、1861(文久元)年春、神奈川で診療所を開き、翌年11月、神奈川からこの記念碑のある横浜居留地39番地に移り、本格的に施療事業を行います。
 山下公園側(海側)から見れば、先日掲載した「英一番館」が居留地の右端、ヘボン邸は左端にあたります。
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 1863年10月、ヘボン夫人クララは日本最初の男女共学の英学塾を開き、高橋是清、林董、星亨らがここで学びます。
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 あたりはギンナンの匂いがそこはかともなく漂ってました。しかし、目をこらして見てもたまに1個2個が見付かる程で、既に収穫後のようでした。通行人が無暗に採ると「なんとか権」の侵害になるんでしょうね。もっとも、これを拾っても持ち歩きは出来ませんけどね。
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 昔、転勤地の中でギンナンが近くで採れる所に居たことがあり、よく家族で採りに出かけましたが、毎年採っている方のショバ荒しをしていたのではないかと、今更ながら思い当たるところです。
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■昭和12(1937)年12月南京(3) 「理由があろうとなかろうと」(ゴヤ「戦争の惨禍」2)
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12月10日南京
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・外国人ジャーナリスト、外交官、南京退去。11日夕方、残るジャーナリスト数人も米砲艦「バネー号」で脱出。最後に残る外国人ジャーナリストは、ニューヨーク・タイムズ記者ティルマン・ダーディン、シカゴ・デイリー・ニューズのスチール、ロイター通信スミス、AP通信マクダニエル、バラマウソト映画ニュースのメンケンの5人のみ。15日、日本軍の要請で退去。
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・【南京総攻撃
 中支那方面軍参謀副長武藤章大佐・参謀中山寧人少佐、通訳官を伴い中山門~句容街道で午後1時まで投降勧告「回答」を待つが、中国側軍使は来ず。午後1時、松井司令官、蘇州の方面軍司令部において南京総攻撃命令。
「上海派遣軍ならびに第一〇軍は南京城の攻略を続行し城内を掃蕩すべし」(中方作命第34号)。
 夕方、第9師団歩36連隊(脇坂部隊)の1大隊、光華門突入し、全滅にちかい損害を出しながら城壁瓦礫に日章旗を掲げる。
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[攻囲状況]
 南京城は北と西側に揚子江を控えこの方向からは攻めにくいが、東と南から押せば、城内守備隊は袋のネズミとなり、唯一の脱出口は北郊の下関波止場から舟で対岸の浦口に渡るか、上流へ逃れるルートしかない。江上の艦船は制空権を握る日本海軍航空隊の爆撃に晒され、河用砲艦主体の海軍第11戦隊(近藤英次郎少将)が、中国側が敷設した機雷原を掃海しつつ南京に接近。
 脱出ルートを塞ぐため、第13師団主力を鎮江占領後、揚子江北岸に転進させ、六合に向わせ、第5師団国崎支隊を南京南西部の太平付近から揚子江を渡河し浦口へ向かわせる。第10軍第18師団は、10日、上流の蕪湖を占領。蟻のはい出る隙もない包囲陣である。
 主攻正面の東と南側からは上海派遣軍(北から第13師団山田支隊、第16師団、第9師団)の主力と第10軍(第114師団、第6師団)主力が密接に連係し南京城へ迫る。
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・第16師団、正門中山門を扼す紫金山攻撃、第114師団、南側中華門で激戦
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・第10軍第18師団、揚子江上流蕪湖占領
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・第10軍主力(第6、114師団基幹)、雨花台を猛攻。この中で、第6師団歩45連隊、下関へ北上するよう命じられる。
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・この日付け第13師団山田支隊(歩兵第104旅団)山田栴二少将の日記(「山田栴二日記」)。
 
□「(10日) 連日の行軍にて隊の疲労大なり、足傷患者も少なからず 師団命令を昼頃丁度来合はせたる伊藤高級副官に聞き、鎮江迄頑張りて泊す、初めて電灯を見る 鎮江は遣唐使節阿倍仲麻呂僧空海の渡来せし由緒の地、金山寺に何んとかの大寺もあり、さすが大都会にして仙台などは足許にも寄れず 」。
□「(11日) 沼田旅団来る故、宿営地を移動せよとて、午前一〇・〇〇過ぎより西方三里の高資鎮に移動す 山と江とに挟まれたる今までに見ざる僻村寒村、おまけに支那兵に荒され米なく、食に困りて悲鳴を挙ぐ」。
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・午後7時、投降勧告拒否の南京防衛軍司令長官唐生智、陣地死守を命令。
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□「本軍は複廓陣地において南京固守最後の戦闘に突入した。各部隊は陣地と存亡を共にする決心で、死守に尽力せよ」と下命、指令なく陣地を放棄・撤退した者は厳罰に処すと伝える。更に各軍が確保する全ての船舶は運輸司令部が接収・管理するように命じ、勝手な拘留を禁じる。宋希濂の第36師に命じ長江沿岸を厳重に警備させ、司令長官部の許可がなければ、いかなる部隊の渡江も厳禁。憲兵・警察に対し、「隊伍を離脱した兵隊が制止をきかないで渡江しようとした場合は、武力で阻止せよ」と命じる。
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・山西省臨時政府準備委員会発足、初代委員長に曽紀綱が就任。同時に太原市政公署(市長 白文恵)、陽曲県公署(県知事 伯璋)を設置、閻政権時の各県村長の身分を追認
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・「皇軍、最後の投降勧告、きょう正午迄に回答要求、諄々南京敵将を諭す」
「敵の回答遂に来らず、皇軍・断乎攻略の火蓋、南京落城の運命迫る」(「東京朝日」)。
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・モスクワ、国崎定洞、銃殺。ソ連秘密警察(NKVD)に「日本のスパイ」の嫌疑を受け、37年8月4日逮捕。在モスクワ日本共産党代表山本懸蔵の密告によるもの。
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12月11日
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・第10軍主力(第6、114師団基幹)、雨花台の堅陣を抜く。翌日、南京城南側城壁に迫る。
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・第5師団国崎支隊(国崎登少将)、慈湖鎮付近で長江渡河、鳥江鎮を占領し、北岸を南京方面へ東進。12日午後1時、江浦県城侵攻。
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 国崎支隊2千余は、鳥江鎮から南京戦区に突入、国民党軍と銃火を交え浦口を目指す。江浦県城占領までに約30余の農民・難民が殺害され、県城~浦ロの沿道農民・漁民44が死傷。大小の発動艇よりなる水上部隊約100が西江口(小港)を襲撃、農民・行商人・子供30余を殺害、商船100余隻を砲撃・破壊・焼却。民船捜索中に発見された婦女10数名が輪姦される(「江浦県誌」、「江浦抗日蜂火」)。
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・正午、蒋介石からの撤退命令が南京防衛軍司令官唐生智に届く。
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 第3戦区(上海・南京戦区)副司令長官顧祝同(司令長官は蒋介石)が電話で唐に伝え、同夜中の撤退命令実行を要請。唐は、南京死守を厳命してあり、急な撤退命令は混乱を招くだけで、遅くとも明日夜には撤退、渡江できるようにすると回答。夜には正式に蒋からの撤退命令が電報で届く。
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・蘇州の司令部の松井方面軍司令官は、11日の戦況を概観して、「軍は右より第十六、第九、第百十四、第六師団を以て今朝より南京城の攻撃を開始す。城兵の抵抗相当強靭にして、我砲兵の進出未だ及はざるため、此攻撃に、二、三日を要する見込み」と記す。そこへ第9師団歩兵第36連隊が光華門占領との報告が届く。
南京陥落の報を待ち兼ねていたマスコミは、「脇坂連隊、南京に一番乗り」と報じ、内地では早くも祝賀行列が始まる騒ぎになる

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工兵隊が爆破した破孔から1個大隊が城門の一角に取りくが、守備兵に逆包囲され一歩も動けず、伊藤大隊長は戦死、師団主力から孤立した十数名の生き残り兵が13日まで死守し続けるというのが実相。
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・上海派遣軍の慰安所設置準備。
 この日の上海派遣軍参謀長飯沼守の日記「慰安施設の件方面軍より書類来り実施を取計ふ」。
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・日本、誤報に基づき、「南京攻略祝賀騒ぎ」。12日にも。
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新聞報道。
 「皇軍勇躍南京へ入城/敵首都城頭に歴史的日章旗/各城門を確保・残敵掃蕩/猛烈なる市街戦を展開」(「東京日日」)、
「南京城頭燦たり日章旗/感激の十日、首都を占領/光華門、脇坂部隊誉れの一番乗り/全線一斉突入市街戦展開/城壁も崩れよこの万歳」(「読売」)、
「祝・敵首都南京陥落/歴史に刻む輝く大捷/南京城門に日章旗/城内の残敵頑強抵抗/脇坂部隊決死の突入」(「東京朝日」)。
夜、東京では祝賀提灯行列、国会議事堂にイルミネーション。
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続く12日の新聞報道。
 「きょう帝都は歓喜のどよめき/そらッ! 南京陥落だ/宮城前に奉祝の群れ/讃えよ世界最大の誇り」(「東京日日」)、「南京陥落す」の題で「わが皇軍南京に入城す国つ歴史に金色の文字もて書くべし此の日」(佐佐木信網)や「南京陥落に寄す」(吉川英治)(「東京朝日)。
宮城前には、朝から東京外国語学校生徒700が校長に引率されて日の丸を手に祝賀に訪れ、東京都下の学生の奉祝パレードが行なわれ、一般群衆に混じって、校長・教師の先導で東京府内各学校生徒が終日宮城を訪れ、戦勝祝賀の行進。
東京府庁舎には「祝南京陥落」のアドバルーン、銀座などの大通り商店街に日の丸、旭日旗、「南京陥落」と書いた幟が飾られる。
夕方、日比谷公会堂で読売新聞社主催の南京陥落祝勝大講演会、支那事変ニュース映画放映、「決死」従軍記者の報告、肉弾少将桜井忠温陸軍少将の大講演会開催。
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 「北浜街にはあっちにもこっちにも南京成金ができあが」り(「大阪朝日」10日付)、11日大阪市で25万人、14日東京市で40万人の提灯行列。全国が南京陥落祝賀に酔いしれる。
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12日の突撃戦に続く。 
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  to be continued

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