2008年11月18日火曜日

昭和12(1937)年12月1~7日 南京(1) 「真理は死んだ」 独断専行追認 南京空襲強化 南京戦区で戦闘開始


通勤途中の紅葉。たまには、京都以外の写真で。
残念ながら撮影は昨年07/12/04。今年は鮮やかに紅葉せず、落葉始まる。
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■実はプロフィールにあるように関西出身ですが、詳しく(そんな詳しくないけど)云うと京都なんです。折にふれてマニアックな京都の歴史に関わる石碑の写真を撮ってますので、以降も徐々に紹介して行きます。
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 「汚れつちままつた悲しみに」の詩で有名な中原中也の詩「帰郷」にこうゆうフレーズがあります。
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「・・・
あゝ おまえはなにをして来たのだと
吹き来る風が 私に云ふ
・・・」
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 とことんのところまで自分を(この人の場合、友人もですが)追い詰めるこの人らしい詩ですが、正直なところ刃を突き付けられた気がします。
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 富永太郎、大岡昇平らと「白痴群」という詩の同人誌を創刊しますが、1年で廃刊になります。この時、詩に人生を賭けない大岡昇平さんと殴り合いの喧嘩をするそうです。
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 大岡昇平に宛てた詩に、「玩具の歌 昇平に」というのがある。
「・・・
おれはおもちゃで遊ぶぞ
おまへは月給で遊び給へだ
・・・
おまえに遊べるはずはないので」
きつい一発です。
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 ミンドロ島で意識朦朧とした状態で捕虜になる大岡さんは、ある一人の人によって戦場に送られ死線をさまよった。その人が死ぬまでは、おれは死なないと、どこかで書かれていた記憶があります。しかし、残念ながら、私の記憶では、大岡さんはその人より数か月早く亡くなられました。
 この人の書かれたものもたくさん読んだ気がします。追って、また書く時がありと思う。
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 今日、公認会計士試験合格者発表あり。M君合格。
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■昭和12(1937)年南京(1) 「真理は死んだ」(ゴヤ「戦争の惨禍」79)
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昭和12(1937)年12月
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・胡愈之を発起人として「復社」設立。許広平(魯迅未亡人)・周建人・鄭振鐸ら社員。38年9月15日「魯迅全集」出版。「西行漫記」(エドガー・スノー「中国の赤い星」)出版。
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・日本無産党と全評の幹部や活動家400余、コミンテルンの方針に基き人民戦線運動の展開を企てた口実で逮捕、結社禁止。
右翼労働組合「日本労働組合会議」(1932年結成)は、「国家的立場に反するが如き傾向に対しこれが禁圧の必要たることは多言を要しない」と声明。
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・香川県、「讃岐若草緑叢会」検挙。松山高校・高松高商の学生および労働者。機関誌「若草」発行。
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・全農新潟県連会長稲村隆一、社大党を脱して東方会に入会を声明。翌38年2月5日、県連の一部を率いて新潟県日本農民連盟を結成、皇国農民連盟と提携して運動を進める。
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雑誌「川柳人」同人、検挙。26年井上剣花坊が創刊した「大正川柳」を改題継続し。主宰者は剣花坊未亡人井上信子、特別賛助員6名、賛助員17名、維持同人23名、編集同人7名、と誌友により組織、他の川柳雑誌「きやり」「北斗」「川柳時代」など46誌と交渉をもつ。作品は直截に反戦的傾向を示す。
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・河合栄治郎編集「学生叢書」刊行開始。S17/7迄。
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・中野重治、内務省警保局より執筆禁止措置受ける。
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・アメリカ映画「オーケストラの少女」上映。
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・大都映画社長河合徳三郎、没。
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・堀辰雄「かげろふの日記」
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・泉鏡花「雪柳」
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・近松秋江「春宵」
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・萩原朔太郎「日本への回帰」
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-・小林秀雄(35)、「死んだ中原」「中原の遺稿」「佐藤信衞『近代科学』」(「文学界」)、「中原中也」(「手帖」(野田書房)第16号)、「不安定な文壇人の知識」(「讀賣新聞」)。「宣伝について」(発表誌未詳)。
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-・チトー(45)、ユーゴスラビア共産党書記長に就任。
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・モスクワ対抗裁判デューイ委員会(委員長哲学者ジョン・デューイ)、トロツキー(58)とその息子セドフに無罪を言い渡す。
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12月1日
・南京市長馬超俊、安全区(難民区)の行政責任を国際委員会に譲る。市全体の行政責任は唐生智司令官に移行。
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12月1日
・発券銀行として蒙彊銀行営業開始
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12月1日・満洲帝国領事裁判権撤廃
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12月1日
・大本営、南京攻略を正式に命令(「中支那方面軍司令官は、海軍と協同して敵国首都南京を攻略すべし」(大陸命第8号))。
多田参謀次長自身赴き、上海で松井大将に伝達。中支那方面軍の独断専行追認
同時に、中支那方面軍の「戦闘序列」が下命(これまでは臨時編成の「編合」)。
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中国が重慶遷都を宣布(実質的には漢口に首都機能を移転)し、首都としては抜け殻となっているにも拘らず、「南京を落とせば何とかなる」「首都を占領すれば中国は屈伏する」と思い込み、政府・国民の期待が高まる中、総兵力16万とも20万ともいわれる中支那方面軍は、正式に南京攻略戦に突入。
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12月1日
・東大教授矢内原忠雄(植民地政策、クリスチャン)、辞職。自費出版「民族と平和」、秩序を乱すとして発禁(1938.1.20)。「国家の理想」(「中央公論」9月号)が反戦思想として右翼教授から非難。12.4 辞職。
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12月1日
・大田實中佐(特務艦「鶴見」艦長、佐世保)、大佐進級。
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12月1日
・日本政府、スペイン共和国と国交断絶。叛乱軍(フランコ政権)をスペイン正式政府として承認。
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12月1日
・外務省警察官1300人は満洲に移籍
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12月1日
・日本化学を改称して日産化学設立
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12月1日・(財)大倉精神文化研究所の設立が認可される。
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12月2日
・蒋介石、軍事長官会議開催、和平問題を南京の領袖に諮る。
白崇禧は「若しただこれだけだけの条件であれば何のために戦争をするのか」と云い、他も同様意見という。
午後、トラウトマン・蒋介石会談。蒋は日本の条件を「和平を討議する基礎」と受入回答。南京、蒋の時間稼ぎ。近衛声明(翌1938年1月16日)で流産。
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 蒋は華北中央化確保を強調し、日本への不信感を改めて表明、日本が戦勝国の態度で最後通牒と考えては困ると言い、ドイツが最後まで調停者として徹底してもらいたい(日中直接交渉を忌避。しかしドイツは「郵便配達夫」以上の役割をしないという方針)などを要望。
トラウトマンは、「現在もしこの調停に応ぜず政争を継続して行ぐならば、将来の条件ほおそらくかかることではすまぬであろう」と付け加える。
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12月2日
・朝香宮鳩彦中将、上海派遣軍司令官となる。7日着任。松井大将は中支那方面軍司令官専任となる。
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上海派遣軍の第13師団の一部・第16師団・第9師団を揚子江~太湖北側に展開する形で南京に向わせ、第10軍第114、第6師団を、太湖南側を西進、南から包囲する形をとる。8日には各方面で中国側防衛線を突破、12日に城壁の一部を占領、13日には中国軍退却後の南京を制圧。
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12月2日
第16師団(京都、華北から転用)、無錫~常州から丹陽へ進出。歩30旅団長佐々木到一少将支隊長の右側支隊を、紫金山北側を迂回して下関へ休心命じる。
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12月2日
・第5師団国崎支隊(国崎登少将、歩兵第9旅団よりなる)、広徳発。3日、郎渓着。6日、水路により郎渓発。9日、太平を占領。
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12月3日
・第1空襲部隊第2連合航空隊、南京の東方約140kmの常州に航空基地を開き、半数を移駐、ここを拠点に陸戦協力のための南京・蕪湖空襲が加速。この日、海軍航空隊の偵察機・戦闘機・爆撃機計19が出動。
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○南京特別市の最南端の高淳県は、水運で蕉湖へ、陸路で南京城へ通じる交通の要所にあり、この日、国民党軍の蕪湖方面への撤退阻止の為に、橋・運河破壊の目的で、県城・町が爆撃される。
蕪湖~上海の運河の港の東項に最も激しい空爆が行なわれ、町の中心の大通りには集中的に爆弾が投下。この日東項だけで爆弾80発が投下され、住民100余が死亡。破壊・焼失した家は700余間(200余戸)にのぼる(「高淳県誌」)。
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12月3日
・朝鮮、朝鮮総督府、天皇の写真(御真影)を学校に配布、礼拝を強要。
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12月4日
・午前8時40分、丹陽を攻撃した第16師団(京都、中島今朝吾中将)の先頭、句容(南京50Km)東方15Kmの倪塘村に侵攻、南京戦区に突入(「飯沼守日記」)。5日、句容占領。    
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句容は、南京外囲防御陣地線の主要な県城で、東部はトーチカで固め、城内には砲兵学校がある。国民党軍が倪塘村の西の句容に通ずる橋を爆破した為、進行を阻また第16師団歩兵20連隊は倪塘村に宿営。そこで村民虐殺事件が発生。
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12月4日
南京戦区における戦闘開始。~5日。
第16師団(京都)・第9師団(金沢)が句容県へ、第114師団(宇和島)は漂水県へ、第6師団(熊本)・国崎支隊は高淳県に突入。
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○南京防衛軍総数(前線・後方部隊、雑兵、軍夫など)計15万に対し、陸・空・川から徹底した包囲殲滅戦が開始される。
①陸からは総勢20万近くが波状進軍のかたちで攻囲、
②空からは支那方面艦隊(長谷川清司令長官)航空部隊の第1空襲部隊(三竝貞三少将、第2連合航空隊と第1連合航空隊上海派遣隊で編成)が交互に出撃して爆撃、
③長江からは遡江部隊(近藤英次郎少将、第11戦隊基幹)が南京に向かい両岸の要塞・砲台を攻撃しながら進撃。
この南点戦区大包囲網中には、南京防衛軍の他に近郊区には住民・難民100万以上、南京城区には市民・難民40~50万が居住又は避難しており、これら膨大な民衆も包囲殲滅戦の危険に晒され、その犠牲を蒙る。
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12月4日
・この日付け第16師団第19旅団(草場辰巳少将)歩兵第20連隊(大野宣明大佐、福知山)牧原信夫上等兵の陣中日記。
□「(一二月四日) 昨夜は大変に寒くて困った。二、三日は滞在の予定だというので、今度こそは一服だということで早速徴発に出る。自分は炊事当番で岡山、関本と共に昼食を準備する。徴発隊は鶏・白菜等を持って帰り、家の豚も殺して昼食は肉汁である。正午すぎ、移転準備の命令があり、連隊は南京街道を南京に向かって進撃することになった。苦人も重い荷物を背負ってよくもついてきたものだと感心した。 
(一二月五日) 午前八時、準備万端終わり、同部落を出発する。出発する時はもはや全村火の海である。南京は近いのだろう。一軒屋に乾いもが目に付いた。吾先にとまたたくまに取り尽くした。」 
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12月4日
・日本軍、中国軍に利用されない限り南京の安全区を攻撃せず、と米大使館通じ回答。 
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12月5日
・春日庄次郎ら、共産党復活を画策、日本共産主義者団を結成。
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12月5日
・スペインの共和国政府側、テルエル付近で反撃を開始。
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12月6日
・この日迄に、日本軍は南京外囲防御陣地をほぼ占領、前線部隊は南京城複廓陣地に向かい攻撃開始。この頃には、南京城内も日本軍の砲弾の射程に入る。
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12月7日
・夜明け前、蒋介石夫妻、側近と共に南京脱出、漢口へ移る。
南京防衛陣地構築を指導したフォルケンハウゼン団長のドイツ軍事顧問団も、この頃漢口に向かい、1両日中に、軍政の要人、南京市長ら市政府要人も全て南京脱出。
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12月7日
・この日~9日、中国軍は「清野作戦」(焼野原作戦)強行。侵攻する日本軍の遮蔽物に使われる可能性のある建物を全て焼却。
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○中国軍は南京城壁の周囲1~2kmの居住区全域と南京城から半径16km以内の道路沿いの村落・民家を強制的に焼き払う。結果、家を失った農民・市民がなけなしの家財道具・食料をもって城内の重点難民区(南京安全区)に殺到。
また、食握略奪・民家宿営に頼ってきた中支那方面軍諸部隊は、城外に駐屯できず、「注意事項」で厳禁された城内駐屯をせざるを得なくなり、数万の軍隊による食糧物資略奪が城内で行なわれる事になる。
更に、道路沿いの農村が焼き払われた為、諸部隊の食糧徴発行動はさらに遠隔の奥地の農村にまで波及することになり、それだけ農村の被害地域が拡大する。
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12月7日
・朝香宮の上海派遣軍司令官着任により、松井石根大将、兼任を解かれ中支那方面軍司令官専任。
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○上海派遣軍は12月5日、「(中支那〉方面軍より南京入城は歴史的に誇るべき事柄なればとの理由にて、各師団の個々に入城するを禁ずる統制線を示し来る」という注意事項の下達があり、飯沼守参謀長も、「軍としても城壁に日章旗を樹つるに止め、部隊を城内に入れざるごとく電報す」と、遵守を回答。
しかし、この日に現地着任した朝香官は、「たとえ方面軍より何といわるるとも、後に戦史的に見て正当なりと判断せらるるごとく行動すること」と飯沼参謀長に言い、「南京攻撃の統制線のごとき墨守するにおよはず」と断言。
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12月7日
・中支那方面軍司令部、蘇州へ前進。この日、司令部は、「南京城攻略要領」「南京入城後における処置」「南京城の攻略および入城に関する注意事項」を下達。
城内掃蕩は各師団1個中隊に制限、主力は城外集結(実際は城内兵員7万以上、12月17日現在城内憲兵17人という状況)。
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□「南京城の攻略および入城に関する注意事項」
 「一 皇軍が外国の首都に入城するは有史いらいの盛事にして、永く竹帠(歴史書)に垂るべき事績たりと世界のひとしく注目しある大事件なるに鑑み、正々堂々、将来の模範たるべき心組をもって各部隊の乱入、友軍の相撃、不法行為など絶対に無からしむを要す。
一 部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし、支那軍民をして皇軍の威風に敬仰帰服せしめ、苟も名誉を毀損するがごとき行為の絶無を期するを要す。
一 入城部隊は、師団長がとくに選抜せるものにして、あらかじめ注意事項、とくに城内外国権益の位置等を徹底せしめ、絶対に過誤なきを期し、要すれば歩哨を配置す。
一 掠奪行為をなし、また不注意といえども火を失するものは、厳罰に処す。軍隊と同時に多数の憲兵・補助憲兵を入城せしめ、不法行為を摘発せしむ。」
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to be continued to Dec 1937(2)  

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