写真は在原業平邸址(撮影は昨年07/12/31)。
場所:京都市中京区間之町通御池下る東側。
在原業平:825生。平安初期の代表的歌人、六歌仙の1人。父は平城天皇の皇子阿保親王、母は桓武天皇の皇女伊都内親王。2歳、在原を名乗り臣籍に降る。「伊勢物語」の主人公に目される
■広津和郎「戦争中の中野君」と「散文精神」。
昨日、中野さんの評伝の続きを読んでいたら、44年9月19日、村山知義らと伊勢神宮に連れられ禊などやらされる痛ましくも愚劣な事態の記述があり、この表題の文章の説明があった。同伴者作家と言われる広津さんなので悪く言う筈はないのだが、中野さんとは家が近く、その頃は一番親しくしていたと前置きし、「・・・。それにしても、今ふり返って見ても、中野君のあの忍耐はえらかったと思う。神経質になったり、憂鬱になったりする様子は全然なかった。いつ会ってもにこにこしていた。・・・、中野君は彼の隣組で組長を割当てられると、実にあたりまえの顔をして真面目にやっていた・・・」とあった。どこかで見た歯切れのよい人を心地よくさせ勇気を与える文章であるが、これを「散文精神」というのではないかと思い当った。昔、20代中頃、平野謙「昭和文学の可能性」(岩波新書)を読んだとき、冒頭の文章が下記のもの。
「広津和郎は昭和二十二年六月に新生社から『散文精神について』という評論集を刊行している。敗戦まもないころの書物だから、今日からみればまことに粗末なものだが、私はこの評論集を愛読した。なかでも《人民文庫》主催の講演会でしゃべったという短い講演メモの一節を、気がついてみると、ときどき思いだしたように暗誦していることがあった。それは「どんな事があつてもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精神――それが散文精神だと思ひます」という一節である。特に私はこの一節に感銘したというふうには思っていなかったが、いつとはなしに暗記していて、ときどき思いだすのだった。」
文中「人民文庫」講演会というのは昭和11年10月18日のことだったそうだ。
本当にいい文章に出会えた。
「おまけ」と言ってはナンだけど、評伝中の一文の締めは、以下。中野さんは、43歳で昭和20年6月に召集され遺言状を書くが、その遺言状が「未発表原稿」として中野さん没後発表され、それを読んだ大岡昇平さんが「成城だより」でこれに触れている。私は大岡さんのファンでもあり、しかも「成城だより」は確か1~3あったと思いますが、愛読した記憶もあり(但し、中野さんの遺言状の記憶はない)、なんか得をした1日の終わりではあった。
■「介抱」か「介錯」か。
芸能ネタ。某有名落語家(故人)の娘で、同じく落語家と結婚し、何年か知らない結婚生活の末、原因も知らないけど離婚した一件があります。しかし、離婚後、ドロドロの争い、しかも別れた妻の方が猛進的に一歩的に元亭主を攻撃。どうやら、お父さんの「奇」の血は娘に伝わったか。それはどうでも良いんだけど、先週、この争いにピリオドをうつ「終結会見」をしたそうだ。途中、「XXX(別れた亭主の名)!! 潔く腹を切れ、私が介抱してやる」と言ったそうだ。ネットでちらと見て、タイプミスか、と思ってたら、週末のテレビニュースでやっぱり「介抱」と言っていた。
「介抱」は、痛かったね大変ねと言って救急車を呼ぶパターン、「介錯」は、お見事と言って首を落とすパターン。
切腹は、上記の大岡さんの「堺攘夷始末記」に有名なシーンの描写があるけど、ごく最近読んだ松永昌三「中江兆民評伝」で、兆民(15)が土佐勤王党の平井収二郎、間崎哲馬、広瀬健太の切腹を見物するシーンがあった(文久3(1863)年6月)。そして、この時の切腹は、まず腹を切り、次いで喉を刺し割るものだったそうだ。15歳の兆民がこの時点では全く政治的人間ではないのにもまた驚く。
おしまい。
0 件のコメント:
コメントを投稿