2008年11月13日木曜日

1871年3月(1) ジャコバンの見果てぬ夢か・・・ プロイセン軍、パリ入城 国民衛兵共和主義連合創設


写真は旧二条城跡(撮影は08/01/02)
場所は、京都市上京区室町通り下立売通り南西角
 この二条城は、永禄12年、信長が将軍義昭の為に建てた城郭(邸宅)。
現在の二条城は、家康が命じて作らせたもの。
本能寺の変の際、信長の長男が戦死するのも二条城と呼ぶ時があり、実は私もその辺の区別が曖昧でした。本能寺の変で焼ける二条城は、信長が誠仁親王の為に建てたもので、現在の烏丸堀川辺にあったといいます。地下鉄工事で、かなり明らかになったと聞いています。例えば、よく言われるように、信長が、畿内近国から石仏を集めさせ、石垣を作ったとか・・・。
 ところで、写真の旧二条城の辺は、武衛陣町とう町名です。室町幕府の管領斯波武衛の屋敷があった場所に由来するもので、現在は平安女学院があります。また、少し前に掲載した「菅家跡」も、ここから100m以内のところにあります。
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試行錯誤、五里霧中、七転八倒?。・・・屋上屋を重ねるか
 「治承4年4月」のエントリに、見出しを付けるなどの「小改善」を施しました。本来なら、脚注とかで分けるべきものが混在して、錯綜してますので。その他も、徐々にやる予定。
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■1871年3月パリ・コミューン(1) それはジャコバンの見果てぬ夢か・・・
1871年(明治4年)3月
-・大隈参議、「各国条約改正御用掛」となる。5月、外務卿名で各国に条約改正の意向ありと表明。日本の開化不充分として拒絶。
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-・年貢の代金納みとめる。
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-・伊達邦直、家臣の石狩郡移住を始める。
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-・慶應義塾、三田に移る。
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3月1日
・中国、イスラム教徒馬化竜・馬成竜・譚生成ら、処刑。金積堡のイスラム教徒の乱、平定。
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3月1日
・東京・京都・大阪に郵便制度が発足。
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3月1日
1日・仏、パリに弔旗。プロイセン軍がパリ入城、シャンゼリゼを行進、占領。48時間占領後、東北部郊外占領地へ引上げ。2日のヴィルヘルム1世の入城中止。
 
 家々には黒い旗が吊られ、通りは無人、店は閉められ、泉は枯れ、コンコルド広場の様々な像は蔽われ、ガス燈は灯らず、取りつくしまのないパリが、遠来の勝利者を迎える。
ドイツ人は、セーヌ川、出入ロを閉鎖したルーヴルと、サン・トノレ郊外地区に沿う帯状のバリケードに囲まれた地域に押し込められ、「百三十日間パリを囲っていた彼ら自身が、こんどはパリの労働者によって囲まれた。」(エンゲルス)。
「革命の震源地に対して復讐するためにやってきたプロシャのユンケルは、この武装した革命の前に立止って、恭しく敬礼しなければならなかった。」(「フランスにおける内乱」第3版序言)。
 
・国民軍中央委にインタナショナル・メンバ4人派遣。国民軍中央委と政府の二重権力。
 
・ボルドー国民議会、講和予備条約批准(賛成548、反対107)。国民議会移転問題起る(ヴェルサイユかフォンテーヌブローか)。
 
 講和の中身:アルザス及びロレーヌ両州割譲、賠償金50億フラン、賠償金完済までパリ西部諸県の保障占領等。
アルザス及びロレーヌ両州割譲が承認された時、パリ出身代議士マロン、ラン、ロシュフォール、トリドンは、ガソべッタ及びアルザス・ロレーヌ出身代議士と共に議員辞職し、ボルドーを去る。ヴィクトル・ユーゴー、レクリューズも続く。
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3月2日
・諸藩「常備隊規則」。諸藩兵制整理統一。
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3月2日
・仏、パリ、国民衛兵共和主義連合結成。正式発足は15日。
この集会で、市民ボワシエが、政府の所在地がパリ以外の場所に移される場合には、「パリ市は直ちに独立の共和国を構成すべきこと」を提案。
 
[規約]
 「権利と正義の唯一の政府たる共和制は、共和制によって生み出された一般投票以上のものである。」
「国民衛兵は共和制顛覆のあらゆる企図と闘わねはならぬ。」
「国民衛兵は、そのすべての責任者を選出し、いかなる地位の責任者であっても、これを選出した者の信頼を失なうや否や、これを罷免する絶対的権利を有する。」(この原則により、従来の責任者は全て再確認を要することになる)。
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全組織の機関として中央委員会が選出される。
これは、地区毎3名の割合で各地区国民衛兵総会で選出された代表者をもって成るもの。中央委員会の正式成立までの機関として、暫定的な執行委員会が任命される。パりの国民衛兵を構成する270大隊中215大隊がこの新連合組織に参加。主に大中ブルジョア居住地区の大隊が参加せず、その結果、新組織は、パリ勤労民・小市民の共同闘争組織となる。
 
 集会では、「国民衛兵は武装解除のいっさいの企てにたいし抗議し、必要の場合には武力をもってこれに抵抗するであろう」と決議(国民衛兵が、ティエール政府に対抗する独立勢力として成長しつつある)。
しかし、国民衛兵連合自身は、自らが政府に対立する独立した武装権力、いわば国家内の国家になる事を自覚していた訳ではない。国民衛兵連合がその素質を貫こうとすれば、必然的にティエール政府と正面衝突せざるを得ず、この衝突は一方が他方を粉砕するまでおわらない。二重政府は、永続しうべき性質のものではない。
 
[臨時行政委員会、創設]
 メンバとしてアルノール、ベルジュレ・ヴィアール、アンリ・フォルテュネ、パンディ、ヴァルラン、オスティンが選ばれる(いずれも未来のコミューン参加者)。国民軍には、穏健な登録者6千名が去り、政府に忠実な軍団は40~60。しかも国民軍連盟は自らの選挙によって長を選ぶと決定し、これは、首都最高司令官としてパリ降伏文書に署名したヴィノワ将軍、ロワール軍を指揮して大敗したオーレル・ド・パラディーヌ将軍を罷免する根拠になる。ヴァンドーム広場の国民軍参謀本部は影の薄い存在となる。
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4日、国民衛兵共和主義連合の執行委員会・中央委員会、宣言発表。
「200以上の大隊を代表する代表者総会において任命された国民衛兵中央委員会は、国民衛兵共和主義連合を構成することを使命とするが、それはこれまで常備軍がなしえたよりも一層よく国を保護し、また可能なあらゆる手段をもって脅威下にある共和国を防衛しうるように、国民衛兵を組織せんがためである。」
「中央委員会はもはや無名の委員会ではない。それは、自己の義務を知り、自己の権利を確認する自由な人々の受任者の集まりである・・・」。
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3月3日
・独、最初の帝国議会選挙。
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3月5日
・ローザ・ルクセンブルク、ロシア領ポーランドのザモシチにユダヤ人材木商第5子として誕生。1873年ワルシャワに転居。この頃股関節を患い生涯跛足となる。1880年ワルシャワ第2女子ギムナージウムに入学。
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3月6日
・山口藩、常備壮兵徴募に関し、士族・卒族・百姓・町人にかかわらず希望者は検査のうえ常備軍に編入と布告。
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3月6日
・仏、ティエール、反動的将軍オーレール・ド・バラディーヌをの国民軍司令官に任命。3日の着任時に彼の下に召集に応じた大隊長は270名中30名のみ。
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3月7日・国事犯事件
華族外山光輔、京都で逮捕。一党もつぎつぎ逮捕。12月3日、外山は国事犯をもって自尽。外山は天皇の東幸後の京都の衰徴・旧堂上の失権を嘆き、新政府の洋化・開化政策に反対の攘夷主義者。
明治3年末、十津川郷士らが天皇の鹿児島行幸の風聞に基づき、その際天皇を京都に連れ戻す計画を立てていることを知り、自らもその挙に応じて蜂起する計画。やがて久留米藩大参事水野正名などとの繋がりから外山を盟主とする蜂起計画は広がる。一党のひとりが京都で捕えられ盟約書が発見されて露見。
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3月8日
・菊間藩、廃仏運動に対する護法一揆。
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3月8日
・仏、ヴィクトル・ユゴー議員辞任。王政派の多い議会に失望。22日ブリュッセルに向う。
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・ヴィノワは、ビュット・モンマルトルと、リュクサンプールの大砲50門に対して、2度奪還を試み、また区長に対し、国民衛兵に大砲を返還させるようを呼び掛ける。
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・8日夜~9日、デュヴァル(第13区)の命令で、大砲数門が押収され、ゴブランの区役所からムーラン・デ・プレ街に曳いてゆかれる。この時既に、モンマルトルは大砲を備えている。
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3月10日
・反政府陰謀大弾圧。
東京で久留米藩主有馬慶頼を謹慎処分、藩士30名逮捕。11日、熊本藩兵、久留米に迫り大楽源太郎らの引渡しと水野正名大参事逮捕を通告。13日、水野と軍務総裁小河真文が出頭、縛につく。16日、大楽は逃亡しようとするが、軍務副総裁吉田足穂らにおびきだされ筑後川畔で刺殺。4月13日、柳川藩では政府軍により数名逮捕。熊本藩では河上彦斎が逮捕。
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3月10日
・仏、ボルドーの国民議会、1870年8月13日に決められた手形支払猶予を修正。
 8月13日~11月12日に満期になった手形は、その日付けから7ヶ月後(3月13日~)に支払請求できることになる。11月~4月の満期手形は、3ヶ月の猶予期間内に利息と共に支払わねばならなくなる。
 13~17日、パリで15万の手形引受けが拒絶(手形支払期限に応じられない)され、大量の小規模商人・企業家達が破産。
 
[未納家賃問題]
パリにとっての脅威。家賃も、70年10月1日以後、支払猶予されていたが、戦争が終り、家主たちは、10月以後6ヶ月間の家賃の即時支払を要求。労働者・小商工業者らの借家人30万は、籠城中に貯蓄を費い果たし、未納家賃を支払わうならば破産するより途がなくなる。政府は善処すると言うだけ対策なし。満期手形と未納家賃の問題は、パリの中小ブルジョアを、反国民議会に走らせ共同戦線を一層広汎なものにする。国民議会は又、国民衛兵に対する日給1フラン50サンチームは、失業者証明を付して願書を提出する者のみに給与すると決定。この決定もまた、大部分が失業者で、給与される1フラン50で辛うじて命をつないでいる国民衛兵を激昂させる。
 
 ティエールの工作により、3月初頭から地方の新聞は、パリの放火掠奪について書き立て、3日には、パリに暴動が発生し、パリ司令官ヴィノア将軍はセーヌ左岸に退き、電信連絡が切断されたとの噂でボルドーの国民議会が沸騰。クレマンソー他3名のパリ出身議員が調査のためパリに派遣され、「市内には全然異変なし」と報告。内相ピカールは、「この平穏は見せかけのものにすぎない」と答える。
 
・ティエール提案、国民議会、ボルドーよりヴェルサイユへ移転決定(パリ移転は427対154で否決)。パリに戒厳状態を復活させ、軍事総督・警視総監・国民軍司令官に反動家を任命。パリの孤立を狙う。
 
・国民衛兵連盟中央規約決定
[国民衛兵共和主義連合中央委員会の呼び掛け]
 「人民の息子たる兵士諸君!・・・パリには300,000人の国民衛兵がいる。しかも、毎日、多くの軍団が送りこまれ、その軍団はパリの住民の精神について誤解を吹込まれようとしている。敗北を計画し、フランスを分断し、われわれの金のすべてを引渡した人々が、内乱をひきおこすことで負わされた責任を逃れようとしている。彼らは、彼らの考える犯罪の従順な道具に諸君がなるだろうと思っている。民兵諸君!諸君は、諸君の血管を流れるのと同じ血を流させようとする神を恐れない命令に従うのか。諸君は諸君自身の臓腑をひき裂くのか。否。諸君は親殺しや、兄弟殺しになることに同意はしないだろう・・・共和国万歳!」。
中央委員会はクーデタ、もしくは政府の実力行使、ティエールの挑発する内乱を予想する。
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3月11日
・仏、パリ、パリ軍総司令官ヴィノワ、忠実と信じる第59大隊をヴォージュ広場にやって、大隊に所属する「アルザス・ロレーヌ」という象徴的な名をもつ大砲を探させる。
 
 第59大隊は大砲をパンテオンに向って曳いてゆき、そこでは、政府側区長ヴアシュロは兵の他の諸大隊もこの方法にならうだろうと告げる。ついで、理工科大学の方へ向かう時、大隊代表ジャン・アルマーヌは、列を離れ、「この大砲は人民のものだ」と叫ぶ。大隊は列を乱し、ラテン区を横切をデモに変化し、「アルザス・ロレーヌ」は国民衛兵2千によってヴオージュ広場に戻される。
この結果、第5、13区の委員会はデュヴアルと連絡をとり純然たる防衛措置をとり、攻撃を受けた場合、空砲1発が住民に急を告げるようにする。ヴィノワは、攻撃配置をとり、大砲を備えた戦列歩兵2連隊がリュクサンプール公園を占領し、そこに宿営する。
 
12日・仏、パリ軍総司令官ヴィノワ、共和派新聞6紙(「ペール・デュシェーヌ」「人民の叫び」「復智者」「合言葉」「ラ・カリカチュール」など)発禁。うち4紙は発行部数20万。色とりどりのポスターが革命派の主張手段となる。
 
・フルーランス、ブランキら、10月31日の蜂起に参加した廉により欠席裁判により死刑判決。フルーランス、ブランキは抗議声明発表。
 
・モンマルトルの国民衛兵の代表達、第18区区長クレマンソーに大砲返還を申し出る。
 
・リオン、市庁舎占拠。コミューン選挙布告。25日、自然消滅。
 
▽ティエール政府の反動攻勢を前に、人々は苛立ち、とげとげしく、過激化してゆく。
ブランキ派・ブルードン派他の革命的グループの唱える新社会の理想が次第に大衆の心を捉え、人民に基礎をおく新共和政権を樹立し、理想社会建設に邁進しようとの気運が強くなる。9月4日~降服の4ヶ月間のパリの市民の関心は、愛国的祖国防衛に集中していたが、今や関心は、広汎な社会革命に向かい始める。ボルドーの反動勢力は支配階級の本能的直感によってこれを理解し、生まれつつある革命を圧殺し、地方伝播阻止に傾注する。
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3月13日
・仏、ボルドー国民議会、戦争の初めに実施された家賃支払延期を停止。人民・労働者に対する階級的攻撃。
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3月13日
・この頃の「タイムス」紙に掲載された同紙パリ通信員の至急報。
 13日付の12日発の至急報は、「蜂起の動きは弱まっている。運動を構成する分子の間には緊密な結合が欠けている」。15日の至急報はこの印象を確認。8日付け同紙の7日発の至急報は、政府の目的は秩序と平和を回復して革命を打倒する為に革命を挑発することにある、とする。
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3月13日
・ロンドン会議、ロシアの黒海再武装承認。 
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3月14日
・東京・京都・大阪間の郵便が開始。
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3月14日
・第2維新事件。公卿愛宕通旭、謀反容疑で逮捕。
 愛宕通旭は明治元年2月参与、同10月神祇官判事、翌2年5月の官吏公選で免職(多くの公卿出身者が免職)。一方、愛宕家抱えの国学者比喜多源二は政府への建白、建白が受入れられない場合は天皇を京都に連れ戻る計画をたて、失意の愛宕がこれに賛同する。明治3年夏頃、柳川藩処士古賀十郎が加わり、この古賀が秋田藩士初岡敬治にも決起を呼びかける。また、古賀は尊攘主義者外務大丞丸山作楽とも繋がる。愛宕の密かな計画も進行、農民一揆の盟主にとの依頼もくるようになる。明治4年初め、愛宕・比喜多らは上京。政府側はこの動きを察知しており、2月下旬古賀十郎謹慎。3月10日比喜多の弾正台召喚、愛宕ら逮捕となる。初岡は秋田で糾問、5月10日東京へ護送、12月3日、愛宕らと処刑。
 
 初岡敬治:藩校明徳館教授。戊辰戦争時の秋田藩の政府側への藩論転回に一役かう。明治2年3月東京に移り、5月国政への意見を求められ時論を建議。開化政策を批判するが、やがて尊攘激情家として知られるようになる。明治2年7月招魂社へ旗奉納をめぐる事件(武士が耶蘇教徒を踏みつける絵を奉納しようとする)、同9月剣舞事件(柳橋の料亭での長州藩との懇親会で「奸可斬」と歌い剣舞)。明治3年3月秋田藩に帰る。
 
[「国事犯」(外山・愛宕・久留米藩処分)]
 処断者339名。自尽:愛宕、外山。斬罪:愛宕家家扶比喜多源二、元柳川藩士古賀十郎、秋田藩士初岡敬治、久留米藩士小河真文、久留米藩士古松簡二、熊本藩士河上彦斎、高知脱藩岡崎恭助、豊後国農楠本省吾・楠本勘兵衛・阿部琢磨、豊前国農矢野寿助。終身禁固24、禁獄39。
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3月14日
・仏、ティエール、ヴェルサイユ着。
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3月14日
・アルジェリア原住民反乱、始まる。指導者モハンメッド・アル・モクラニをフランスの植民者に反対する「神聖な軍人」(ジハド)と宣言。アルジェリア部隊は、ボルジ・プ・アレリジ市を攻撃。
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3月15日
・仏、パリ国民軍共和主義連合中央委員会、正式に成立。
 
・第4回国民軍(国民衛兵)連合総会、「祖国と全人類をすくう唯一の制度である民主的社会共和国の建設」決議。215大隊代表。
 
 何人かの民兵が、士官の解任可能性の原理について発言。
会議は総指揮官ドーレル・ド・パラディーヌを不承認、代りに1票を除く満場一致で、ガリパルディ(イタリア統一運動指導者)を指名。前海軍将校リュリ工が砲兵司令官に任命。選挙未了の若干の地区を除く諸地区選出の中央委員約30名の氏名発表。
どの党派にも属さない無名の新人と並び、アルヌー、ジュールド、アルノール、バビック、アッシ、ビリオレイ、アルマーヌ、ベルジュレー、ヴァルラン、ユード、デュヴァル等の、ブランキー派・やインタナショナル派の名士が中央委員会になった事は、政治的共同戦線体としての国民衛兵連合の特色を一層鮮明にする。連合は、政治的意図を公然と宣言し、共和政、パリ、及びフランス人民に抗して向けられる全試みに反対。彼らは武装した選挙集団(政治的集団)である。
 
[権力の二重性が明瞭になる]
 第13区では、デュヴァルが主導権をとり、政治プログラムを貼り出し、軍需品を奪取し、大砲26門をその司令部からほど遠くないところへ移し、政府とは独立のやり方で行動する。内務長官ピカールは抗議。
「もっとも悲しむべき事実が、数日来発生し、市の平和をひどくおぴやかしている。武装した国民衛兵は、その正当な首長に従わず、反対に、法によって厳重に罰せられる犯罪を犯すことなしには何の命令も下すことのできない名もない中央委員会に従い、多数の武器を奪いとった・・・」。
 
 政府は経済的・政治的側面で主導権をとる。家賃・商業手形支払いに関する法律の廃止。パリの「非首都化」、議会のヴェルサイユ樹立。プランキとフルーランスに死刑宣告。左翼新聞の禁止。反動家ヴァランタンを警視総監に、(オルレアン周辺で指揮した軍隊の敗北以来、不人気の)ドーレル・ド・パラディーヌを衛兵総指揮官に任命。俸給を停止すると威嚇し国民衛兵解体を試みる。
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3月16日
・仏、ティエール、パリ警視庁警視総監にパリ警官隊連隊長ヴァランタン将軍任命
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3月17日
・仏、夜、ティエール政府閣議、パリ国民衛兵奇襲(砲廠奪回作戦)計画決定。中央委員25名逮捕、パリが保管する砲250門の奪取を決定。その後2ヶ月にわたる内乱を開く合図
 
・夜~18日、ドーレル・ド・パラディーヌ将軍、パリ中央部諸地区のブルジョア派40大隊の指揮官を召集、集った士官約60人に、その筋ではベルヴィルの住民が市庁舎を攻撃すると予想していると断言。
 
 彼は、18日午前6時以後、信頼できる大隊を集め、パリを扇形戦区に区分する事を提案。彼はこの扇形戦区の責任者となるべき士官を指名しようとするが、士官たちは、自分達の部下は最も信頼できる者でさえ、各自の地区を離れることに同意するとは考えられない、1200人の内200人以上がこの呼びかけに応じるかどうか疑わしいときえ答える。しかし、パラディーヌ将軍は彼の指示を主張。
 
・ブランキ、病気療養中、ヴェルサイユ側に逮捕、監禁。
                        to be continued to March/1871 (2)

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