2008年11月30日日曜日

昭和12(1937)年12月12日 南京(4) 「もう助かる道はない」 南京防衛軍崩壊 バネー号、レディ・バード号事件 長江の大惨劇


写真は横浜みなとみらい。
撮影2008/11/28。
この日、会社の同期会があったので出かけた。
ワインをしこたま戴きました。翌日、えらい水っぽいワイン飲まされた・・・とかなんとか、家人に話して、そこまでしゃべってから、ひょっとしてあれがヌーボー・・・?、などと思い当った次第。今となっては、確認のしようがないが。
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翌日(つまり昨日)、家族で飲み会。
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今週から忘年会ウィークに突入。
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ヘボン、岸田吟香、明治学院、東亜同文学院、因縁ばなし
 先回エントリで山下公園近くのヘボン邸跡のことを書いた。昨日、松本克平「日本新劇史」をぱらぱら見ていていて、偶然、ヘボンと岸田吟香の話を見つけた。この話、どこかで?、と考えたら、丸山昇「上海物語 国際都市上海と日中文化人」(講談社学術文庫)にも同じ話が出ていた。幸い、この本が手元近くにあったので確認できた。そうしたら、少し前のエントリ「英一番館」のところで触れたジャーディン・マセソン商会の上海進出の話もあった。
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1667 上海物語 国際都市上海と日中文化人 (学術文庫)

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 少しながくなりますがご紹介。
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 岸田吟香というのは岸田劉生の父。「吟香は本名銀次郎と言い、美作国久米郡の酒醸家に生れ漢学を修めた。元治元年四月眼病にかかり、横浜に来ていたヘボン式ローマ字の創始者であり医者であり伝道者であったヘボン博士の治療を受けて快癒した。その間へボンを助けて我が国で最初の和英対訳辞典である『和英語林集成』の編纂に着手した。そして辞書の印刷校正のためへボン博士と共に二回上海に渡った。 慶応三年四月『和英語林集成』は刊行された。この辞書の見出しの日本語はすべてへボソ式ローマ字になっておりへボンの独創的なものであった。
 また吟香には外にウエブスター辞典に則った実用英語のための『和訳英語連珠』もあるという。ヘボンは吟香のこの労苦に報いるために「目薬精銘水」の処方箋を伝授したと伝えられている。吟香はまた元治元年六月、日本で最初の邦字新聞「海外新聞」を発行する。さらに慶応四年(明治元年)四月--明治三年三月まで「横浜新報もしほ草」を発行する。その後石油採掘・製氷などの事業に失敗して明治六年「日報社」(後の毎日新聞)に入社、・・・。東日記者を退いてからは楽善堂の経営と対支事業に没頭し多くの著述と翻訳をし、また東亜同文会を設立する。一方、支那の科挙の試験のために携帯に便利な支那諸子百家の書物の縮刷版を仕上げて、年平均十五、六万冊を売捌いた。上海を中心に北京、天津、漢江、重慶、福州、漢城に支店を設けた。楽善堂はいわゆる支那浪人の寄り処であった。大陸進出を夢見た支那浪人たちはここを足場にして日清戦争には大いに活躍したのであった。明治三十八年六月七日、銀座二丁目の本邸において七十三歳で死去した(昭和三十年十二月号、昭和女子大学光葉会発行「学苑」所載の牛丸綾子筆「岸田吟香」による)。」(松本克平 前掲書)。
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 上記文中にあるように、吟香は東亜同文会を設立し、東亜同文学院創設にも関わっています。一方、ヘボンは明治学院の最初の総理となります。
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 「ジャーディン・マセソン商会(Jardine, Matheson & Co.Ltd.) は、一七八二年、広州に設立された小さな貿易会社で、一八三二年の改組後、ウィリァム・ジャーディン、ジェイムス・マセソンの名をとって以来、この名を用いた。当初はおもにアヘン・茶の貿易で利益を上げ、アへン戦争前、林則徐が広州で没収したアへン二万箱中七〇〇〇箱がこの商会の所有だったという。一八四三年上海開港直後上海支店を設け、その後、中国各地に進出、また各業種にその手を拡げ、・・・一大コンツェルンを形成した」(丸山昇 前掲書)。
 こんな会社ですから、日本の開国に際しても一番乗りで進出する訳ですよね。
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■昭和12(1937)年12月南京(4) 「もう助かる道はない」(ゴヤ「戦争の惨禍」15)
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12月12日南京
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・第13師団山田支隊(山田梅二少将)、鎮江出発。
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□「(12日) 総出にて物資徴発なり、然るに午後一・〇〇頃突然歩兵第65連隊と山砲兵第三大隊、騎兵第17大隊を連れて南京攻撃に参加せよとの命令、誠に有難きことながら突然にして行李は鎮江に派遣しあり、人は徴発に出であり、態勢甚だ面白からず 併し午後五・〇〇出発、夜行軍をなし三里半余の四蜀街に泊す、随分ひどき家にて南京虫騒ぎあり」(「山田栴二日記」)。
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・この日、朝~昼、南京城四方を完全に包囲し包囲殲滅戦の陣容を完成。
午後~夜間、「南京城一番乗り」を競い、膨大な死者を出しながら壮絶な突撃戦を敢行。
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・夜明け、かつてない激烈な日本軍の攻撃開始。
日本軍機は、中国軍陣地を爆撃、南京城壁を包囲するかたちで陣地を据える日本軍の砲列は、城壁・城内に向けて猛烈な砲火を浴びせる。
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・早朝、唐生智南京防衛軍司令長官、幕僚を集め撤退命令作成。翌13日の日の出前に各部隊一斉に日本軍の包囲を突破するという内容。
 唐は城内北東部玄武湖を望む高台にある百子亭の官邸に少数の幕僚を集め撤退命令作成を相談。唐は病弱の体への懸念から司令長官部を自分の官邸におき、参謀長と副司令長官2人を執務させ、副参謀長以下、司令長官部の幕僚・職員の殆どは挹江門近くの中山北路にある鉄道部地下室に移転させ、電話で作戦指導。しかし、司令部が2~3km離れ2ヶ所に分散していた事は、迅速な戦況判断や機敏な作戦指導を不可能にする。
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・第6師団(熊本)・第114師団(宇都宮)が、南京城南の中華門外の重要拠点雨花台陣地を猛攻、正午迄に同陣地を占領。
第6師団は雨花台の南京城内が一望できる地点に砲列を敷き、中華門に集中砲火をくわえ、城内にも砲弾を撃ちこむ。南京中心街に砲弾が落ち、各所に火の手があがる。
第2師団(善通寺)が雨花台北端に進出し、中華門~東の雨花門の城壁を集中攻撃。
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・この3日間、第16師団(京都、中島師団長)佐々木支隊(佐々木到一)が紫金山北山麓陣地を、同師団主力が南山麓陣地を攻撃。
南京城の東の紫金山の西南山麓は、太平門~中山門間の城壁に繋がっており、同山麓の陣地は、南京城内を懐に抱く最重要な防衛拠点で、南京防衛軍の最精鋭の教導総隊(桂永清)が守備。
この日、第16師団が、紫金山第2峰陣地を失陥させ、重砲により中山門とその南の城壁を集中攻撃、中山門の城壁が数m決壊。
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第16師団佐々木支隊、大平山陣地を奪取し、12日、紫金山北麓の隘路口を突破、城壁に迫る。
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・第13師団(仙台)山田支隊(山田栴二少将)は、長江南岸に沿って南京城の東(長江下流)にある烏龍山砲台を猛攻。
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・雨花台を占領した第6師団、長江南岸に沿って南京城の西(長江上流)の上新河鎮~江東門、下関の広大な湿地帯で戦闘、城内突入目指し中華門~水西門に攻撃を集中。
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・国崎支隊(国崎登少将)は、長江北岸を津浦(天津~浦ロ)鉄道のターミナル駅浦口の占領目指し進撃、午後、江浦県城を占領、渡河して撤退しようとする中国軍の激減作戦を準備。
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・支那方面艦隊は川と空から包囲殲滅を目指し、遡江部隊が烏龍山砲台下流に進撃。
第1空襲部隊第12航空隊・第13航空隊は、中国軍が汽船で南京を脱出中との報をえて、中国部隊の退路遮断・殲滅のため長江のジャンク・汽船の爆撃にむかい、アメリカ砲艦「バナイ号」とアメリカのタンカーを、中国兵を護送中と「誤認」して撃沈。
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バネー号事件とレディ・バード事件
殆ど時を同じくして、陸軍が蕪湖で英艦「レディ・バード」号を砲撃。14日、米英に陳謝。
 海軍は、責任者第2聨合航空隊司令官三竝貞三少将を更迭。
陸軍は、責任者野戦重砲兵第13連隊長橋本欣五郎大佐を処分せず。
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・午前11時、唐生智南京防衛軍司令長官、南京難民区国際委員会ラーベ委員長に日本軍との3日間の停戦協定斡旋依頼、不首尾。
 ラーベが日本と同盟国ドイツ人でナチス党員であることを見こんでのこと。福昌ホテル管理人シュベルリングが、中支那方面軍司令官松井石根大将に休戦条件を伝える軍使の役を申しでる。ラーベらは日本大使館宛の電報を準備し、唐生智司令長官の正式文書を待つが、唐の書簡が到来せず、ラーべらの停戦協定交渉計画は潰れる。
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・正午過ぎ、第6師団歩47連隊、中華門西方城壁突破。最初の突入。
夕方~夜、各隊は数ヶ所の破壊口から城壁に上り占領。
 その他、中山門南側城壁にも破壊ロができ、日本軍は今にも城壁を占領する戦況にあり、雨花門でも城内に退却しようとした中国軍を追撃して一部の部隊が城壁内に侵入。
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・午後2時、第10軍第114師団(宇都宮)歩127旅団歩102連隊、雨花台に日章旗あげる。
退却した中国兵は中華門から城内へ逃げ込み、門を閉じ、逃げ遅れた敗残兵は、門外に散在する部落に立て籠もり抵抗。歩66連隊第1大隊が突入し3時間近い白兵戦の後、中国兵は白旗を掲げて降伏。1354人。
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・午後4時30分頃、南京防衛軍の崩壊始る
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城内を南の中華門~北の挹江門を縦断する中山北路にいたアメリカ人記者A・T・スティールの記述。
 「数人の青年将校が、退却する大群の進路に立ちはだかって、食い止めようとしていた。激しい言葉が交わされ、ピストルが鳴った。兵士たちはいやいや向きを変え、・前線に向かってのろのろと戻りはじめた。だが盛り返したのは束の間であった。三〇分以内に中国軍の士気は瓦解し、全軍が潰走することになった。もはや、彼らを押しとどめるすべもなかった。何万という兵士が下関門(挹江門)に向かって群をなして街路を通り抜けていった。
・・・午後四時半頃、崩壊がやってきた。はじめは比較的秩序だった退却であったものが、日暮れ時(午後五時頃)には潰走と化した。逃走する軍隊は、日本軍が急追撃をしていると考え、余計な装備を投げ捨てだした。まもなく街路には捨てられた背嚢、弾薬ベルト、手櫓弾や軍服が散乱した。」(「シカゴ・デイリー・ニュ-ズ」1938年2月3日)。
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・午後5時、唐生智南京防衛軍司令長官、高級指導官会議招集、撤退命令下達。混乱のため不徹底。唐は官邸に火をつけ脱出に移る。
 唐は正午に鉄道部地下室の司令長官部に高級指揮官会議を招集、撤退命令を正式決定し、午後3時に南京防衛軍全軍に撤退命令と作戦下命する予定でいたが、指揮系統の動揺・混乱により開催不可能になり、日没時の午後5時にようやく開会。それも中山北路に面する鉄道部付近は、敗走・退却兵による混乱のため、百子亭の唐官邸に変更。防衛軍崩壊が始っている状況での会議招集は不徹底なものとなり、城壁外の複廓陣地で戦闘中の部隊を直接指揮する軍長・師長は会議出席は不可能。それでも防衛軍最後の高級幕僚・指揮官会議を開いた唐は、撤退命令書を出席の軍長・師長に下達し、午後5時に解散。既に城内外の指揮・連絡系統が切断し、混乱状況となり、防衛軍部隊の崩壊・潰走始っており、全部隊に撤退命令を伝えられないものが多い。
 
 実行不可能な撤退作戦。
 作戦は、司令長官部直属部隊・第36師・憲兵部隊が午後6時より下関から渡江、その他全部隊は夜11時に各方面で一斉に包囲を正面突破して撤退、最終的に安徽省南端に集結するというもので、前夜であれば実行可能性があったが、既に防衛軍前線が崩壊始め、殆どの部隊が下関へ潰走を始めている段階では、敵軍正面突破は不可能。更に唐は、撤退計画強行の為に、撤退計画以外の部隊の下関からの渡江を厳禁し、第36師に他部隊の挹江門からの撤退を阻止するように命じる。
司令長官部が先に撤退する作戦は、南京防衛軍にパニック的崩壊をもたらす。鉄道部地下室の司令長官部が5時以前に撤退行動を開始している為、午後3時以降、各部隊からの無線連絡も通じず、前線部隊に動揺・混乱を与え、潰走に拍車をかける事になる。
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・午後6時、第10軍司令官柳川平助、軍主力投入指示。国崎支隊に浦口占領、残敵殲滅指令。
 翌日の掃蕩行動について「丁集作命甲号外」発令。
「一、敵ハ南京城内ニ於テ頑強ニ抵抗ヲ続ケツツアリ 
二、集団ハ南京城内ノ敵ヲ殲滅セントス 
三、丁集作命甲第五十六号第九項ノ制限ヲ解ク 
四、各兵団ハ城内ニ対シ、砲撃ハ固ヨリ有ラユル手段ヲ尽シ敢ヲ激減スべシ 之ガ為要スレバ城内ヲ焼却シ特ニ敗敵ノ欺瞞行為ニ乗ゼラレザルヲ要ス 
五、集団ノ掃蕩区域ハ共和門-公園路-中正街-中正路-漢中路ノ線(含ム)以南トシ、以北ハ上海派遣軍ノ担任トス」。
 「二」の「丁集作命・・・」は、各師団の城内進入兵力を各1個連隊だけとし、主力は城外待機の指示であるが、その制限を解いて、軍主力を投入し、火攻めにしても残兵掃蕩せよ、というもの。城外西方を下関に向けて北上した歩45連隊を除き、ほぼ全軍が城内侵入。上海派遣軍との地境も無視され、歩23連隊一部は、下関近くまで北上。
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・午後8時、唐司令官一行は漸く下関の海軍艦艇専用埠頭に到着し、司令部幹部が揃うのを待って、午後9時近く、江寧要塞司令部が確保した最後の小汽船で浦口埠頭へ渡り撤退(浦口は、翌日には国崎支隊が占領)。
敗残兵・市民の大群集は、板片などで渡河する状況。
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・9時過ぎ、市街戦を準備していた陸軍装甲兵団戦車隊が挹江門に撤退してくる。同隊には撤退命令が伝えられず、司令長官部が殻なのを知って撤退。これに対し第36師の城門守備兵が唐の命令通り阻止行動に出た為、戦車隊はこれを強行突破。戦車に続いて、それまで通過阻止されていた兵士・避難民の大群がどっと挹江門から脱出。これ以前は、第36師が実力で阻止しており、門内には同士討ちによる死体の山ができていた(アメリカ大使館にいたスティール記者が目撃)。
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・10時過ぎ、長江沿岸は敗走兵・避難民の大群で、下関埠頭を中心に南(上流)は三汊河から北(下流)は煤炭港辺りまで、数kmにわたり埋めつくされる。
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長江の大惨劇
 下関で渡江できない事がわかった退却部隊約1万が、長江南岸を上流方向に進んだところを、上新河鎮で第6師団の騎兵連隊に遭遇して戦闘、約千名が殺され追い返される。城壁西側の湿地帯を通って南方へ退却しようとした潰走兵は、第6師団歩兵第45連隊に退路を遮断される。
長江を背に、南は南京城内を日本軍が追撃中、西の退路は遮断、東からは第16師団が進撃中で、追いつめられた群衆には、長江を渡る以外には日本軍の殺戮から逃れる道がなく、自殺的な渡江が始る。何千、何万という群衆が、長江の流れに身を乗り入れ、水に呑まれ、あるいは寒さで体力を使い果たし力尽きて沈んでいく。
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・上海派遣軍司令部、湯水鎮に移る。「十二月十二日 朝九・三〇出発湯水鎮軍司令部……に移る。」(「飯島守日記」)。
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・この日夜~13日朝、城内各部隊は数方向に突出を試みる。
脱出路を求めて右往左往する敗残兵と混戦
。多くが捕虜となる。
 水西門の北西に集結した第74軍(第51、58師)は長江沿いに南西進するが、日の出前、退路遮断のため北上してきた第6師団歩45連隊と衝突、激闘の後殆ど全滅、一部が雙閘鎮付近から渡江脱出。
第66軍(第159、160師)・第83軍(第154、156師)主力は、太平門から東方へ向かい、第16、9師団の間隙を縫って湯水鎮、句容方面へ脱出、途中で日本軍に痛撃され四散、師団参謀長2人と憲兵副司令が戦死、指定の寧国に辿り着いたのは僅かという。
第2軍団(第41、48師)は、烏龍山に迫る第13師団と、帰港中の日本海軍艦艇の眼前をすり抜けて13日朝7時までに舟で対岸に脱出。
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 この種の紛戦で最大のものは、13日午前0時~夜明け、仙鶴門付近で起きた集成騎兵隊(第3、9、101各騎兵連隊より集成)及び攻城重砲兵第2大隊と中国軍退却集団5千~1万の衝突。この中国軍は、12日夕方から太平門を経て東方へ脱出途中の第159師などで、突破退却が優先し、仲間の死体を乗り越えて東進したという。
「騎兵第三連隊史」の加藤正吉証言によると、夜明けに数えた中国兵の死体は3千余という(日本軍損害200人)。乱戦に生き残った中国兵は、翌日~翌々日、逃げ場を求めながら残敵掃蕩に出動した日本軍と衝突し、大部分が捕虜になったと推定される。
 その他、12日夜、湯水鎮の上海派遣軍司令部が敗残兵集団に襲撃され、衛兵が乱戦のすえ撃退。また、13日午前8時頃、紫金山麓の興街村の第16師団佐々木支隊司令部も敗残兵集団に襲撃される。
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満州重工業開発(持株会社)設立。鮎川義介の日本産業(日産)本社移転・社名変更。「満業」。
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 東京税務監督部長池田勇人が、満鉄附属地内なら日本の行政権が適用され、附属地内で日本法人として登記できると鮎川に教える。この日の設立後、満鉄附属地は清州国領土に編入される。
 予算膨張に対応する為、政府は馬場鍈一が蔵相時代に創出した増税を採択、蔵相が結城豊太郎から賀屋興宣となっても、税金を払った子会社から配当を受けた親会社はその配当に課税されるという「二重課税」は残る。この為、コンツェルンの方式をとる鮎川「日産」は17%の課税になっている。それが「満業」を出発させる事で、課税率は6%に低減、また6分配当が政府に保証され、配当制限なしの特典も付される。日産株は高騰。鮎川は、この状態を作ったのは、石原莞爾・青木一男・岸信介・星野直樹・賀屋興宣・柴山兼四郎・片倉衷・鈴木栄治・浅原健三・高橋柳太という。
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