2008年11月8日土曜日

治承4年4月、内乱の予兆。


写真:晴明神社(08/01/02撮影)
京都市上京区葭屋町通今出川下る西側
陰陽師安倍晴明(921~1005)の館がこの地にあったと云われるが、怪しげ。向いには一条戻り橋があり、舞台装置としては良いのだが・・・。観光客多し。





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(謹告)
以下の「治承4年4月」記は、項目(ラベル)名「頼朝」のもとに全面改定進行中です。
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治承4年4月、内乱の予兆       「未完の黙翁年表」より
治承4年4月
・平氏、高倉院を安芸の厳島神社に連れ出す。
源通親は供をして「高倉院厳島御幸記」(中世の紀行文の先駆け)を記す。
この高倉院の留守中に以仁王が挙兵。
・平頼盛、正ニ位に叙任。
・復活祭の頃、エルサレム王ボードワン4世、妹シビルのギー・ド・リュジニャンとの結婚承諾。
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5日 ・平清盛、厳島参詣から福原到着。9日、高倉上皇、西八条邸に帰京。
9日 ・【以仁王の令旨(りょうじ)】以仁王(後白河法王第2皇子)、最勝親王と称し平家追討を諸国源氏に下す。源頼政、以仁王を奉じ平家追討の宣旨を諸国の源氏に伝える。治承・寿永の内乱の始り。

[頼政の説得]
□「平家物語」巻4「源氏揃」(げんじそろえ):
源三位入道頼政、後白河院第2皇子以仁王(高倉の宮)に謀反を勧める。
「そのころ近衛河原に候ける源三位入道頼政、ある夜ひそかに此宮の御所にまいって、申しける事こそおそろしけれ。「君は天照大神四十八世の御末、神武天皇より七十八代にあたらせ給ふ。太子にもたち、位にもつかせ給ふべきに、三十まで宮にてわたらせ給ふ御事をば、心憂しとはおぼしめさずや。当世のていを見候に、うへには従いたるやうなれども、内々は平家をそねまぬものや候。御謀反おこさせ給ひて、平家をほろぼし、法皇のいつとなく(いつまでという限度なく)鳥羽殿におしこめられてわたらせ給ふ御心をも、休めまいらせ、君も位につかせ給ふべし。これ御孝行のいたりにてこそ候はんずれ。」「もしおぼしめし立たせ給ひて、令旨を下させ給ふものならば、悦びをなしてまひらむずる源氏どもこそおほう(多)候へ。」
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「京都には、伊賀守光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者光能(みつよし)、 熊野には、故六条判官為義の末子十郎義盛、摂津国には多田蔵人行綱の弟、多田二郎朝実、手島の冠者高頼、太田太郎頼基、河内国武蔵権守入道義基子息石河判官義兼、大和国宇野七朗親治の子ども太郎有治(ありはる)二郎清治、三郎成治、四郎義治、近江国山本、柏木、錦古里(にしきごり)、美濃・尾張山田次郎重広、河辺太郎重直、泉太郎重光、浦野四郎重遠、安食(あじきの)次郎重頼、その子太郎重資、木太三郎重長、開田判官代重国、矢島先生重高、その子太郎重行、甲斐国逸美冠者義清、その子太郎清光、武田太郎信義、加賀見次郎遠光、同じく小次郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、逸見兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎義定、信濃国大内太郎維義、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、その子四郎義信、木曾冠者義仲、伊豆国流人の前右兵衛佐頼朝、常陸国信太三郎先生義憲、佐竹冠者正義、その子太郎忠義、同じく三郎義宗、四郎高義、五郎義季、陸奥国故左馬頭義朝の末子九朗冠者義経。」 以仁王は暫く承知しなかったが、小納言伊長(これなが)という人相見が、高倉宮の人相を拝見し「即位なさる相がある。」と言ったので承知し、令旨を下す。熊野別当湛増は、どうして漏れ聞いたか平氏に伝えようとする。源平は3日間戦う。
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□「入道源三位頼政卿、平相国禅門(清盛)を討滅すべき由、日者用意の事有り。然れども私の計略を以て、太だ宿意を遂げ難きに依って、今日[夜に入り、子息伊豆の守仲綱等を相具し、密かに一院第二宮の]三條高倉の御所に参る。前の右兵衛の佐頼朝已下の源氏等を催し、彼の氏族を討ち、天下を執らしめ給うべきの由これを申し行う。仍って散位宗信に仰せ、令旨を下さる。而るに陸奥の十郎義盛(廷尉為義末子)折節在京するの間、この令旨を帯し東国に向かう。先ず前の兵衛の佐に相触るの後、その外の源氏等に伝うべきの趣、仰せ含めらるる所なり。義盛八條院の蔵人に補す(名字を行家と改む)。」(「吾妻鏡」)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「四月小 九日、辛卯。入道源三位頼政卿は、平相国禅門清盛を討ち滅ぼそうと兼ねてから準備していた。しかし、自分ひとりの力ではとても前々からの願いを遂げることは難しいので、この日、子息伊豆守仲綱を伴い、一院(後白河)の第二皇子である以仁王がお住まいの、三条高倉の御所に密かに参上した。「前右兵衛佐(源)頼朝をはじめとする源氏に呼びかけて平氏一族を討ち、天下をお執りになってほしい。」と申し述べると、(以仁王は)散位(藤原)宗信に命じて令旨を下された。そこで、廷尉(源)為義の末子である陸奥十郎義盛が折しも在京していたので、「この令旨を携えて東国に向かい、まず頼朝にこれを見せた後、そのはかの源氏にも伝えるように。」とよくよく仰せられた。義盛は八条院の蔵人に任ぜられ、名乗を行家と改めた。」
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[行家]
□令旨伝達を任されるのは、熊野・新宮に隠れ住む故源為義の10男(末子)源義盛。
源義朝・義賢(よしかた)・義憲・為朝の弟、頼朝・義経・義仲の叔父。八条院の蔵人になり行家と改名。
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八条院は鳥羽天皇と美福門院得子の皇女、後白河法皇の妹。父母から全国数百ヶ所の荘園を受け継ぎ、巨万の富を有する。
以仁王を猶子(兄弟の子を養子)とし、以仁王の挙兵に賛同。新宮十郎義盛(行家)を自身の蔵人(近習)とし、全国各地の荘園への使いを名目として、行家を令旨伝達の使者に立てる。
「東海、東山、北陸三道ノ諸国源氏、ナラビニ、群兵等ノ所ニ下ス。清盛法師、ナラビニ、従類叛逆ノ輩ヲ早々追討シテ応フベキ事」。儒教・仏教思想を踏まえ、平氏に担われた朝廷政治体制を批判し、政治の正当性を問う思想性豊な文章。
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「三位入道(頼政)申けるは、令旨の御使をつとめ候はんには、無官にてはその恐れあるべしと申せば、然るべしとて当座に蔵人になされけり。十郎蔵人は義盛を改名して行家と名乗る。(『源平盛衰記』巻13「行家使節の事」)

10日、源行家、令旨を持って京を出発(近江源氏→美濃源氏→尾張源氏→伊豆の源頼朝→常陸の志太先生(せんじょう)義広→甲斐源氏→木曽の源義仲(5月初))。
伊豆への途中、熊野新宮に寄り令旨の件を伝えるが、対立関係の熊野本宮に知られ、平家へ伝わる。

□以仁王の令旨、義仲にも届く。
義仲は木曽周辺の軍勢を纏め、旗挙げ。平氏に味方する豪族を討ちつつ、新たな本拠地・依田城(長野県丸子町)に移り、軍事的後見役・根々井行親の勢力圏内の武将達を従える。また、義仲は父の領地にも兵を求め、従う軍勢は長野県から群馬県北部に及ぶ。
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以仁王・源頼政らの平氏追討挙兵後、反乱(治承・寿永の内乱)は全国に広がる。
内乱は源平或は平氏・反平氏の覇権争いに止まらず、平氏に代表される国守・荘園領主勢力と在庁官人・郡郷司・下司ら在地領主層を先頭とする国衙・荘園の住人との対立、或は、支配階級の集住地京都と収奪の対象の地方農漁山村の抗争を底流に含む。

[以仁王]
○以仁王:後白河院の第2皇子。三条高倉に住んだので高倉宮・三条宮とも称す。「王」「王女」は「親王」「内親王」の宣旨を受けられない皇子・皇女の称号。
異母兄弟は天皇(兄は二条天皇、弟は高倉天皇)。
白河・鳥羽・後白河の血の半分は閑院流で、以仁王はいとこ同士の父母による息子。父は後白河、母・閑院流藤原成子(高倉三位局)は後白河の母・待賢門院の姪。後白河の最初の皇子は二条(1143生)、次が守覚法親王(法親王は、出家した親王)、3番目が以仁王(1151生)。守覚と以仁王は同母で、女流歌人式子内親王も同母。
異母弟の高倉(1161生)は以仁王よりも10歳年下で、8歳で即位。「平家物語」巻第4は、露骨に、平家派閥の代表・建春門院滋子の圧力で以仁王が不遇をかこつことになったと述べる。
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 「その頃一院(後白河)第二の皇子(出家した守覚法親王は数えない)以仁の王と申ししは、おん母加賀大納言季成卿のおん娘なり。三条高倉にましましければ、高倉の宮とぞ申しける。去じ永万元年(1165)十二月十六日、御年十五にて、忍びつつ近衛河原の大宮の御所にて御元服ありけり。御手跡うつくしうあそばし、御才学すぐれて在しましければ、位にもつかせ給ふべきに、故建春門院の御そねみにて、おし籠められさせ給ひつつ、花のもとの春の遊には、紫毫をふるって手づから御作をかき、月の前の秋の宴には、玉笛をふいて身づから雅音をあやつり給ふ。かくしてあかしくらし給ふほどに、治承四年には、御年三十にぞならせ在しましける。」(「平家物語」巻第4「源氏揃」)。
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 後白河と成子(高倉三位)の間には男2女4の子が生まれ、男(守覚と以仁)は幼少期から出家の道に進み、守覚法親王は第6代御室(仁和寺の最高位)となっている。女4人のいずれもが齋宮となり内親王となっている。長姉・亮子は安徳准母として殷富門院の院号を授けられている。つまり、以仁を除く全員が親王宣旨を受けている。

[八条院]
▽キー・パーソン八条院暲子(あきらこ、1136保延2~1211建暦元):
鳥羽-美福門院の3女として保延3(1137)年生。久寿2(1155)年、同母弟近衛が没し、翌年に父・鳥羽院が没し、保元の乱。翌保元2(1157)年、彼女自身も出家。鳥羽上皇と美福門院の膨大な遺産(荘園)が全て八条院が相続(「八条院領」)。
この膨大な院領と鳥羽院政直系という血筋により、八条院暲子は平安末~鎌倉初めの政治情勢に深い影響を与える。
乱は八衆院を舞台に起こる。以仁王は八条院の養子、頼政は八条院に仕え、令旨は八条院の蔵人に任じられた源行家により東国の源氏のもとに伝えられる(定家も八条院に仕える)。後白河から高倉・安徳と続く皇統に対して、八条院はそれに外れた皇統の庇護者となっている。
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 八条院は、未婚で実子はないが、1161年(25歳)、二条天皇の准母となって院号をもらい、次いで以仁王を猶子にする。二条帝・以仁王は、八条院の甥。八条院は実子を持たないが、自分と同系血筋で才能のありそうな者を猶子としていったと考えられる。
八条院の「三条の局」に以仁王が生ませた男女の若宮があり、男は出家させられ後に「安井の宮道尊」として名僧となる。女は「三条の姫宮」といわれ八条院の養女となる。
1186年(50歳)、九条兼実の子・良輔を猶子とする。
1196年(60歳)、女院が重態となった時、財産の大部分を三条姫宮に、残りを九条良輔へ譲る。結局、女院は長らえ、1204年三条姫君が夭折し、遺産は再び女院に戻る。
後鳥羽天皇の昇子内親王を養女とし、最後はこの内親王が八条院領を継ぐ。八条院の猶子になっていることから、以仁王が八条院のメガネにかなった優れた人物である事が傍証できる。また、以仁王は女院の女房・三条の局に二人も子をつくるほど親しく通っており、この叔母-甥は親しい付き合いであったと考えられる。
八条院は更にその子・三条姫宮を養女にし、膨大な遺産が後白河-閑院流の系統へ流れて行くべく工夫を凝らしている。
女院は、頼政-以仁王の謀叛の財政的黒幕の位置にあり、謀叛の計画の一部始終を承知していたと考えられる。八条院暲子は建暦元年(1211)75歳で没。

[頼政]
○頼政(1104長治元~80治承4):
源仲政の嫡男。母は勘解由次官藤原友実の娘。白河院判官代・蔵人、久寿2年兵庫頭、嘉応2年右京権大夫。治承2年12月24日、清盛の申請により従三位、翌3年11月出家。
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①叛乱時点で77歳と極めて高齢。ちなみに、清盛63歳、後白河上皇54歳、俊成62歳、兼実32歳、慈円26歳、定家19歳。
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②「当代の一流」歌人としての頼政。
鴨長明「無名抄」における俊恵(1113~?)・藤原俊成(1114~1204)の頼政評。
「俊恵は当世の上手なり。されど(父の)俊頼にはなほ及び難し。俊頼は思ひ至らぬくまなく、一方なく(偏りなく)よめるが、(俊惠が俊頼に)力及ばぬなり。今の世には、頼政こそいみじき上手なれ。かれだに座にあれば目のかけられて(注目が集まり)、事一つせられぬ(素晴らしいことを一つ、されてしまいそうだ)と覚ゆるなり。(「俊成入道物語事」より) 。
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源俊頼(1055?~1129)は俊恵の父。頼政は俊恵、俊成らの10歳年長。鴨長明(1153?~1216)は俊恵の弟子。
俊成は、俊頼の頃からの歌人たちを振り返ってみて頼政を「いみじき上手」と高く評価。
俊恵の頼政評は、「頼政卿はいみじかりし歌仙なり。心の底まで歌になりかへりて(なりきって)、常にこれを忘れず心にかけつつ、鳥の一声鳴き、風のそゝと吹くにも、まして花の散り、葉の落ち、月の出で入り、雨・雪などの降るにつけても、立ち居起き臥しに、風情をめぐらさずといふ事なし。真に秀歌の出で来る(ことも)、理とぞ覚え侍りし。かかれば、しかるべき時(派な歌会などの際)名を上げたる歌は、多くは擬作(予め作っておいた歌)にてありけるとかや。大方、会の座に連なりて歌うち詠じ、よきあしき理(ことわり、判定)などせられたる気色も、深く心に入りたることと見えていみじかりし。かの人のある座には、なに事もはえあるように侍りしなり。(「頼政歌の道にすける事」より)。
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③源氏の武士(摂津源氏=頼光に始まる中央政界・宮廷に進出を計った「中央派」)としての頼政。
53歳の時、平治の乱1159では戦線離脱し清盛に貸しを作る(悪源太義平に裏切りをなじられる「平治物語』」)。
74歳、安元3年(1177)4月13日山門僧をうまくあしらう(「平家物語」巻1「御輿振みこしぶり」)。
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 「従三位頼政卿集」に、贈答歌の詞書(ことばがき)の大意に、「長年住んでいた自宅を大宮(多子、たし)の御所として召し上げられ、それまでの御所を自宅に替えるというのがある。また、大宮・多子の女官で有名な女流歌人小侍従(待宵の小侍従)と頼政との贈答歌も多く、「恋のやまひ」という語の入る和歌を詠みあっている。この時、頼政が60歳頃、小侍従40代。
多子は徳大寺公能の娘、兄は藤原実定(左大臣(1189文治5~90文治6))。祖父実能(さねよし)は徳大寺左大臣と称され、『平家物語』巻2「徳大寺之沙汰」で左近衛大将を望んで厳島参詣をする話が有名。弟の実家は、私家集「実家集」を持つ人物で、久安元年(1145)生まれ。母愛子は藤原俊成の妹。俊成と親忠女・美福門院加賀との子が定家。美福門院加賀は俊成と再婚する前に隆信を生み、俊成は隆信を養子とする。隆信は定家の20歳上。

[その他登場人物]
○仲綱(1126大治元~80治承4):
頼政の嫡男。母は源斉頼の娘。蔵人・隠岐守を経て、伊豆守。
○以仁王(1151仁平元~80治承4):
後白河天皇の第二皇子。母は大納言藤原季成の娘成子。親王宣下を得られないまま、天台座主最雲に預けられるが、出家はせず、大宮御所で元服したという。
○宗信(生没年未詳):
藤原北家末茂流。宗保の男。『延慶本平家物語』によれば、以仁王の乳母子であるという。「佐大夫」と称す。「散位」は、位階はあるが任官していない者。
○為義(?~1156保元元):
源義親の男。左衛門少尉に任ぜられ、久安2年正月26日、大尉に転じて検非違使兼官の宣旨を受ける。同6年、従五位下に叙せられるが、検非違使・左衛門大尉の官には留まる(叙留)。久寿元年、子息為朝が鎮西において濫行を行ったことにより解官される。為義は、藤原忠実・頼長に仕えていたことから、保元の乱が起こると崇徳・頼長側の軍事力の中心となる。戦に放れて出家、保元元年3月10日、長子義朝に斬られる。「廷尉」は、検非違使を兼ねる衛門尉の唐名。
○義盛(?~1186文治2):
源為義の十男。新宮十郎と称す。以仁王謀叛に際し、八条院蔵人に補せられ、実名を行家と改める。○八条院(1136保延2~1211建暦元):
時子内親王。白河天皇の第三皇女。母は藤原長実の娘得子(美福門院)。保延4年に内親王、久安2年准三后。保元2年落飾し、応保元年院号宣下を受ける。以仁王の叔母で、王の子女の養育にも当る。
○熊野別当湛増:
熊野の田辺(和歌山県田辺市)在、熊野3山の統括者、源為義の娘で行家の姉鶴田原(たつたはら)の女房の娘を妻とし、従って湛増にとり、行家は叔父で頼朝・義経や義仲とは従兄弟にあたるが、親平家の立場をとる。湛増の父の第18代熊野別当・湛快が拠点を新宮から田辺に移して以来、熊野別当家は新宮家と田辺家に別れ、新宮家(本家)は源氏寄り、田辺家(分家)湛増は新宮家に対抗する為か、妹を平忠度(清盛の弟)の妻とするなどして平家に近付く。湛増の支配は自拠点田辺と熊野3山中の田辺に近い本宮で、新宮・那智は源氏に近い。
湛増は、田辺勢を率い本宮勢と共に新宮・那智に攻め込む。新宮には鳥井の法眼(第19代熊野別当行範の子、行全)、高坊の法眼(行範の子、行快(行全の兄))、侍には宇井・鈴木・水屋・亀の甲、那智には執行法眼(行範の子、範誉。行快・行全の兄)以下、1500余が迎撃。3日ほど戦い、湛増は、家の子・郎等の多くを討たれ、自らも負傷し本宮へ撤退。


13日 ・ゲルンハウゼンの帝国会議(フランクフルト近郊)。フルードリッヒ1世、ハインリッヒ獅子公の旧領ザクセン大公領を没収し、アンハンルト伯ベルンハルトらに分与。

22日 ・安徳天皇、即位。
27日 ・頼朝の叔父行家、以仁王の平家追討令旨を伊豆の北条館にもたらす。その足で甲斐・信濃に向かう。

[「吾妻鏡」では初めてここで令旨の中味が出てくる]
□「廿七日 ・・・ 高倉宮(以仁王)の令旨、今日さきの武衛[頼朝]将軍の伊豆国の北条の館に到着す。八条院の蔵人行家持ち来たるところなり。武衛水干を装束き(しょうぞき)、まず男山の方を遙拝したてまつるの後、謹みてこれを披閲せしめたまふ。侍中(行家)は甲斐・信濃両国の源氏等に相触れんがために、すなわちかの国に下向す。」(「吾妻鏡」同日条)。
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「下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏、ならびに群兵らの所、 まさに早く清盛法師ならびに従類叛逆のともがらを追討すべき事  右、前の伊豆守上五位下源朝臣仲綱宣す、  最勝王の勅を奉るにいはく、清盛法師ならび宗盛ら、威勢をもって凶徒を起こし、国家を亡ぼし、百官万民を悩乱し、五畿七道を虜掠す。皇院を幽閉し、公臣を流罪し、命を断ち、身を流し、淵に沈め、楼に込め、財を盗み、国を領し、官を奪い、職を授け、功無きに賞を許し、罪にあらざるにとがに配す。あるいは諸寺の高僧を召しとり、修学の僧徒を禁獄し、あるいは叡岳の絹米を給下し、謀叛の粮食に相具す。百王の跡を断ち、一人の頭を切り、帝皇に違逆し、仏法を破滅すること、古代に絶するものなり。時に天地ことごとく悲しみ、臣民皆愁ふ。よって吾は一院の第二皇子として、天武皇帝の旧儀を尋ねて、王位をおし取るの輩を追討し、上宮太子の古跡を訪ひて、仏法破滅の類を打ち亡ぼさんとす。ただに人力の構へを憑むのみにあらず、ひとへに天道のたすけを仰ぐところなり。これによつて、もし帝王・三宝・神明の冥感あらば、なんぞたちまちに四岳合力の志なからんや。しかればすなはち、源家の人、藤氏の人、兼ねては三道諸国の間、勇士に耐へたるものは、同じく与力して追討せしめよ。もし同心せざるにおいては、清盛法師が徒類になぞらへ、死流追禁(しるついきん)の罪過に行ふべし。もし勝功ある者においては、まず諸国の使節に預らしめ、御即位の後、必ず乞ふに従ひて勧賞[けんじょう]を賜ふべきなり。諸国よろしく承知し、宣に依ってこれを行ふべし。 治承四年四月九日  前伊豆守正五位下源朝臣(仲綱)」(「吾妻鏡」同日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「二十七日、壬申。高倉宮(以仁王)の令旨が、今日、前武衛(源頼朝)のいる伊豆国の北条館に到着した。八条院蔵人の行家が持ってきたものである。頼朝は水干に改め、まず男山の方を遥拝した後に謹んで令旨を開いて見られた。侍中(行家)は、甲斐・信濃の源氏に触れるため、すぐにその国へと向かった。頼朝は、前石衛門督(藤原)信頼に縁坐し、永暦元年三月十一日に伊豆国へと流されて以来、嘆きつつ二十年の歳月を送り、愁えながら三十二歳あまりとなっていた。しかしここ数年、平相国禅門(清盛)が自分勝手に天下を管領し、院の近臣を罰しただけでなく、上皇を鳥羽の離宮に幽閉し奉るなど、上皇のお怒りは誠に深いものであった。まさにそのような時に、この令旨が到来した。そこで頼朝は、平氏討減のための義兵を挙げようと考えた。これは、まさに「天の与えるものを取り、時が来たら行う。」という謂のとおりである。上総介平直方朝臣の五代の孫にあたる北条四郎時政主は、伊豆国の豪傑であり、頼朝を聟として以来、常に無二の忠節を頼朝に示していた。そこで頼朝は、真っ先に時政を呼んで令旨を開いて見せられた。
下命する 東海東山北陸三道諸国源氏ならびに群兵等の所に。早く、清盛法師およびその従頬たち謀反の輩を追討すべきこと。右のことは、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱が命ずる。「最勝王(以仁王)の勅命を承った。清盛法師と宗盛らは、権勢に任せて凶徒に命じて国を滅ぼし、百官万民を悩ませ、五畿七道の国々を不当に支配し、上皇を幽閉し、廷臣を流罪に処して、命を断ったりその身を流し淵に沈めたり幽閉するなどして、財物を掠め取り回を領有し、官職を奪い与え、功の無いものを賞し、罪の無いものを罰している。諸寺の高僧を拘禁して学僧を獄に下し、また比叡山に絹や米を下して謀叛の際の兵糧米としている。百王の継承を断ち、摂関を抑え、天皇・上皇に逆らい、仏法を滅ぼすとは、前代未聞のことである。そのため、天地は皆悲しみ、民は皆愁えている。そこで私は、一院(後白河)の第二皇子として、天武天皇の昔にならって王位を奪うものを追討し、上官太子(聖徳太子)の先例にしたがい、仏法を滅ぼすものを打ち滅ぼそうと思う。ただ人力による用意のみを頼みとせず、ひたすら天道の助けを仰ぐものである。もし三宝と神明の思し召しがあれば、どうしてすぐにも全国の合力を得られぬことがあろうか。そこで、源氏の者、藤原氏の者や、前々より三道諸国に勇士として名高い者は、追討に協力せよ。もし同心しなければ、清盛に従う者に准じて死罪・流罪・追討・拘禁の刑罰を行う。もし特に功績のあった者は、まずは諸国の使節に伝えおき、御即位の後に必ず望み通りの褒賞を与える」。諸国は、よく承り、この命令どおりに実行せよ。 治承四年四月九日 前伊豆守正五位下源朝臣(仲綱)」

[宣旨の意義]
□宣旨の意義。
「東海・東山・北陸三道諸国の源氏ならびに群兵等」に宛てて、「右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣す、最勝王の勅を奉はるに稱(いわ)く」と、
①国家護持の経典「金光明最勝王経」にちなみ、仏敵平家への諌筆をそこに仮託させ、自ら「最勝王」と名乗り、
②自己を王位継承者と想定し、令達を「勅」と表現する。本文のポイントは、「一院」第二皇子として、天武天皇の「旧儀」に基づき、王位を推し取る輩を追討する、「上宮太子」(聖徳太子)の例にならい、仏法の破滅者を討滅する、即位の後には、必ず賞賜すると示す。平家の罪状は王位奪取(後白河院幽閉、高倉天皇退位・安徳天皇即位)という叛逆と仏法破壊をあげ、自己の行為を壬申の乱における天武天皇の旧儀になぞらえ革命の正当化を行う。

[これに呼応する東国源氏勢力の2つの方向]
 ①頼朝を中心とする立場。以仁王を旗頭に推戴し、令旨それ自体を行為の源泉とするもの。平氏中心の京都の王権とは別個の立場を堅持し、例えば、「治承」の年号を用い続け、反乱勢力としての自己を主張する頼朝の意識。裏返せば、頼朝の治承年号の放棄は、京都の王朝勢力との新たな関係創出、反乱軍からの脱却、王朝再建路線への方向の明確化、以仁王の「革命」路線の放棄を意味する。
②義仲のように最後まで以仁王の路線を堅持する勢力。義仲入京後、以仁王遺子北陸宮を定位に推す。

[黒幕は・・・?]
 挙兵には、寺院勢力との連携も窺え、また、唐突なものでもなかったことが窺える。九条兼実は、令旨は「状の体を見るに偏へに山寺の法師の所業なり」(「玉葉」養和元年9月7日状)とする

[この条の登場人物]
○信頼(1131天承元~59平治元)。藤原北家道隆流。忠隆の4男。保元3年、正三位・権中納言、右衛門督を兼ねる。後白河の近臣。同じ近臣藤原通憲(信西)と対立、源義朝と共に挙兵、平清盛軍に敗れ、六条河原で誅せられる(平治の乱)。
○「永暦元年三月十一日」。この日、前権大納言藤原経宗が阿波に、前権中納言源師仲が下野に、前参議藤原維方が長門に配流。
○「鳥羽の離宮に幽閉」:前年の治承3年6月、後白河は故藤原基実の遺領で清盛娘盛子が相続する庄園を没収、7月、清盛孫維盛の知行国越前を収公。11月、基実の子で清盛が中納言に推挙していた基通を超えて、藤原師家を中納言に任じる。この一連の処置を契機に後白河と清盛の対立が強まり、11月、福原より京に戻った清盛は院近臣を解官し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、後白河院政を停止。○「謂」:『史記』推陰侯伝に「天、与うるに取らざれば、反って其の咎を受く。時、至りて行わざれば、反って其の殃を受く。」とある。
○直方(生没年未詳)。平維時の男。摂関家に仕え、平忠常の乱の際、追討使に任ぜられるが、降伏させることができないまま、源頼信に替えられる。源頼義を娘婿に迎え鎌倉を譲る。
○最勝王:以仁王をさす。信仰する者は諸天の加護を得ることができるという護国の経典『金光明最勝王経』への信仰から、最勝王と称す。


28日 ・フィリップ2世(14)、エノー伯娘イザベル(フランドル伯相続権者、カロリング王家の血筋)と結婚。カペー家とカロリング家の合体。

29日 ・京都につむじ風。

                 (長明、定家、兼実の捉え方の違いが面白い)

□「又、治承四年卯月のころ、中御門京極のほどより大きなる辻風おこりて、六条わたりまで吹ける事侍りき。三四町を吹きまくる間に、こもれる家ども、大きなるも小さきも一つとして破れざるはなし。さながら平に倒れたるもあり、桁・柱ばかり残れるもあり。門を吹きはなちて四五町がほかにおき、又垣を吹きはらひて隣とひとつになせり。いはむや、家のうちの資財、数をつくして空にあり。桧皮・葺板のたぐひ*、冬の木の葉の風に乱るるが如し。塵を煙の如く吹たてたれば、すべて目も見えず。おびたゝしく鳴りどよむほどに、もの言ふ声も聞えず。彼地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる。・・・辻風は常に吹くものなれど、かゝる事やある、たゞ事にあらず、さるべきもののさとしか、などぞ疑ひ侍りし」」(鴨長明(26)「方丈記」)。
 
□「四月廿九日。天晴ル。未ノ時許り雹降ル。雷鳴先ヅ両三声ノ後、霹靂猛烈。北方ニ煙立チ揚ル。人焼亡ヲ称フ。是レ飄ナリ。京中騒動スト云々。木ヲ抜キ沙石ヲ揚ゲ、人家門戸幷ニ車等皆吹キ上グト云々。古老云ク、末ダ此ノ如キ事ヲ聞カズト。前斎宮四条殿、殊ニ以テ其ノ最トナス。北壷ノ梅樹、根ヲ露ハシ朴ル。件ノ樹、簷ニ懸リテ破壊ス。権右中弁二条京極ノ家、又此ノ如シト云々。」(藤原定家(19)「明月記」)。
 
□「廻飄忽チ起り、屋ヲ発シ木ヲ折ル、人家多ク以テ吹キ損ズ」(「玉葉」)。
 
□「平家物語」巻3「飄」(つじかぜ):正午頃、京の内に辻風が激しく吹き、人家が多く倒れる。「平家」では前年5月12日のことと記載される。

to be continued to 治承4年5月

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