2008年12月15日月曜日

昭和12(1937)年12月15日 南京(7) 第16師団単独南京入城式強行 幕府山事件

12月15日
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第16師団(中島今朝吾)独自の南京入城式、中山門で実施。
国民政府庁舎に進駐し、師団司令部を置く、以降40日間城内駐留。方面軍の入城に関する「注意事項」は無視される。功名をあせる中支那方面軍司令部への面当ての側面もある。
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「入城式の件、予は中山門よりの入城を肯んぜず。その功名を争う奴隷あり、これ等とともに行動するを恥辱とすればなり」と嫌悪感を表す(中島師団長の14日の日記)。
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第16師団が中支那方面軍司令部から無理な南京進撃を強いられ、多くの犠牲を出して漸く南京を陥落させると、今度はその栄誉を彼らが独占し誇示しようとしたことへ反発。
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「十二月十五日 一、各隊は事後処理の任務遂行に差支なき範囲に於て代表部隊を堵列せり師団司令部各部隊長培(賠)従の上午後一時三十分中山門より入城し 国民政府庁舎を師団司令部に充当しありたれば同庁舎に入り国旗を掲揚し各部隊長及将校の参列の上大元帥陛下の万歳を三唱し・・・」(「中島日記」)。
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この頃の治安の悪さ。
「中島日記」(19日付)によると、朝、管理部が先遣され配宿計画をたで、師団司令部の表札を掲げてあるにも関わらず、他部隊の将校・兵士が入り込み家具・陳列物を盗む。残ったものを戸棚に入れ封印したが、これも殆ど盗まれる。宿舎の中央飯店も同様で、師団長宿舎に予定している軍官学校長官舎も、内山旅団(野戦重砲兵第5旅団)の兵に徹底的に荒され、自動車も盗まれたという。中島は怒るが、中島自身も蒋の私物(巻物、絨毯、絵画など32点)を持ち出し、京都の偕行社に送り、後に問題となる。
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・この日付け第9師団歩兵第7連隊第2中隊井上又一上等兵の日記。
「(15日)午前八時整列して宿営地を変更の為中山路を行く。日本領事館の横をとって外国人の居住地たる国際避難地区の一体の残敵掃討である。・・・四拾余名の敗残兵を突殺してしまふ。・・・此の日記を書いていると人の部屋で盛んに歌う、手を叩く盛んにやっている。 」
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・ダーディン記者ら4人の外国人記者、南京去る。
ダーディンの第一報は17日上海より。上海に残る外国人は、難民区委員会関係者など22人。
彼らは、南京攻略戦下の南京に留まり取材活動を続けていたが、無線記事送信に利用していたアメリカ砲艦「バナイ号」が撃沈され、また日本軍占領下ではもはや記事送信手段がないことから、「バナイ号」生存者を乗せた米艦「オアフ号」が下関埠頭に寄った際に乗船、南京から上海に向かう。
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この時、ダーディン記者は、「敗残兵狩り」「便衣兵狩り」で集められ、連行されてきた軍民の処刑場面を目撃。
F・ティルマン・ダーディン。
「捕虜の集団処刑は、日本軍が南京にもたらした恐怖をさらに助長した。武器を捨て、降伏した中国兵を殺してからは、日本軍は市内を回り、もと兵士であったと思われる市民の服に身を隠した男性を捜し出した。安全区の中のある建物からは、四〇〇人の男性が逮捕された。彼らは五〇人ずつ数珠繋ぎに縛りあげられ、小銃兵や機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場に連行されて行った。上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで二〇〇人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は一〇分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひくと動くものがあれば弾を打ち込んだ。この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、明らかにこの見世物を大いに楽しんでいた。」(「ニューヨークタイムズ」1937年12月18日)。
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A・T・ステイール。
「<南京(米艦オアフ号より)十二月十五日> 南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、"地獄の四日間″ということになろう。首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オアフ号に乗船したところである。南京を離れるとき、われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。」(「シカゴ・デイリー・ニュース」1937年12月15日)。
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ロイター通信スミス記者の講演。
「一二月一五日、外国の記者団は、日本軍艦に乗って南京から上海へ移動する許可を日本軍より得た。その後、英国軍艦が同じ航路をとることになった。われわれは、桟橋付近に集合せよとの指示を受けた。出発までに予想以上に時間がかかったので、われわれは調査をかねて少しあたりを歩くことにした。そこでわれわれが見たものは、日本軍が広場で一千人の中国人を縛り上げ、立たせている光景だった。そのなかから順次、小集団が引きたてられ、銃殺された。脆かせ、後頭部を撃ち抜くのである。出発までに予想以上に時間がかかったので、われわれは調査をかねて少しあたりを歩くことにした。そこでわれわれが見たものは、日本軍が広場で一千人の中国人を縛り上げ、立たせている光景だった。そのなかから順次、小集団が引きたてられ、銃殺された。脆かせ、後頭部を撃ち抜くのである。その場を指揮していた日本人将校がわれわれに気づくと、すぐに立ち去るように命じた。それまでに、われわれはこのやり方での処刑を百回ほど観察した。他の中国人がどうなったのかはわからない。」。
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・中支那方面軍司令部の意を受け塚田参謀長、湯水(山)鎮にある上海派遣軍司令部を訪れ、入城式を17日に行う旨再度通告。
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・午後3時、松井大将、句容飛行場に飛来し、自動車で湯水鎮(南京東30km)に移動。12月5日~15日、蘇州(南京220km東)の司令部に病臥・滞留。南京占領直後に必要な状況把握に基づく統制指揮ができる状況にはない。
「十二月十五日 四・〇〇頃松井方面軍司令官湯水鎮着、殿下に代り報告に行く。」(「飯島守日記」)。
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・夕方、飯沼上海派遣軍参謀長、方面軍司令部に入城式延期要請。拒否。
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・この日付け中支那方面軍命令により、第10軍(柳川平助)は杭州攻略など新任務につくことになる。19日、湖州に移る。第114師団は、17日頃から逐次城外へ移駐、第6師団は、16日以降逐次、蕪湖へ移る。
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・この日付け第6師団(谷寿夫中将)歩兵第36旅団(牛島満少将)歩兵第45連隊(竹下義晴大佐、鹿児島)第7中隊小隊長前田吉彦少尉の「日記」。
「十二年十二月十五日 江東門から水西門(城門)に向かい約二粁石畳の上を踏んで行く途中この舗石の各所に凄惨な碧血の溜まりがが散見された。
・・・後日聞いたところによると十四日午後第三大隊の捕虜100名を護送して水西門に折内地から到着した第二回補充兵(福島准尉溜准尉等が引率し、大体大正11年から昭和4年前佐道の後尾兵即ち三七八歳から二八九歳の兵)がたまたま居合わせ好都合と許り護送の任を彼らに委ねたのだと云う。
・・・原因はほんの僅かなことだったに違いない、道が狭いので両側を剣付鉄砲で同行していた日本兵が押されて水たまりに落ちるか滑るかしたらしい。腹立ちまぎれに怒鳴るか叩くかしたことに決まっている。押された捕虜がドっと片っ方による。またもやそこに居た警戒兵を跳ねとばす。兵は凶器なりという訳だ、びくびくしている上で何しろ剣付き鉄砲を持っているんで「こん畜生ッ」と叩くかこれまた突くかしたのだね。パニック(恐慌)が怒って捕虜は逃げ出す。「こりゃいかん」発砲する「捕虜は逃がすな」「逃ぐるのは殺せ」と云う事になったに違いない。僅かの誤解で大惨事を惹起したのだという。第三大隊小原少佐は激怒したがもはや後のまつり、折角投降してきた丸腰の捕虜の頭上に加えた暴行は何とも弁解出来ない、ことだった。かかること即ち皇軍の面目を失墜する失態といわねばならない。この惨状を隠蔽するために彼ら補充兵は終夜使役されて今朝ようやく埋葬を終わったる由。・・・」
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・第13師団(仙台)山田支隊(山田栴二少将)へ上海派遣軍司令部より捕虜処刑指示。16~17日殺戮、合計2万幕府山事件
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支隊長山田栴二少将の日記。
「(一二月一五日)捕虜の仕末その他にて本間騎兵少尉を南京に派遣し連絡す。皆殺せとのことなり。各隊食糧なく困却す。」。また、捕虜の数は増加。14日に収容した1万4777名に加え、15日にも「今日一日捕虜多くきたり、いそがしい」(「荒海清衛陣中日記」)とあり、総数凡そ2万となる。
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誰が指示したか:上海派遣軍兼中支那方面軍情報参謀長勇中佐。
証言①松井大将専属副官角良晴少佐「偕行」 シリーズ⑭(昭和60年3月号)。
大要「十二月十八日朝、第六師団から軍の情報課に電話。『下関に支那人約十二、三万人居るがどうしますか」 情報課長長中佐は極めて簡単に『ヤツチマエ』と命令したが、私は事の重大性を思い松井司令官に報告した。松井は直ちに長中佐を呼んで、強く『解放』を命ぜられたので、長中佐は『解りました』と返事をした。ところが約一時間ぐらい経って再び問い合せがあり、長は再び『ヤッチマエ』と命じた」。
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証言②昭和13年春、長が田中隆吉に語った「告白」。
「鎮江付近に進出すると・・・退路を絶たれた約三十万の中国兵が武器を捨てて我軍に投じた・・・(自分は)何人にも無断で隷下の各部隊に対し、これ等の捕虜をみな殺しにすべしとの命令を発した。自分はこの命令を軍司令官の名を利用して無線電話に依り伝達した。命令の原文は直ちに焼却した。この命令の結果、大量の虐殺が行われた。然し中には逃亡するものもあってみな殺しと言う訳には行かなかった」(田中隆吉「裁かれる歴史」)。
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上海派遣軍参謀長飯沼守少将の日記。
「十二月十五日 霧深し 快晴 山田支隊の俘虜東部上元門付近に一万五、六千あり 尚増加の見込と、依て取り敢へす16Dに接収せしむ。」(「飯沼守日記」)。
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13師団(荻洲立兵中将)山田支隊(歩兵第104旅団、山田栴二少将)歩兵第65連隊(両角業作大佐)本部通信班(有線分隊長)・編成 伍長堀越文男「陣中日記」。
「十二月十五日 午前九時朝食、十時頃より×××伍長と二人して徴撥(発)に出かける、何もなし、唐詩三百首、一冊を得てかへる、すでに五時なり。揚子江岸に捕虜の銃殺を見る、三四十名づつ一度に行ふものなり。」。
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同上歩兵第65連隊連隊砲中隊・編成一等兵菅野嘉雄「陣中メモ」。
「(十二、)十五 今日も引続き捕虜あり、総計約弐万となる。」。
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・午後8時30分、第9師団歩兵第7連隊(伊佐一男大佐)、難民区への「徹底的に敗残兵を捕捉殲滅」する命令。
「歩七作命甲第一一一号 十二月十五日午后八時三〇分 南京東部聯隊本部 一、本十五日迄捕獲シタル俘虜ヲ調査セシ所ニ依レバ殆ド下士官兵ノミニシテ将校ハ認メラレザル情況ナリ 将校ハ便衣ニ更へ難民地区内ニ潜在シアルガ如シ 二、聯隊ハ明十六日全力ヲ難民地区ニ指向シ徹底的二敗残兵ヲ掃蕩セソトス 三、各大隊ハ明十六日早朝ヨリ其担任スル掃蕩地区内ノ掃蕩特ニ難民地区掃蕩ヲ続行スべシ・・・」
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・バネー号事件で第2連合航空隊司令官三並少将更迭。
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・【第1次人民戦線事件】
日本無産党・日本労働組合全国評議会・労農派の山川・猪俣津南雄・荒畑・鈴木茂三郎・加藤勘十ら446名検挙。22日、日本無産党・全評、結社禁止。38年2月1日に第2次検挙。
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日本無産党関係265名、日本労働組合全国評議会関係174名、労農派グループ34名、教授グループ11名。北日農の玉井委員長以下20名。
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前年8月、全評と東京交通労働組合は社会大衆党に反ファッショ闘争の為の統一戦線を申し入れたが拒絶される。しかし、この統一戦線申し入れがコミンテルンの人民戦線路線戦術の適用とされる。
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「山川(均)、猪俣(津南雄)、大森(義太郎)、加藤(勘十)ら、左翼四百名を大検挙、日本無産(日本無産覚)と全評(日本労働組合全国評議会)の両団体結社禁止」(「東京朝日新聞」22日号外)。
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・出版懇話会12月例会。内務省にて。
大坪図書課長、久山、田中、鈴木、国塩事務官、羽根検閲課長、会員40名出席。
警視庁保安課猪俣事務官「人民戦線派の現状に就いて」演説。
最近の行政司法処分について羽根検閲課長の説明。
最近の発売禁止処分について鈴木事務官の説明(鈴木は執筆禁止該当者の名を告げる)。
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中島健蔵の14日付け日記。
「夜、報知新聞の山本文雄来訪、原稿を頼んでいく。戸坂潤、岡邦雄、宮本百合子、中野重治等七人ばかりに、一種の執筆禁止令が、秘かに下ったことを知る」(『回想の文学』第3巻「人権の崩壊」)。
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・この日の新聞報道。
「街々に日章旗翻えり、南京の秩序回復、わが総領事館は無事、愈々迫る南京入城式、十七-八日頃行われん」(「東京朝日」)。
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・【テルエルの戦い】
共和国軍リステル指揮第11師団、テルエル(アラゴン南部の山岳地帯)攻撃、包囲。21日、4万の兵士、テルエル突入。

to be continued

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