2008年12月9日火曜日

明治17(1884)年秩父(6)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」 乙女峠事件 清仏戦争 武相困民党、8・10事件 秩父困民党第1回和田山会議 平田橋巡査故殺事件(名古屋事件) 秩父困民党の組織化進む 秩父困民党第2回和田山会議 

■明治17(1884)年秩父(6)「乍恐天朝様ニ敵対スルカラ加勢シロ」
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8月
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-・乙女峠事件
栃木県令三島通庸の陸羽街道工事、人民の遅参に対し労役監督巡査が人民惣代を捕縛。更に、乙女宿人民73を捕え拷問。
田中正造は現場を調査、宮内卿土方久元・内務卿山県有朋に三島の暴政を訴える。翌9月、会津街道新開工事予算不足審議の臨時県会が召集。議会はこれを却下(三島が自分が所有する三島村を通過させるため独断で路線を変更したことによる予算不足)。
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-・末広重恭、東洋学館(上海)館長引受ける。国権主義者に変貌してゆく。
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-・初旬、翌月の加波山事件に参加する自由党員小林篤太郎・五十川元吉、八王子周辺困民党結集を聞きつけ現地に乗り込む。「あに図らんや、これらの徒みな事理を解せず、主義を持せず、・・・」と感じて、引上げる。
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-・有島武郎(6)、妹の愛とともに横浜英和学校に入学。
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8月1日
・植木枝盛「北陸紀行」(「自由新聞」)全8回。「負債党蜂起」の必然は理解するものの、これをもって専制政府打倒などの発想には繋がらない。第3者的観測のみ。
 「予也此行に於て更らに地方の実況を目撃するに、殆んど言ふに堪へざるものあり。農民は大に困難し、商業は大に萎徴し、金銭は大に融通せず。初め東海道を行き、大磯を歴。車夫語りて曰ふ、先日以来此辺の小民頻に此処彼処に集合し、金主某に迫らんとするの趣あり。今日も亦現に其処に会合せりと。予れ一聞し、「鳴呼夫の負債党の顕はるる既に此に至れる乎。後日必ず事あらん」と。果して遂に金主某を掩殺するの一大事を演出するに至れり。呼、負債党の蜂起する既に爾り矣。豈に独り此等の一時一事而巳ならんや。今にして其本を正さずんは、炎烟益々熾んならんこと炳々たり。要路者豈に猶ほ顧るに足らずとする乎」。
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8月3日
・南多摩郡高ヶ坂村他の(武相)困民100余、御殿峠に集結。7日、南多摩郡・高座郡の代表16人、御殿峠に集結。8・10事件の前触れ。
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(南多摩郡):木曾村2、宇津貫村2、南大沢・相原・鑓水・下一分方・根岸・小比企・松木・高ヶ坂・鶴間・小川各村1名。
(高座郡):鶴間村・小山村各1名。計24ヶ村16名。高座郡鶴間村の1名は、7月31日に集合した300名の代表。
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8月5日
・(清、光緒10年6月15日)フランス軍、台湾基隆を奇襲攻撃。清仏戦争始まる。
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8月5日
・岡山、自由党納涼大会(集会条例適用を回避する策)。
 女子親睦会・蒸紅学舎の女子生徒ら参加。蒸紅学舎教師景山英子の演説。この後、中心メンバ津下正五郎は警察から「古物商頭取」役を停止させられ、英子の姉婿の県会議員沢田正泰は譴責、英子の兄弘は小学校教員を解職。9月9日、岡山蒸紅学舎、高崎県令より停止命令。英子に上京の志燃える。
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「自由新聞」(8月13日付け)によるこの日の納涼大会の様子。
黄昏どき、旭川河原に「自由運動会」と大書した紅白四旈の旗たて、中央に「自由」と書いた高張り提灯がつけられる。自由党壮士100余が紅白に分れて旗を奪いあう競技ののち、会主の「自由万歳」に一同唱和し宴会に移る。
会が終ろうとする時、川上から船7艘が「自由」と染めぬいた紅燈数個を灯し、船首に「自由親睦会」と書いた大旗を立て、左右に高張り提灯を掲げて下って来る。その内1艘では、岡山女子懇親会員と蒸紅学舎の女生徒26~27人が歌を歌う。少年の演説に続き、蒸紅学舎の教師景山英子が、「国家の大事は独り男子に勤労せしむる者ならず、女子亦た自任して勤めざる可らず」と演説。
最後に少女(11)が、「明治の今日に生まれたるからは、国家万一の恩に報い、岡山の一女子たるの本分だけは、私幼稚なりと雖も之を尽さんと欲す」と演説、やがて夜も更けて散会。明治13(1880)年4月、集会条例を定め、更に15年、警官の集会解散権を加え、集会はしばしば警察官によって中止、解散を命ぜられるようになる。これに対抗して、運動も、表面平穏を装い、時に政府の意表をつくやり方がとられる。
この日も官憲は、河原からしきりに瓦石などを投げ挑発。水中にもぐっていた響官が、船の上で演説を始めた人々に対し、「中止解散」を命じたので、人々は怒って、「河童を殺せ」、「なぐり殺せ」とひしめき合い、年長者が推し止めたと、英子は記す。
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8月7日
・独、南西アフリカ(後、ナミビア)をドイツ領南西アフリカとして統合。
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8月10日
8・10事件
 八王子南方村民(南多摩郡・高座郡・都築郡)決起。夜、数千の人民、御殿峠集結。八王子警察署長原田東馬が部下3~40名率い駆けつける。翌11日、群集解散。午後4時、強硬分子21ヶ村224人、警察に拘引。説諭・釈放後、彼らは銀行・会社との交渉に入る。周到な準備。頭取(上鶴間村の富農渋谷雅治)・副頭取(由木困民党指導者・南大沢の佐藤昇之輔ら)・各村の連絡(総代人)・交渉委員など指揮系統。個別歎願から代表交渉へ、更に総員交渉へ発展(秩父困民党と同じ過程)。
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この夜、八王子の町は打ち毀し前夜のような恐慌状態態に陥る。夜8時頃から結集、11時に1千超、深更に入り数千人に達す。いでたち一様に蓑、笠。「門訴めきたる風姿」。近くの豪家より金穀を借り、大釜を据付け焚出し、酒樽の鏡を抜き、「酒気をかり威勢をつけて、然らば是より八王子表へくりだし、銀行はじめ其他の貸附会社に強談し、おのれらの希望をとげんと、太鼓を打ちて合図をなし押出さん」とする(「朝野新聞」8月20日)。
所管内村民の大半が御殿峠に集結したという南村(高ヶ坂・鶴間・小川・金森・成瀬5ヶ村)連合戸長細野喜代四郎が記録するその日の経過。「当近村の同徒(負債党)は、粮米大釜等も大八車に搭乗、町田分署の門前を喊声を作て繰り出し、七十有余の銀行会社に対し、所謂破壊をなさんと御殿峠に至れば、此所には早く既に数千の同徒が雲集し居り、先ず将に八王子を冒蒐て襲はんとする危機一髪」(「南村誌」)、その時、自分をはじめ石坂昌孝、薄井盛恭、中溝昌弘ら自由党幹部が鎮静に駆けつけたという。実際は、八王子警察署長原田東馬警部が必死に説得。
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「同党中一方の領袖ともいふべき鶴間村の渋谷某兄弟は、可なりの身代なる由なるが頗る弁舌に長じ、八王子三十余の銀行諸会社の人々は此の二人の舌頭に圧倒せられ、中にも共有商会の社長某は舌戦の余竟に二人の為めに説き伏せられ」(「朝野新聞」18年3月4日)。権利思想・論理力の浸透。
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(南多摩郡):南大沢19、松木9(由木村)。高ヶ坂19、鶴間12、金森12(南村)。小山9、相原3(堺村)。木曾19、根岸5(忠生村)。宇津貫9、小比企2、片倉2、西長沼2、打越(由井村)。元八王子村1。
(高座郡):上鶴間67、鵜之森8、淵野辺7、小山7、下鶴間5。(都筑郡):恩田7。計21ヶ村225人。8月7日の分布から更に拡大。
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要求は、
①負債は満5ヶ年間据置、その後50ヶ年賦にて返却。
②負債の故に売渡しを余儀なくされた地所(質地等)については、前項同様50ヶ年賦にて買戻す(①の要求を、既に土地売渡しによって負債返済したものにまで遡及させる)。
③以上が示談で解決できないときには、総員交渉による実力も辞さない、というもの。
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8月10日
秩父困民党第1回和田山会議
 落合寅市・高岸善吉・飯塚森蔵・井上善作ら13名。警官隊によって解散。困民党組織作り、各村動員の申し合わせと考えられる。
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「明治十七年八月十日頃、秩父郡小鹿野原市へ商用ニテ参リタルニ、十三人程ノ者集り、誰ガ発意トモナク字和田山卜申ス山林へ集り、尤モ右人名ハ飯塚森蔵、落合寅市、井上善作、其他十一二人ノ者ニテ、借金八年賦ニ致シ貰フべキ相談・・・」(善吉訊問調書)。
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8月10日
・有一館開館式。
 自由党の文武館(自由党急進派の拠点、左派青年志士養成機関)、築地新栄町。板垣退助・星亨・中江兆民。参列者500余。
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8月10日
・植木枝盛(28)、村松愛蔵の依頼を受けて秘密出版の原稿「飯田事件檄文」起草。31日、東京を出発し、中山道経由関西に向う。この月、杉田定一らと共に東洋学館開設の主唱者となる。
 飯田事件の首謀者村松は、ロシア語の知識があり、露国虚無党の秘密出版の例に倣って檄文を5万部印刷し、秘かに全国に撒布し、革命気運を興そうと企て、枝盛の文章力に頼り、起草を依頼。既にこの年4月25日西下の途上名古屋で村松と会い、知り合っている。枝盛これを快諾し、「数日」間で書きあげる。
 その後、村松らは、各地からの騒然たる情報により予想以上に「進歩したるに驚き」、秘密出版撒布する時機ではなく、武力革命の挙に出るべきと考え、枝盛起草の檄文末文を改め、これを挙兵の旨趣書に転用。飯田事件発覚後、官憲は檄文の筆者を追及するが、村松らは自分たちの起草であると云い張り枝盛に累を及ぼさず。
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8月11日
・武相困民党。総代6~7人づつが銀行・会社に押しかける。12日、即答を得られなかった困民、再び集合。高尾山山麓などを根城にして連日債主のもとに繰出す。
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「到底此様子にては遂に沸騰し、再び押来りて銀行或は貸金会社を焼払ひ、乱暴狼籍に及ぶことも有るべしとて、駅中の人民は目下長幼をして難を避けしめるなど昼夜安き心もなく、今にも騒動の起る如くに云ひあへり」(「朝野新聞」17年8月20日)。
自由新聞も、「あるいは竹槍を提げ蓆旗を翻えすやも測られざる」、「恰も戦争同様の景状」を呈したと記す(「自由新聞」17年8月3日)。
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8月11日
・東京有一館開館式出席の神奈川自由党領袖石坂昌孝・吉野泰三・本田定年・中村重右衛門ら、御殿峠結集の報聞き急ぎ帰郷。南多摩郡・高座郡の自由党員戸長・県議中溝昌弘・細野喜代四郎・山本作左衛門・長谷川彦八らと合流。
 彼らは仲裁人グループ作り、協議、県庁へ嘆願、債主らと個別交渉に入る。有一館に居合わせた加波山グループ五十川元吉・小林篤太郎・平尾八十吉らも多摩に急行するが、単なる農民騒擾とみて「此等の徒、皆な事理を解せず、主義を持せず」と絶望して戻る。
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石坂昌孝
1857年(安政4)以来、惣名主、戸長を経歴、農村共同体指導者として温情主義に生きてきた人物。また自分も借金問題に悩んでいる(例、石坂昌孝は明治14年の横浜・西村喜三郎からの借金2千円が返済できず、18年には石坂恩孝名義の田2町25歩を取られる。(石坂家文書借用証文))。
 石坂は幕末当時、大豪農であったが、明治10年地租改正調査終了時には、田7町5反6畝、畑9町8反4畝を含む27町7反3畝余を野津田村内に所有。明治12年7月地租額調理書では地租132円90銭1厘、従って所有地地価(地券面高)は5,316円となる。それが、明治12~18年、約75%失い1,570円となる。
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8月11日
平田橋巡査故殺事件(名古屋事件)。
 この日夜、大島・富田・塚原ら11名、丹羽郡北島村の豪農襲撃のため出かけるが警備が厳重で断念。午前2時、平田橋辺で枇杷島署詰の加藤・中村巡査に誰何されたため両巡査を殺害。のち、大島・富田・鈴木(松)が「罪ヲ免ガレルタメノ殺人」として死刑、青沼・奥宮・鈴木(桂)が「単純ナ故殺」として無期懲役となる。奥宮健之の強盗参加は、第23回の今回のみ。
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8月12日
・無署名「魯国虚無党秘聞録」(「自由新聞」)。

8月13日
・岡山自由親睦会「民権大津絵・自由数へ歌」(「自由新聞」)。

8月14日
・通俗自由政談演説会「自由の凱歌・戸谷新衛門伝・魯国虚無党退治奇談」(「自由新聞」)。
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8月15日
・津久井郡の農民100余、津久井郡役所へ押しかけ。16日、9ヶ村300余、八王子へ北上。原田東馬警部に命じられた浜口警部補以下20余が、八王子南2kmで食い止める(説得して後退させる)。この夜は中沢村普門寺に泊。17日、銀行との交渉にあたる総代選出、隊を分け、武相・東海貯蓄・八王子・旭・武蔵野5銀行と共融会社、甲子会社その他の金融業者の家々に向かう。夕方、各村2~3の代表を残し帰村。
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①個人高利貸業者には15ヶ年据置後25ヶ年賦、
②会社名称のものには10ヶ年据置後15ヶ年賦、
③規定内利子による相対の借入金には5ヶ年据置後15ヶ年賦、
④商法上の取引貸借は5ヶ年賦、
⑤質屋よりの借入には質物取り戻し、無抵当の5ヶ年賦証書に改める。
津久井の困民党は村によっては不参加者を村八分にした形跡もある。最初、彼らと債主との仲裁をしようとした新旧戸長たち(自由党県会議員で大井村戸長梶野敬三や中沢村戸長安西昌司、三井村戸長高城熊太郎、日連村前戸長で県議の岡部芳太郎ら、須長漣造「十七年雑記」)も、自分らの調停の目論みと、困民党の要求とがかけ離れている為「到底目的を果すこと能わざることを思ひ、追々手を引く」。交渉ははかどらず。
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8月15日
・福沢諭吉、フランス艦隊の基隆攻撃の報に、清仏戦争を太平天国の乱鎮圧後止んでいたヨーロッパ諸国の東アジア侵略再開の合図と看做す(「時事新報」)。
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8月15日
・三木武吉、誕生。
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8月16日
・通俗自由政談演説会「経国美談・自由の凱歌・東洋義人伝」(「自由新聞」)。
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8月17日
・石阪昌孝、困民党騒擾に直面し、広徳館館主・甲子会社社長林副重に問題の解決を要請。
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8月18日
・八王子北方西中野村明神山(別名ひよどり山)に17ヶ村60名結集。吉沢美治警部補が踏み込み解散。氷山の一角。
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 8月前よりこの地域の負債延納運動は、塩野倉之助を中心に始る。
 塩野は下川口村唐松の油屋と呼ばれる家の当主で豪農。かつては油製造家で、傍ら村民相手の質屋を営み、独創的な養蚕家でもある。
「油屋の倉さん泣かすにわけはない、佐倉宗吾の子別れ語れ」と言い伝えられる。高利貸、銀行会社に対しては、一般農民同様、被害者の立場にある営農的豪農と推測できる。
「夫レ斯ノ如ク愍ム可ク悲シムベキ貧民輩ノ事情」には「上告人モ亦之ノ一部ニ居テ其境遇ヲ脱却セント」「同病相愍ムトノ感覚ヨリ負債者各自ノ依托ヲ容レタル」ものと弁明していることからも推測できる(明治18年2月23日、塩野倉之助「上告趣意書」)。初め数ヶ村の寄合いが、次第に拡大し、8・10事件を契機に党の形をとり、表面化し、8月未頃には、組織圏は多摩3郡33ヶ村に及ぶ。
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8月20日
・西多摩の山村に連発的な小規模農民騒擾。
 檜原村に27人、21日藤橋村に12人が集合、解散させられる。同21日入間郡高根村50人が石畑村六道山中に入り込み解散させられる。23日、西多摩郡平井村山野丹二郎宅に平井・草花・菅生3ヶ村の負債農民56人が結集。これらの人々は下川口の塩野倉太郎の川口困民党(北部三多摩困民党)加盟を申し入れる。塩野家には粟ノ須村の石川嘉吉や谷野・左入・宇津木・滝山4ヶ村連合戸長須長漣造も出入りする。
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8月20日
・細野喜代四郎(南多摩郡小川村(現町田市)聯合村戸長・自由党員)、八王子に出向き自由党同志・銀行役員の何人かに面会。困民へ特別の憐憫を要請。この時、林副重より石阪が同趣旨で2、3日前に来た聞く。
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・細野喜代四郎、八王子の南多摩郡役所を訪ね、郡長原豊穣に面会し対策方を懇願。さらに、自由党の同志で、八王子で金貸会社経営の土方敬二郎や森久保作蔵(ともに共融会社)、林副重(甲子会社頭取)らに面会、困民の現状を説明し、特別の憐憫をたれるよう説得。
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8月21日
・秩父、井上伝蔵(下吉田村)・飯塚盛蔵、大宮郷に田代栄助を訪ねるが不在で会えず。その後、2、3度使者が送られるが不在。
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・この頃、各村(郡外も含み)で困民党動員組織活動進む
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□「石間村(自由党加盟者)亦多し、漆木耕地繁太郎は家業を擲棄し妻及び娘に長刀を習練せしめたり。・・・自由ノ妄説ヲ信ジテ産業ニ意ヲ留メザル著間々アリ」(下吉田村貴布禰神社神官田中千弥の日記「秩父暴動雑録」)。
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○石間村の新井繁太郎(41)
8月21日、加藤織平(36)より、「今度借金アルモノハ四カ年置据エ、四拾ケ年賦ニ致シテ遣ル故、貴公モ与シテハ如何、今云フ通リニスルニハ大勢デナケレバ出来ザル故、相談ノ為メ貴公ハ諸方へ使ヲシテ呉レ」と、困民党加入を勧められ、以後同人の手足となって動く。
繁太郎は織平の連絡役、自分の耕地・漆木のオルグとなる。明治6年の役場の「地券番号記」には下々田のみ6反8畝余を所有しており、養蚕、製糸農家であると推測できるが、17年の事件の際の戸長の調書には「資力ナシ」と記入されている。織平に云われ、自分の借金表をさし出して国民党組織づくりを手伝う。幹部グループの連絡役、上州関係の連絡にもあたる。9月6日栄助引き出し役。繁太郎は漆木耕地35戸中、30戸まで自分ともう1人で動員したと供述。同じ石間の半納耕地からは、蜂起の日には、神官を除く27人全員が出る。織平には5名の耕地オルグがおり、石間村全戸175戸あり180名以上動員。
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繁太郎は警察の訊問に対し、「秩父郡内ニ於テハ、高利貸ノ為メ困民ハ本年末ニ至レバ、七、八分通り倒レテ仕舞・・・其儘ニ差置ケバ一同立行カザル事故、身命ヲ擲テ困民ヲ救フノ精神ニテ」と答える。危機感と正義感を抱いての参加。
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□石間村の隣の阿熊村の農民も、「八月中、国民党/集会ニ出タルコトモ在之」と証言。
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□栃谷村(大官に近い村)の大工の若者は、「新暦八月一八日、村内山ノ神ノ堂ニ寄集り、今度小鹿野ノ方ヨリ大勢ノモノガ金貸ノ打コハシニ乗ルト云カラ、其時ハ村内ヨリモ出向べシト相談整へ罷在倹」と述べ、その集会の「重立チ」の名を2人あげる。事件後、この村の戸長は県庁に参加者2名と報告しているが、村民の支払った罰金だけでも300円となっており、参加者は数十名と推測できる。
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□上日野沢村では自由党員竹内吉五郎が困民党の村のオルグで、土方の武七をくどく。「本年八月二十日過ギ、失念、自村竹内吉五郎来テ、汝ハ高利貸ニ借アル趣ナルガ、借用ノ金子ハ返済セザルモ差支ナシ、高利貸ハ何レモ規則外ノ金利ヲ貪ル輩ニ付、返済セザルモ差支ナシ、ヨツテ汝モ同意スレバ我等ノ仲間ニナルべシトノ談話ニヨリ、共時借財ハ返済セザルコトヲ約シテ同意シタリ。」
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○上下日野沢村には新井蒔蔵新井紋蔵竹内吉五郎村竹茂市などがおり、「下日野沢村ハ自由党ニ加盟ノ者多シ。従テ今回ノ暴徒亦多シ。立立沢耕地ノ如キハ、暴徒党与ナラヌハ三家ノミ。各戸真綿作リノ服帽ヲ調へタリト云フ(下吉田村貴布禰神社神官田中千弥の日記「秩父暴動雑録」)。
竹内のオルグを受けた青年は、「同胞人民ヲ救フハ至極良キ策卜感心仕り」と供述。上日野沢の村竹は、「上日野沢ヨリ召集シタル五〇人ヲ結シ、自分ハ其隊長トナリ進退ヲ伺ツタリ」と述べる。下日野沢の小隊長は、公認党員新井蒔蔵。
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□8月15日頃、榛沢郡岡村(郡外、岡谷に近い村)で、大野又吉(おそらく風布村大野苗吉の兄弟か。早くから秩父困民党に連絡がある)が、庄八という農民を訪れ、「今度困民党トイフ党ガ出来タニ付、加入シテハ如何、左スレバ借金ハ暫ク延期ニナル」といい、庄八は「自分モ他借多分ニテ困却罷在折柄ニ付、加入スル事ニ依頼及ピタル処、然ラバ姓名ヲ差出ス様申スニ付、直ニ八カ紙ニ姓名ヲ記シ実印ヲ押シ」これを差し出す。
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風布村大野苗吉
恐らく隣村の新井周三郎の影響を受け、村内では自由党員と云われ、「役割表」では甲大隊長周三郎の下の副大隊長になる。苗吉は幹部グループに属し、城峯山下に行っているが、その配下の3~4名の耕地オルグの1人大野長四郎は、「自分ハ村方ヨリ百四十人ヲ誘ヒ出シ召連レ、百四十人ノ頭タルニスギズ」と陳述。この連中は「風布組」とお呼ばれ、最後まで結束を崩さない。信州に侵入し、長四郎は左肩を撃たれ捕縛、臼田で訊問を受けた時、多くの農民の中で理非をわきまえるのは彼だけであると新聞に書かれる。風布の小隊長、石田という農民である。
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8月21日
・八王子警察署長原田東馬警部、内務卿山県有朋に上申。農民騒擾を「治安妨害の廉を以て」首謀者は仮借なく逮捕する方針に転じる。
 「本月十六日相州津久井郡の内三井村外七力村及び武州南多摩郡鑓水村人民三百四十一名が、困民会と称し、負債償却上の事に付・・・稲荷森と唱ふる原野に集会、不穏の挙動有之を以て、鎮静方に着手夫々解散せしめ候得共、頃日追々各所に伝播し諸方に集合の聞へ有之に付、於今充分之れが取締を為さざれば遂に巨害をなすに至るも難計と思考候条」、今後は「治安妨害の廉を以て」集会条例第17条、13条により処罰し、首謀者は呵責なく逮捕すると決意。
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8月22日
・石阪昌孝、八王子広徳館滞在(~23日)。板垣歓迎準備。薄井盛恭、石阪に葉書を発し、原町田での仲裁人会議に出席依頼。また、細野喜代四郎にも、石阪の原町田会議(24日に予定、薄井・中溝・石阪ら名望家の参加を画策)への参加を要請指示。
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8月23日
・フランス提督アメデ・クールベ、福州を攻撃、洋務派(湘軍系)の雄左宗棠が築いた馬尾船政局・福建艦隊を全滅させる。
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8月23日
・通俗自由政談演説会。龍野周一郎「経国美談・自由の凱歌・東洋義人伝」(「自由新聞」)。
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8月24日
・自由党総理板垣退助、星亨・加藤平四郎・桜井徳太郎らと多摩訪問。府中駅を経て八王子広徳館訪問後、角喜楼で懇親会。石阪昌孝開会の辞。翌25日、青梅の鮎漁懇親会。
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この頃の神奈川自由党の活動:
 ①石坂・細野らの債主との仲裁交渉。
 ②平野友輔・小林幸二郎らによる演説会(9月13、14、16、17日、台風をついて八王子・青梅で2千動員)、但し、武相困民党へのアプローチなし。
 ③植木枝盛招請を契機に難波惣平・沼田初五郎らの地租軽減建白運動(11月28町村394地主署名の請願書、12月建白書)、武相困民党との結合なし。
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8月24日
・森鴎外(22)、前夜は横浜の林家に泊まり、この日、横浜港からフランス船メンザレエ号でドイツ留学に向かう。穂積八束ら9人も同行。21年9月8日横浜港に帰着。
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8月25日
・高座郡橋本村の困民党事務所、八王子警察署の出張尋問を受け、会合者が引致。成瀬・金森・高ケ坂・鶴間村の村民が各1人。
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8月25日
・中江兆民、勝海舟に会い、東洋学館の件で借金を申込む。30日にも(「海舟日記」)。
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 9月19日、勝は、兆民の紹介で栗原に30円貸す。東洋学館は上海に設立、日清両国志士の養成機関として日本語・中国語など語学中心の教育を行う。
設立に関し、中江兆民、長谷場純孝、佐々友房、末広重恭、栗原亮一、樽井藤吉、日下部正一、杉田定一らと協力したと伝えられる。財政難の為、開校後1年余で廃校。
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8月26日
・【清仏戦争】
清、ベトナムを巡りフランスに宣戦布告(~1885年4月)。太平天国残党を率い対仏レジスタンスを行う「黒旗軍」劉永福を政府軍に登用。
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8月26日
・津久井の交渉団総代13人、三井寺の交渉団本部で検束、監禁。運動一時後退。
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8月26日
・午後3時、仲裁人グループ、八王子中鶴亭に各銀行役員を呼んで和解の方策説得。終わって、各銀行会社に個別に説得。29日付けの薄井盛恭書簡では「石坂抔ハ兎角激論ノミ」と評される。
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南多摩郡小川村(現町田市)聯合村戸長・自由党員細野喜代四郎、高座郡下鶴間村(現大和市)戸長・自由党員長谷川彦八と対策を協議。
 長谷川は困民党を「ブッタクリ党」と呼ぶ。
高座郡長今福元頴の意向もあり高座郡下の戸長が乗り出し、細野らの意向を受けた南多摩郡長原豊穣が郡内の名望家中溝昌弘・薄井盛恭などへ働きかけ、8月下旬、和解のための仲裁人グループが形成。24人。殆どが新旧戸長・県議。自由党幹部8人。津久井からは唯一の正党員梶野敬三(現県議)のほか、騒擾の中心である中沢村戸長安西荘司らも加わる(安西はこの後10月、自由党入党)。民衆の置かれていた困難な状況に対して同情的で、銀行側に一定の妥協を示すよう説得。
この仲裁人グループから塩野倉之助・町田克敬(川口村)、中島小太郎(小山田村)、佐藤孫七(由木村)の4人の困民党指導者もでる。
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8月27日
・秩父、小鹿野で高利貸しとの掛け合い始まる。
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8月28日
・武相困民党。西多摩郡淵上村金貸淵上茂兵衛、袋叩きにあう。八王子の金貸らは、土蔵に目張りをし家財を片付け遠方の縁家などに逃亡。
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8月31日
・石坂昌孝ら仲裁人グループ、八王子の倉田屋に集会。
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8月31日
・秩父、善吉・寅市・盛蔵らが主となって小坂峠に集会。翌9月1日、秩父困民党第2回和田山会議。善吉ら27名。ゲリラ的山林集会、組織固め。警官40名が全員を拘引、説諭し、4名以外を釈放。翌日4名釈放(常次郎尋問調書では27日)。この頃から山林集会しきり。
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警察官10名が出張して説諭したので、宗作らが総代となり、小鹿野の高利貸営業者に4ヶ年据置、40ヶ年賦返済を交渉。
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8月31日
・社説「清仏戦争ハ支那国民ニ取リテ悲歎相半パス」(「東京横浜毎日新聞」~9月1日)。
清仏戦争は清朝滅亡の機となるだろうが、それによって人民による変革が行われるから支那国の滅亡にはならない。(支配者と人民を区別して将来の中国を論じる)。しかし、大勢は政府・民間ともにアジア侵略の方向を歩み始めている。
to be continued

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