2008年12月18日木曜日

昭和12(1937)年12月17日 南京(9) 南京入城式

12月17日
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午後1時30分、南京入城式。松井、朝香宮、柳川、長谷川(支那方面艦隊司令長官)。
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南京城内外で掃蕩作戦を展開する現地軍より入城式延期が再三上申されるが、耳をかさず、16日の日記に、「かくて明日予定の入城式は、なお時日過早の感なきにあらざるも、あまり入城を遷延するも面白からざれは、断然明日の入城式を挙行することに決す」と書く(「松井石根大将陣中日記」)。
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入城式は、中山門から出発。
松井は朝香官・柳川両軍司令官以下を率い、海軍の長谷川支那方面艦隊司令長官らと合流、旧国民政府庁舎に至る中山路に整列した各部隊選抜の兵士たちを馬上から閲兵しつつ行進。松井は「未曽有の盛事、感慨無量なり」と日記に書き留める。
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多くの部隊が南京城内に進駐し、勝利者・征服者の「特権」として徴発、略奪、強姦、暴行、放火などの行為に走る。この段階で、南京城内の憲兵は僅か17名
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フィッチの日記。
「十二月一七日、金曜日。略奪・殺人・強姦はおとろえる様子もなく続きます。ざっと計算してみても、昨夜から今日の昼にかけて一〇〇〇人の婦人が強姦されました。ある気の毒な婦人は三七回も強姦されたのです。別の婦人は五ヵ月の赤ん坊を故意に窒息死させられました。野獣のような男が、彼女を強姦する間、赤ん坊が泣くのをやめさせようとしたのです。抵抗すれば銃剣に見舞われるのです。」。
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・金陵女子文理学院の婦女難民キャンプ開設責任者ミニー・ヴォートリン(51、同学院教授)、日本兵の凌辱から女性を守る為、街頭に出て女性避難民を集め、婦女・子供専用の難民収容所に設置した金陵大学寮へ引き連れて行く。
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16日には、「敗残兵狩り」の日本兵が、婦女子を凌辱する事件が多発し、自宅にいて恐怖にかられた婦人が何百人も街頭に逃げだし、安全な場所を求めて彷徨。婦女子だけを収容する金陵女子文理学院キャンパスは、既に1万人近い難民で、渡り廊下まで溢れる状況。17日も城内で1千件を超える強姦事件が発生し、18日も恐怖にかられた婦人が助けを求めて街頭に溢れ、ヴォートリンは彼女らを集め、午後、約500人を金陵大学構内に連れて行く。
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・16日~、第13師団(仙台)山田支隊(山田栴二少将)、幕府山での捕虜など2万数千殺害。上海派遣軍兼中支那方面軍情報参謀長勇中佐の指示(?)。
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歩兵第65連隊第8中隊遠藤高明少尉の陣中日記(16日)。
「定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に遭ひ一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しⅠ(第一大隊)において射殺す。一日二合宛給養するに百俵を要し、兵自身徴発により給養しおる今日、到底不可能事にして軍より適当に処分すべしとの命令ありたるもののごとし。」
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歩兵第65連隊第4中隊(第3次補充)宮本省吾少尉「陣中日記」。
「(十二月)十六日 警戒の厳重は益々加はりそれでも〔午〕前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。」。
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歩兵第65連隊連隊砲中隊菅野嘉雄一等兵「陣中メモ」。
「(十二、)十六 飛行便の書葉(葉書)到着す、谷地より正午頃兵舎に火災あり、約半数焼失す、夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。」。
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山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊黒須忠信上等兵の陣中日記。
「午後一時、我が段列より二十名は残兵掃湯(掃蕩)の目的にて馬風(幕府)山方面に向かう。二、三日前輪慮(捕虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃をもって射殺す。その后銃剣にて思う存分に突き刺す。自分もこの時はが(か〉りと憎き支那兵を三十人も突き刺したことであろう。」
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山砲兵第19連隊第8中隊近藤栄四郎伍長「出征日記」。
「(十二月)十六日 夕方二万の捕慮が火災を起し警戒に行つた中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分ノ一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。」。
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歩兵第65連隊第1大隊荒海清衛上等兵の陣中日記(17日)。
「今日は南京入城なり(一部分)。俺等は今日も捕虜の始末だ。一万五千名。今日は山で」。
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山田栴二支隊長の日記。
「十二月十八日 晴れ 捕虜の仕末にて隊は精一杯なり、江岸にこれを視察す。」
「十二月十九日 晴れ 描虜仕末のため出発延期、午前総出にて努力せしむ。軍、師団より補給つき日本米を食す(下痢す) 」
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歩兵第65連隊第7中隊大寺隆上等兵の陣中日記。
「十二月十八日 ・・・昨夜まで殺した捕リョは約二万、揚子江に二ヶ所に山のように重なっているそうだ。七時だが未だ方付け(片付け)隊は帰ってこない。 
十二月十九日 午前七時半整列にて清掃作業に行く。揚子江の現場に行き、折り重なる幾百の死骸に警(驚)く。石油をかけて焼いたため悪臭はなはだし、今日の使役兵は師団全部、午後二時までかかり作業を終わる。昼食は三時だ。」
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歩兵第65連隊第7中隊柳沼和也上等兵の陣中日記。
「十二月十七日 晴 ・・・夜は第二小隊が捕虜を殺すため行く、兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと、其の事については余り書かれない。夜は第二小隊が捕虜を殺すため行く、兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと、其の事については余り書かれない。・・・」
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歩兵第65連隊佐藤一郎(仮名)一等兵の日記。
「朝七時半、宿舎前整列。中隊全員にて昨日同様に残兵を捕へるため行く事二里半、残兵なく帰る。昼飯を食し、戦友四人と仲よく故郷を語って想ひにふけって居ると、残兵が入って居る兵舎が火事。直ちに残兵に備えて監視。あとで第一大隊に警備を渡して宿舎に帰る。それから「カメ」にて風呂を造って入浴する。あんなに二万名も居るので、警備も骨が折れる。警備の番が来るかと心配する。
夕食を食してから、寝やうとして居ると、急に整列と言ふので、また行軍かと思って居ると、残兵の居る兵舎まで行く。残兵を警戒しつつ揚子江岸、幕府山下にある海軍省前まで行くと、重軽機の乱射となる。
考へて見れば、妻子もあり可哀想でもあるが、苦しめられた敵と思へば、にくくもある。銃撃してより一人一人を揚子江の中に入れる。あの美しい大江も、真っ赤な血になって、ものすごい。これも戦争か。午後十一時半、月夜の道を宿舎に帰り、・・・。(南京城外北部上元門にて、故郷を思ひつつ書く)」。
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栗原利一伍長の回想。
捕虜は、田山大隊の兵士百数十人に護送され、上元門付近の仮収容所から江岸まで5kmを数時間歩き、日暮れに江岸に到着。捕虜は対岸又は中洲に運び釈放と聞かされていたが、ここに至り異様な空気に感付き、1人の捕虜が監視役の少尉の軍刀を奪った為か、或いは連隊史が記すように渡江中に対岸の中国軍に撃たれた為か、大混乱となり、機関銃・小銃を発砲。殺戮は一時間以上も続き、夜明けには2~3千の捕虜の死体がころがり、日本軍将校1・兵8人が混乱に巻きこまれて死ぬ。
現場は下関の下流で八卦洲という大きな中洲と向きあい、中国側が草鞋峡とか燕子磯と呼ぶ江岸の辺りで、中国側が5万人前後の「大虐殺」があった地点として指摘しているところで、り概略地点は日中双方の主張が符合。
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虐殺死体の処理。
折り重なった死体の上に薪など燃えるものを撒き、それに石油をかけ火をつけ、死体の層の中の生存者を焼死させ、鎮火後、死骸を長江に運び水中に投げ入れて流すというもの。連隊総がかりで2日間を費やし、約2万の捕虜・避難民の死体処理を終える。
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中国側の証言を集めた「証言・南京大虐殺」には、「十二月十八日、草鞋峡における五七四一八人の殺害」「日付不明、燕子磯(中洲をふくむ)における三万または五万人の殺害」が併記されている。2件とも東京裁判では訴追されず(輪郭不明瞭だが、2件とも山田支隊の事件を指すと思われる)。
日本側関係者の間では、捕虜のほぼ全員という点では一致するが、江岸への連行=殺害数は5~6千(栗原)、2千(星俊蔵軍曹)、1~3千(平林少尉)とまちまちで、1万数千や8千人との差は不明のまま。
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歩兵65連隊連隊長「両角業作手記」など、部隊幹部の証言に基づき、「幕府山事件」=「自衛発砲説」(80年代前半まで)とされる。
枠組みは、15日、山田旅団は幕府山砲台付近で捕虜1万4千余を捕虜、非戦闘員を釈放し、「約八千余」を収容。その夜、火事に紛れて半数が逃亡。残り4千は警戒兵力・給養不足のため処置に困り、17日夜、旅団長が揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲撃したため、危険にさらされた日本兵はこれを射撃、捕虜約1千名が射殺され、他の3千は逃亡、日本軍将校以下7名戦死。
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・頃、第10軍第114師団、城外へ移駐
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・ニューヨーク・タイムズ記者ティルマン・ダーディン、15日に南京を退去し、「オアフ号」で上海へ下り、この日、日本軍の検閲が始まっている国際電報局を避け、上海ウースン沖に停泊する「オアフ号」上から南京虐殺の第一報を打電。
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「上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンド(埠頭)で二〇〇人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は一〇分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけ、ひくひく動くものがあれば弾を打ちこんだ。この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、あきらかにこの見せ物を大いに楽しんでいた。」(「ニューヨ-ク・タイムズ」12月18日)。
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ダーディン記者が記す城内の「残敵掃蕩」の様子(南京虐殺の続報)。
「南京の男性は子供以外のだれもが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃の痕があるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選びだすのである。しかし、多くの場合、もちろん軍とは関わりのない男性が処刑集団に入れられた。また、元兵隊であったものが見逃され、命びろいする場合もあった。南京掃討を始めてから三日間で、一万五千人の兵隊を逮捕したと日本軍自ら発表している。そのとき、さらに二万五千人がまだ市内に潜んでいると強調した。
・・・日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、民間人の死骸を毎日のように目にした。老人の死体は路上にうつ伏せになっていることが多く、兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは明らかであった。(「ニューヨーク・タイムズ」38年1月9日、第38面全ページを埋める)。
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スティール記者は、
「日本軍は虱潰しに家々を捜索していき、多数の便衣兵容疑者を捕らえていた。これら多数の縛られた者たちが一人一人銃殺されていき、そのかたわらで同じ死刑囚がぼんやりと座って自分の順番を待っている」(「シカゴ・デイリー・ニューズ」12月17日)と報じ、「日本軍にとってはこれが戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮のように見える」(同前、38年2月4日)と感想を記す。

to be continued

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