2008年12月4日木曜日

昭和12(1937)年12月13日 南京(5) 「もう間に合わない」 南京城内残敵掃蕩の実相

■昭和12(1937)年12月南京(5) 「もう間に合わない」(ゴヤ「戦争の惨禍」19)
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12月13日南京
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・江岸に沿って南京に向う第13師団山田支隊(山田梅二少将)、12日鎮江出発。この日、鳥龍山砲台占領。14日、幕府台砲台占領。
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・第10軍国崎支隊、揚子江北岸を北進し、南京対岸の浦口占領。中国軍の退路を遮断。
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・午前0時、集成騎兵隊・攻城重砲兵隊第2大隊、中国退却軍と激突。仙鶴門付近。
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・午前0時30分過ぎ、南京城南の砲声・銃声は途絶え、南京は異常な静寂の中に陥る。
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・午前3時10分、第16師団歩20連隊四方中隊、最後の中山門無血占領。
この頃迄には、各城門でも守兵は退却、夜明けとともに、城壁を包囲する各部隊は前後して手近な城門や城壁の破壊個所から進入、城内掃蕩に移る。
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・午前6時、第16師団佐々木支隊(歩38連隊基幹)は下関に向かう追撃命令を受け、配属された独立軽装甲車第8中隊を先頭に急進、一部兵力(第1中隊)で南京城北側の和平門・中央門を占領、城内敗残兵の逃げ道を塞ぐ。午後1時40分頃、先頭隊が目指す下関に突入、「渡江中ノ敵五、六千ニ徹底的大損害ヲ与エテ之ヲ江岸及江中ニ殲滅」(歩38連隊戦闘詳報)する。
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・午前6時、第6師団歩45連隊第3大隊(小原重孝少佐)左側支中隊(第2中隊長大薗庄蔵大尉以下250)、南京城西側を下関に向かい北進中、南下する第74軍と遭遇、4時間の激闘でほぼ全滅させる。中国軍戦死2377。翌日、佐々木支隊と合流。
兵力は日本軍が10対1以下の劣勢。大薗中隊長は、「敵は城内からの脱出兵だ、戦意は失っているから、落ちついてやれ」(浜崎富蔵日記13日)と督励、中国軍は「二三七七人」(赤星昴「江南の春遠」)の死体を残し、残兵は揚子江に飛びこんだり、貯木用の筏で逃げようとして掃射され四散。支隊も大薗大尉以下戦死16、負傷36。
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高橋義彦中尉(独立山砲兵2連隊付)の証言。
 「砲兵は全部零距離射撃の連続で・・・遂に白兵乱闘の状況となった。当初は軍官学校生徒が第一波で、さすがに勇敢で我々を手こずらせたが、第五波、六波ごろからはやや弱くなった。九時頃からの突撃部隊はへッピリ腰の民兵で、その半数は督戦隊である彼等の味方から殺されていた。江岸の膝を没する泥濘地帯も、死体が枕木を敷きつめたように埋められ、その上を跳び或は這いずり廻って白兵戦が続いた」(「偕行」シリーズ(6))。
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・朝、第3師団歩兵68連隊の先遣隊、光華門と中華門の中間にある武定門から城内に入る。第3師団主力は第二線兵団として後方を追及中。
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・朝、第10軍第114師団(宇都宮)歩127旅団歩102連隊先頭に中華門から進入し、城内掃蕩
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・am8.第16師団中島師団長に下関突入命ぜられた歩33連隊、天文台占領、下関途上、江上の敗残兵全滅させる
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・午前8時30分、第10軍司令官柳川平助中将、残敵「殲滅」を下命
 「丁集団(第10軍)命令(丁集作命甲号外) 十二月十三日午前八時三十分 
 一、〔丁〕集団は南京城内の敵を殲滅せんとす 
 一、各兵団は城内にたいし砲撃はもとより、あらゆる手段をつくして敵を殲滅すべし、これがため要すれば城内を焼却し、特に敗敵の欺瞞行為に乗せられざるを要す」
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・朝、「残敵掃蕩」開始。
 上海派遣軍第9師団第6旅団長秋山義兌少将、「南京城内掃蕩要領」及び「掃蕩実施に関する注意」において、青壮年は全て便衣兵とみなす旨指示
 「一、遁走せる敵は、大部分便衣に化せるものと判断せらるるをもって、その疑いある者はことごとくこれを検挙し適宜の位置に監禁す 
  一、青壮年はすべて敗残兵または便衣兵と見なし、すべてこれを逮捕監禁すべし」
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・午前、第16師団(左翼担当)歩兵第19旅団(草場辰巳少将)歩20連隊、中山門に一番乗り。夕方まで掃蕩。殆ど抵抗無く「この日は一発も射たなかった」(森英生中尉)ほど。
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・午前、上海派遣軍第9師団(金沢、南京城東・東南側攻撃担当)、無抵抗で城内進入。中山門とその南側から歩35連隊と歩7連隊、光華門と通済門から歩36連隊と歩19連隊が入り、城内東南部を掃蕩。敗残兵の抵抗は微弱。夕方、掃蕩を打切り各所の建物で宿営。
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 13日午前10時に下達された歩兵第6旅団(秋山義兌少将、歩7、35連隊基幹)の「南京城内ノ掃蕩要領」「掃蕩実施ニ関スル注意事項」。
 外国権益への無断立入禁止、文化財・老幼婦女子の保護、掠奪・放失火の厳禁など項目と、「遁走スル敵ハ、大部分ガ便衣ニ化セルモノト判断サレルノデ、ソノ疑ヒアル者ハ悉ク検挙シ、適宜ノ位置ニ監禁スル」、「青壮年ハスべテ敗残兵又ハ便衣兵トミナシ、スべテコレヲ逮捕監禁セヨ」と指示。捕虜を認めないとの方面軍方針に沿えば、「監禁」は「処刑」の椀曲な表現と解釈される可能性がある。
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・【無抵抗で南京入城】午後、.金沢第9師団。~12月24日迄、断続的に掃蕩活動続ける。
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 12月7日付示達の「南京城攻略要領」では、城内掃蕩兵力は各師団から歩兵1個連隊基幹に制限し、主力は城外に集結する方針になっている。しかし、第9師団の場合は、13日に4個連隊全部が進入、第10軍の2個師団も半分以上が入城したらしい。第16師団は、15日に中島師団長を先頭に全員が中山門から入城式を実施、主力はそのまま居すわる。城外に宿営した部隊からも、連絡や見物の名目で相当数の兵士が入り込み、城内の兵力は7万以上となり、宿舎の奪いあいや占領前と変らぬ補給難が発生。
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 中山寧人中支部方面軍参謀の東京裁判での証言。
 「第一級軍隊の大部分は何時の間にか城内に入ったのであります・・・(その原因は)城壁の抵抗を排除した余勢にひきずられたこと、城外の兵営や学校などは中国軍又は中国人によって破壊され又は焼かれて日本軍の宿営が出来なかったこと、城外は水が欠乏していて、あっても飲料にならなかった」。
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 極端に少ない軍紀取締りに当るべき憲兵
東京裁判の日高信六郎証言。12月17日現在の城内憲兵は僅か14人で、数日中に40名の補助憲兵を得られる筈とある。この14人は上海派遣軍所属の憲兵(横由昌隆少佐)と推定され、第10軍も憲兵長上砂勝七中佐が「二十万の大軍に憲兵百人足らず」(上砂「憲兵三十一年)と書いており、南京占鱗直後では、城内の正規の意兵は、両軍合せて30名を越えないと推測できる。
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 第9師団の報告。
 「城内の掃蕩に当り七千余の敗残兵を殲滅せり」と述べ、南京攻撃戦における損害を、友軍死者460・負傷1156、敵軍の死体4500・他に城内掃蕩数約7千と数えている(戦闘での4500よりはるかに多い7千を敗残兵として殺害)。
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・午後、第13師団(仙台)山田支隊(山田栴二少将)、長江下流から南岸沿いを進撃し、鳥龍山砲台(南京17~18km)占領。幕府山に向う。14日、幕府山で捕虜1万4千余獲得。15日、南京より「処分」指示。16日~「処分」。
 「(13日) 例に依り到る所に陣地ある地帯を過ぎ、晴暘鎮を経て前進、霞棲街に泊する心算なりし所焼かれて適当の家なく更に若干前進中、先遣せし田山大隊午後一時烏竜山砲台を(騎兵第17大隊は午後三・〇〇)占領せり、南京は各師団掃蕩中との報あり、直に距離を伸して邵家塘に泊す」(「山田栴二日記」)。
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・午後、海軍第1掃海隊、揚子江上を敗走中の中国船艇・筏を掃蕩。「微減せるもの約一万」。
 「烏龍山水道より南京下関まで(十二月十三日) 一三二三前衛部隊出港、北岸揚子江陣地を砲撃制圧しつつ閉塞線を突破、沿岸一帯の敵大部隊および江上を舟艇および筏などによる敗走中の敵を猛攻撃、微減せるもの約一万に達し・・・一五三〇頃下関付近に折から城外進出の陸軍部隊に協力、江岸の敗兵を銃砲撃しつつ梅子州付近まで進出し、掃海策を揚収す・・・終夜江上の敗残兵の掃蕩をおこないたり。」(「南京遡江作戦経過概要」)
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 海軍軍医泰山弘道大佐は、「上海戦従軍日誌」に、「下関に追い詰められ、武器を捨てて身一つとなり、筏に乗りて逃げんとする敵を、第十一戦隊の砲艦により撃滅したるもの約一万人に達せりという」と書く。
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・午後1時40分頃、第16師団佐々木支隊(歩38連隊基幹)の先頭隊(独立軽装甲車第8中隊)、目指す下関に突入、「渡江中ノ敵五、六千ニ徹底的大損害ヲ与エテ之ヲ江岸及江中ニ殲滅」(歩38連隊戦闘詳報)する。
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・午後2時頃、「残敵掃蕩作戦」に従事した第16師団第30旅団長佐々木到一少将、和平門に到達し、城内の状況を記す。
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 「この日、我が支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は一万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したものならびに各部隊の俘虜を合算すれば、我が支隊のみにて二万以上の敵は解決されている筈である。
 ・・・午後二時ごろ、概して掃蕩を終わって背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進、和平門にいたる。その後、俘虜続々投降し来たり数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ、片はしより殺戮する。多数戦友の流血と十日間の辛惨を顧みれば、兵隊ならずとも「皆やってしまえ」と言いたくなる。白米はもはや一粒もなし、城内には有るだろうが、俘虜に食わせるものの持ち合わせなんか我が軍には無い筈だった。」(「佐々木到一少将私記」)
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・午後2時頃、第6師団の最左翼を北上した歩23連隊第3大隊(河喜多富士喜少佐)、漢中路付近で、請願書を持参した国際難民区委員会ラーべ委員長、フィッチら3人と出会う。
 難民保護と武装解除した便衣兵を捕虜として収容されたいとの請願。委員会の記録によると、日本軍の隊長は翌日来るはずの特務機関に交渉せよ、と答え、軍司令部への取りつぎを断わったという。   *
 「熊本兵団戦史」は、「大隊長は宣教師と協議し、その集団の外周を兵をもって警戒し、外部との交通を遮断して避難民を安全に保護した」と述べるが、フィッチの日記では、「日本軍部隊の出現に驚き、逃げようとする難民二〇人を殺した」という。
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・午後2時30分、第16師団歩兵第33連隊、「江上の敵を猛射することニ時間、殲滅せし敵二千を下らざる・・・」(「南京付近戦闘詳報」)。
 佐々木支隊に1時間遅れて、支隊復帰の歩33連隊主力が下関に突入。歩33は苦戦ののち前日夕方、紫金山第1峰を攻略、その戦功で感状を貰い、12日夜は付近で露営。第16師団中島師団長は、佐々木支隊の遅れを心配し、歩33にも下関突入を命じる。13日8時、歩33は天文台占領後、1個中隊を太平門に残し、主力は敗残兵を倒しながら下関へ向かい、江岸に集まったり、小舟や筏で逃れようと*
 江上にひしめく敗残兵の対し、1万5千発の小銃、機関銃火を注ぎほぼ全滅させたという。
 「午後二時三十分、前衛の先頭下関に達し、前面の敵情を捜索せし結果、揚子江上には無数の敗残兵、舟筏その他あらゆる浮物を利用し、江を覆いて流下しつつあるを発見す。すなわち連隊は前衛および速射砲を江岸に展開し、江上の敵を猛射すること二時間、殲滅せし敵二千を下らざるものと判断す。」「遺棄死体五五〇〇(タダシ敗戦兵ノ処断ヲ含ム)」「停虜、将校一四、下士官兵三〇八二、計三〇九六(俘虜ハ処断ス)」(「南京付近戦闘詳報」)。
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 「直ちに河岸に至り、散の舟逃ぐるをわが重機にて猛射す。面白きことこの上なし。又大隊砲の舟に命中、ものすごし。やがて我軍艦八隻も来り、思はず万歳を叫ぶ。敗残兵多数殺す。」(第2大隊機関銃中隊西田健上等兵の日記)。           、
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 第13師団歩兵第26旅団歩兵第58連隊第1大隊吉田庚。(下関での捕虜殺害なので第16師団と推測できる)。
 「(12月13日頃のこと)二、三日中に原隊へ連絡に行きし上等兵の帰着を待って南京を出発することとす。準備も完了している気安さから噂に聞く下関埠頭の捕虜銃殺現場を検分する。街側堤防脚部に監視兵に取囲まれた多数の捕虜うごめき、二十名提上に整列させ、半数は揚子江に面 して半数は裏向きとして、前向き十名は桟橋に駆足行進、濁流に投身せしむるのである。強行溺死の処置であるが、生還せんとするものまたは逃げんとせし者は、数名の歩兵が膝撃の構えで射殺する。終ると、残る裏向き十名が前向けに替わり、終れば提脚部から二十名整列、これを繰返すのである。鮮血河流を紅とす。嗚呼惨たる哉、巳むを得ざる処置なる哉。江上に浮上する我が駆逐艦上より二、三発飛弾水面 につき刺す。流弾的をはずるれば友軍に危害を招く恐れあり。桟橋上と提上の歩兵が怒号して中止せよと叫ぶ。漸く止みたり。海軍の面 白半分の行動である。上流に向かって堤防を行く。川面側の提下には、到る処正規兵の死体と銃器、弾帯、鉄兜散乱し、逃げかねて濁流に流されしものも多数あらん。 」(「軍馬の思い出 一輜重兵の手記」)。
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 飛行第8大隊付き陸軍航空兵軍曹井手純二。(下関での捕虜殺害なので第16師団と推測できる)。
 「鉄橋の手前で、収容所から運ばれてきたらしい二十人ばかりの中国人捕虜がトラックから降ろされ、江岸へ連行されて行く。釈放するからと偽って連れてきたのか、みんな大きなフロシキ包みをかかえ、厚い綿入りの冬服を着ていた。軍服姿は見当らなかったが、二十、三十歳代の男が主で、坊主刈りが多いので、便衣兵かなあと眺めていた。江岸まで二〇〇メートルもあったろうか、道路のカーブを曲ると、江岸の斜面 から水際にかけて処刑された死体がゾロゾロと重なっている。追い立てられてよろよろと歩いてきた捕虜たちは気づいて動揺したようだが、ここまで来ると、もう逃げ道はない。
 ・・・さていよいよ処刑が始まった。日本刀もあれば下士官用のダンベラを振りかざす者もいるが、捕虜はおとなしく坐りこんでいる。それを次々に斬って、死体を水面 にけり落としているのだが、ダンベラは粗末な新刀だから斬れ味は悪い。一撃で首をはねることができるのはかなりの名人で、二度、三度と斬りおろしてやっと首が落ちるのが大多数だが、念入りにやるのも面倒くさいのか、一撃して半死半生のままの捕虜をけり落としていた。
 ・・・その後もう一度同じような処刑風景を見たが、別の日に江岸で数人の兵が指さしながら見物しているので、”何ですか”と聞いてみると、十数人の捕虜を乗せた舟を揚子江の中流まで漕ぎ出して捕虜を突き落し、舟の上から機銃で射ち殺しているところだった。その前後、江岸にたまった死体を工兵隊らしい連中が、舟の上からさサオとカギを使って流しているのを目撃して、カメラに収めた。」(投稿「私が目撃した南京の惨劇」(増刊「歴史と人物」1984年12月号))。
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・第16師団団長中島今朝吾中将のこの日付け日記の「捕虜掃蕩」という項目に記述。投降兵・敗残兵を捕虜として収容せず、殺害するのは師団方針。この日、第16師団だけで2万3千の敗残兵を処理、うち歩30旅団(佐々木到一少将)だけで1万5千を処理。
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 「本日正午高山剣士来着す 捕虜七名あり直に試斬を為さしむ 時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頸ふたつを見込斬りたり・・・だいたい捕虜はせぬ方針なれは、片端よりこれを片づくることとなしたる(れ)ども、千、五千、一万の群集となれはこれが武装を解除することすらできず、ただ彼らがまったく戦意を失い、ぞろぞろ付いてくるから安全なるものの、これがいったん掻擾(騒擾)せば、始末にこまるので、部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ、十三日夕はトラックの大活動を要したり。
 ・・・後にいたりて知るところによりて、佐々木部隊だけにて処理せしもの約一万五千、大平門における守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇、その仙鶴門付近に集結したるもの約七、八千人あり、なお続々投降しきたる。この七、八千人、これを片づくるには相当大なる壕を要し、なかなか見当たらず、一案としては百、二百に分割したる後、適当のケ処(箇処)に誘きて処理する予定なり。」(中島師団長の日記)。
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 歩38連隊副官児玉義堆大尉の証言。
 「彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として〝支部兵の降伏を受け入れるな。処置せよ″と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックを受けた・・・参謀長以下参謀にも幾度か意見具申しましたが、採用するところとならず・・・」(「借行」シリーズ(5))。
 この師団副官は官本四郎大尉であり、宮本副官は13日に捕虜1万が出と報告すると、参謀長が即座に「捕虜はつくらん」と指示したと遺稿に記す(「轍跡」)。
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・午後4時、第16師団、国民政府庁舎に日章旗掲げる。公式の南京陥落。
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・午後5時30分~7時30分、第10軍第114師団歩127旅団(秋山充三郎少将)歩66連隊第1大隊、12日夜、中華門~光華門の城壁南で、助命すると約束して投降させ獲得した捕虜1500を処刑。「歩66連隊事件」。
 同大隊の戦闘詳報。
 「(二月一二日午後七時ごろ)最初の捕虜を得たるさい、隊長はその三名を伝令として抵抗断念して投降せば、助命する旨を含めて派遣するに、その効果大にしてその結果、我が軍の犠牲をすくなからしめたるものなり。捕虜は鉄道線路上に集結せしめ、服装検査をなし負傷者はいたわり、また日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ、さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり。
 (一二日夜)捕虜は第四中隊警備地区内洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜二〇名を使役し、徴発米を炊さんせしめて支給せり。食事を支給せるは午後十時ごろにして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。
 (一三日午後二時)連隊長より左の命令を受く。旅団(歩兵第一二七旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方態は十数名を捕縛し逐次銃殺しては如何。・・・
 午後三時三十分各中隊長を集め捕虜の処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に分配し、監禁室より五十名宛連れだし、第一中隊は路宮地南方谷地、第三中隊は路宮地西南方凹地、第四中隊は路宮地東南谷地付近において刺殺せしむることとせり。
 ・・・各隊ともに午後五時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後七時三十分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。」
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・pm7.第6師団歩45連隊、下関へ進軍中、中国軍第縦隊を攻撃全滅
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・支那方面軍艦隊参謀長杉山少将、米アジア艦隊司令官ヤール大将に陳謝
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・難民区国際委員会委員長ラーベがアメリカ人委員共にと日本軍総司令部に向う途中で目撃したもの。
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 「われわれは、たくさんの中国の民間人の屍体を見ました。いくつかの遺体を調べた結果、私は彼らが至近距離、おそらく逃走中に背後から射殺されたことが確認されました」と書く。沿道に見たのは、さながら「うさぎ狩り」のように逃げるところを射殺された民間人の死体。「私はさらに、われわれが走った範囲では市街にはごく僅かな損傷しかないことを確認しました。撤退する中国軍はごく僅かな損害しか加えlなかったのでした。われわれは、この事実に満足し、しっかりと記憶に留めました」と記す(「南京書件・ラーベ報告書」)。
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 南京城東南部は、避難する手段・条件の無い貧しい階層の人々が残り住む住宅密集地で、そこへ敗残兵が逃げこんでいると想定した日本軍は、幾つかの部隊を投入し徹底した掃蕩作戦を行なう。
 第9師団歩兵第19連隊(敦賀)は、「午前一〇時光華門より城内に進入し、東南部を掃蕩して、通済門西側地区に兵力を集結し、爾後の行動を準備した」と記す(「敦賀連隊史」)。
 第114師団歩兵第150連隊(松本)は、雨花門・武定門から白鷺州地区一帯を担当、「城内は家屋稠密しあり、掃蕩に時間を要せり」と記録(「歩兵第五十連隊史(歩兵第一五〇連隊史を含む)」)。
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13日・この日の新聞報道。
 「南京城内の敵総崩れ、南側城壁を全部占領、残敵掃蕩、凄壮を極む、皇軍の戦果益々拡大」(「東京日日」)。
「南京・南側全城壁に日章旗翻る、潮の如く城内へ殺到、凄絶・暗夜の大市街戦、敵の二個師全滅、凄愴!〝最後の姿〞」(「東京朝日」)。
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13日・「東京朝日」(13日付)社説「占領地窮民の救済」。
 「戦地を視察して帰った人々の異口同音に語る重要話題の一つは、北支と上海付近とに論なく、我軍の占領地域内における支那住民の驚くべき困窮状態である。水害や干魅の災いを受け、餓死するもの幾万なるを知らずという所もあり、その上、疫病、匪賊、内乱の犠牲となって倒れるもの等、年々幾十百万の多きに達し・・・。今目前飢餓に追れる窮民数百万人の救済については新政権の樹立を待つまでもなく、日本としても即刻着手すべき緊急問題といわねばならぬ」
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13日・萩原朔太郎「南京陥落を祝ふ詩」(東京朝日新聞)
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13日・広田外相、米大使グルーに陳謝/駐米斎藤博大使、米国務長官ハルに陳謝
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13日・末次信正予備役海軍大将(参議)、内務大臣就任
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13日・米、ニューヨーク、デューイ委員会、トロツキーを無罪とする評決。
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to be continued

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