2008年12月28日日曜日

昭和12(1937)年12月21~24日 南京(11) 便衣狩り「査問工作」 和平工作無用論

12月21日
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・第16師団歩30旅団長佐々木到一少将、南京地区西部警備司令官(21日付)・城内粛清委員長(22日付)・宣撫工作委員長(26日付)の肩書きをもらい、月末から年頭にかけて苛烈な便衣狩りを再開
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上海派遣軍司令部は、第16師団(中島今朝吾中将)を南京城区、湯山鎮、句容、待秣陵関など近郊区の占領維持に残留させ、第13師団に長江北の六合県一帯を警備させる。
第16師団は、上海戦で大きな犠牲を強いられ、南京攻略戦に駆りたてられ、「南京一番乗り」をめざした部隊で、南京城攻防でも最強の教導総隊を相手に多数の犠牲を出し、それだけに中国軍民への敵慌心が強く、中島師団長の傍若無人の性格とも相俟って、軍紀弛緩の著しい部隊。その為、南京での日本軍の残虐事件は、数は減少するものの、虐殺・強姦・略奪・放火などの蛮行が続く。
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・この日付け上海派遣軍参謀長飯沼守少将と上海派遣軍参謀副長上村利道大佐の「日記」。
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「十二月二十一日 大体晴 荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒かれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且つ相当数に逃けられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得すして帰りしは此不始末の為なるへし。」(「飯沼守日記」)。
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「十二月二十一日 晴 ・・・N大佐より聞くところによれは山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MGにて打ち払ひ散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり。」(「上村利道日記」)。
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・長谷川司令官、列国外交団に揚子江通航の差控を通告。23日、列国自由航行権保留を回答。
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・新しい修正加重和平条件(14~17日、大本営政府連絡会議の結論)、閣議決定。翌22日、ディルクセン駐日独公使に提示。
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本来の戦争目的である防共・資源・市場を柱とする華北制圧要求を基本として、それを全中国制圧要求へ膨張させたもの。
①「満州国」正式承認、
②排日反満政策放棄、
③華北・内蒙に非武装地帯設定、
④華北特殊政治機構設定と「日満支経済合作」、
⑤内蒙古防共自治政府設立、
⑥防共政策確立、
⑦華中占拠地域に非武装地帯設定、大上海市区域の共同治安維持・経済発展、
⑧資源開発・関税・交易・航空・通信等に関する協定の締結、
⑨賠償、および華北・内蒙・華中の一定地域の保障駐兵。
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・新橋の地下鉄工事現場でガス爆発。6店舗全焼、3人重症。
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・アメリカ、女優ジェーン・フォンダ、誕生。
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12月22日
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・中支那方面軍司令官松井石根大将、南京より上海に向かう。
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「上海出発以来ちょうど二週日にして南京入城の大壮挙を完成し、帰来する気持ちは格別なり。これより謀略その他の善後措置に全力を傾注せざるペからず」と満足感と傀儡新政権樹立工作への意欲を漲らせる(「松井石根大将戦陣日記」この日条)。
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「十二月二十三日(晴) 二週間振(リ)ニ帰来ス 上海情勢漸次平静ニ向ヒツツアルモ南市ノ処分未タ終ラス 滬西方面ニアル外国人ノ居住モ一応ハ許可セルモ 支那人ノ出入自由ナラサル為メ実行意ノ如クナラス 其後ノ謀略ニ付原田少将、楠本大佐ヲ召致シテ情況ヲ聞ク 是亦多少共進展ノ模様ニテ上海在住実業家ヲ網羅スル和平、救民運動ハ漸ク其緒ニ就カントシツツアルモ未タ十分ノ纏ヲ見ス 一層ノ努力ヲ要スルモノト思ハル 思フニ先日来のパネー事件、蕪湖事件等英米抗議ニ対スル東西ノ衝撃か兎角ニ上海支那人中ニモ鋭敏ニ影響スルモノアリシ乎」(「松井石根大将戦陣日記」23日条)。
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・この日付け第9師団歩兵第7連隊第2中隊井上又一上等兵の日記。敗残兵殺害。
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「壱拾弐月弐拾弐日・・・夕闇迫る午後五時大体本部に集合して敗残兵を殺しに行くのだと。見れば本部の庭に百六十一名の支邦人が神明に控えている。後に死が近づくのも知らず我々の行動を眺めていた。百十六余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林寺付近の要地帯に掩蓋銃座が至る所に見る。日はすでに西山に没してすでに人の変動が分かるのみである。家屋も点々とあるのみ、池のふちにつれ来、一軒家にぶちこめた。家屋から五人連をつれてきては突くのである。うーと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、全く最後を知るに及んでやはり落ち着きを失っているを見る。戦に敗れた兵の行く先は日本人軍に殺されたのだ。針金で腕を締める、首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。中には勇敢な兵は歌を歌い歩調をとって歩く兵もいた。突かれた兵が死んだまねた、水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中に逃げるためにしがみついてかくれている奴もいる。いくら呼べど下りてこぬ為ガソリンで家屋を焼く。火達磨となって二・三人が飛んできたのを突殺す。暗き中にエイエイと気合いをかけ突く、逃げて行く奴を突く、銃殺しパンパンと打、一時此の付近を地獄のようにしてしまった。終わりて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけ、火の中にまだ生きて動いている奴が動くのを又殺すのだ。」
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・陸軍省局長会報に出た阿南惟幾人事局長、「中島師団婦人方面、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして言語に絶するものあり」(阿南資料)とメモに記す。
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・日本無産党、日本労働組合評議会、結社禁止。司法省発表「いまや民主主義自由主義等の思想は共産主義思想発生の温床となる危険性が多分にある」。
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日本無産党:
労働組合法など社会立法獲得のため全評(日本労働組合全国評議会)、東交(東京交通労働組合)、関消連(関東消費組合連合会)などを中心に組織されたカンパニヤ組織である労農無産団体協議会が、戒厳令下の府議選を前にして政治結社に発展したもの。社大党との間に摩擦を生じ、内部から全農(全国農民組合)などの脱退を生んだため解体の上、改めて再結成された同名の協議会が、社大党への無条件合同提案が拒否されて戦線統一を断念し、1937年3月、社大党に対立する全国的政党として日本無産党と改称したもの。
「ファッショの撲滅」、「無産政治戦線の統一」等のスローガンで、4月の総選挙には3名が当選(得票数10万票)。日中戦争勃発後は、友誼団体を集めて物価対策委員会を開催し、8月には「時局に関する指令(第一号)出征兵士家族救援について」を発言するなどの活動。
検挙直前の構成:
委員長加藤勘十、書記長鈴木茂三郎、東京府連会長高津正道。支部数は準備会をいれて44、党員数は7,046名。翌1938年2月起訴の鈴木茂三郎は裁判の結果、42年9月第1審で懲役5年、44年9月第2審で懲役2年6ヶ月の判決、45年11月大審院で原判決破棄、免訴。
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・広田外相、ディルクセン大使に和平4条件提示。ディルクセンは、「これでは中国側の受諾は殆ど不可能であろう」と述べる。26日、トラウトマン駐中国独大使より中国に提示される。
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・米、元国務長官ケロッグ(81)、没。
・スペイン、テルエルの戦い、共和国軍、テルエル突入。叛乱軍は民政長官邸などに立て籠もる。
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12月23日
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・南京、アメリカ大使館侵害(自動車略奪・中国人館員殺害)。
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・朝鮮各級学校で天皇の写真の奉安敬拝が強要される。
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・帝国ホテル、晩餐会と舞踏会を廃止すると発表。
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12月24日
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・第9師団(金沢)、掃蕩任務を第16師団に引継ぐ。
この日、第16師団、第2次便衣狩り「査問工作」再開。~1月5日迄。第9師団は、上海~南京間の嘉定・常熱、崑山地区へ転出。
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この日付け第16師団「状況報告」。
「今次作戦間、兵馬の給養は現地物資をもってこれに充つるの主義を採り、もって迅速なる機動に応ぜんと企図せしが、幸いに富裕なる資源により、おおむね良好なる給養を実施しえたり」と総括。進軍途中の物資豊富な都市・農村で十分に食糧徴発=略奪ができたということ。
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「査問工作」:
日本の憲兵隊が市民と難民の登録を行い、身体検査をして民間人と判定した場合は「居住証明書」(「安居証」)を交付。
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佐々木到一の回想録では、
第2次便衣狩りの目的は、「城内の粛清は土民にまじる敗兵を摘出して不穏分子の陰謀を封殺するにあるとともに、我軍の軍紀風紀を粛清し民心を安んじすみやかに秩序と安寧を回復するにあった」「予は俊烈なる統制と監察警防とによって、概ね二十日間に所期の目的を達することができた」と自讃。「査問」は翌年1月5日に終り、「この日までに城内より摘出せし敗兵約二千・・・城外近郊にあって不逞行為をつづけつつある敗残兵も逐次捕縛、下関において処分せるもの数千に達す」という。
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中沢第16師団参謀長が東京裁判に提出したロ供書では、
「日支人合同で委員会を構成し、住民を調査することとした。その調査の方法は目支人立会の上、一人宛審問し又は検査し、委員が合議の上、敗残兵なりや否やを判定し、常民には居住証明書を交付した」と述べる。師団副官官本四郎大尉は、「一人ずつ連れ出して真の避難民か、逃亡兵かを見分ける。多勢であるので書類づくり等は一切しない。兵隊は短スボンが制服なので太股に日焼けの横線がある-紛らわしいのは逃亡兵の方に入れる」(「轍跡」)という。
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・南京で兵団長会議、各兵団長より上海派遣軍朝香宮司令官に報告、軍紀・風紀についても報告
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・第10軍主力、杭州占領。南京~蕪湖の要地に分散駐屯し次期作戦を待つ。
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・日本側和平条件第2次回答、届く
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・冀東防共政府の代理長官池宗墨、通州事件の賠償として120万円を出すことを通告
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・中華民国新民会発足
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・日本政府、米パネー号事件に関し遺憾の意を表明。
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・閣議、「支那事変対処要綱」を決定。
「南京政府との交渉成立を期待せず」、別個に時局の収拾を計ることを決定。蒋政権が反省の色を示さない場合、華北政権を拡大強化し「更正支那の中心勢力」たらしめる方針決定。
中国政府「ニシテナオ長期ノ抵抗ヲ標傍シ毫モ反省ノ色ヲ示サザル場合」には、「今後ハ必ズシモ南京政府トノ交渉成立ヲ期待セズコレト別個ニ時局ノ収拾ヲ計リツツ・・・北支ニオイテ防共親日満政権ノ成立・・・ノ促進ヲ計リ・・・更生新支那ノ中心勢力タラシムル如ク指導ス」る方針を固める。
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この方針は、広大な占領地区を早く経済的にも掌握したいとの欲求に貫かれている。華北新政権の支配地域は河北・山東・山西3省と察哈爾省の一部とし、これら地域の重要産業開発・統制の為に、国策会社を樹立し、華中でも、こうした新政権と国策会社方式を実現してゆこうとの経済的支配の構想が、新たに国策のレベルに登場。
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さらに閣議諒解事項として、経済開発の際にはできるだけ内地企業の技術・経験・資本を利用することが決められる。既に軍は、多くの中国企業を接収し、軍管理下におき、興中公司などに経営委託しているが、これらを一大持株会社の統制下で内地の同種企業と結びつけることも考えており、それは財界の希望に沿うものである。そしてこうした、軍の威力を背景とした傀儡政権下での経済開発という甘い幻想は、それによって占領地の安定がもたらされるかの如き楽観論と結んで、和平交渉無用論の圧倒的流れを作り出す。
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既に10月1日の四相会議で、和平の際には経済提携を要求し、「支那全般に亘り海運・航空・鉄道・磺業等の事業より着手」して、「日支共同開発」を行なう方針を決定。
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この要綱では、華北・華中に、夫々国兼会社を設けて経済開発を行なうと具体化される。
この国策会社は、翌13年の第73議会を通過した法律により、北支那開発会社・中支那振興会社として実現。この両社は投資機関であり、鉄道・鉱山・電力はじめ、紡績・製粉・煙草・セメント・製紙・印刷と、あらゆる部門に手を伸ばし、投資した事業を日本の資本家に委託・経営させてゆく。同じ議会で、国家総動員法も成立し、同会社設立は、長期体制へ踏み切る事を意味する。
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・東郷茂徳駐独大使、ベルリン着任。

to be continued

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