12月14日 南京
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・第13師団(仙台)山田支隊(歩103旅団長山田栴二少将、歩65連隊基幹)、幕府山砲台占領。捕虜1万4千。揚州占領。
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山田支隊は、前日占領した鳥籠山から幕府台砲台に向う。
途中、燕子磯~上元門は、長江南岸を幕府山の急峻な絶壁が10km近く連なり、幕府山を川が浸食してできた僅かな平地が、長江沿いに続く。下関から続くこの帯状地帯に、山田支隊の進撃の遅れもあり、南京城陥落ととも長江下流に敗残兵・避難民が殺到。
そこに13日夕~翌日早朝、山田支隊が下流から進軍。南側は絶壁の岩山、北側は長江の大河、後方の下関では日本軍の大殺戮と、難民にとって絶体絶命の状態。
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支隊長山田栴二少将の日記。
「(一二月一四日)他師団に砲台をとらるるを恐れ、午前四時半出発、幕府山砲台に向かう、明けて砲台の付近に到れば投降兵莫大にして仕末に困る。捕虜の仕末に困り、あたかも発見せし上元門外の学校に収容せしところ、一四七七七名を得たり、かく多くては殺すも生かすも困ったものなり、上元門外三軒屋に泊す。」
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上海派遣軍参謀長飯沼守少将の日記。
「十二月十四日 快晴 13Dの山田支隊は途中約千の敗残兵を掃蕩し四・三〇烏龍山砲台占領、高射砲及重砲十余門を鹵獲せり」(「飯沼守日記」)。
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(見出し)「持余す捕虜大漁、廿二棟鮨詰め、食糧難が苦労の種」、
「(南京にて横田特派員十六日発) 両角部隊(歩65連隊長両角業作大佐)のため鳥籠山、幕府山砲台の山地で捕虜にされた一万四千七百七十七名の南京潰走敵兵は何しろ前代未聞の大捕虜軍とて捕へた部隊の方が聊か呆れ気味でこちらは比較にならぬ程の少数のため手が廻りきれぬ始末、先づ銃剣を棄てさせ付近の兵営に押込んだ。一個師以上の兵隊とて鮨詰めに押込んでも二十二棟の大兵舎に溢れるばかりの大盛況だ
・・・一番弱ったのは食事で、部隊さへ現地で求めてゐるところへこれだけの人間に食はせるだけでも大変だ、第一茶碗を一万五千も集めることは到底不可能なので、第一夜だけは到頭食はせることが出来なかった」(「朝日新聞」17日)。
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第13師団山田支隊歩兵第65連隊第7中隊「大寺隆上等兵の陣中日記」。
「(一二月一四日) 食糧は今日からなしに。地方から徴発していかなければならない。第四中隊は徴発中隊だ。」。
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13師団(荻洲立兵中将)山田支隊(歩兵第104旅団、山田栴二少将)歩兵第65連隊(両角業作大佐)本部通信班小行李・編成 輜重特務兵「斎藤次郎陣中日記」。
「十二月十四日 晴・・・第一大隊の捕虜にした残敵を見る、其数五六百名はある、前進するに従ひ我が部隊に白旗をかかげて降伏するもの数知れず、午後五時頃まで集結を命ぜられたもの数千名の多数にのぼり大分広い場所を黒山の様に化す、若い者は十二才位 より長年者は五十の坂を越したものもあり、服装も種々雑多で此れが兵士かと思はれる、山田旅団内だけの捕虜を合して算すれば一万四千余名が我が軍に降った、機銃、小銃、拳銃、弾薬も沢山捕獲した、入城以来本日の様に痛快な感じがした事はない、此辺一帯は幕府山要塞地帯で鉄条網を張り塹壕を掘り南京附近の最後の抵抗線だったらしい、・・・」。
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・14~16日、第16師団の南京城内外掃蕩作戦続行。敗残兵・捕虜殺害。松井大将の意志により17日に入城式を強行するため。
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この日、まだ蘇州の方面軍司令部にいる松井大将が、湯山鎮に移動している塚田参謀長に指示し、17日に全軍の入城式を挙行するので、その前に掃蕩作戦を終るよう、南京の上海派遣軍参謀長飯沼守少将に要請させる。
上海派遣軍朝香宮軍司令官は、「無理をせざる如く掃蕩作戦をやるべし」との見地から、入城式は早くて18日にしたいという意見であり、飯沼日記によると、第16師団中沢三夫参謀長が連絡の長参謀に「二十日以後にしてくれ、そうでないと責任を持てない」と反対(15日、第16師団は先に独自の入城式を実施)。
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・第16師団佐々木支隊(第30旅団)佐々木到一支隊長は、「歩兵第三十旅団命令 ・・・各隊は師団の指示あるまで停虜を受けつくるを許さず」と正式に下令。この日、歩33は下関と城内の獅子山、北西部一帯、歩38は中山北路から玄武湖に向かって城内東部。
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「歩兵第三十旅団命令 十二月十四日午前四時五〇分 於中央門外 一、敵ハ全面的ニ敗北セルモ尚抵抗ノ意志ヲ有スルモノ散在ス 二、旅団ハ本十四日、南京北部城内及ビ城外ヲ徹底的ニ掃蕩セントス 三~五(略) 六、各隊ハ師団ノ指示アル迄俘虜ヲ受付クルヲ許サズ 七~十一(略)」。命令は、参考事項として「(避難民等ハ)一地区ニ集合避難シアリテ、掃蕩地区ニハ住民殆ンド無シ」「敵ハ統制ノ下ニ我卜交戦ノ意図ヲ有スルガ如キモノ無キガ、敗残潜在スル数ハ少クモ五、六千名ヲ下ラズ」との情報と判断を付加されている。(兵第38連隊「戦闘詳報」付属)
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中山門外で処刑風景を目撃した第16師団経理部小原予備主計少尉。
「最前線の兵七名で凡そ三一〇名の正規軍を捕虜にしてきたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人ずつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す
・・・中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ。外に二千名が逃げていると話していた。戦友の遺骨を胸にさげながら突き殺す兵がいた」(「小原立一日記 12月14日)。
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「十二月十四日、両連隊全部隷下に掌握、城内外の掃蕩を実施す。いたるところ潜伏している敗残兵をひきずり出す。が武器はほとんど全部放棄又は隠匿していた、五百、千という大量の俘虜がぞくぞく連れられてくる。
・・・敗残兵といえとも尚、部落・山間に潜伏して狙撃をつづけるものがいた。したがって、抵抗するもの、従順の態度を失するものは、容赦なく即座に殺戮した。終日、各所に銃声がきこえた。大平門外の大きな外濠が死骸でうずめられてゆく」(第16師団第30旅団長佐々木到一少将「佐々木到一少将日記」)。
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第16師団第30旅団歩兵第33連隊西田優上等兵「陣中日記」。
「(十四日) 十一時三十分入城、広場において我小隊は敗残兵三七〇名、兵器多数監視、敗残兵を身体検査して後手とし道路に坐らす。我は敗残兵中よりジャケツを取って着る。面 白いことこのうへなし、自動車、オートバイ等も多数捕獲す。各自乗りまはせり、八時頃小銃中隊に申し送り、昨夜の宿に帰る。敗残兵は皆手榴弾にて一室に入れ殺す」。
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第16師団第30旅団歩兵第33連隊戦闘詳報第3号附表。
「自昭和十二年十二月十日 至昭和十二年十二月十四日 [俘虜] 将校14、准士官・下士官兵3,082 馬匹52 [備考] 1、俘虜は処断す 2、兵器は集積せしも運搬し得す 3、敵の遺棄死体・・・以上四日計 六、八三〇」。
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第16師団第30旅団歩兵第38連隊第3中隊志水一枝軍曹「陣中日記」。
「(一四日)右掃蕩隊として南京北部城内の徹底掃蕩に任ず。〇八〇〇より・・・・城壁を撃ちて城内に進入し、同開門を施す傍ら横行せる敗残兵を補足殲滅す。一部降りて和する者ありしが行動不穏の為九二名を刺殺せり・・・城内に潜伏或いは横行せる敗残兵無数にて其の醜状其際達しあり。勇躍せる中隊は尚一部抵抗の意志ある敗残兵を随所に殲滅しつつ城内粛正に一段の光彩を放ちたり」。
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歩38戦闘詳報第12号付表。
「俘虜七二〇〇名(内将校七〇)ハ第十中隊尭化門付近ヲ守備スべキ命ヲ受ケ、同地ニ在りシガ、十四日午前八時三十分頃数千名ノ敵白旗ヲ掲ゲテ前進シ来リ午後一時武装ヲ解除シ南京ニ護送」と記す。この7200人のその後については確認できていない。
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第6師団輜重兵第6連隊小隊長高城守一氏の証言。
「(十二月十四日、佐々木支隊の戦闘の後を目撃して)波打ち際には、打ち寄せる波に、まるで流木のように死体がゆらぎ、河岸には折り重なった死体が見わたす限り、累積していた。それらのほとんどが、南京からの難民のようであり、その数は、何千、何万というおびただしい数に思えた。
・・・私は、これほど悲惨な状況を見たことがない。大量に殺された跡をまのあたりにして、日本軍は大変なことをしたなと思った。」
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・午前10時から、第16師団歩兵第19旅団(草場辰巳少将)歩20連隊第1大隊(西崎逸雄少佐)第4中隊(坂清中尉)、西作命第170号により掃蕩実施。同中隊の陣中日誌(第5号)は、「敗残兵三二八名ヲ銃殺シ埋葬ス」と記載。
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「明ければ十四日難民区へ。今日こそしらみつぶしにやって戦友の恨を晴らしてやろう、と意気ごみ、ある大きな建物に入ると、数百人の敗残兵が便衣に着がえつつあるところを見つけた。そばには青竜刀やピストルなど山のようにある。持物検査をしてけったりひっぱたいたあと電線でジュズつなぎにする。三百人はいたが始末に困る。そのうち委員会の腕章をつけた支那人に『いるか』と開くと、向いの大きな建物を指して『多々有』と言うので、入ると難民が一杯、そのなかから怪しそうな一千人ばかりを一室に入れ、さらに三百人よりだし、夕方に六百人近くの敗残兵を引きたて玄武門に至り、その近くで一度に銃殺した」(増田六助上等兵(2小隊3分隊)が南京戦直後に執筆した「南京城内掃蕩の記」(「支部事変出征戦友の手記」収録))。
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同中隊と思われる別の兵士(戦死)の陣中日誌(昭和59年7月、遺族から匿名を条件に「朝日新聞」に提供、本多勝一「南京への道」⑲に紹介)の記述。
選り出した数は連長など将校含む500名ばかりとあり、城壁の山ぎわで重機2丁、軽機6丁、小銃の一斉射撃で射殺、とある。この建物は司法(行政)部だったと推定される。
12月18日付難民区委員会文書第7号は、「十四日、日本軍将校一名が司法部へやってきて難民の半数を取調べ、そのうち二、三百人を元中国兵として逮捕・連行し、三五〇名は一般市民であるとして残した」と述べている。
2日後、日本軍は司法部の再検査をやり、リッグス委員を殴り、警官百人を含む男子の殆ど全員を連行し、2千人が漢中門外で射殺されたという。警官の1人で東京裁判に出廷した伍長徳の証言で、彼は処刑者を中島部隊(第16師団)と名指すが、第9師団の可能性もあり特定は困難。
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・第16師団と第9師団により、国際難民区一帯に対する「敗残兵狩り」が行われる。
この難民区に、城区の市民、周辺農民、遠くから上海攻略戦・南京進撃戦を逃れてきた難民が、最高時25万人が避難。
ラーベ委員長は、「われわれ二五万人の難民からなる「人の蜂の巣」のなかに住むことになった。最悪の場合として予想したより五万人多かった」と書く。委員会は、食べるものを全くも持たない極貧者6万5千の為に難民収容所25を開設し食物を無料で提供。
ラーベは、「要するに私たちが当時、市全体、南京の市役所の業務のすべてを事実上引き継いだ」と述懐。委員会は、膨大な難民の為に、集団収容施設設置、食料支給、安全確保、病院・医療緻関確保と衛生設備設置、治安・秩序維持の為の警察行政施行、等を執行する体制を組級し指導。アメリカ人宣教師・教授達は、中国の大洪水・大飢饉などが発生する毎に難民救済活動に従事し中国人の組織と指導に熟達していたから、これが可能であった。12日夜より、撤退機会を失った多くの敗残兵が、武器を捨て、軍服を脱いで逃げ込んで来る。
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・第9師団歩兵7連隊(金沢)の「敗残兵狩り」。
「一二月一四日 昨日に続き、今日も市内の残敵掃蕩にあたり、若い男子のほとんどの、大勢の人員が狩りだされて来る。靴づれのある者、面タコのある者、きわめて姿勢の良い者、目つきの鋭い者、などよく検討して残した。昨日の二十一名とともに射殺する。」(歩7第1中隊の水谷壮上等兵の日記「戦塵」)。
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安全区国際委員フィッチの記述。
「十二月十四日、日本軍の連隊長が安全区委員会事務所を訪れて、安全区に逃げこんだ六千人の元中国兵-彼の情報ではそうなっている-の身分と居場所を教えるよう要求したが、これは拒否された。そこで日本軍の捜索隊が本部近くのキャンプから、中国軍の征服の山を見つけだし、近辺の者一三〇〇人が銃殺のため逮捕された。安全区委員会が抗議すると、彼らはあくまで日本軍の労働要員にすぎないといわれたので、今度は日本大使館に抗議に行った(一二月一三日に日本軍と同時に南京に入城していた)。そしてその帰り、暗くなりがけに、この使いの者は一三〇〇人が縄につながれているのを目撃した。みな帽子もかぶらず、毛布だの他の所持品もなにひとつ持っていなかった。彼らを待ちうけているものは明白であった。声ひとつたてる者もなく、全員が行進させられ、行った先の川岸で処刑された。」(「サウスチャイナ・モーニング・ボスト」38年3月16日)。
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ラーべによる「処分」の実相に関する報告。
「武装解除された部隊の各人、またこの日(一二月一三日)のうちに武器をもたずに安全区に庇護を求めてきたこの他の数千の人々は、日本人によって難民の群れのなかから分けだされたのでした。手が調べられました。銃の台尻を手で支えたことのある人ならは、手にたこができることを知っているでしょう。背嚢を背負った結果、背中に背負った跡が残っていないか、足に行軍による靴ずれができていないか、あるいはまた、毛髪が兵士らしく短く刈られていないか、なども調べられました。こうした兆候を示す者は兵士であったと疑われ、縛られ、処刑に連れ去られました。何千人もの人がこうして機関銃射撃または手榴弾で殺されたのです。恐るべき光景が展開されました。とりわけ、見つけだされた元兵士の数が日本人にとってまだ少なすぎると思われたので、まったく無実である数千の民間人も同時に射殺されたのでした。
・・・しかも処刑のやり方もいい加減でした。こうして処刑されたもののうち少なからぬ者がただ射たれて気絶しただけだったのに、その後屍体と同様にガソリンを振りかけられ、生きたまま焼かれたのです。これほどひどい日にあわされた者のうち数人が鼓楼病院に運びこまれて、死亡する前に残忍な処刑について語ることができました。私自身もこれらの報告を受けました。われわれはこれらの犠牲者を映画で撮影し、記録として保存しました。射殺は揚子江の岸か、市内の空き地、または多くの小さな沼の岸で行われました。」(「南京事件・ラーベ報告書」)。
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・第10軍第6師団歩45連隊、下関到着。広場を埋める捕虜5~6千。第6師団から第16師団に申し継がれる。
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成友第2大隊長の回想記。
「幹部らしいのを探しだして集合を命ずると、おとなしく整列した。その数五、六千名。
・・・そこで『生命は助けてやるから郷里に帰れ』といった。
・・・折から連隊から江東門に下がって宿営すべき命令に接したので、第十六師団に後を申継いで後退した」。
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本多勝一の劉四海二等兵とのインタビュー(「南京への道」⑰)。
87師所属の劉ほ、雨花台から南京城内を南北に縦断して下関まで脱出したが、中国人らしい通訳が、「降伏せよ、降伏すれば殺さない」と叫んだので、帽子を逆にかぶって投降。その数は1万より少なく、「数千」単位で2ヶ所に集められ、馬に乗ってヒゲが両耳から顎下3~4cmまで垂れた隊長(中国語のできる山本隼人大尉か)から「釈放する。故郷へ帰れ」と云われる。捕虜たちは、白旗を掲げ夫々の故郷へ向けて出発。劉は安徽省へ行く40~50人の一団に入る。三汊河~江東門の途中で刺殺された兵士・老人・女性の死体を多数見る。別グループは江東門近くの模範囚監獄前でほぼ同数の日本兵に捕まり、銃剣と軍刀で皆殺しにされる。劉は重傷を負い辛うじて脱出。
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前田吉彦少尉(第2大隊第7中隊)の日記。
下関から来た丸腰の捕虜100人(一説には千人)が14日午後、江東門で監視兵に殺害される事件が記され、劉の体験と一致。「折角投降した丸腰の停虜の頭上に加えた暴行は何とも弁解できない」と記す。第2大隊が釈放した捕虜を第3大隊が殺してしまう結果になる。
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・夕方、第10軍司令部、中華門外より市内上海商業儲畜銀行へ移動。
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・午後7時30分、国崎支隊歩兵第41連隊(福山)の中隊、長江上流の江心洲(南岸から川幅200~300mで簡単に渡れる位置)に敗残兵多数いるとの情報により「残敵掃蕩」。最初に投降した捕虜を利用して残りの中国兵を降伏させる。
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「中隊長の計画は図にあたり、午後七時三十分より続々兵器を持参し白旗を掲げて我が第一線に投降す。中隊長は兵器と捕虜を区分しこれが整理をおこなえり。これよりさき支隊長に捕虜の処分、兵器の処置の指示を受けしに、武装解除後兵器は中隊とともに、捕虜は後刻処置するをもってそれまで同島において自活せしめよとの命令あり。・・・捕虜二千三百五十人。」(歩兵第四一連隊第一二中隊「江興(心)州敗残兵掃蕩に関する戟闘詳報」)
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・「敗残兵三万の充満する」揚子江を小船で下った陸軍准尉らの体験談(「朝日新聞」、同盟電、38年1月25日付長崎版など)
「(12月13日午前3時ごろ)江上全部敵です・・・前後左石、民船、筏、発動船、戸板などに乗つた敵が一杯で殆んど水面が見えないほど」「(夜が明けて)敵の数は殖える一方・・・敗残兵はいづれも寒さに震へながら一生懸命に漕いでゐる、その大部分は鉄砲を捨てたらしく持ってゐない」「翌十四日午前二時半下から(日本の)軍艦が遡つて来た・・・機銃、小銃で猛烈に敗残兵を打ちながら来るので、我々はその敗残兵の中にゐるのでその危険といつたらありません、周囲の敵は銃火を浴びると皆ザプンザブンと冷たい河中に飛び込む」。
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・日本外交団第2陣南京入り
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・南京日本総領事館(総領事代理福井淳領事)、復帰
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・中華民国臨時政府設立(北京居仁堂、王克敏行政委員長、華北占領地域の傀儡政権)。
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・山西省臨時政府成立に伴い、委員会が臨時政府に合流、「山西省政府籌備委員会」に改称
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・~17日、大本営政府連絡会議、中国との和平条件に修正加重。華北の特殊地域化、華中占領地の非武装地帯化、戦費賠償要求など、華北を植民地にする方向で条件決定。21日閣議決定。22日広田からディルクセンに提示。26日ディルクセン~トラウトマンから孔祥熙(行政院副院長)に提示。回答なし。
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円卓会議で、近衛首相の右へ多田参謀次長、古賀軍令部次長、杉山陸相、広田外相、米内海相、末次内相、賀屋蔵総、陸・海両軍務局長の順に並び、和平条件の説明は外務省東亜局長石射猪太郎。
結果:満州国正式承認。華北・内蒙に非武装地帯設定。華北・華中・内蒙に保障駐兵し、華北新政権承誌。戦費賠償、等々、旧案を大幅に変更し新条件を追加し、全面降伏を強いるも同然のものになる。
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新任の末次内相が「なまじっかな講和条件では駄目だ」「かかる条件で、国民が納得するかね」と煽る。米内海相は和平成立の公算ゼロと反対。広田外相は「マア三、四割は見込みがありはせぬか」、杉山陸相は「五、六割は見込みがあろう」と同調。
石射東亜局長は「こんな条件で蒋が講和に出てきたら、彼はアホだ」と記す。
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堀場(参本戦争指導班)の批判。
「広田外相は、犠牲を多く出したる今日かくの如き軽易なる条件を以ては之を容認し難きを述べ、杉山陸相同趣旨を強調し、近衛首相同意を表し、大体敗者としての言辞無礼なりとの結論に達し、その他みな賛同せりと」。
「閣議国を誤る事此に至り、戦争指導班は憤然として蹶起し、挺身以て国家の危急を救うは今日に在りとし、非常の手段亦敢て辞せざるの決意を固む」。
「蓋広田外相の強硬論は何ぞや。自らの失態を蒋介石に転嫁するものか。両大臣が実情を知りて之に和せしとせば罪深し。抑々トラウトマンは、蒋介石の質問に答うるため改めて最近広田外相に念を押したるに非ずや。而も先の条件も広田外相より発出せるものに非ずや。外相も戦局を知れる筈なり。先の条件発出は既に情勢錯誤なり。次の回答は尚更なり。何故軍に協議せざりしか。当時是認ぜりとせば、その変化は南京追撃の戦況に酔いて倨傲となれるか、或は輿論を恐れて臆病となれるか、是認せる条件に基づく回答ならば責を一身に負いて交渉た入ること当然にして、亦是外相の機略ならずや」。
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・南京陥落祝賀大提灯行列。東京市民40万。
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見出し「大戦捷!歓喜の熱風/来たぞ!世紀の祝祭日/師走の街に七日早く〝お正月〞/帝都は旗、旗、旗の波」、
「一億国民待望の「南京陥落公報」に接した十四日の朝は、東亜の暗雲を一掃したような澄みきった太陽が燦々とそそぎながら、歓喜の日和だ。黎明をついた新開配達の足音が各家を訪れた時、ラジオで放送開始の午前六時半、嚠喨たるラッパの音とともに臨時ニュースを発表した時、全国民は歓呼の声をあげた。子供たちは床のなかで「万歳」を叫んだ。国旗は各戸はもちろろん市電、市バスにまで翻り、ここかしこに明朗な万歳。久リスマスやお正月を蹴飛ばした世紀の祝祭日は、赤穂義士が本懐をとげた日と同じうして到来した。(「東京日日新聞」12月15日)。
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・天皇、南京占領を喜ぶ「御言葉」を下賜。
「陸海軍幕僚長に賜わりたる大元帥陛下御言葉 中支那方面の陸海軍諸部隊が上海付近の作戦に引き続き勇猛果敢なる追撃をおこない、首都南京を陥れたることは深く満足に思う。この旨将兵に申伝えよ。」
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現地軍の中央命令無視、独断専行による侵略戦争拡大を、天皇が追認して鼓舞・激励する構図。
中支那方面軍松井石板司令官・武藤章参謀副長らが陸軍中央の統制を無視して強行した南京攻略戦が、大元帥昭和天皇から「御言葉」が下されるまでの大軍功とされる。
松井は、「一同感泣、ただちに全軍に令達するとともに、奉答の辞を電奏す」とこの日の日記に書く。
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・この日の新聞報道。
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「南京を完全占領、両三日後、歴史的入城式、砲煙赤く炸裂の中に、群うつ敗走兵の惨状」(「東京朝日」)。
「きょうぞ、南京城完全占領の東西南の各城門より、皇軍大部隊勇躍突入、包囲下に大殲滅戦を展開」(「東京日日」夕刊)。
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・末次信正、内務大臣に就任。
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・政府、米パネー号および英レディバード号事件(12日)に関し公文で陳謝。
to be continued
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