2008年12月16日火曜日

昭和12(1937)年12月16日 南京(8) 入城式を翌日にひかえ難民区への「敗残兵狩り」を一層徹底

12月16日
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この日より強姦事件、多発
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南京安全区国際委員会の計算では1日千人の女性が強姦され、占領初期には控え目にみても8千人の女性が強姦され、翌年2~3月まで何万という女性が強姦される(「アメリカキリスト者へのベイツの回状」)。
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入城式を翌日にひかえ、難民区への「敗残兵狩り」を一層徹底
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「午後一・〇〇出発、入城式場を一通り巡視、三・三〇頃帰る。多少懸念もあり、長中佐(上海派遣軍司令部参謀部第二課長長勇)の帰来報告によるも、一六D(16師団)参謀長は責任を持ちえずとまでいいおる由なるも、すでに命令せられ再三上申するも聴かれず、かつ断固として参加を拒絶するほどとも考えられざるをもって、結局安心しつつ御伴することに決す。
・・・長中佐夜再び来たり、一六Dは掃蕩に困惑しあり、三Dをも掃蕩に使用し南京付近を徹底的にやる必要ありと建言す。」(飯沼守上海派遣軍参謀長の日記「飯沼守日記」)
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・第9師団(歩7連隊)、17日の入城式に備え、第16師団と第3師団の一部と共に南京市難民区徹底的掃蕩作戦 
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第9師団歩兵第7連隊のこの日の便衣兵摘出。
難民区を北から第3、1、2大隊に区画し、それを更に中隊毎に分担、末端は数名ずつの下士官兵が組になり、めぼしい建物を虱潰しに検分するローラー作戦。交叉点で着剣した歩哨が交通遮断、外郭の要点には戦車を配置。捜索・連行要領について、連隊命令は憲兵、通訳、語学堪能者を配属と指示するが、人も時間も足らず、各隊の思い思いで荒っぽい選り分けになる。
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歩7第1中隊の水谷壮上等兵の日記。
「午後、中隊は難民区の掃蕩に出た。難民区の街路交差点に、着剣した歩哨を配置して交通遮断の上、各中隊分担の地域内を掃蕩する。目につく殆んどの若者は狩り出される。子供の電車遊びの要領で、縄の輪の中に収容し、四周を着剣した兵隊が取り巻いて連行して来る。各中隊共何百名も狩り出して来るが、1中隊は目立って少ない方だった。それでも百数十名を引立ててくる。その直ぐ後に続いて家族であろう、母や妻らしい者が大勢泣いて放免を頼みに来る。市民と認められる者はすぐ帰して、三六名を銃殺する。皆必死になって助命を乞うが致し方ない。真実は分らないが、哀れな犠牲者が多少含まれているとしても、致し方のないことだろう。抗日分子と敗残兵は徹底的に掃討せよとの、軍司令官松井大将の命令が出ているから、掃討は厳しいものである。」(「戦塵」)。
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第9師団歩兵第7連隊長伊佐一男大佐の日記(16日)には、「三日間にわたる掃蕩にて約六五〇〇を厳重処分す」と記されている。
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この日付け第9師団歩兵第7連隊第2中隊井上又一上等兵の日記。
「壱拾弐月拾六日 午前拾時から残敵掃蕩に出かける。高射砲一門を捕獲す。午後又出かける。若い奴を三百三十五名を捕えてくる。避難民の中から敗残兵らしき奴を皆連れて来るのである。全くこの中には家族も居るであろうに。全く此を連れ出すのに只々泣くので困る。手にすがる、体にすがる全く困った。新聞記者が此を記事にせんとして自動車から下りて来る
・・・十重二十重にまし来る支那人の為、流石の新聞記者もつひに逃げ去る。・・・揚子江付近に此の敗残兵を連れて他の兵が射殺に行った。この寒月拾四日皎々と光る中に永久の旅に出る者そ何かの縁なのであろう。皇道宣布の犠牲となりて行くのだ。日本軍司令部で二度と足腰の立て得ないようにするために若人は皆殺すのである。」
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第9師団の城内掃蕩は12月24日、警備任務を第16師団に引継ぐ迄続く。
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この間の摘発者数は、第9師団作成「南京攻略戦闘詳報」は、「右翼隊主力ヲ以テ城内ノ掃蕩ニ当リ七千余ノ敗残兵ヲ殲滅セリ」、「南京戦ノ彼我ノ損害」として、「友軍 死者四六〇名、傷者一一五六名、敵軍死体四五〇〇、他ニ城内掃蕩数約七〇〇〇」とする。
捕虜の数字がないので、約七千人の敗残兵(便衣兵)は、ほぼ全員殺害と推量される(公式の戦闘詳報に記載された数字としては最大)。その大部分が12月14~16日、歩7連隊が難民区から摘出した便衣兵狩りの犠牲者と思われる。
ピークの16日には、1中隊が百数十、2中隊が三三五人を狩り出し、連隊全体(12個中隊)では2~3千に達したと推測。うち下関へ連行されたのは、1200(水谷日記)、1~2千(前田雄二同盟記者)、2千余(佐々木郵便長)と大差ない。
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・第16師団、この日、中山門外の掃蕩作戦。第16師団の掃蕩作戦はこの日で一段落。24日から第9師団に代って、難民区を中心とする便衣兵摘出が始まる。
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佐々木回想録は「命に依り紫金山北側一帯を掃蕩す、獲物少しとは云へ両聯隊共に数百の敗兵を引摺り出して処分した。」と記す。
「夜半、東方の山中から敗残兵数百名・・・を捕えた・・・ところが日本軍が小人数とあなどったのったか、手榴弾を投げつけて暴れ出し、収拾がつかなくなったので、軽機、小銃で弾丸のある限り射った」(歩9連隊六事政次郎少尉「偕行」シリーズ⑧)との証言はその一部と推測。
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歩33西田上等兵はこの日終日、紫金山東北地区を行動するが、敗残兵にはぶつからず、「途中、部落を皆焼き払ふ」(西田日記)ことで胸を晴らせる。
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・第10軍第6師団、蕪湖方面移動途中、歩13連隊、捕虜1千(「一千名以上の敗残兵」(萩平昌之大尉手記))確保。中華門外で集団射殺。
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児玉房弘上等兵(第6師団第11旅団歩兵第13連隊第2大隊機関閲銃中隊)の証言。
「山上に重機関銃を据え付けると、ふもとのくぼ地に日本兵が連行してきた数え切れないほどの中国兵捕虜の姿。そこに、突然『撃て』の命令。・・・『まるで地款を見ているようでした。血柱が上がるのもはっきりと分かりました』」、
「集団射殺は児玉さんらが南京郊外の駐屯地から南約六十キロの蕪湖へ向けて出発した同月十六日頃行われた。児玉さんらに、揚子江近くの小高い山に機関銃を据え付けるよう命令が下った。不審に思いながらも山上に重機関銃を据え付けると、麓の窪地に日本兵が連行してきた数え切れないほどの中国兵捕虜の姿。そこに、突然、「撃て」の命令。機関銃が一斉に乱射された。「まるで地獄を見ているようでした。血柱が上がるのもはっきり分かりました」。機関銃は約五十メートルの感覚で「三十挺はあった」という。「なぜ捕虜を殺したのか。遺体をどう処理したのか。他のどの隊が虐殺に加わったのか。私たち兵隊は何も聞かされなかった」と、児玉 さんはうめいた。」(「毎日新聞」昭和59年8月15日)。
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第9師団歩兵第18連隊第36連隊第6中隊分隊長山本武。
「この朝(12月19日:洞富雄氏注記)風聞するところによると、こんどの南京攻略戦で、抗州湾に上陸した第六師団(熊本)が、南京の下関に於いて、敵軍が対岸の浦口や蕪湖方面 に退却せんと揚子江岸部に集まった数万の兵達を、機関銃掃射、砲撃、あるいは戦車、装甲車などによって大虐殺を行い、白旗を掲げ降伏した者を皆殺しにしたというので、軍司令官松井大将が「皇軍にあるまじき行為」と叱り、ただちに死体を処理せよとの厳命を下し、毎日六師団が死体を焼却するやら、舟で揚子江上に運び捨てているなど、現場は実に惨憺たる状況である、と言う。物好きにも、わざわざ遠く下関まで見物に出かけた馬鹿者がいるらしい。」(「一兵士の従軍記録」)。
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・この日付け「山田栴二日記」、第13師団山田支隊歩兵第65連隊第7中隊「大寺隆上等兵の陣中日記」。
「十二月十六日 相田中佐を軍に派遣し、捕虜の仕末其他にて打合はせをなさしむ、捕虜の監視、誠に田山大隊大役なり、砲台の兵器は別 とし小銃五千重機軽機其他多数を得たり」。
「(一二月一六日) 徴発隊として午前七時二〇分整列、七時に起きたのであわを食って出ていく。途中道を間違えて半道ばかり反対の方向に行く。豚や米、芋の類、徴発する物資たくさんあり、徴発用意。午後二時半東流鎮につく。龍タン鎮から約四里、町に着き宿舎を決めると徴発に忙し、部隊の着くまでに徴発を終わる。米、豆腐、小豆、砂糖、豚、芋、カマ、野菜など、部隊もまたいろいろ徴発してきた。分隊では豚、野菜、米、鶏、芋などを徴発してきたので、今晩は相当に御馳走があった。」。
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・この日の新聞報道。
「南京一帯掃蕩の戦果、敵六万を捕虜・撃滅す、皇軍なお掃蕩を続く」
「南京城を陥落させた皇軍各部隊は、それぞれ城の内外に集結し、一部を以て潜伏出没する敗残兵の掃蕩及び、市内整理に当って居るが、この南京攻略戦でわが軍が捕虜とし、又は殲滅した兵数は六万を下らぬと推察されている」(「東京朝日」夕刊)。
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・帝人事件判決で全員無罪となる

to be continued

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