■1871年3月 ジャコバンの見果てぬ夢か・・・ 「未完の黙翁年表」より
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3月22日
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・仏、中央委員会、第3、4、10、12、17区等の区役所を接収。
ヴェルサイユ政府が地方における刑事犯罪人を多数釈放し、撹乱の目的でパリ市内に潜入させたとの報に、中央委員会は、「掠奪の現場を発見されたる者は射殺さるべし」という布告を発布。
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・国民軍中央委員会、パリの区長・代議士の反対の為、コミューン選挙を26日に延期すると決定。
国民軍中央委員会と、その渉外代表委員(P・グルッセ)は、21日付けドイツ占領軍当局の手紙に対し回答。
中央委員会はパリの革命が「もっぱら自治体的性格」を持つもので、「ドイツ軍にさからうものではない」と説明。
パリ在住兵士の国民軍編入、新権力の命令をさぼる官公吏の罷免を決定。
選挙民に対し、コミューンの任務をのべたアピール。
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布告。
「区長や代議士の支持を受けている反動は、われわれに戦争をしかけてきた。われわれは挑戦に応じ抵抗を粉砕しなければならぬ・・・市民諸君、パリは支配を欲しているのではない、自由を欲しているだけである。パリは偉大なる模範となることを望んでいるだけである。何びとにもその意志をおしつけようとするものではないが、また自己の権利を放棄するものでもない。・・・パリは、自分自身の自由を確保することによって、他の者の自由を準備する。」
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○[コミューン群像:パスカル・グルッセ]
ジャーナリスト兼作家。1860年代末の共和主義運動に積極的に参加。新聞「ラ・マルセイエーズ」「ラ・プーシュ・ド・フェール」に寄稿。
71年3月19日、新聞「ラ・ヌヴェル・レピュプリック」、4月2日から新聞「ラフランシ」発行。3月26日、パリ・コミュ-ン議員(第18区)に選ばれる。3月29日から渉外委員部委員。4月5日から渉外代表委員。4月20日から第2次執行委員会委員。コミューンのジャコバン派-プランキ派の「多数派」に入り、公安委員会設置に賛成投票。コミューン全期間を通じ、対外政策指導者として、パリと地方との強固な連絡構築、ドイツ政府その他ヨーロッパ諸国政府のパリ・コミューン承認実現に努める。
コミューン弾圧後、逮捕、軍法会議でニュー・カレドニア流刑判決。1874年、流刑地から逃亡、イギリスに偽名で居住。1880年、恩赦により帰国。80年代、「各国の生活」「各国の児童の生活の場面」刊行。
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・ヴァンドーム広場で1千人近くが反革命デモ。反革命派と国民軍との衝突。
反革命分子は、パリの人民権力に対し公然と抵抗を試みる。多くの官庁や役人達は、命令をサボタージュし、高官達はヴェルサイユへ逃亡。28種類の様々な傾向のブルジョア新聞は、中央委員会がパリのコミューン議会(市会)選挙の日どりを決めたことを、非合法と宣言し、ポイコッ卜を呼びかける。
この日、ヴァンドーム広場で、取引所員・反動的評論家・退職将校達がデモ。デモは防塞地区の司令部に向って行進し、中央委員達に激しい侮辱の言葉を浴びせ、彼らを狙撃。デモ行進者は解散を拒否した為、追い払われる。国民衛兵2名殺害・7名負傷。群集側約30名の死傷。
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反動派が取引所付近を占領、更にサン・ラザール駅から国民衛兵を追い払い、ここを入手。国民衛兵の若干の大隊の支持の下に、区長たちは第2区区役所に籠り、パリとヴェルサイユの調停実現の為の対策を協議。
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・反動派対策として、ヴァンドーム広場にバリケード構築の命令。市庁舎の警備大隊の兵力は倍加され、反動派が勢力をもつ地区の警戒が厳重になる。
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・リュクサンプール宮殿に宿営の第69補充連隊、ヴェルサイユへ退去。
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・リヨン。国民軍代表者会議、パリ支持の諸演説。労働者諸地区の国民軍諸大隊は、市役所前へ集合、革命派がは市役所占拠、知事ヴァランタン逮捕、自治委員会5人を選出。リヨン・コミューン宣言。市役所に赤旗をたてる。市会解散と県知事罷免。~24日。25日朝コミューン消滅。
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間もなくバリから技師A・ルブランと労働者シャルル・アムールーを団長とする中央委員会代表団が到着。リヨンの国民軍の18大隊(総数24大隊の内)がパリの国民軍との連帯を声明。指導者達はリヨンのコミーンを宣言。市政とコミューン選挙準備の為の臨時委員会が作られるが、この委員会は、指導的官庁を占領せず、労働者団体とも連携せず。僅か1日でリヨン蜂起は弾圧される。リヨンの中小ブルジョアジーは、コミューンのスローガンを支持せず、急進派は労働者に依拠する決心はつかず。4月30日再度蜂起。
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・マルセイユ。カフェー「エル・ドラード」で集会、パリの政府支持の諸演説。
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・ロンドン。ウェリントン・ミュージック・ホールで共和派集会。インタナショナル総評議会員セライエの演説。パリの革命との連帯決議。
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・ライブツィヒ。ドイツ社会民主労働者党機関紙「フォルクスシュタート」、パリの事件を報道、ドイツ人民に対し、ドイツの反動のフランス共和国粉砕の為の戦争再開をさせてはならないとの問題を提起。
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・ベルリン。全ドイツ労働者同盟機関紙「ソツィアル・ヂモクラート」、パリ労働者の闘争支持を表明。
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3月23日
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・仏、国民軍中央委員会アピール、22日に中央委員会は、リヨン、ボルドー、マルセイユ、ルアンその他の都市の代表団を迎えたと報道。泥棒を犯罪の現場で銃殺する命令。
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・夜、国際労働者協会(インタナショナル)パリ支部連合評議会と労働者協会連合会議所の会議、テイス司会、3月18日の革命の任務をのぺ、コミューン選挙に参加するよう住民に訴える宣言を採択。
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・パリ諸区長、ティエールの勧告に従い、セッセー提督を国民軍総司令官に、代議士ラングロアを総参謀長に、代議士シェルヘルを砲兵隊司令官に任命すると声明。代表をヴェルサイユに派遣しパリとヴェルサイユ調停の為の提案。ヴェルサイユは、パリ弾圧のため農村での義勇兵部隊組織に関する法案可決。区長らの調停の労は報われず。
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・一時、約1千人のデモ隊が、「秩序万歳!」を叫びながらラ・ペー街を降りてくる。
最も陰険な反動が立直ろうとしている。ブルジョア派諸大隊は、パリ中心部を強固に固め特に第17区役所とサン=ラザール駅周辺を再び占拠し、そこで通行人を止める。「都市のなかにもう一つの都市があった。」(リサガレー)。
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・マルセイユ。「パリ万歳!」のスローガンで国民軍兵士のデモ。革命家たちは県庁舎を占拠。勤労者たちの武装。ガストン・クレミユを首長とする臨時ブーシュ・ド・ローヌ県委員会の設置。マルセイユ・コミューンの宣言。選挙布告。
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・トゥールーズ、市庁舎占拠。翌日、コミューン宣言。27日、市庁舎奪回。
to be continued
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