12月18日
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・この日の方面軍参謀長勇中佐に関する、角良晴(松井司令官専属副官)証言
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「死体のできた総司令部内に於ける原因は次の通りである。18日朝だったと思う。第6師団より軍の情報課に電話があった。「下関に支邦人約12~13万人が居るがどうするか」と情報課長、長中佐はきわめて簡単に「ヤッチマエ」と命令された。副官は事の重大さを思い、また情報課長の伝えた命令は軍司令官の意図と異なるものと確信し、このことを軍司令官に報告した。軍司令官はただちに長中佐を呼んで「下関支邦人12~13万人の解放」を命ぜられた。長中佐は「支邦人の中には軍人も混じって居ります」という。軍司令官は「軍人が混じっていても、却って軍紀を正しくするのに必要だ」と強く解放を命令された。長中佐は「わかりました」と返事があった。
副官はさらに長中佐の行動に注意する(長中佐は陸大出の特別な支邦通であり、過去において陸軍大臣の命令に背き御叱りを受けたことが都度都度あった)
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6D再度の電話
○同日第一会の電話から約一時間経って再び第六師団より電話があった。
「下関の支邦人12~13万人をどうするか」の問題である。長中佐は再び前回同様「ヤッチマエ」であった。副官は、この事を軍司令官に報告することはできなかった。
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○副官は思う。
第6師団は最初、下級参謀が下関支邦人処理の件を軍に意見を聞いた。「ヤッチマエ」であった、これを参謀長に報告した、参謀長は軍の命令を不審に思い、再び本件の処置に就いて軍に意見を求めたものと思う。
この件は第6師団長参謀長・下野一霪大佐(砲兵出身)の「下関支邦人大逆殺事件の真想」に「大逆殺は師団長の意図ではなく軍の命令である、それに此の事で師団長を死刑にするのは間違っている」とある。この実想を綴られたものと想う。」。
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・13師団(荻洲立兵中将)山田支隊(歩兵第104旅団、山田栴二少将)歩兵第65連隊(両角業作大佐)本部通信班小行李輜重特務兵「斎藤次郎陣中日記」、歩兵第65連隊連隊砲中隊菅野嘉雄一等兵「陣中メモ」。
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「十二月十八日 曇、寒 午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する、途中死屍累々として其の数を知れぬ 敵兵の中を行く、吹いて来る一順の風もなまぐさく何んとなく殺気だって居る、揚子江岸で捕虜○○○名銃殺する、・・・捕虜銃殺に行った十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通 され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞え悲哀の情がみなぎる、午前三時帰営、就寝、朝はゆっくり起床、朝の礼拝をして朝食用意をして××、岡本、××の三君等と南京見学に行く、都市を囲んで居る城壁の構造の広大なるのに一驚する、城壁の高さ約三丈乃至四丈幅約十四、五間南京市内も焼け又は破壊され見るかげもない惨憺たる有様だ、敵の死体やら武装解除された品々が路傍に沢山ある、帰途は夕刻近く九時就寝する。」。
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「(十二、)十八 朝より小雪が降った、銃殺敵兵の片付に行く、臭気甚し。」。
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・午後2時、全軍慰霊祭。城内飛行場。
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式後、松井は幹部を集め、「軍紀風紀の振粛」「支部人軽侮思想の排除」「国際関係の要領」について訓示。
「松井日記」での南京虐殺に関連する最初の記事。前日夜、又はその日朝、憲兵隊長から非軍紀行為頻発について聞いたのが契機となる。
しかし、上村利道派遣軍参謀副長の日記には、「城内に於ける軍紀の点に就て悪評を耳にす、残念なることなり」(12月16日)、「軍紀上面白からざる事を耳にすること多し、遺憾なり」(19日)とあり、風評はもう少し前から関係者の耳に入っていたと推測できる。
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松井が憲兵隊長より開いた内容は不明だが、花山信勝への告白だと、「泣いて怒る」ほどの規模であったとのこと。20日、松井は、日本総領事館で非行の実情を聞き、その後下関を視察し、「此付近尚狼籍の跡のままにて死体など其儘に遺棄せられ」(「松井日記」)ている惨状を目撃。
松井は、翌日海軍水雷艇に便乗して南京を去る。
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・この日、日本大使館へ提出した国際委員会ラーべ委員長の文書は、交通部・金陵大学・華僑招待所など18ヶ所の収容所にいる難民概数を約5万と報告。収容所に入り切れず、民家や急造のムシロ張りの小屋などに詰め込まれた人々6~7万がいる。この数は月末にかけて更に増大。
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・この日、国際難民区委員会、日本大使館に宛てて、強盗・強姦・殺人防止策を要望。
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国際難民区委員会から、「三人から七人の兵士の群が将校の監督もなくうろつきまわることから多くの事件が発生しています」(16日付福田篤参事官補宛、第5号文書)、また、「夜間に俳諧する兵隊たちを締め出すように要請しましたが、この措置はいまだにとられていません・・・強盗・強姦・殺人行為を防止するため何らかの方法をとられることを希望するものであります」(18日付日本大使館宛、第7号文書)という文書が提出される。
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・青島日本人紡績工場焼かれる。戒厳令布告。
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・南京入場式の報道。
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「青史に凛たり・南京入城式」「武勲の各隊・粛然堵列、松井大将堂々の閲兵」「空陸に展く、豪華絵巻」
「君が代だ。国歌君が代だ。敵の首都に轟く君が代だ。その君が代吹奏裡にするすると正門の上に上る日章旗、さんたる日章旗、日章旗掲揚式がはじまったのだ。この日、この時の日の丸ほど意義深き日の丸がまたとあろうか。仰ぎ見る眼、眼、それは日本人としての感激に充ちた眼だ。涙にぬれた眼だ。日本人のみが本当に、この日の日章旗の意義を知る」(「東京日日」)。
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「この万歳・故国に轟け、威容堂々! 大閲兵式」「世紀の絵巻・南京入城」
「鳴呼感激のこの日、同胞一億の唱和も響け、今日南京城頭高く揚る万歳の轟きは世紀の驚異と歓喜茲に爆発する雄渾壮麗な大入城式である、・・・南京は日本晴れ、この日紺碧の空澄み渡って雲一つ浮ばず銃火茲に収まって新戦場に平和の曙光満ち渡る。
午後一時半松井大将を先頭に朝香宮殿下を始め奉り○○部隊長、各幕僚は騎乗にて、ここに歴史的大入城式が開始された・・・何という堂々の大進軍だ・・・午後二時国民政府正門のセンター・ポール高く大日章旗が掲揚された、・・・東方遥皇居を拝し奉った、松井軍司令官が渾身の感激を爆発させて絶叫する『天皇陛下万歳』の声、全将兵の唱和する万歳のとどろき、ここに敵首都南京がわが手中に帰したことを天下に宣する感激の一瞬である」(「東京朝日」)。
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・スペイン、テルエルの戦い。共和国軍、テルエルを南から見下ろすラ・ムエラ高地占領。
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12月19日
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・第10軍(柳川平助、丁集団)、南京から湖州へ移動。20日、参謀長から指揮下各部隊に宛てて「杭州占領ニ伴フ秩序維持及配宿等ニ関スル件」(丁集参1第145号)下達。
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「掠奪、婦女暴行、放火等ノ厳禁ニ関シテハ廔次訓示セラレタル所ナルモ、本次南京攻略ノ実績ニ徴スルニ、掃女暴行ノミニテモ百件ニ上ル忌ムべキ事態ヲ発生セルヲ以テ、重複ヲモ顧ミズ注意スル所アラントス」。
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・この日付け「中島日記」。
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「一.そこに日本軍が又我先にと進入し他の区域であろうとなかろうと御構ひなしに強奪して往く 此は地方民家屋についは真に徹底して居る 結極ずうずうしい奴が得というのである 其一番好適例として 我ら占領せる国民政府の中にあるすでに第十六師団は十三日兵を入れて掃討を始め十四日早朝より管理部をして偵察し配宿計画を建て師団司令部と表札を掲げあるに係らず中に入りてみれば政府主席の室から何からすっかり引かきまわして目星のつくものは陳列古物だろうと何だろうと皆持って往く 予は十五日入城後残物を集めて一の戸棚に入れ封印してあったがだめである翌々日入りて見れば其内是はと思ふたものは皆無くなりて居る金庫の中でも入れねば駄目といういふところなる
一.日本人は物好きである国民政府というのでわざわざ見物に来る只見物丈ならば可なるも何か目につけば直ちにかつはらって行く兵卒の監督位では何もならぬ堂々たる将校様の盗人だから真に驚いたことである。」。
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・この日の新聞報道。
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「敵の遺棄死体八、九万(南京攻略の戦果)」
「上海軍発表①南京攻略に当り敵の遺棄せる死体は八、九万を下らず、捕虜数千を算す②・・・③軍のとくに憂慮せし中山陵、その他保護建築物及び物件等は、敵守備兵或は敗残兵等のため破壊せられ惨々たる状態を呈しあり」(「東京朝日」夕刊)。
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直前には「朝日」でも、「江岸で一万五千捕虜」(16日)、「なほ潜伏二万五千 敗残兵狩り続く」(同)などと報じているのに、捕虜「数千」はおかしい。
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南京戦には従軍記者や、大宅壮一ら作家約50人が参加するが、証言者は少ない。
その中の、「朝日」従軍記者今井正剛の証言。
「一面はまっ黒く折り重なった死体の山だ。その間をうろうろとうごめく人影が五十人、百人ばかり、ずるずるとその死体をひきずっては河の中へ投げこんでいる。うめき声、流れる血、けいれんする手足。やがて作業を終えた″苦力たち″が河岸へ一列にならばされた。ダダダッと機関銃の音。その場にいたある将校は犠牲者の数を『約二万名ぐらい』と言ったという」
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12月20日
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・山田支隊・国崎支隊、合流。山田支隊、浦口へ。浦口の国崎支隊、南京へ。
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「十二月二十日 第十三師団は何故田舎や脇役が好きなるにや、既に主力は鎮江より十六日揚州に渡河しあり、之に追及のため山田支隊も下関より渡河することとなる 午前九・〇〇の予定の所一〇・〇〇に開始、浦口に移り、国崎支隊長と会見、次いで江浦鎮に泊す、米屋なり」(「山田栴二日記」)。
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・大本営、華南攻略作戦を海軍の反対で中止。
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・「ニューズウイーク」(この日付け)、の「南京陥落、蒋介石は逃亡」の記事。
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「東洋では、メンツは生命以上に大切なものとされる。日本軍の勝ち誇った軍靴の響きは、一三世紀以来の中国の歴史に最も屈辱的な一貫を刻み込んだ。それはジンギスカンが中華帝国の大都市群を羊の牧草地に変えてしまって以来の出来事である。そして南京の陥落は、日本の東アジア侵略の第一段階が終わったことを告げた」
to be continued
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