2008年12月18日木曜日

京都のいしぶみ 山名宗全邸址 応仁の乱勃発


場所:上京区堀川通上立売下る一筋目北西角
応仁の乱の西軍のヘッド守護大名山名宗全(持豊、1404~73)の邸宅跡。東軍は管領細川勝元(1430~73)をヘッドの室町御所(花の御所)がをベースとした。ここから歩いても15~20分でしょうか。ちなみに、乱の発祥の地と云われる上御霊神社も、この室町御所から10分かからないところにあります。
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以下は、開戦の月(文正2年=1467年1月)のみの「黙翁年表」の抄出です(未整理です)。
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2日
・将軍義政、正月恒例の管領邸訪問を取りやめ畠山義就を室町邸(花の御所)に招く。
 義政、義就の上洛の力に押されて義就と対面、これ迄の行動を赦免し守護職(河内、紀伊、越中)を安堵。この結果畠山政長が家督を奪われる。5日、畠山義就は山名宗全邸を借用して義政の御成を受ける。管領畠山政長は大恥を掻く。背景に畠山義就に加担する山名宗全の策略。
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8日
・細川派の畠山政長、管領を罷免。山名宗全の推挙で斯波義廉が管領となる。山名宗全与党による幕府掌握が完成。
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15日
・細川勝元とその与党の守護達、将軍義政に畠山義就攻撃を求めようと動くが、先手を打った山名宗全が室町邸を固める。義政は畠山氏の私闘への関与禁止を在京諸大名に告げ、両者への協力と当事者同士の解決を図るよう求める。
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義政とって、「事の外御迷惑、御生涯に及ぶべきの間、山名、細川両人両方(義就、政長)合力の事、止むべき旨、平に仰せ請わる」(「大乗院寺社雑事記」)。
 二大勢力の衝突回避を哀願する義政には、これを抑えうる物理的強制力はない。義政は、「政長卜義就トノ事ハ、諸家各是ヲ合力スベカラズ、只逢手向ノ執逢(あいてむかいのとりあい)ニシテ、勝負ヲ決スベシ」と命じる(「応仁記」)。紛争当事者の政長と義就に、お互いの戦で決着をつけさせることを命じる。「力」による解決の公認。同内容の記事が「経覚私要抄」にも見える。
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山名宗全は、日野富子の兄大納言日野勝光の協力により、上皇・天皇父子を室町第に移し、政長討伐の後花園上皇の院宣を得る。この功により勝光は内大臣に昇進。
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17日
・管領を罷免され畠山邸(万里小路邸)の引渡しを求められた畠山政長、自邸を焼き払い上御霊社(上京区、同志社大・相国寺の北)に兵を進め陣取る。上御霊社は細川勝元邸に近く、細川勝元に決起を促すが、勝元は動かず。
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神保長誠、同出雲守、与二郎兄弟、畠山政長に自邸を焼かせ、上御霊社に布陣。しかし細川勝元の援軍が来ず、山名宗全らの援助を受けた義畠山就軍に敗れる(「応仁記」)。
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18日
【応仁の乱が始る(上御霊社の戦い)】
 家督争いを続けていた畠山義就、(山名持豊の支持を得て)上御霊社に畠山政長を攻めて破る。朝倉孝景、畠山義就軍として参戦。政長、鞍馬方面へ逃亡。天皇・上皇は室町第に避難。
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背景:
義政妻日野富子は自分の子義尚を将軍職に就かせるため、義尚の補佐役を山名持豊(宗全)に依頼、義視(義政が弟義尋を還俗させ養嗣子とする)の補佐役である細川勝元の勢力と対抗させる。それに、管領の斯波・畠山両氏の家督相続争いも絡む。斯波家では、養子斯波義敏、斯波義廉、畠山家でも養子畠山政長と実子畠山義就との間に家督相続を廻り争う。
 そこで細川勝元・畠山政長・斯波義敏との間に攻守同盟が結ばれ、これに対し山名宗全・畠山義就・斯波義廉との連盟が形成。また、諸国の守護大名や豪族達も、自分の地位保全のためどちらかと結託。
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斯波氏:義敏が東軍(細川勝元派)、義廉が西軍(山名宗全派)につく。甲斐・朝倉・織田以下主要家臣のほとんどは義廉方に属し、義敏に従ったのはごく一部。
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畠山家:持国が甥の政長を養子にするが、後で生まれた実子義就に家督を譲り、政長・義就両派が争う。山名宗全(持豊)が義就方、細川勝元が政長方を支援。
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両陣営は兵を京都に集め、細川方は先手を打って花の御所(幕府)をおさえ本陣としたため東軍、西側の山名邸を本陣とする山名方は西軍と呼ばれる。
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東軍
総大将足利義視(義政の弟、後ろ盾:将軍義政)、細川勝元6万余(摂津・丹波・讃岐・土佐)、同成之8千余(阿波・三河)、同勝久4千余(備中)、同成春3千余(淡路)、同・持久・常有2千余(和泉半国)、同教春2千余(摂津中島郡)、持賢2千余、畠山政長5千余(河内・紀伊・越中)、京極持清1万余(近江半国・出雲・隠岐・飛騨)、赤松政則500余(加賀半国)、富樫政親500余(加賀半国)、武田信賢3千余(若狭・安芸)、斯波義敏500(斯波家重臣甲斐氏・織田氏・朝倉氏は山名派の斯波義廉を支持、義敏自身は越前・尾張分国で兵を動かし、京では500余)。総勢16万1500。
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西軍
総大将足利義尚 (後ろ盾:御台所日野富子・内大臣日野勝光兄弟)、山名宗全3万余(但馬・播磨・安芸・備後)、同教之5千余(備前・伯耆)、同勝豊3千余(因幡)、同政清3千余(美作・石見)、畠山義就7千余(越前・尾張・遠江)、同義統3千余(河内・大和・山城)、一色義直5千余(丹後・伊勢半国・尾張2郡)、土岐成頼8千余(美濃)、六角高頼5千余(近江半国)、大内政弘2万余(周防・長門・筑前・豊前・)、河野通春2千余(伊予)(大内・河野は8月以降参戦)、管領斯波義廉1万余(重臣甲斐氏・織田氏・朝倉氏など)。総勢11万6千余。
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若狭武田氏と細川氏の関係:
細川氏は、瀬戸内の支配や対外貿易を廻り大内氏と緊張関係にあり、大内氏の周防に隣接する安芸の分郡守護武田氏を支援。このため応仁の乱では、若狭武田氏は細川方東軍の副将的立場となる。逆に、武田氏・細川氏に積年の恨みを持つ、かっての若狭守護で丹後守護の一色氏は山名陣営に在る。
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「応仁丁亥ノ歳天下大ニ動乱シ、ソレヨリ永ク五畿七道悉ク乱ル。其起ヲ尋ルニ尊氏将軍ノ七代目ノ将軍義政公ノ天下ノ成敗ヲ有道ノ管領ニ不任、タダ御台所或ハ香樹院或ハ春日局ナド云、理非ヲモ不弁、公事政道ヲモ知リ給ハザル青女房、比丘尼達計ヒトシテ酒宴淫楽ノ紛レニ申沙汰セラレ、亦伊勢守定親ヤ鹿苑院ノ蔭凉軒ナンドト評定セラレケレバ、今迄贔負ニ募テ論人ニ申与ベキ所領ヲモ、又賄賂ニ耽ル訴人ニ理ヲ付ケ、又奉行所ヨリ本主安堵ヲ給レバ、御台所ヨリ恩賞ニ被行。此ノ如ク錯乱セシ間、畠山ノ両家 義就・政長 モ文安元年甲子ヨリ今年ニ至ル迄廿四年ノ間ニ、互ニ勘道ヲ蒙ル事三ケ度、赦免セラルル事三ケ度ニ及ブ。何ノ不義ナク又何ノ忠モナシ。之ニ依テ京童ノ諺ニ、『勘道ニ科ナク赦免ニ忠ナシ』ト笑ケル。又武衛両家 義敏・義廉、ワヅカニ廿年ノ中ニ改動セラルゝ事両度也、是皆伊勢守定親色ヲ好ミ、淫着シ贔負セシ故也。・・・若シコノ時忠臣アラバ、ナドカ之ヲ諌メ奉ラザランヤ。然レドモタダ天下ハ破レバ破レヨ、世間ハ滅ババ滅バヨ、人ハトモアレ我身サヘ富貴ナラバ他ヨリ一段瑩羹様ニ振舞ント成行ケリ」(「応仁記」)。
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「去程に、畠山政長は奥郡に忍びて有けるが、便宜の兵を催し勝元の方へ参らる。遊佐・神保は粉川寺より馳参る。勝元大に悦び、勢の多少を知らんが為に先着到を付るに、勝元の手勢、摂州・丹州・土佐・讃岐、其外諸国被官等馬廻衆六万余騎。同讃岐守成之、阿波・三河両国を将て八千余騎。同備中守四千余騎。同淡路守三千余騎。同和泉守二千余騎。同下野守二千余騎。同右馬頭二千余騎。他国の衆には斯波右兵衛佐義敏五百余騎。畠山左衛門佐政長、紀伊・河内・越中国を催ば五千余騎。京極大膳持清、出雲・飛騨・江州を率して一万余騎。赤松次郎政則、播磨・備前・美作の勢五百余騎。富樫介五百余騎。武田大膳大夫国信、安芸・若狭の勢三千余騎。其外官軍・公方近習・外様諸国の同心被官六万人。都合十六万一千百余騎と記しける。・・・
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山名金吾も勢の多少を知んと着到をこそ付にけれ。先山名入道の勢は、但馬・播磨・備後、并に諸国被官合三万余騎。同名相州、伯耆・備前五千余騎。因幡守護三千余騎。同修理大夫、美作・石見の勢を率して三千余騎。他家の人々には、武衛義廉、越前・尾張・遠江衆一万余騎。畠山右衛門佐義就、大和・河内・熊野の衆催し七千余騎。同修理大夫義純、能登勢将て三千余騎。一色左京大夫義直、丹後・伊勢・土佐衆五千余騎。土岐左京大夫成頼、美濃衆八千余騎。六角四郎高頼、近江衆五千余騎。大内新介政弘、周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見の勢二万余騎。伊予河野二千余騎。此外諸国合力一万余騎。惣都合十一万六千余騎としるしける」(「応仁記」)。
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「…鳴呼、鹿苑院殿御代ニ倉役四季ニカカリ、普黄院殿ノ御代ニ成、一年ニ十二度カカリケル、当御代臨時ノ倉役トテ大嘗会ノ有リシ十一月ハ九ケ度十二月八カ度也。又彼借銭ヲ破ラントテ、前代未聞徳政ト云フ事ヲ此御代ニ十三カ度迄行ハレケレバ、倉方モ地下方ヘ皆絶ハテケリ。サレバ大乱ノ起ルベキヲ天予メ示サレケルカ、寛正六年九月十三日夜亥ノ刻ニ、坤方ヨリ艮方ヘ光ル物飛渡リケル。天地鳴動シテ乾坤モ忽折レ、世界モ震裂スルカト覚エケル。アン浅猿シ。 不計万歳期セシ花ノ都、今何ンゾ狐狼ノ伏土トナラントハ、適残ル東寺・北野サヘ灰土ナルヲ。古ヘニモ治乱興亡ノナラヒアリトイヘドモ、応仁ノ一変ハ仏法王法法トモニ破滅シ、諸宗悉ク絶ハテヌルヲ、不堪感歎、飯尾彦六左衛門尉、一首ノ歌ヲ詠ジケル。汝ヤシル都ハ野辺ノ夕雲雀アガルヲ見テモ落ルナミダハ。」(「応仁記」)。
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21日
・朝倉孝景、斯波義廉軍(西軍)の一員として、細川派(東軍)の斯波義敏方(持種屋敷)を攻撃。斯波持種(義敏の実父)・竹王父子を襲撃しこれを追放(「後法興院記」同日条、「雑事記」正月23日条)。
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(独り言)
年末寒空の派遣労働者切り:竹中「改革」が拍車をかけた資本主義のリーダたちのモラル・ハザード。この精神(の荒廃)の自浄作用はないのか?
内需軽視のしっぺ返しが始まっている。
持続可能社会って?
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「★京都インデックス」をご参照下さい
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