2009年3月24日火曜日

京都のいしぶみ 検非違使庁址 義経の自由任官問題



所在地は、上京区葭屋町通出水上ル西側。大内裏に近接してあるのは、江戸城桜田門近くにある現代の「権力装置」と同じ。
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説明の看板。
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「平安京 検非違使庁址
東を堀川小路(堀川通)、北を鷹司小路(下長者町通)、西を猪隈小路(猪熊通)、南を近衛大路(出水通)に囲まれた範囲は、平安京左京一条二坊七町にあたる。平安時代前期から中期にかけ、この地には平安京の「首都警察」であった検非違使庁が存在した。検非違使は弘仁六年(八一五)頃に令外官(リョウゲノカン)として創設され、当初は左右両庁に分かれていたが、天暦元年(九四七)にひとつに統合された。この左京一条二坊七町の地は、もとは左衛門府の一部であったが、分割されて検非違使の庁舎の敷地にあてられた。検非違使の職掌は警察、裁判、科刑に及んでいたが、時代を経るに従ってその役割は拡張され、やがては京内の行政全般にわたる広範な権限を持つにいたった。ただ、平安時代後期になると検非違使の事務は別当(長官)の私邸でおこなわれるようになり、左京一条二坊七町の庁舎は廃絶したのである。・・・」
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検非違使というと、義経の自由任官問題を思い出します。これが、その後の義経の運命を決定づける険悪な兄弟関係の遠因と云われている件です。
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義経は、一ノ谷合戦で平氏を破り京都に凱旋するが、この時義経は無位無冠であった。それが、「吾妻鏡」元暦元年(1184)8月17日条によれば、8月6日、左衛門少尉(サエモンノショウジョウ)に任官し、検非違使の宣旨を蒙ることになる。「玉葉」8月6日条では、「明日除書あるべし、九郎任官すべし」とある。
義経は頼朝に対し、自分が望んだ任官ではなく、後白河が義経の勲功に報いる為に「自然の朝恩」として与えたもので、自分は固辞できなかったと報告。
しかし、これが頼朝の「頗る御気色に違い」、義経は平氏追討使の任を「猶予」される(「吾妻鏡」17日条)。
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そもそも頼朝は、一族や御家人が朝廷に取り込まれる事を防ぐ為、自由に官職に就くことを禁止し、平氏追討の勲功賞は、後日に頼朝が「計らい申し上ぐ」としていた。
この年6月、頼朝の推挙により、範頼・広綱・大内義信が三河守・駿河守・武蔵守に任官しているが、義経は任官されず、範頼は自分が先に任官した事を喜んだといわれる(「吾妻鏡」6月21日条)。
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しかし、義経のこの自由任官問題以降も、義経は、畿内近国や西国についての頼朝代官としての権限を持っており、頼朝・義経の関係は「険悪」になっているとは思えない。
例えば、9月9日、頼朝は、これまで武士の沙汰ではない京内の平氏没官領の平信兼の所領を義経の沙汰とする。
また9月14日、頼朝の計らいで、河越重頼の娘が義経との結婚の為に上洛する。
11月14日、頼朝は、宇都宮朝綱・小野成綱など西国に所領を与えられた御家人達へ、所領をきちんと引き渡すよう、義経に命じている(12月20日、この件の義経の請文が鎌倉に届く)。
12月1日、頼朝は園城寺に平氏没官領から所領を寄進するが、園城寺は北条時政が帰依している寺院のため、時政は、所領寄進を間違いなく行い、衆徒の要望を粗略に扱わないよう、義経に頼み込んでいる。
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「頗る御気色に違う」というのは、自由任官に激怒しその後の関係悪化のもとになるというものでなく、単に「機嫌を損ねた」程度ではないか、というのである。
検非違使は、天皇に直属し、京都の治安維持を司る官職であり、この官職につく事は、朝廷に取り込まれたことを意味し、おまけにこの頃、検非違使左衛門尉を勤めているのは後白河側近ばかりであり、後白河側近になることを意味している。また、京都の治安維持が職務であるため、京都を離れる追討使の役を果たせなくなる。従って、頼朝は義経の追討使を「猶予」することになる。
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では「猶予」とは、どういう意味か。それは、解任のことかどうか。
解任された義経に代わって追討使になったと云われる範頼は、8月8日に鎌倉を出発(「吾妻鏡」同日)するが、この時点では、義経からの任官報告は鎌倉に届いていない。この時点では義経も追討使であり、範頼は義経に代わって追討使となったのではないことになる。
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「猶予」は解任ではなく、検非違使左衛門尉のままで追討使になることが可能かどうか、頼朝が朝廷や大江広元などに確認する為の「一時保留」ではなかったか、というのが近藤好和さん「日本評伝選 源義経」の見解です。

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