2009年3月22日日曜日

昭和13(1938)年1月7~13日 (4) 南京は終らない

昭和13(1938)年1月7日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「南京の危険な状態について、福田氏にもういちど釘を刺しておいた。
「市内にはいまだに千ほどの死体が埋葬もされずに野ざらしになっています。なかにはすでに犬に食われているものもあります。でもここでは道ばたで犬の肉が売られているんですよ。この二十六日間というものずっと、遺体を埋葬させてほしいと頼んできましたがだめでした」。
福田氏は紅卍字会に埋葬許可を出すよう、もう一度かけあってみると約束してくれた。」
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1月7日
・映画「5人の斥候兵」(日活)封切。監督田坂具隆、主演小杉勇・見明凡太郎。
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1月7日
・イタリア、大規模な海軍増強計画表明。
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1月8日
・江寧県陸郎村での「敗残兵狩り」。
県城から避難の市民100余が、「敗残兵狩り」で殺害。・・・(掲載するに堪えぬ残忍な行為の記述あり略す。黙翁)・・・。岔路郷では南京城から近く、交通の便も良い為、日本兵が「花姑娘探し(女性狩り)」に頻繁に襲来、・・・。(「江寧県誌」)
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1月8日
・駐蒙兵団設立。第26師団基幹。兵団長は蓮沼蕃中将(15期)
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1月8日
・双葉山、陸・海軍省に1500円を献納。
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1月8日
・スペイン、テルエルの戦い。叛乱軍テルエル守備隊レイ・ダルワール大佐、降服。
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1月8日
・ソ連、メイエルホリド劇場閉鎖。
詩人パステルナークが彼を見舞う。エイゼンシュテインは、前年には自分の映画も上映禁止になっているが、メイエルホリドの膨大な資料を自分の別荘の壁の中に隠し後世に伝える。
スタニスラフスキーは演劇作風では対極にあるが、この年3月、自分のオペラ劇場の助手に起用。この年7月、スタニスラフスキー病没後、メイエルホリドはこのオペラ劇場の主席演出家となり後を継ぐ。39年3月「リゴレット」上演。6月20日逮捕、40年2月2日監獄内で銃殺。
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メイエルホリド逮捕の口実には、日本人「スパイ」杉本良吉が決め手として利用され、メイエルホリド逮捕後、39年9月27日、杉本良吉、処刑。
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1月9日
・郭沫若、広州より武漢に到着。この時、武漢には「新四軍事務所」があり葉挺、周恩来もいる。国民党は、政治部を復活させ、陳誠を部長に、周恩来・黄琪翔を副部長に、その下部の4つの庁のうち三庁(宣伝)庁長に郭沫若を充てる目論見。2月6日、本人の承諾なしに政治部の会議に出席させられ、翌日、郭はこれに怒って長沙へ「逃亡」。
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葉挺の事務所(大和街26号)に引っ越し、八路軍事務所の周恩来の部屋で、周恩来、鄧穎超、王明(陳紹禹)、博古(秦邦憲)、林老(林伯渠)、董老(董必武)と会う。王明とは初対面、博古とは3ヶ月前に南京で一度会っただけだが、他は10年来の老朋友。
八路軍事務所は新四軍事務所と通りを2つ隔てた日本租界の中にあり、元は日本人の何とか洋行という商店だったところ。政治部第1庁庁長賀衷寒(戦後、解放戦で共産党軍の捕虜となる)、第2庁庁長康沢・第3庁副庁長劉健群などは復興社(蒋直属の反動結社)の人物で、劉健群は郭のお目付役、事実上の庁長で、郭をあやつり人形にしようという狙い。
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国民政府、国民党中央党部は重慶にあったが、国民党・党政軍関係の主要人物は全て武漢にいた。事実上の抗日首都。「新華日報」創刊、「全日抗戦」復刊。
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1月10日
・「外国人の見た日本軍の暴行」(「マンチェスター・ガーディアン」紙ティンパーレー記者)より。
「今日は一月十日である。情勢は大分改善されたが、しかし毎日暴行事件はあった。而かもその性質は非常に悪性であった。
・・・昨夜車で街に出て見ると火の手が四個所に上って居り、また日本兵が一軒の店に入って放火しているのを目撃した。十二月十九日から今日まで日本兵が放火をしない日は一日もなかった。
昨日クロイゲル君は東門から帰って来て彼が通った二十哩の途々では家も焼かれ人影もなく家畜も見当らなかったと報告した。
私達は上海の日本新聞と東京日日新聞を読んだが、早くも十二月二十八日には各商店とも続々と店を開き市場も常態に復しつつあって日本軍は外国人の難民救済に協力し城内の中国匪徒を粛清し、南京は安静を取り戻したと書いてあったのには現実の悲惨な話と較べて苦笑を禁じ得なかった」。
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1月10日
・五台山区を中心に晋察冀辺区(解放区)が成立。晋察冀辺区臨時行政委員会成立大会、開催、~15日。
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1月10日
・日本軍、蕪湖上流荻港突破
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1月10日
・海軍陸戦隊、青島上陸
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1月10日
・外相、ディルクセンに中国の迅速なる回答を要求。
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1月10日
・矢内原忠雄「民族と国家」(自家版)、対支行動の無意義を提示しているとして発禁。
戸坂潤「読書法」、読書推奨本例としてマルクス主義入門を挙げているため発禁。
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1月11日
・漢口、以後中国共産党が国民党支配地区で発刊し続ける唯一の新聞「新華日報」創刊。
鄒韜奮編集「全民抗戦」も復刊。
抗敵演劇隊・抗劇九隊と抗敵宣伝隊・抗宣四隊が結成。
抗日戦1周年を記念して武漢三鎮5ヶ所に設けられた献金台には市民の列が続き、5日間で100万元超の現金と物資を集まる。
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1月11日
・厚生省官制公布(厚生省設置)。戦時体制下の健民健兵の推進、科学的な国民体力と精神の練成が目的。初代厚生大臣は木戸幸一(文相兼任)。
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1月11日
・御前会議として開催の大本営政府連絡会議、「支那事変処理根本方針」(和戦両様の対策)決定。
中国側が講和を求めない場合、これを相手とせず、自動的に新和平方針(要求項目)を実行する決定。
翌日、堀内謙介外務次官は、もう2、3日は待てない(15日までには回答)とし、中国側の回答をドイツ大使に督促するよう求める。
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①和の場合は新条件とする、
②「支那現中央政府ガ和ヲ求め来ラザル場合ニオイテハ、帝国ハ爾後コレヲ相手トスル事変解決ニ期待ヲカケズ、新興支那政権ノ成立ヲ助長シ、コレト両国国交ノ調整ヲ協定」する、
③蒋政権は「コレガ潰滅ヲ図り又ハ新興中央政権ノ傘下ニ収容セラルル如ク施策ス」る方針を確認。
但し、和を求め、中国政府が講和条件を誠意をもって実行し、日中提携の実があがるならば、非武装地帯、華北の特殊権益の規定を解除し、かつ塘沽停戦協定などの諸軍事協定や従来からの特殊権益(治外法権、租界、駐兵権など)廃棄を考慮することを認め、条件緩和もあり得るとする。
これは御前会議開催を強力に主張し、実現させた参謀本部戦争指導班堀場一雄少佐らの主張により付加されたものと思われる。しかし、この趣旨がどの程度中国側に伝えられたかは疑問。
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回答期限は、最初は12月未、次いで1月10とされるが、到着せず、12日には「十五日までに回答がなければ和平を打ち切る」という申し合わせ。
政府・軍部の大勢は蒋政権否認・新政権育成の方向に傾く。
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1月11日
・各新聞、執筆禁止処分の事実を報道し始める。
「糧道をたたれた急進派、原稿お断りに犇々迫るは生活の悩み、帰る故郷もなき人々、時代の霧は深い」(「読売新聞」1月11日)。
「生活に喘ぐ左翼文士、就職に駈け廻るけふこの頃」(「東京朝日新聞」2月24日)。
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○中野重治の場合:
「一九三八年の例の執筆禁止のとき、わたしはどうして飯を食ったものかいろいろに考えたすえ、ある日、斎藤茂吉さんに手紙を書いて、岩波書店かどこかへ--かどこかでなく、岩波書店へだったろうと思う。--校正係として雇われることはできまいか、そういう口があったらお取りもちを願いたいと書いて出した。」(重治「何かの因縁」)。
茂吉は面識のない重治の為に動く(結果は成功せず)。「岩波氏ニ電話ニテ中野重治氏ノコトヲ談合ス。(為事ノ口ナシ)」(茂吉の日記1月31日)。
この頃、重治は、石堂清倫と、四高時代の旧友農林省米穀課長柴野和喜夫の世話で、ナチス・ドイツの油脂法の翻訳などをしてしのぐ。
5月、飯田橋の東京市職業紹介所知識階級失業者係を通じて、鳩森八幡前の東京市社会局調査課千駄ヶ谷分室の臨時雇になる。東京帝大ドイッ文学科の後輩金子和の紹介、東京朝日新聞社社会部の東京市担当記者星野政雄の世話によるもの。事務員ではなく、1室を与えられナチス・ドイツのアルバイツ・ディーンスト(勤労奉仕)関係法の翻訳。
12月、執筆禁止措置が緩み、翌39年「歌のわかれ」を発表(雑誌「革新」4、5、7、8月号)。
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1月11日
・米ルーズベルト大統領、国際状況改善のための諸国会議開催と、事前での英との討議を英に提案。
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1月12日
・モスクワ、ソ連の新憲法による第1回最高会議。
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1月13日
・ドイツ大使館南京分室事務長シャルフエンベルクの記録。
「南京の状況 一九三八年一月十三日
 当地南京では、電話、電報、郵便、バス、タクシー、力車、すべて機能が停止している。水道は止まっており、電気は大使館のなかだけ。しかも一階しか使えない。イギリス大使館にはまだ電気が通じていない。
なぜ交通が麻痺しているかといえば、城壁の外側は中国人に、市内はその大部分が日本人によって、焼き払われてしまったからだ。そこはいまだれも住んでいない。およそ二十万人の難民はかつての住宅地である安全区に収容されている。家や庭の藁小屋に寄り集まって、人々はかつがつその日をおくっている。多い所には六百人もの難民が収容されており、かれらはここから出ていくことはできない。・・・。
南京に進駐したときの日本軍のしわざについては黙ってるのが一番だ。チンギス=ハーンを思い出してしまう。要するに「根絶やしにしろ!」ということだ。ある参謀部の中佐から聞いたのだが、上海から南京へむかった補給部隊は本隊に追いつけなかったそうだ。それで、日本兵はベルゼルカー(北欧神話に出てくる熊の皮をまとった大力で狂暴な戦士)のように手当たり次第に襲ったのか。「戦い抜けば、南京で美しい娘が手に入る」とでもいわれたにちがいない。
だから女性たちが、ここでいま目もあてられないほどひどい目にあっているのだ。それを目のあたりにした人たちとその件について話すのは難しい。話そうとすると、くりかえしそのときの嫌悪感がよみがえるからだ。」
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1月13日
・英チェンバレン首相、米ルーズベルトの提案に対して延期することを回答。外相イーデンは休暇中で不在。
to be continued

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