2009年3月4日水曜日

旅するモーツアルト(2) 1757年 2歳(1)


前回も同様の表を掲示しましたが、その後よくよく見なおしたところ誤りが見つかりましたので、再掲示します。その誤りたるや、行の取り違えが2ヶ所という単純なものでしたが、やや自己嫌悪に陥り、誤り発見は昨年中でしたが、なかなか訂正せずに放置したままでした。
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年末年始に、この辺を再構築しようと思って、改めてモーツアルト関連本を整理してましたら、前回は、タネ本は海老澤敏さんの「モーツアルトの生涯」(全3冊、白水Uブックス)ばかりと思い込んでいましたが、他に、井上太郎さん「モーツアルトのいる街」「モーツアルトのいる部屋」(以上ちくま学芸文庫)「モーツアルト・ガイドブック」(ちくま新書)「わが友モーツアルト」(講談社現代新書)、石井宏さん「素顔のモーツアルト」(中公文庫」、池内紀さん「モーツアルト考」(講談社学術文庫)が本棚の奥から出てきました。
どうやら、これらを、1994年~96年頃読んだようですが、残念ながら「黙翁年表」には反映されていない様子。
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このボケさ加減に、またまた再構築意欲も萎えてしまったのですが、一歩踏み出した以上、二歩三歩進まなければならず、どうせ「未完」の年表じゃ、とやや居直り気味に再開することにします。
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・・・と、いうことで、
1757年(宝暦7年) モーツアルト2歳の年
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(日付なし)
・この年、ポルトガルのポルトの民衆、ワイン売買の自由を求めて暴動。
大規模生産者と輸出業者が糾合した「アルト・ドーロ葡萄栽培会社」が、ポンバル侯から様々な特許を得て、ワイン生産・販売に規制・干渉を行う。ポンバル侯は死刑17・流刑130の弾圧。
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18世紀前半、ポルトガルのワインの対英輸出は飛躍的に増大するが、その結果、栽培不適切な地域にまで作付け面積が広がり、1750年代初め、ワイン価格は暴落。
また、それに付け込んでイギリス商人はポルトガル人生産者からブドウを買いたたく。
ボンパル侯は、18世紀前半に急増した中小ブドウ生産者からドーロ川上流の大規模生産者を保護する為、「アルト・ドーロ葡萄栽培会社」を設立、ポートワインの銘柄・品質の維持を目的にヨーロッパ最初の生産地指定銘柄制を実施し、指定地域以外のワインをポートワインとして輸出することを禁止。更に、他地域では小麦耕作が向いているとの口実でブドウ樹を引き抜かせてワイン価格下落を防ごうとする。
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[ボンパル侯独裁]
1750年、ジョアン5世に代ってドン・ジョゼ(1750~77)が国王となり、外務・国防大臣にロンドン・ウィーンに勤務経験をもつ小貴族セバスティアン・ジョゼ・カルヴァーリョ・イ・メロ(後のボンパル侯爵)が登用される。
カルヴァーリョ・イ・メロは、1755年のリスボン大震災の後始末を見事に処理して、国王の絶対的信頼を勝ち取る。王は狩猟・馬術に興じ、国政に無関心で、以後77年ドン・ジョゼ没までボンパル侯が絶対的な権力を振い国政全般を取り仕切る。
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①反王権派(大貴族、イエズス会)弾圧。ボンパル侯が失脚時に釈放された政治犯800、独裁期間中の獄死者2,400と。イエズス会は追放、財産没収(1759)。異端審問所を国王裁判所に再編、弟パウロ・カルヴァーリョを長官に任命。
②経済的対英従属脱却。「商業評議会」の設立(1755)。商人にも貴族特権である限嗣相続財産設定を認める。新旧キリスト教徒の差別廃止。植民地貿易特権会社設立(ブラジル貿易の為のグランパラ・イ・マラニャン会社(1755)、ベルナンブ・コ・イ・パライーバ会社(1759)、ブラジル捕鯨会社(1756)など)。
③工業化推進。原料輸入・税制上の優遇措置、製品の一定期間の販売独占権付与、外国人技術者招聘、中小マニュファクチュア優遇、ギルドの一部廃止など。
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1月5日
・仏、ロベール・フランソワ・ダミアン、ルイ15世暗殺を企図、失敗。3月28日(27日とも?)、八つ裂き刑。死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンは処刑の様子について手記を残す。
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1月17日
・ロシア・ポーランド・スウェーデン、プロイセンに宣戦布告。7年戦争参戦。
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[7年戦争]
ヨーロッパでは、イギリス・プロイセンと、オーストリア・ロシア・フランス・スウェーデン・スペイン(1762年参戦)・ドイツ諸侯との間で戦われ、北アメリカ、インドなどでは、イギリス・フランス間で陸海に渡って戦われる。
プロイセン・オーストリア戦争を第3次シュレージエン戦争、北米でのイギリス・フランス間戦争をフレンチ・インディアン戦争(1755年9月~)、インドでの戦争を第2次カーナティック戦争とも呼ぶ。
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[これまでの経緯]
プロイセンのフリードリヒ大王は農業生産力の高いザクセンの兵站基地化を狙い、前年1756年8月29日、先制攻撃をかけ、全ザクセンを占領、これを兵站基地化する。
10月1日、オーストリアはザクセンを救援しようとするが、プロイセン軍はロボジッツの戦いでザクセン・オーストリア軍を撃破。プロイセンはオーストリアの同盟国ザクセン公国救出の企図を阻止。
その後、オーストリアは自国での防備を固める。プロイセンはシュレージェンとザクセンで、オーストリア軍はベーメンとメーレンで夫々冬営に入る。
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(この春)
・プロイセン軍のプラハ侵攻。7年戦争。 
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オーストリア軍総司令官カール・アレクサンダー公子(皇帝フランツ1世弟)は、後見役マクシミリアン・ユリシーズ・フォン・ブラウンの進言(フリードリヒ大王が攻勢をかける前に攻め込んで主導権を握り、ベーメンではなくザクセンを戦場とすべき)を採用せず。
一方、前年の先制攻撃に成功しているフリードリヒ大王はオーストリア軍が広く分散宿営している点に着目し、冬営を畳み、4個軍団が東西2方向から同時にプラハに前進。大王直率軍団とアンハルト=デッサウ軍団がザクセンから、シュヴェリーン軍団とベーヴェルン軍団がシュレージェンからプラハへ侵攻。
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4月(日付なし) 
・英、ピット更迭。
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4月21日
・7年戦争。ライヘンベルクの戦い。
前年に引き続き先手を取られたオーストリア軍は、分散されたまま部隊退却させ、この日にはライヘンベルクで戦う。オーストリアの敗北。
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5月1日
・第2次ヴェルサイユ協定締結。オーストリア・フランス防御同盟を(対プロイセン)軍事同盟に変える新同盟締結。プロイセンを包囲。プロイセン側はイギリス・ハノーファーのみ。
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5月6日
・7年戦争、プラハの戦い。プロイセン軍、プラハ包囲。
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プロイセン軍がプラハに侵攻しオーストリア軍と対峙。オーストリア軍は、プラハ城内に兵1万5千を入れ、残り6万でその東に布陣。
プロイセン軍は、ヤーコブ・フォン・カイトを分派してヴルタヴァ川左岸からプラハを抑え、主力6万4千をオーストリア軍に向ける。
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プロイセンのフリードリヒ大王は敵片翼へ集中攻撃を行うことが多く、今回もシュヴェリーンにオーストリア軍右翼攻撃を命じる。シュヴェリーンが主攻を担い、その左翼をハンス・ヨアヒム・フォン・ツィーテンの騎兵隊が援護。
オーストリア軍はプロイセン軍による右翼攻撃に対応し、急ぎ部隊を移動させ相対し、L字型陣形をとる。
プロイセン軍はオーストリア軍の砲撃・猛射をうけ、ウィンターフェルトは被弾し後送され、シュヴェリーンもまた被弾し戦死。
オーストリア軍もブラウンは被弾しプラハに送られる。オーストリア軍右翼はプロイセン軍の攻撃を防ぎ、反撃しプロイセン軍を圧迫。しかしその間、右翼・中央間に間隙が生じる。
フリードリヒ大王は左翼部隊を立て直し、第2戦列を投入。ベーヴェルン、ブラウンシュヴァイク、ハインリヒ王子らが、オーストリア軍左翼を攻撃しつつ、中央の間隙に向かって攻勢に出てオーストリア軍を分断。ツィーテンの騎兵部隊はオーストリア軍最右翼を突破し、後方に傾れ込み、オーストリア軍の混乱を助長させる。
結果、オーストリア軍は崩れ、大半はプラハ城内に逃げ込む。
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プロイセン軍は、オーストリア軍カールと兵4万をプラハに包囲し、大王はカールに対して降伏を勧告。カールはメーレンのダウン軍の救援を期待してこれを拒否。
オーストリア軍損害1万7千、プロイセン軍損害1万4千で、戦術的にはプロイセン軍の小勝利であるが、オーストリア軍主将カールと主力4万を包囲下に置くことができ戦略的には大勝利。
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6月(日付なし) 
・英、ピット・ニューカースルの連立政権成立。
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6月18日
・7年戦争、コリンの戦い。
プロイセン・フリードリッヒ大王、プラハ東方コリンでプラハ救援に来たレオポルト・ダウン将軍指揮オーストリア軍と戦い最初の大敗北。シュレジエンを失い、東プロイセンにはロシア軍、ボメルンにはスウェーデン軍、ハノーファーにはフランス軍が侵攻。
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オーストリアはプロイセンに対して初めて勝利、以降プロイセンは守勢にまわる。
プロイセン軍は、プラハの戦いでオーストリア軍を破り、プラハを包囲していたが、ダウン率いる援軍が着陣した為、大王は軍の一部によりこれを牽制。
ダウンは一度後退するが、増援を得て兵5万で再びプラハに接近。大王はこれを阻止すべく兵3万2千で決戦。
この日(6月18日)、大王は、プラハ東方コリン郊外の丘に布陣するオーストリア軍の側面を攻撃。
ダウンは反撃し、プロイセン軍は大きな損害を出して敗退。大王はプラハ攻略を諦め、ボヘミアから撤退、逆にオーストリアが攻勢に出る。
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6月23日
・インド、プラッシーの戦い(イギリス・フランス植民地戦争)。
クライヴ率いるイギリス軍、フランスの軍事支援を受けたベンガル太守の大軍を撃破。
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プラッシー(ベンガルのナディヤ地方バンギラティ川畔、カルカッタ北)。
ベンガル進出を狙うイギリス東インド会社は、フランスの攻撃に備える為、前年、太守スィーラジュ・アッダウラの許可なくカルカッタ城塞を強化しようとする。
太守は工事中止を要請するが、拒否され、カルカッタを占領。
東インド会社はマドラスのクライヴに援軍を要請、この年カルカッタを奪回。
太守はシャンデルナゴールに拠点を置くフランスに接近。
この(6月23日)未明、両軍はプラッシーで対峙。太守軍7万(フランス兵40と重砲含む砲53門)に対し、イギリス軍は約3千(欧州人兵士950・セポイ2,100と砲9門・砲兵100)と劣勢であるが、クライヴは太守軍参謀長(前太守)ミール・ジャーファル(歩兵3万5千・騎兵1万5千)に対し反乱を工作、夕方には一方的にイギリス軍が勝利。
太守シラージュは処刑され、ミール・ジャーファルが傀儡としての太守に就任。
イギリスは多額の賠償金、カルカッタ周辺24郡のザミンダーリー(地租徴収権)を獲得し、ベンガル支配権を確立。
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ガンジス川下流域のベンガル地方は、絹・木綿の産地で、藍・アヘンなどの集散地でもある。ムガル帝国はこの地に太守を置いているが、ヒンドゥー諸勢力の抵抗で分裂状態となり、各地の太守は実質的に独立勢力化している。
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6月26日
・イギリス軍、ハノーファーでフランス軍を破る。
to be continued

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