■1757,58年(宝暦7,8年) モーツアルト2,3歳
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1757年7月23日
・伊(ナポリ生まれ)の作曲家ジュゼッペ・ドメニコ・スカルラッティ(71)、マドリッドで没
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7月26日
・讃岐で大洪水。堤防数10ヶ所が崩れ死者多数。
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8月(日付なし)
・米、フレンチ・インディアン戦争。フランス軍、ウイリアム・ヘンリー砦を奪取。
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・ルソー、デピネ夫人のラ・シュヴレット城館礼拝堂献堂式のためにモテット「エッチェ・セーデス・ヒック・トナンティス」作曲。演奏は9月15日。
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9月(日付なし)
・勝山藩、「漆実・多葉粉・菜種牙人(スアイ)之定」を出す。
他所仲買商人が勝山町で産物を売買するのは原則として自由、但し、漆実は100匁につき1匁、煙草は同2分、菜種も同額を口銭として徴収とする。尚、漆実だけは売人からも1匁の口銭を取ることになっている。
3町商人108人連名で中止を求める。勝山町商人の多くが仲買も兼ね、資金の豊富な他所商人には到底勝てず、町方衰微となるという理由。
結果は不明(恐らく撤回されたものと思われる)。
煙草・菜種は特に勝山辺在方の特産として名声を得つつある産物で、藩はこの利益に着目。大野・福井・丸岡・今立郡粟田部などの商人、更に19世紀には近江商人なども入り込み、農村の商品産物を巡る勝山町商人と他所商人との関係はますます複雑になってくる。
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9月5日
・7月に続き、讃岐で再び大洪水。高松城が大破。
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9月6日
・仏、ラ・ファイエット候爵(後、将軍)、誕生。
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9月7日
・幕府、神田佐久間町の測量所(天文台)を廃止。
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9月8日
・7年戦争。ハノーヴァー防衛に派遣された英カンバーランド公、クロスターセヴン協定でフランス軍に降伏。
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10月5日
・仏、シャルル・ド・ラメット(三頭派政治家、5男)、パリで誕生。
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10月19日
・フランス王太子ルイ・フェルディナンドと王太子妃マリー・ジョゼフとの間にアルトワ伯爵シャルル・フィリップ、誕生(後のシャルル10世)。
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10月21日
・仏、シャルル・ピエール・フランソワ・ オージュロー(後、ナポレオンの元帥)、パリ市フォブール・サン・マルソーで誕生。煉瓦工と果物露店商を営むドイツ系の貧しい家庭。
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10月26日
・郡上一揆、一揆参加者(立者)を巡り八幡城下で暴動。立者太平治の釈放の為に、気良村(明宝村)の甚助と寒水村(明宝村)の由蔵が活躍。
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11月5日
・7年戦争、ロスバハの戦い。コリンの戦いでオーストリア軍に大敗北のフリードリヒ大王率いるプロイセン軍、西からフランス軍が侵攻開始し苦境に陥るが、ライプチヒ西方ロスバハでフランス・ドイツ諸侯連合軍と戦い、勝利。ヴォルテールは「百年戦争中の数々の敗北も、これほど屈辱的では無かった」と嘆く。
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11月15日
・仏、ジャック・ルネ・エベール(サンキュロット主義者)、アランソンの金細工師の親方の息子として誕生。
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12月2日
・郡上一揆、気良村(明宝村)の甚助、逮捕。順当な裁判もなく同月18日夜、穀見の刑場で打ち首。このことは金森藩の落ち度として翌年の裁判でとりあげられる。
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12月5日
・7年戦争、ロイテンの戦い。フリードリッヒ大王プロシア軍3万5千、ロスバハの戦いの余勢をかって200km以上を移動、シュレジエン占領のオーストリア軍7万を破る。斜隊(斜行)戦術の成果。敵の側面に集中攻撃。のちにナポレオンは、これを「模範的な動員と決断」と讃え、更に改良して縦隊戦術(一点突破作戦)を完成させる。
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12月16日
・福井藩巣鴨屋敷奉行柳下瀬兵衛の倅条右衛門(徒士勤め)、座頭からうけた融資の返済ができず、期日直前に逐電。
[定府武士の窮乏]
江戸住居藩士は、借知率は軽減されるが、給禄支給がしばしば遅延。
29日、藩主の秘蔵箱から内証金1千両を放出し、藩士の越年資金に充当。半知以後藩士の給禄は削減され、加えて元禄7年から借知が再開(この年の借知は、京都の両替善五郎への調達金返済に充当する為)。藩財政不足を補填する方法として給禄の借り上げは恒常化される(154年間で借知のない年は僅か3年)。
また、借知の極めて重い率の「半減」(給禄50%借り上げ)は、宝暦11年が最初で延べ32年もある。寛政5年には「半減」借知が7年間続く。借知率の最多は8歩(給禄8%が借知)で、正徳元年以降で延べ53年もある。但し、「半減」・8歩も、その年の最高の借知率で、給禄に応じて率は逓減する。
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1758年(宝暦8年)(日付なし)
・この年、松前・江差に進出の近江商人は30名前後。
松前交易は、一部は北海道~大坂・下関交易の発展もあるが、全体としては敦賀・小浜中心の交易。しかし、28年後の天明6(1786)年には11名に減少。
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北海道~本州諸港の商品流通は、松前藩の再生産構造の特殊性や流通担当商人の性格から、若越中心型として発展。
大きな役割を果たして近江商人は、慶長期頃から松前に進出、寛永期以降は10数名の近江商人(柳川・薩摩・八幡出身者)が松前に出店。
彼らは昆布・干鮭・干鱈・千貝・鰊などの松前物を上方市場で売り捌き、上方からは衣類など生活必需物資を仕入れ松前に持込む隔地間交易で莫大な利益を得る。
彼らの多くは渡道間もなく藩権力と結びつき、両浜組(ギルド組織)を作り共同行動をとり、また出店を設け運輸業・商業を兼ねた幅広い商業活動を行う事により、諸商品の売買仕込みを通じ集荷過程にまで商権を拡大してゆく。
恒常的交易を望む松前藩は、こうした活動が藩体制維持上は有利であり、彼らに移出入税等の特権を与えるなどの優遇措置をとったことなどにより、彼らは急速に松前交易の独占権を掌握してゆく。
元禄・享保期の鰊生産と需要増大のなかで、彼らは自己の手船だけでなく、共同雇用船団である荷所船(ニドコロブネ)を使用し、大量の物資を短期間に輸送し、彼らの流通独占体制はより一層強化される。
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2月(日付なし)
・郡上一揆、藩の足軽や寝者(一揆反対派)が帳元の歩岐島村(白鳥町)四郎左衛門宅に押し入り帳面・金銭などを奪う(駕籠訴の裁きがはっきりしないうちに、一揆推進派の組織分裂を目論む)。
2日後、近隣の立者(一揆推進派)たちが歩岐島村に集まり、足軽50余人と大乱闘。帳面の番人の万場村(大和町)善次郎は捕縛されるが逃亡。
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3月(日付なし)
・7年戦争、第3次ヴェルサイユ協定。フランス、対オーストリア軍事援助削減。
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3月16日
・酒田、豪商本間家の本間光丘(ミツオカ)、庄内藩から湊西浜に砂防林植林計画の許可を得る。
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3月20日
・郡上一揆、村預けの駕籠訴人の喜四郎・定次郎と夫々の同村の吉十郎・吉郎治が、密かに江戸へ向かい、この日、江戸北町奉行所依田和泉守へ再度嘆願書を提出、無視される。
ここに至り、喜四郎と定次郎は歩岐島騒動を契機に活動を再開した四郎左衛門を中心とする関の寄合所と連絡をとり、最後の手段として箱訴(江戸評定所門前に置かれた目安箱に訴状を入れる)の計画を進める。
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4月2日
・郡上農民6人、箱訴を決行。
訴状に、「御大切之田地奉預候惣百姓共」(宝暦八年四月郡上藩一揆箱訴状)と記される。
一揆は、領主的土地所有存続を前提に、「御百姓」意識に対応する百姓土地所持観念を基礎にして闘われたことを示す。
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4月11日
・7年戦争、ロンドン協約。イギリス、プロイセン・フリードリッヒ2世への援助金支給約束。
to be continued
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