■1758年(宝暦8年) モーツアルト3歳
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5月6日
・仏、マクシミリアン・フランソワ・マリ・イジドール・ド・ロベスピエール、ベルギーに近い北部フランス・アルトワ州(現在のパ・ド・カレ県)で弁護士の長男として誕生。
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5月6日
・仏、アンドレ・マッセナ(後、ナポレオンの元帥)、ニースでワインの貿易商の家に誕生。
幼い頃に両親を失い、石鹸製造業を営んでいた叔父に育てられ、13歳の時に家を出て、キャビンボーイとして船に乗り込み住み込みで働く。
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5月8日
・プロイセン・フリードリッヒ2世軍、オルミュッツ包囲
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6月23日
・プロイセン軍、クレフェルトの戦いでフランス軍を破る。
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7月20日
・郡上一揆。幕府、郡上金森藩の本格的な調査を開始。
老中酒井忠寄は、寺社奉行阿部伊予守を長とする詮議掛(裁判官)5人を任命し石徹白騒動とともに郡上一揆について郡上金森藩を詮議。
7月21日~12月25日、殆ど毎日裁判。取調は幕府側(老中・若年寄・三奉行)、郡上藩(藩主金森頼錦・藩役人)、美濃国郡上郡・越前国大野郡石徹白村の村人数百人に及ぶ。また、審議には、将軍徳川家重の側衆である田沼意次も参加。
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7月22日
・宝暦事件。京都所司代、公家へ尊王論を講義していた尊王論者竹内式部を捕縛。
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7月26日
・北米、フレンチ・インディアン戦争。英軍アマースト将軍、ヌーヴェル・フランスの要塞ルイブール(ルイスバーグ)を奪う。
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8月26日
・郡上一揆。身を隠していた前谷村定次郎(駕籠訴人)・切立村喜四郎(同)・前谷村吉良治(歩岐島騒動の際江戸へ逃亡)・切立村吉十郎(同)の4名、箱訴が無駄になることを心配して北町奉行依田和泉守の役宅へ訴状をもって訴え出て(駆込訴)、直ちに入牢。
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9月3日
・田沼意次、加増(1万石となる)されて大名となり、評定所へ出ることを許される。いよいよ幕政に参画。
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「そもそも田沼意次は専左衛門意行(オキユキ)の嫡子として、素(モト)は紀州の士であった。専左衛門意行、和歌山において吉宗に召使われ、吉宗が八代将軍となった時に、付いて江戸に来たのである。そうして享保九〔一七二四〕年に叙爵して、主殿頭(トノモノカミ)となった。十年を経て、意次は西丸の御小姓(オコショウ)となった。享保二十〔一七三五〕年意行が死んで、意次が家を嗣ぎ、家重に事えて、宝暦元〔一七五一〕年に御側衆となった。八〔一七五八〕年の九月には万石の家となって大名に列し、宝暦十二〔一七六二〕年に五千石を加えられて、一万五千石となった。これからその才を現わして、明和四〔一七六七〕年には御側御用人となり、また加増せられて二万石となり、遠州相良に城を築いて、城主の列に入れられたのである。六年には老中の格となって、さらに五千石を加えられ、なお、奥勤故(オクヅトメモト)の如くいたしておった。安永元〔一七七二〕年には、本格の老中となって、さらに五千石を加えられ、その後もしばしば封を加えられて遂に五万三千石にまで昇った。天明三〔一七八三〕年に、その子の意知(オキトモ)は若年寄となり、父子相列んで要路に当って、天下の政治を自由にした。」(辻善之助「田沼時代」)。
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9月3日
・ポルトガル国王とポンバル侯暗殺計画、露見。ポンバル侯、これを口実に大貴族1千以上逮捕、弾圧。
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9月25日
・モーツアルト従姉妹マリア・アンナ・テクラ・モーツァルト(ベースレ)、誕生。
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9月29日
・英、ネルソン提督、ノーフォーク、バーナムソープに誕生。
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10月29日
・郡上一揆関連の役人への判決。
老中本多正珍をはじめ、若年寄・勘定奉行・笠松代官(青木次郎九郎)免職、他に幕府役人も多数処罰。笠松代官の青木次郎九郎には役職権限外の口出しを理由に免職。藩主金森頼錦は領地没収・お家断絶。金森藩重役も重罰(渡辺外記;島流し、粥川仁兵衛;島流し、根尾甚左衛門;死罪、片重半助;死罪)。
百姓一揆が原因で老中など幕閣や藩主が免職や改易になったのは江戸時代でこの事件だけ。
12月25日、農民側判決。死罪14。既に詮議中の獄死21。他に手鎖・遠島・重追放10。
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美濃八幡城主金森頼錦は、「領民ヲシテ暴歛苛法ニ苦シメ、騒擾セシムルヲ以テ封除セラレ」(「徳川除封録」)とある。
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この月、岩村藩藩主松平乗薀が郡上八幡城を預かり、12月、丹後国宮津藩青山幸道4万8千石が入る。
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11月
・「五海(街)道」に関する記述。道中奉行所御勘定谷金十郎が尋ねられて、江戸伝馬役馬込勘解由に回答。
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「一、五海道と申す儀、何れの海道を申し候哉と御尋ね、道中奉行所にては、 五ケ宿と申す儀度々承り候得共、何れの海道を以て五ケ宿と申し候哉、存 じ奉らず候、東海道・中山道・日光海道・北陸道、右を海道の様に覚へ居 り申し候得共、此の儀も五海道の内に御座候哉、聢と申上られず候、尚又 壱ケ所の儀何れを申し候哉、存じ奉らず候旨申上げ候。・・・
一、右五海道の訳、同月十七日道中方御勘定谷金十郎殿え承合ひ候処、左の通り御支配共相知り候に付、同月十九日書付右御番所え持参差上げ候得ば、 上げ置き候様仰渡され候事。
一、東海道 品川より守口迄 美濃路 名護屋より大垣迄 佐屋廻り 岩塚より守山迄
一、中山道 板橋より守山迄
一、日光道中 千住より鉢石迄 壬生通り 板橋より岩淵迄 水戸佐倉道 新宿より松戸迄
一、奥州道中 白沢より白川迄
一、甲州道中 上高井戸より上諏訪迄 右五口五海道と申し、道中御奉行御支配に御座候、以上。
寅十一月 大伝馬町 馬込勘解由」(「御伝馬方旧記」)。
5街道の起点である江戸日本橋の伝馬所の記録。
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5街道の呼称(表記):
正徳6年(1716)、中山道は東山道の内の中筋の道であるので「中山道」というべきで、中仙道は適切でないとする。また奥州海道、日光海道、甲州海道は、海のない国を通るのに適した呼称でないので、「日光道中」「奥州道中」「甲州道中」とすべき、とする。
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「東海道五十七次」:
東海道は江戸日本橋~大坂高麗橋間をいい、宿場は江戸~京都間53次で、京都~大坂間にも4ヶ所に設けられている。合わせて57次ある。
この年の「御伝馬方旧記」には「東海道 品川より守口迄」とされている。また、天保14年(1843)、幕府が東海道の各宿場の人家数などを調査した「東海道宿村大概帳」には、品川~大津53宿と伏見、淀(京都)、枚方、守口(大阪)の4宿が記載されている。従って、東海道は江戸~大坂間をいうことは間違いはない。
では「東海道五十三次」とは?
一般に、江戸~京都間を旅する人が多く、また、京都~大阪間については、大阪へは伏見から船で淀川を下り、京都~大坂間の4宿は上り中心の片宿となり、他の53宿と比べ利用する人々は少なかったようだ。江戸後期、広重の「東海道五十三次」がベストセラーになるなど、東海道は公的には57次の機能を持ちながら、一般には53次として定着していったと推測される。
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日光道中と奥州道中は、古くから奥州街道と云うが、日光に東照宮があるところからこれを区別している。①日光道中は、千住~鉢石(日光の手前)の21宿、②奥州道中は、白沢(日光道中宇都宮宿の先き)~白河宿の10宿。
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12月25日
・北米、フレンチ・インディアン戦争。英フォーブズ准将、デュケーヌ砦占領。ジョージ・ワシントンは3旅団の1つを率いる。フォート・デュケーヌは英宰相にちなんで「ピッツバーグ」と改名。
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ワシントンはイングランドに属する者として戦い、帝国での出世を願うが、植民地軍将校は無価値と悟る。新進将校として勇名を馳せ、マーサ・ダンドリッジ・カスティスという若い裕福な未亡人と結婚。実兄夫妻が相次いで没し大土地所有者となる。
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[モーツアルト世代=フランス革命世代]
この年表は、モーツアルトが生まれた1756年1月27日から始まり、幼・少・青年期のモーツアルトの足跡を辿ろうとして始めました(今のところ、未だ主人公は誕生日以外出てきていませんが・・・)。
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ただこの年(1758年)もそうですが、後にフランス革命に登場する人物がかなり誕生してます。モーツアルトは、生まれはザルツブルクなんですが、世代としてはフランス革命世代なんですね。
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モーツアルトの作品にあらわれる、貴族に対する揶揄、批判などを指して、モーツアルトの業績に「音楽の市民革命」・・・云々を挙げられる方もおられますが、それは正しいとしても、要はそういう時代であった、或いはそういう雰囲気のする時代であったということなんでしょうかね。
モーツアルト一人が「音楽の市民革命」を標榜しても、それを受け入れる土壌(聴衆=市民)がいないと、成立しえない訳ですから。
モーツアルトの才能をもってしかそれをなし得なかったという側面はあるにしても、です。
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という訳で、モーツアルト誕生前後のフランス革命関係者をあげると・・・(一部重複)。
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1754年2月12日
・仏、シャルル・モーリス・ド・タレイラン、パリに誕生。宮廷貴族の長子。政治家・外交官。1789~1838年の全ての政権に仕える。
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3月17日
・仏、ロラン夫人、パリに誕生。
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7月31日
・仏、ボン=アドリエン・ジャンノ・ ド・モンセイ(後のナポレオンの元帥)、ブルゴーニュ地方ドゥー県で誕生。中流家庭の貴族、ブザンソン市地方議会法律事務官の家庭。
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8月23日
・フランス王太子ルイ・フェルディナンドと王太子妃マリー・ジョゼフとの間に第3男ベリー公ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)、誕生。
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1755年5月11日
・仏、ジャン・バプティスト・アンドレ・アマール(弁護士、国民公会議員、保安委員)、グルノーブルで裕福な毛織物商の家庭に誕生。
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6月24日
・独、ジャン・バプティスト・"アナカルシス"・クローツ(ドイツ人活動家、哲学者、無神論者、非キリスト教化運動提唱者)、ライン河畔のプロシア領で裕福な貴族の家庭に誕生。1792年8月フランスに帰化。国民公会議員。のち処刑される。
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9月4日
・スウェーデン、フォン・フェルセン伯爵、誕生。マリー・アントワネットの愛人。
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9月10日
・仏、ベルトラン・バレール ・ド・ヴュザック(平原派政治家、モンターニュ派協力者)、タルブの名家に誕生。高等法院高級官職を望むが地方出身者ゆえに道を阻まれ、トゥールーズで弁護士となる。
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10月25日
・仏、フランソワ=ジョセフ・ルフェーヴル(後、ナポレオンの元帥)、オー・ラン県ルーファで誕生。父は軽騎兵連隊に所属する軍人(貴族ではないので、士官にはなれない)。
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11月2日
・墺、マリー・アントワネット、墺女帝マリア・テレジアと夫フランツ1世の間に末娘としてウィーン・シェーンブルン宮で誕生。
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11月17日
・フランス王太子ルイ・フェルディナンドと王太子妃マリー・ジョゼフとの間に第4男プロヴァンス伯爵ルイ・スタニフラフ誕生(後のルイ18世)。
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1756年6月10日
・ピエール=ジョセフ・カンボン(平原派の政治、「財政のロベスピエール」)、モンペリエで裕福な綿織物商人の家に誕生。
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6月24日
・仏、テオドール・ド・ラメット(4男)、パリで誕生。ピカルディー地方の帯剣貴族、父ルイ・シャルル・ド・ラメット侯爵。
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1757年10月5日
・仏、シャルル・ド・ラメット(三頭派政治家、5男)、パリで誕生。
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10月19日
・フランス王太子ルイ・フェルディナンドと王太子妃マリー・ジョゼフとの間にアルトワ伯爵シャルル・フィリップ、誕生(後のシャルル10世)。
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10月21日
・仏、シャルル・ピエール・フランソワ・ オージュロー(後、ナポレオンの元帥)、パリ市フォブール・サン=マルソーで誕生。煉瓦工と果物露店商を営むドイツ系の貧しい家庭。
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11月15日
・仏、ジャック・ルネ・エベール(サンキュロット主義者)、アランソンの金細工師の親方の息子として誕生。
to be continued
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