2009年3月2日月曜日

天文5(1536)年(1) [信長3歳]

■天文5(1536)年(1) [信長3歳]
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この年(月日なし)
・朝倉孝景、谷野一栢に命じ熊宗立の編集した医学書「八十一難経」を校正出版させる。
一栢は易学・暦学にも通じて特異な学才を発揮し、周囲には建仁寺月舟寿桂・公家清原宣賢など最高の学者たちが集まり、彼らは度々一乗谷に下向し滞在。
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・佐々成政、佐々成宗の第5子として尾張の比良城に誕生。
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・尼子経久、大軍を率いて南進を開始。毛利氏圏域での失地回復を図る。
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・島津貴久、薩州島津実久に奪われていた伊集院城を奪回。
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・島津忠良の壱宇治城攻め。
島津忠良(日新斉)、島津貴久・弟忠将に兵1千余を率いさせ、町田久用の留守を狙い夜陰に乗じ壱宇治城を攻撃。忠良は太田の「小峰之尾」に布陣。その日の内に落城。
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・天文5~9年の播磨英賀3ヶ村の門徒組織は、「六人の長衆」「中老十一人衆」などにより運営されている(「天文記」)。これは門徒惣中の諸組織の「長」「中老」であって村落組織のそれとは必ずしも一致しない。
初期教団では、荘・郷など一定地域が門徒団によって制圧される事態に至らず、一向宗と地下惣中とは別個のもの。門徒組織の発展した状況においでは、門徒組織が事実上村落組織を乗っ取り、君者が不分明になる状況が現出。
村落結合(惣的結合)と門徒惣中(講的結合)とは、本来構成原理を異にする。
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・神聖ローマ皇帝カール5世、ヘンデルラント公エフモントのカールよりネーデルランド・フローニンゲン入手。
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・ヴィッテンベルク協定。プロテスタント、「四市信条」派とルター派との教義上の一致。
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・バスク出身貴族ペドロ・デ・メンドサ、船12隻を率い入植者1500と共にブエノスアイレス付近に上陸。
後、メンドサは病気になり帰国途中に没。後継者フアン・デ・アヨラス、伝説的な「白い王の国」を求めパラナ川を北上。パラグアイに入る。
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・スペイン、ピネーダ、アンデス越え。シナモンの国発見
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・ポルトガル、ジョアン3世、異端審問所設立。「新キリスト教徒」の社会進出を抑えるためという説あり。リスボン、コインブラ、エヴォラ、ゴア。
1540年最初の焚刑。1540~1765(225年間)、審問3万1355・処刑1175。
多くの新キリスト教徒が迫害を逃れ、とりわけアムステルダムに集中し居留区を形成。1597年ユダヤ教会堂シナゴーグを建設。
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・ラスカサス、先住民の扱いをめぐりニカラグア政府と衝突、グアテマラに向かう。原住民への伝導開始。
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・ホンデュラス、イゲーラス地方グラシアスで金銀の鉱山発見。分け前をめぐりスペイン人の間で内紛。介入したグアテマラ総督アルバラード、クリストバル・デ・ラ・クエバを派遣、イゲーラスの支配権獲得。サンペドロ・スーラを建設しグアテマラ領に編入。
アルバラードとユカタン半島支配権を握るフランシスコ・デ・モンテホとの間で協定。アルバラードのホンジュラスに対する支配権が認められる。アルバラードはプエルト・デ・カバーリョスの町を建設。
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・アルマグロ、アルゼンチン側からアンデスを越え、サンチアゴ附近まで進出。
ゴメス・デ・アルバラードの一隊、更にイタラ川(マウレ川)まで進出。レイノウェレンでカウポリカン指揮のアラウコ族一支族マプチェ族と遭遇戦、勝利するが大きな損害。
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・ヘンリ8世、小修道院の解散法制定。
ヘンリ8世、大法官クロムウェルに命じ、全聖職者の収入を調査し「教会財産査定目録」を製作。修道院財産没収の口実を得る為に各修道院を巡察させる。その結果「12名以下の小修道院では腐敗がはなはだしい」として小修道院解散法を制定。狙いは大修道院の土地財産であるが、まず弱い立場に的を絞る。
続いて大修道院の私権を剥奪するなど自発的解散に追い込み、解散しない大修道院に対して「大修道院解散法」を制定、1540年迄に大修道院184が解散。
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・ハンザ同盟、バルト海でのスウェーデンとの対決に敗北(1533~1536)。
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・フランス、ルフェーブル・デターブル、没。ルター、カルヴァンに先立ちフランス内で宗教改革を唱える。
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・イグナティウス・デ・ロヨラにフランス人同志が加わり、総数10人となる。
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1月(日付なし) 
・潤甫周玉(武田元光の弟)、三条西実隆より定家の歌学書「詠歌大概」を借りその講義を聞く。
また享禄末年~天文初年、実隆を判者として、その子公条と共に堀河院百首の題で狂歌合を行なう。小浜では栖雲寺に清原宣賢を迎え、天文元年「孟子」講釈会を開くなど、小浜文芸に宋学の新生面を開く。
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1月1日
日吉丸(豊臣秀吉)、誕生(「公卿補任」「太閤素性記」「甫庵太閤記」による)。
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1月4日
・本願寺証如(光教)、山科に道場を再興。この日、立柱(「石山本願寺日記」)。
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1月7日
・英、ヘンリー8世の最初の妃カサリン(52)、没。数週間後、2番目の妃アン・ブーリンは男子を流産。
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1月17日
・武田信虎嫡男太郎(16)、元服。
将軍義晴の偏諱をうけて晴信と名乗り、従五位下大膳大夫に任ぜられる。7月、今川義元の斡旋で正妻として公家三条公頼の娘を迎える。またこの年11月、初陣。
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1月24日
・ヴェネツィア、カール5世との同盟更新
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2月 
・三河岡崎城主松平広忠、修理費50貫を進献。
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2月10日
・越後守護代長尾為景、後奈良天皇から越後一円の内乱平定を命じる「治罰の綸旨」を受ける。
為景は、使僧花蔵坊(カゾウボウ)を京都の広橋家諸大夫山形光秀の許に派して運動、礼銭150貫文を禁裏に献上。
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[治罰の綸旨]:
「征伐の綸旨」とも呼ばれ、天皇が「朝敵」追討を命じ、「職事(シキジ)」或いは「弁官」と呼ばれる公卿(天皇秘書官)が天皇の命を奉じて下す文書。元来は官宣旨(カンセンジ)の様式で追討を命じる。
1221年、承久の乱の際、北条泰時追討を諸国の武士に命じる後鳥羽上皇の命令は、官宣旨の様式で出ている。
1441(嘉吉元)6月、嘉吉の変(播磨守護赤松満祐が第6代将軍足利義教を自邸に招じて暗殺)では、朝敵にはあたらない赤松氏を朝敵に仕立てて臨時を出している。
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治罰の綸旨は幕府側の奏請(実質的には強制)で出され、対象となった者は没落しているが、それは、比較的強固な中央政権が存在する場合に効果を発揮するが、戦国期に入り、幕府が弱体化すると、逆に天皇にとって両刃の剣ともなる。
1501年(文亀元)閏6月、前将軍(第10代)足利義材を匿った大内義興追討の治罰綸旨が発せられるが、その朝敵の義興が、1507年(永正4)末、義材を擁し大軍を率いて海路東上との情報が流れ、既に細川政元は暗殺され、綸旨発給関係者としての後柏原天皇・第11代将軍義澄は驚愕。
将軍義澄は、1508年(永正5)4月、近江甲賀に逃亡。幸いにも、6月の義興ら入京の際、将軍に還任された義材は綸旨の件を不問に付すが、天皇は治罰綸旨が両刃の剣となりうると認識したと思われる。
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戦国期半ば頃、一大名の分国(領国)内に限定して、天皇命により敵対者を討ち、分国統言に資そうという「分国内治罰綸旨」「分国内和平臨時」ともいうべき新たな動きが見られるようになる。
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越後では、守護上杉定実(サダザネ)が傀儡化し、守護代長尾為景(輝虎の父)が実権を握るが、各地の国人土豪は自立性が強く、為景の統制に服そうとはしなかった。
1530(享禄3)11月、定実の一族上条定憲か為景に叛き、為景は柏崎に上条氏を攻撃する一方、幕府にも調停を依頼。しかし、第12代将軍義晴は近江朽木に亡命中で、細川高国も山陰~山陽へ流離している状況。
1933(天文2)9月、定憲は再び挙兵、越後刈羽郡内で合戦となり、翌年3月には上条・柏崎周辺に広がり、1535年(天文4)正月には為景拠点の下倉山城(新潟県堀之内町)が包囲攻撃され、越後は国を二分する混乱状態に陥る。
一方、京都では、一向一揆と法華一揆の死闘が収まった直後で、まだ執政細川晴元は摂津芥川城(高槻市)に待機中で中央政権の体をなしていない。
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ここに至り、為景は後奈良天皇の権威を借りることを決意し、同年6月朝廷へ、長尾家が拝領した御旗を紛失したので新調したいと申請し、許されて「御旗御免綸旨」なるもの与えられる。
守護代にすぎない長尾家に天皇が旗を授与することなどありえないが、100貫文余の礼銭が見込まれる朝廷側は、「いよいよ函底に収め、永々累代の家宝に備」えるように為景に命じる。
為景は、天皇から錦旗を授かる程の家格であるとして天皇との間柄を誇示し、この月、「治罰の綸旨」を交付してもらう。
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しかし、天皇の威を借りてしても分国平定はならず、1540年(天文9)9月、為景の後継(長男)晴景は、再度綸旨を仰ぐこととなる。
奏者の父広橋兼秀はこれを「私敵治罰綸旨」と呼ぶ。その後、越後は晴景後継(弟)景虎(謙信)」になってようやく平定の緒につくこととなる。
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2月12日
・フランソワ1世、教会財産の1/3、大司教・司教の財産の1/2を差押え。イタリア遠征費用(皇帝カール5世との戦いの軍資金)を調達。この月、ミラノに向け遠征開始。ブレス、ビュジュ、サヴォワ、ビエモンテ占領。
医師アンブロワーズ・パレ、従軍。後の対ドイツ戦、対イスパニア戦にも従軍。「余は治療し神は治癒す」。
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2月18日
・オスマン朝、仏に初の在留外国人特権を与える
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2月21日
・エチエンヌ・ドレ、「ラテン語考」上巻(下巻12月)。恩師ギョーム・ビュデに捧げる。ラテン語を説明する際に、キリスト教会の教義と一致しない神や霊魂について述べる。
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2月26日
・後奈良天皇、即位式。1526年4月7日後柏原天皇没し践祚。
大内義隆の20万疋(1疋10文)をはじめ、北条氏綱・武田元信・今川氏輝・朝倉孝景・本願寺光教らの献資による。
義隆は、この奉献により太宰大弐を許される。義隆の従二位下という異例の昇進は、このような資財献上の結果。のち守護ながら従二位・兵部卿と、細川氏をはるかに凌ぐ官位を授与される。
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3月 
・三好勢、西難波椋橋で一向一揆と対戦。敗北し木沢長政の信貴山城に逃れる。
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・皇帝カール5世、ナポリ→ローマに向かう。
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・カルヴァン(26)、バーゼルで主著「キリスト教綱要(ラテン語版)」を出版。
プロテスタント神学の体系を示す。カルヴァニズムの教典。序文「王に捧げる書簡」(1535/8/23バーゼル)、新教擁護、迫害者は悪魔の手先と抗議。1541年、フランス語版「キリスト教綱要」を出版。一躍、改革派教義の体系的理論書且つ信者の手引き書となる。生前に25版を重ね、版を重ねる毎に思想が深化・発展。1559~1560年版は、カルヴァン派教義の集大成。
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3月3日
・比叡山山門(天台宗)と法華宗との宗論。山門側負ける。叡山を中心とする旧仏教側の日蓮宗への反撥強まる。
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3月10日
・第13代将軍となる足利菊幢丸(義輝)、誕生。
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3月12日
・この日付若狭武田氏被官粟屋元行の書状。幕府料所宮河保で武田氏が請負う公用銭は年間2万疋(200貫文)であるが、上納は滞り殆ど連年未進分を催促されている。
公用銭納入にあたった元行は、去年は干損で年貢が集まらず、方々で借用しているが未だに調達できていない、「安綱弐尺七寸太刀参千疋」「久国両銘太刀代万疋」他を持参するので、京都で換金できないか、国許でも色々売却しているが不十分なので、太刀・刀のようなもので調達して戴ければ有難いと記す。
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3月17日
・今川氏当主氏輝(24)、病没。弟承芳(18)還俗し義元名乗り後継。外祖父福島上総介は義元の異母兄弟遍照院住職良真(玄広恵探)を擁立。内戦線状態(「花倉の乱」)。6月8日、合戦。反義元派敗北。10日、良真自害、福島上総介滅亡。
to be continued

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