治承4(1180)年4月9日
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・以仁王の乱。
以仁王(30、後白河法王第2皇子)、最勝親王と称し平家追討の令旨を諸国源氏に下す。
源頼政、以仁王を奉じ平家追討の宣旨を諸国の源氏に伝える。
治承・寿永の内乱の始り。
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[乱の概略と意義]
以仁王の乱は、発覚後の5月15日、以仁王(高倉宮)の配流の宣下があり、追捕のため検非違使が三条高倉亭に向かうところから始まる。
以仁王は、一足早く脱出し三井寺に逃れる。三井寺衆徒は以仁王に加担。
源頼政は、子の仲綱以下を率い宮に加わる。
しかし、延暦寺衆徒との連携に失敗し、興福寺を頼って南都に落ちる途中、平家軍に攻められ、僅か10日程で乱は失敗に終わる。
乱の残す影響は大きい。
①これを契機に平氏は南都北嶺の衆徒との武力対決の途をとらざるを得なくなり、遂には都を福原に遷す。
②乱の直前に発した以仁王の令旨により、諸国の源氏が挙兵、一斉蜂起の事態となる。乱は王朝国家への公然たる叛乱であり、この時挙兵した頼朝は、東国に樹立した支配権を令旨によって正当化しつつ、やがて幕府権力を樹立。
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□「吾妻鏡」では・・・。
「入道源三位頼政卿、平相国禅門(ヘイソウゴクゼンモン、清盛)を討滅すべき由、日者(ヒゴロ)用意の事あり。然れども私の計略を以ては、太(ハナハ)だ宿意を遂げ難きに依って、今日夜に入り、子息伊豆の守仲綱等を相具し、密かに一院第二宮の三條高倉の御所に参る。前の右兵衛佐頼朝已下の源氏等を催して、彼の氏族を誅し、天下を執らしめ給うべきの由、これをを申し行ふ。仍って散位宗信に仰せ、令旨を下さる。而るに陸奥の十郎義盛(廷尉(テイイ)為の末子)折節在京するの間、この令旨を帯して東国に向い、先ず前の兵衛佐に相触るの後、その外の源氏等に伝うべきの趣、仰せ含めらるる所なり。義盛八條院の蔵人に補す(名字を行家と改む)。」(「吾妻鏡」)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「四月小 九日、辛卯。入道源三位頼政卿は、平相国禅門清盛を討ち滅ぼそうと兼ねてから準備していた。
しかし、自分の力だけではこの願いを遂げる事は難しく、この日、子の伊豆守仲綱を伴い、一院(後白河)の第二皇子である以仁王が住まう三条高倉の御所へ密かに参上。
「前右兵衛佐(源)頼朝をはじめとする源氏に呼びかけて平氏一族を討ち、天下をお執りになってほしい。」と申し述べると、以仁王は、散位藤原宗信に命じて令旨を下す。
そこで、廷尉(源)為義の末子である陸奥十郎義盛が在京していたので、「この令旨を携えて東国に向かい、まず頼朝にこれを見せた後、そのはかの源氏にも伝えるように。」と命じる。
義盛は八条院の蔵人に任ぜられ、名乗を行家と改めた。」
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①「日者用意の事」:頼政の平家転覆の企ては、かねてからの宿意である。
②「今日夜に入りて」:4月9日夜、三条高倉の御所を訪ねる。
③「前右兵衛佐頼朝以下の源氏等」:頼朝を諸国の源氏の中心的存在と強調。
④「散位宗信に仰せて」:六条亮大夫宗信が令旨作成の任に当たったとする。
⑤「八条院の蔵人に補せらる」:令旨の伝達にあたる行家が八条院の蔵人に補せられる。
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□「平家物語」では・・・。巻4「源氏揃」(げんじそろえ):
源三位入道頼政、深夜以仁王(高倉の宮)を訪い、平家打倒を呼びかける。
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「其の頃近衛河原に候はれける源三位入道頼政、或夜潜かに此の宮の御所に参りて、申されける事こそ怖しけれ。
「たとへば、君は天照大神四十八世の正統、神武天皇より七十八代に当らせ給ふ。然れば、太子にも立ち、位にも即かせ給ふべかりし人の、三十まで宮にて渡らせ給ふ御事をば、御心憂しとは思し召され候はずや。早々(ハヤハヤ)御謀叛起させ給ひて、平家を亡し、法皇の、何となく、鳥羽殿に押籠められて渡らせ給ふ御憤をも、休め参らせ、君も位に即かせ給ふべし。これ偏(ヒトヘ)に御孝行の御至にてこそ候はんずれ。若し思し召し立たせ給ひて、令旨を下され給ふものならば、悦びをなして馳せ参らんずる源氏どもこそ、国々に多く候へ」
とて申し続く。」
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「近衛河原」:近衛大路の東にの賀茂川の河原、現在の荒神橋附近。清し荒神の社の東にあり「荒神河原」とも、関白道長の遺址法成寺に近いことから「法成寺河原」とも呼ばれる。
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頼政は、決起を呼びかければ直ちに馳せ集まるであろうと思われる諸国に散在する源氏一族の名を数えあげる(「名寄せ」)。
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「先づ京都には、出羽前司光信(デハノゼンジミツノブ)が子ども、伊賀守光基(イガノカミミツモト)・出羽判官光長(デハノハングワンミツナガ)・出羽蔵人光重・出羽冠者光能(ミツヨシ)、熊野には、故六条判官為義が末子(バッシ)十郎義盛とて隠れて候。摂津国には多田蔵人行綱こそ候へども、これは新大納言成親卿の謀叛の時同心しながら返忠(カヘリチュウ)したる不当人(フタウジン)にて候へば、申すに及ばず。さりながら其の弟、多田(ノ)次郎朝実(トモザネ)・手島冠者高頼(テシマノクワンジャタカヨリ)・大田(オホタノ)太郎頼基、河内国には、石川(ノ)郡を知行しける武蔵権守入道義基・子息石河判官代義兼、大和国には、宇野(ノ)七郎親治が子ども、太郎有治(ハリハル)・次郎清治(キヨハル)・三郎成治・四郎義治、近江国には、山本・柏木・錦織(ニシゴリ)、美濃尾張には山田(ノ)次郎重広・河辺(ノ)太郎重直・泉(ノ)太郎重光・浦野四郎重遠・安食次郎重頼・其の子の太郎重資・木太(ノ)三郎重長・開田判官代重国・矢島(ノ)先生(センジョウ)重高・其の子の太郎重行、甲斐国には、逸見冠者(ヘミノクワンジャ)義清・其の子の太郎清光・武田太郎信義・加賀美(カガミノ)次郎遠光・同じき小次郎長清・一条(ノ)次郎忠頼・板垣(ノ)三郎兼信・逸見兵衛有義・武田五郎信光・安田(ノ)三郎義定、信濃国には、大内(ノ)太郎維義・岡田冠者親義・平賀冠者盛義・其の子の四郎義信・故帯刀先生義方(コタテワキノセンジョウヨシカタ)が次男、木曽冠者義仲、伊豆国には流人前兵衛佐(サキノヒョウエノスケ)頼朝、常陸国には信太三郎先生(シノダノサブロウセンジョウ)義教・佐竹冠者正義、其の子の太郎忠義・三郎義宗・四郎高義・五郎義季、陸奥国には故左馬頭義朝が末子九郎冠者義経、これ皆六孫王の御苗裔、多田の新発意満仲の後胤なり。」
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[源氏の一族の展開の経緯概略]
清和天皇の子陽成天皇の皇子元平親王の嫡子の経基王が、天徳5年(961)6月15日に「源朝臣」の姓を与えられ臣籍に降り、「源経基」と名乗って以来、「源」をその姓とする。
経基の子の満仲には数人の男子があり、夫々に独立して家を立てる。
①長子頼光は嫡流を継ぎ、その子孫が摂津国多田の庄(川西市)を拠点として、「摂津源氏」「多田源氏」と呼ばれる。
②次男頼親は、数度大和守に任ぜられ、国府のある高市(タケチ)郡軽(カルミ)に住み、その子孫は「大和源氏」として大和地方に勢力をふるったといわれる。
③第3子頼信は、河内守として河内の国古市(フルイチ)郡壷井(ツボイ)の里(羽曳野市)に住み、「河内源氏」と呼ばれる。
頼信の第2子頼清は、信濃の国の村上御厨(長野県坂城町村上)を中心に活躍し、「信濃源氏」を称した。
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さらに頼信の孫で頼義の3男義光は、常陸守として任国に下り、常陸の佐竹郷(常陸大田市佐竹町)を基盤として「常陸源氏」と称す(佐竹氏・志田氏の祖)。
義光はまた甲斐守にも任ぜられ、その任地甲斐の国余部(アマベ)郡(韮崎市)に次男の義清を残し、この一統を「甲斐源氏」と呼ぶ。
さらに義光は晩年近江の園城寺に住み、その所領柏木庄(滋賀県水口町)を伝領した子孫が「近江源氏」と呼ばれるようになる。
また満仲の次弟の満政は美濃の国方(カタカタ)県郡八島郷(岐阜市八島町)に下り、その子孫はこの地に土着して「美濃源氏」と呼ばれる。
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「源氏揃」で挙げられる諸国に散在する源氏一族の状況については、次回以降とします。
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「源三位入道頼政というひと」はコチラ
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to be continued
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