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①は「龍之口刑場跡」の碑です。1271年(文永8年)9月12日の所謂「龍口の法難」のあったところです。
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②③④1337年、この法難の地に門弟の日法上人が一堂を建立し、日蓮像を安置したのが龍口寺の始まりとのこと。その後、慶長年間、天保年間に徐々にお寺としての構えを充実させてきたようです。
静かなたたずまいのいいお寺でした。
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⑤江ノ電「江の島」駅にあったミニチュア。あまりにうまくできているのでシャレで掲載。江ノ電には根強いファンがいるようです。
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「法難」のあった9月の「黙翁年表」を一部ご紹介。ざわざわした世相だったようです。
1271年(文永8年)
9月2日
・関東使、高麗牒状(三別抄の牒状(「吉続記」では「高麗牒状」))を携帯して上洛。
・関東使、高麗牒状(三別抄の牒状(「吉続記」では「高麗牒状」))を携帯して上洛。
3日、関東申次の西園寺兼実を通じて朝廷に高麗牒状を送る。関白以下、連日これを議定。
珍島に政権樹立した高麗の旧政権軍隊三別抄が日本に支援要請。この年5月に政権は既に陥落。
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「関東使高麗の牒状を随身し、西園寺大納言の許に向かう。亞相参院し申し入ると云々。」(「吉続記」9月2日条)。
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「関東使高麗の牒状を随身し、西園寺大納言の許に向かう。亞相参院し申し入ると云々。」(「吉続記」9月2日条)。
「件の牒状の趣、蒙古兵日本に責め来るべし。また糶を乞い、この外救兵を乞うか。状に就いて了見区々分る。」(同4日)。
「藤翰林茂範祇候す。御前に召され、牒状二通を読らる。停滞無くこれを読み申す。」(同5日)。
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(高麗がモンゴルに攻められ、徹底抗戦派が義勇軍「三別抄」を組織し珍島に依り、日本に救援を要請したもの)
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9月12日
・【日蓮、龍口の法難】
・【日蓮、龍口の法難】
幕府(侍所の所司・平頼綱)、武士数百人を指揮して日蓮を逮捕。
日蓮を竜口で斬ろうとするが落雷で失敗。この時、日蓮は平頼綱に向かい、日蓮を逮捕することは日本国の柱を倒すことであり、日本国内に内訌が起こり外国からの侵略があろう、建長寺をはじめ鎌倉の諸宗寺院を破却し、念仏者・禅僧等を斬首せよと言う。
10月10日、佐渡に配流。弟子日朗らを獄に下す。
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9月13日
・幕府、鎮西将士に令し海防を厳重にさせる。異国警固番役の起源。
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関東御教書
・幕府、鎮西将士に令し海防を厳重にさせる。異国警固番役の起源。
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関東御教書
「蒙古人襲来すべきの由、その聞こえ有るの間、御家人等を鎮西に差し遣わす所なり。早速自身肥後国の所領に下向し、守護人に相伴い、且つは異国の防戦を致さしめ、且つは領内の悪党を鎮むべし。てえれば、仰せに依って執達件の如し。」。
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鎮西にも所領を持ち東国の本領に居住する御家人に対し、自身もしくわ代官が鎮西に赴き、その国の守護の指揮下に入るよう命じる(東国御家人の西国移住始まる)。
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鎮西にも所領を持ち東国の本領に居住する御家人に対し、自身もしくわ代官が鎮西に赴き、その国の守護の指揮下に入るよう命じる(東国御家人の西国移住始まる)。
豊後守護大友頼泰と筑前・肥前守護武藤資能に対しては、東国御家人の下向までの間、取敢えず九州在住御家人を動員して筑前・肥前の海岸線警備を命じる。
他方、九州下向の御家人には領内悪党(反抗者)鎮圧を命じる。
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妥協と抑圧を絡ませながら、得宗権力確立と協調体制確立を狙う路線は、得宗被官(御内人)と御家人(外様)の対立、幕府中枢部における御内人最高実力者平頼綱と最有力御家人安達泰盛との対立となって現れる。
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妥協と抑圧を絡ませながら、得宗権力確立と協調体制確立を狙う路線は、得宗被官(御内人)と御家人(外様)の対立、幕府中枢部における御内人最高実力者平頼綱と最有力御家人安達泰盛との対立となって現れる。
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9月19日
・モンゴルの使者趙良弼ら100余人、今津に来着。入京と国書上奉を要求するが太宰府(大宰少弐武藤資能)は許さず写しだけを幕府に送る。
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「筑前国今津に異国人趙良弼を始として百余人来朝の間、軍船と心得て宰府さはぎけれども、その儀はなくて是も牒状なり。但唐櫃に納て金鎖を指て王宮へ持参して帝王へ献れ。それ叶はずば時の将軍に伝へて参すべし。その儀もなくば持て帰べき由王勅を承たれば、手をはなつべからずとて、案を書て出したり。是も返牒に及ばず。」(「五代帝王物語」)。
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趙良弼は、「国書を京都に持参する」と強く返答を迫る。返事を待つ間、情報収集・諜報活動にあたる。太宰府付近の地理を観察し、国政や風俗について調査。1年以上日本に滞在。
・モンゴルの使者趙良弼ら100余人、今津に来着。入京と国書上奉を要求するが太宰府(大宰少弐武藤資能)は許さず写しだけを幕府に送る。
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「筑前国今津に異国人趙良弼を始として百余人来朝の間、軍船と心得て宰府さはぎけれども、その儀はなくて是も牒状なり。但唐櫃に納て金鎖を指て王宮へ持参して帝王へ献れ。それ叶はずば時の将軍に伝へて参すべし。その儀もなくば持て帰べき由王勅を承たれば、手をはなつべからずとて、案を書て出したり。是も返牒に及ばず。」(「五代帝王物語」)。
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趙良弼は、「国書を京都に持参する」と強く返答を迫る。返事を待つ間、情報収集・諜報活動にあたる。太宰府付近の地理を観察し、国政や風俗について調査。1年以上日本に滞在。
趙良弼は日本の風土について報告を行い、遠征は国力の浪費とフビライに進言。フビライは、日本が期待したほど富強な国ではないことは確認したものの、派兵は思い止まらず。
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9月21日
・朝廷、異国調伏の祈祷(同月21日付宣旨)。
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・朝廷、異国調伏の祈祷(同月21日付宣旨)。
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亀山天皇宣旨(文永八年九月二十一日宣旨)
「近日上天示変、冲襟無聊、しかのみならず、西蕃の使介有り。北狄の陰謀を告ぐ。縡之希夷、怖畏是衆、永劫災難、宜しく泰平を致すべきの由、仁王会呪願文に載せしむべし。」。
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「仁王会呪願文の事、仰せ出さるる事等有り。蒙古北狄たる事不審の由これを申し出づ。作者の所存の如きは、高麗の書ニ蒙古を北朝とこれを書く。仍ってこれを載すと云々。高麗より北に当たり、日本より北に当たらざれば、道理に背くべきか。経史に不詳の上は、決し難きものなり。」(「吉続記」9月22日条)。
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「仁王会呪願文の事、仰せ出さるる事等有り。蒙古北狄たる事不審の由これを申し出づ。作者の所存の如きは、高麗の書ニ蒙古を北朝とこれを書く。仍ってこれを載すと云々。高麗より北に当たり、日本より北に当たらざれば、道理に背くべきか。経史に不詳の上は、決し難きものなり。」(「吉続記」9月22日条)。
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