元来は飛騨高山藩主金森氏の下屋敷。
元禄5年(1692)7月、金森頼岩は出羽国上ノ山に転封され、飛騨国は徳川幕府直轄領となる。幕府は、関東郡代伊奈十郎忠篤に飛騨代官を兼務させ、加賀藩主前田綱紀に高山城在番を命じる。
元禄5年(1692)7月、金森頼岩は出羽国上ノ山に転封され、飛騨国は徳川幕府直轄領となる。幕府は、関東郡代伊奈十郎忠篤に飛騨代官を兼務させ、加賀藩主前田綱紀に高山城在番を命じる。
伊奈代官は金森氏家臣四家の屋敷を会所として金森氏転封後の事務処理にあたる。
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金森氏は、天正14年(1586)から6代(106年間)にわたりこの地を支配してきたが、幕府は、飛騨国の豊富な山林資源(木材)・地下資源(金・銀・銅・鉛)を狙い、これを直轄地としたと云われる。
金森氏は、天正14年(1586)から6代(106年間)にわたりこの地を支配してきたが、幕府は、飛騨国の豊富な山林資源(木材)・地下資源(金・銀・銅・鉛)を狙い、これを直轄地としたと云われる。
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元禄8年(1695)4月、高山城取り壊しが始まり、金森重頼の娘が居住していた下屋敷に代官所を移し、これを高山陣屋と称し、以後、維新に至るまで飛騨国内の政務はここで執行。
当時は約38,000m2の広大な敷地を有す。享保10年(1725)、老朽化の為、御蔵以外の全てを解体、御役所と御役宅に区分して建て替え、陣屋としての形態を整える。また、敷地は1/3に縮小。
当時は約38,000m2の広大な敷地を有す。享保10年(1725)、老朽化の為、御蔵以外の全てを解体、御役所と御役宅に区分して建て替え、陣屋としての形態を整える。また、敷地は1/3に縮小。
その後、文化13年(1816)御役所、文政13年(1830)郡代役宅、天保3年(1831)御門と陣屋の建物は漸次改築。
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この間、享保14年に美濃国の一部、明和4年(1767)に越前国の一部飛騨代官の所管地となり、その後(1777年?)、12代代官大原彦四郎紹正が布衣郡代に昇進し、関東、西国、美濃と並んで飛騨は幕府領の中でも有数の地位を占めるに至る。
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維新後、飛騨県、高山県、筑摩県、岐阜県と行政区画が変転する中で、高山陣屋は県政の庁舎などに転用され、敷地も分割される。昭和44年(1969)年飛騨県事務所が移転し、陣屋跡の管理は岐阜県教育委員会が所管することになる。幕末には全国に60数ヶ所あったと言われている郡代・代官所の中で、当時の建物が現存するのは高山陣屋だけで、昭和4年に国史跡に指定される。
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二番目は一本杉白山神社。
所在地:陣屋と同じ町内で、八軒町3丁目9番地
創建:慶長年間(1596~1615)、再建:天保10年(1839)飛騨高山
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創建:慶長年間(1596~1615)、再建:天保10年(1839)飛騨高山
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[広瀬武夫と山岡鉄舟]
広瀬武夫の父・広瀬重武は、明治9年11月、高山区裁判所長となりこの地に赴任、以後、判事補、判事を務め、明治16年1月に岐阜始審裁判所詰に転任するまで高山で奉職。武夫も明治10年~15年、この地に暮らす。
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広瀬家は、この一本杉白山神社付近、裁判所構内(手代住宅二番長屋)、高山公会堂東側(城山公園麓)に住んだと云われる。
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広瀬家は、この一本杉白山神社付近、裁判所構内(手代住宅二番長屋)、高山公会堂東側(城山公園麓)に住んだと云われる。
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同じように、高山に住んだ人に、山岡鉄舟がいる。彼の父・小野朝右衛門は、弘化2(1845)年に飛騨郡代となり、この鉄舟も9~17歳を高山陣屋で暮らしている。
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三番目は人馬問屋跡の石碑(陣屋の向い)。
人馬問屋というのは、人馬の継ぎ立て業務を行う場所、或いはそれらを担当する人の集団を言います。
1 件のコメント:
その石碑は自分のご先祖がやっていた人馬問屋のあとですが、その事しか解ってなくて 調べてもでてきません…(´・c_・`)
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