天文10(1541)年 [信長8歳]
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この年
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・松永久秀(32)、この頃から、三好長慶(元長の遺児)の祐筆として活動。重用され、事務処理能力は高く評価される。
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・今川氏の検地。領国支配の進展。名主百姓の存立条件のなしくずし的解体。
義元治下の今川領、この年を画期として連年駿河・遠江各地で検地。
多くは、「仮名目録」第1条に規定された年貢増の訴訟に関連するもので、今川氏は名主百姓の「名田」を直接に倹し、年貢増分として名主の加地子得分を今川氏のもとに吸収。
「公事検地」の限界があるとはいえ、国人=給人領の内部に立入って名主百姓の保有地自体を検地する程に今川氏の領国支配は進展。
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・カルヴァン、「キリスト教綱要(フランス語版)」出版、改革派教義の体系的理論書且つ信者の手引き書となる。1536年ラテン語版「キリスト教綱要」をバーゼルで出版。
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1月13日
・毛利元就(大内・毛利連合軍)、尼子詮久軍と安芸宮崎・吉田城下などで合戦。
元就次男少輔次郎(後の吉川元春)の初陣。大内方陶隆房(のち晴賢)らが活躍。尼子久幸(尼子経久弟)討死。同夜、
尼子詮久、大内義隆が出雲を窺っているとの報に接し兵を返す。
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1月23日
・ヘンリ8世、イングランド王兼アイルランド国王を称する。
アイルランド議会、国王至上法に続き、「アイルランド国王」の名称を贈り正式支配者として認める。
アイルランドは布教と引き替えに、法王から英国王へ「贈与」されたもので、法王を否定したヘンリ8世は、改めてアイルランド国王を宣言する必要がある。
「降伏と再授封」によるアイルランド支配。
アイルランド総督のもと、各氏族を説得し、土地を一旦国王に献上し、改めて下賜する「再授封」の方策をとる。
族長はゲール風の称号を捨て、英国風の爵位・ナイトの称号や年金を与え、英国王家の封建家臣とする。40氏族がこれに応じ、ロンドン議会への出席、子弟の留学、宮中への出入りが許される。また、アイルランドに植民し、完全にゲール化した英国系アイルランド貴族は「降伏」して、再び英国に帰属。
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4月5日
・レーゲンスブルグの帝国会議。カール5世、新教徒との和解失敗。
新教・ カトリックの3名の論客が協議。カトリック(レオンハルト・エック、妥協を拒否)、新教(フィリップ・メランヒトン)、ローマ教会(コンタリーニ枢機卿)。~7月21日。
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4月7日
・フランシスコ・ザビエル(35)、新任のインド総督マルティン・アフォンソ・デ・ソーザと共にポルトガル艦隊5隻で、リスボン出港。(4月~6月、喜望峰岬、ギニア。6月~7月、ブラジーレの近い所まで流される。8月末モザンビーク着)
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4月11日
・管領代茨木長隆、京都北野経王堂大工職相論を停止(「清凉寺文書」)。
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4月12日
・茨木長隆、京都小河七町「町人中」に対し誓願寺門前の在家再興停止を命じる。町衆はこれに抵抗、翌年秋、境内に釘貫を構築。しかし、長隆の厳命で撤去される。
町衆自治(町衆自断権)は管領代の権力により消滅しつつある。
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4月24日
・茨木長隆、京都大徳寺如意庵領洛中巷所農民の地子未進および隠田などを譴責(「大徳寺文書」)。
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5月
・河内の商人が大和薬師寺門前郷の六条で住民と喧嘩となり、仲介の住民を刃傷し、多数の住民らに「手取足取生害」される。
薬師寺の検断は、最初に商人と口論した弥三郎は刃傷したのではないので不問、商人を殺害した多数の住民も、仲介の衛門五郎が刃傷を受けたので、正当な行為と判断されて不問。
「他所者」を棄避する村落の閉鎖性の中で、他郷他国を遍歴する商手工業者が円滑な交易を行うには、宗教的な縁や親族縁者の便りも必要としたと思われる。
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5月13日
・毛利元就、佐東銀山城を攻略。郡山合戦で尼子氏が敗走、後楯を失った城主武田信実、出雲に逃走、守護武田氏滅亡。
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5月13日
・海野平の戦い(東御市)。
武田信虎・晴信、埴科郡村上義清・諏訪郡諏訪頼重と共に小県郡の海野棟綱らを攻める。尾山城陥落。
14日、海野棟綱・真田幸隆(28)ら、上野へ逃げ、関東管領上杉憲政を頼り箕輪城主長野業正の元に身を寄せる(真田氏の小県郡真田郷復帰は不明。武田氏に帰属)。禰津・望月・矢沢らは降伏。
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5月21日
・北条氏綱、遺言状「北条氏綱公御書置」を残す。
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6月
・越前、気比社の遷宮。京より勅使が派遣される。8月22日、朝倉孝景は勅使派遣を謝す遷宮礼銭を献上。28日、仲介の礼として12代将軍義晴にも礼銭進上。
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6月14日
・武田信虎追放クーデタ。
武田晴信(21)、板垣信方ら重臣と謀る。
信虎(48)が駿河今川義元を訪ねる。国境封鎖。17日、晴信、躑躅ヶ崎館入り。28日、家督相続の儀を行い、甲斐守護職を嗣ぎ大膳大夫を称す。
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「此年ノ六月十四日ニ、武田大夫殿様、親ノ信虎ヲ駿河国へ押越御申候。去ル程ニ、地下侍出家男女共ニ喜ビ、満足致し候事限り無し。信虎出家召され候て、駿河ニ御座候。」(「妙法寺記」天文10年)。
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「信虎平生悪逆無道ナリ。国中ノ人民牛馬畜類共ニ愁悩セリ。然ルニ大(太)守義元、信虎ノ女ヲ娶(メト)リ、之ニ依リ、辛丑(天文十年)六月中旬、駿府ニ行ク。晴信、万民ノ愁ヲ済(スク)ハント欲シ、足軽ヲ河内境ニ出シ、ソノ帰道ヲ断チ、位に即(ツ)キ、国々を保ツ。人民悉ク快楽ノ哄(ワラ)ヒヲ含ム。」(「塩山向山獄禅庵小年代記」)。
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この時、信虎の供をして駿府に赴いた家臣たちは、国元で人質を取られており、甲府に帰参(「甲陽軍鑑」品18)。
「勝山記」などの記録によると、領民はこのクーデタを歓迎したという。事件の背景に関しては、信虎・晴信不和説、重臣らとの共謀説、晴信・義元共謀説など諸説ある。
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義元は、信虎隠居後の処遇について、雪斎と岡部美濃守貞綱を甲府に派遣し相談させている。義元と信玄の間には、なんらかの事前の了解があったと推測できる。
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「内々使者を以て申さしむべきの処、総印軒参るべきの由、承り侯際、啓せしめ候。信虎女中衆の事、十月の節に入り、易筮(エキゼイ)を勘ぜられ、御越し有るべきの由、尤に候。此方においても申し付くべく候。かたがた以て、天道相定められ候はば、本望に候。中んづく、信虎御隠居分の事、去る六月、雪斎・岡部美濃守進らせ候刻、御合点の儀に侯。漸く寒気に向ひ候。毎事御不弁御心痛に候。一日も早く仰せ付けられ、員数など具(ツブ)さに承り候はば、彼御方へ御心得有るべきの旨、申し届くべく候。猶、総印軒口上申し候。恐々謹言 (天文十年)九月廿三日 義元(花押)」
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[信玄の兄弟]兄は天折しており、信玄は最年長。
①信玄のすぐ下の弟信繁:
大永5年(1525)生。母は信玄と同じ。初め一族の吉田氏を相続(「高白斎記」)、信玄の信頼は厚く、信玄の代行として全軍指揮を執ることが多い。永禄4年(1561)9月川中島の戦いで戦死。
②信虎4男の信廉:
信玄没後、出家して逍遥軒信綱と号す。生年不明。甲府の桜井の地を与えられ、武田館の東方防衛の任に当たり、ついで勝頼と交替して高遠城主となる。武将としての戦績は思わしくない。
絵画に巧みで、父信虎画像(甲府大泉寺所蔵)、母大井夫人画像(同長禅寺所蔵)ほか現存。容貌が信玄に似ており、信玄の影武者をしばしば勤めたといわれる。
③5男信是:
一族の松尾氏を継承。元亀2(1571)年没。
④6男は出家して恵林寺に入る。詳細不明。
⑤7男信実:
一族の川窪氏を継承、甲府の北方防衛に当たる。兄信是没後、その遺領も継承。天正3年(1575)5月の長篠の戦いで戦死。
⑥8男信竜:
一族の一条氏を継ぐ。甲府盆地南方の上野城(市川三郷町)を居城とし、甲府南方防衛に当たる。武功の将といわれ、勝頼期には駿河田中城(藤枝市)ほかの城将を勤める。
⑦9男信友:
信虎の駿河追放後の生まれ。初め今川氏家臣で、信玄の駿河侵攻後には、駿府留守居役を勤める。長篠の戦いでは「臆病第一の名を蒙る」といわれる(「甲乱記」)。
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[信玄の姉妹]
①姉:
永正16(1519)年生まれ。母は信玄と同じ大井夫人。今川義元に嫁ぎ、甲駿同盟の成立に一役果たす。義元嫡男氏真の母で、他に2女をもうけ、長女は後に信玄嫡男義信の妻となり甲府に赴く。
②1番上の妹:
穴山信友夫人、母は側室内藤氏の娘。天文10(1541)年、長男信君を生む。のち出家して南松院といい、永禄9(1566)年4月病没。
信君の妻は信玄の次女で、両家は重縁の関係にある。この妹は見性院と称し、武田家・穴山家滅亡後、武田家再興の為に尽力。
③3女(禰々御科人):
享禄元(1528)年生まれ、13歳で諏訪頼重に嫁す。禰々は2年後の4月に嫡男寅王を生むが、7月、信玄は諏訪氏を攻め滅ぼす。禰々は寅王と共に甲府に引き取られるが、心労のため翌年正月病没。
④4女は信濃小県郡の地侍浦野氏に、6女は下伊那郡の領主下条信氏に、7女は小県郡の地侍禰津神平に嫁すが、いずれも信玄の信濃侵攻の過程で、信濃旧族調略の為に利用されたもの。
⑤5女(亀御科人):
信玄の養女となり、母大井夫人の実家の大井信為に嫁し、天文21(1552)年5月、病没(19)。
⑥8女は葛山播磨守信貞夫人と言われる。葛山氏は駿河駿東郡の領主だが、播磨守信貞は系図上で判然としない。
⑦9女(菊御科人):
天文14年生まれ、今川義元の斡旋により公家の菊亭晴季(右大臣となる)夫人になり、2人の子をもうけたというが、詳しいことは不明。
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[信玄の正妻(三条夫人)]
天文5年(1536)7月、信虎は今川義元の斡旋によって、信玄の妻に公家の三条公頼の次女(信玄と同年齢)を迎える。
天文7年嫡男義信が出生、他に次男竜芳・長女(後の北条氏政夫人)・2男信之・次女(後の穴山信君夫人)を生む。
夫人の姉は幕府管領細川晴元夫人で、妹は本願寺法主顕如上人夫人。
この結婚を契機に、中央貴族や京都大寺院との交流が活発になる。元亀元(1570)病没(50)。
夫人は、天文19(1550)年勝沼の大善寺の本堂修築に際して、当主晴信・御北様(大井夫人)についで「御前様 百疋」を奉加。
弘治4(1558)年3月の有野郷免許状によれば、郷役免許(免除)対象者に「御方様御小者」助八の名があり、こうした独自の小者を抱え、表向きの職制としても「御料人様衆」として、五味新右衛門ほか10名の家臣が付与されている。
さらに永禄9(1566)11月には、武田家の公文書の竜朱印状で「御前様より御祈祷」として具足1両が二宮神主に奉納され、同10年10月16日には、信濃の飯縄神社と松原神社に長刀を奉納。これらは当主信玄の代行としての祈願と推定される。
また永禄11(1568)年6月には、「上様御奉公を相勤めるについて」として、国内の番匠(大工)宛てに家1間分の普請役を免除。同文のものが6通現存し、この時、武田館内で大がかりな普請が行われ、夫人の要請によって職人が集められている。
没後の元亀元(1570)12月には、菩提寺円光院に林部(笛吹市一宮町)と「石和之屋敷分」の計18貫文が茶湯料として寄進される。生前、石和に独自の屋敷を持っていたことになる。
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[信玄の側室]
①諏訪御科人(諏訪頼重の娘):
母は頼重の先妻麻績(オミ)氏。天文11(1542)年7月に諏訪頼重を攻め滅ぼし、12月、その娘(13~14)を側室に迎える。信玄の家臣らは反対するが、「甲陽軍鑑」では、山本勘助が賛成したとする。
天文15年、4男勝頼が誕生。弘治元(1555)11月6日病没。勝頼の他に子もなかったようであるが、詳細は不明。永禄5(1562)年、勝頼が高遠城主となって現地に赴き、菩提所を建立(現、伊那市高遠の建福寺)。
②油川氏の女:
5男盛信・6男信貞・3女(後の木曾義昌夫人)・5女於松・6女於菊らの母。油川氏は武田一族であるが、その父については諸説あり。油川氏女は享禄元(1528)年生まれ、元亀2(1571)年の没(44)。
③禰津神平の娘:
天文18(1549)年頃、信濃小県郡の地侍禰津氏が信玄に帰属。それ以降甲府へ赴いたと推測。永禄6(1563)年に7男信清を出生。
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[信玄派重臣]:飯富(オブ)虎昌・板垣信方・甘利虎泰・原虎胤・両角(モロズミ)虎定など宿老。
①板垣信方:
武田信義の次男板垣兼信に始まる譜代家臣。信方の関連文書は信虎期のものは皆無で、信玄に代替わり後の天文12(1543)年6月頃から、諏訪城代として発給したものがあるのみ。天文17年2月、信濃上田原合戦(上田市)で戦死し、活躍の場は短かい。
②甘利虎泰:
天文12年4月、西郡の鷹尾寺(増穂町)に与えた、地域の治安を保障する禁制が1点あるのみで、彼も同じく上田原合戦で戦死。
③飯富虎昌:
信濃経略戦で活躍、その関連で信玄書状の信濃国衆への取次が多い。永禄5(1562)年頃から、嫡男義信の守役を勤め、それが要因となって義信謀反事件の首謀者として、同8年10月に処断される。
④原虎胤:
父友胤の代に下総から甲斐へ来て信虎に仕え、1代で足軽大将となる。虎胤が美濃守と称してその後を継承し、信濃平瀬城(松本市)城代ほかを勤める。その子昌胤は譜代家老衆になり、一族譜代系譜でない家臣としては異例の昇進。
⑤両角虎定:
信濃柏鉢城(中条村)城代を勤め、永禄4(1561)年9月の川中島合戦で戦死。
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これら宿老の弟や子らは、この時期、信玄の近習的存在の者が多く、次代として信玄最盛期を担う中心的な家臣団に成長していく。
その代表的な存在が、処断された兄虎昌の後を継承し、山県姓に改めた昌景や、戦死した父の後を継承した甘利信忠(虎泰嫡男)・板垣信憲(信方嫡男)ら。他に、小山田虎満(昌辰とも)・馬場信春(信房とも)・今福浄閑斎・日向虎頭・長坂虎房ら。
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6月18日
・大内義隆家臣白井房顕、大三島を攻撃(伊予水軍が大内氏との親善関係を破り、大内氏と敵対する安芸桜尾城主友田興藤を助けたため)。大三島の大祝安舎は、得居氏・来島氏・正岡氏の援軍もあり大内軍を撃退。
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6月19日
・武田晴信、小笠原長時・頼重らを韮崎に破る
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6月26日
・室町幕府遺明使、南禅寺の僧湖心ら、帰国。
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6月29日
・三好長慶、摂津国守護代となる。細川政権では河内半国・山城半国守護代木沢長政と同等。
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7月
・関東管領上杉憲政ら、海野棟綱の乞いにより村上義清を攻めるため佐久・小県に出兵。
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・木沢長政、南山城の笠置城を修築してここを本拠とする。
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・ジュネーヴのカルヴァンやファレルの改革支持派、勢力挽回。カルヴァンに復帰要請。
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7月4日
・北条氏綱(55)、没。3代目嫡男氏康(27)、相続。「代替わり検地」を相模中央部・武蔵東南部・伊豆の一部で実施。扇谷上杉朝政が河越城奪回に動きだす。
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相模国下中村上町検地帳(「種徳寺文書」)を見ると、田島一筆毎に面積・保有者名を記した詳細なもので、「差出し」であるが厳密なもの。
「御前帳」と呼ぶ台帳を保有し、検地奉行が現地に赴き検分、大名側への隠田の通告者を優遇し代官にとり立てる(天正5年、北条氏朱印状)なども確認できる。
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8月
・木沢長政、高屋城の河内南半国守護代遊佐長教と謀り、元の主君前河内守護畠山長経を殺害。
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8月5日
・管領上杉憲政・金井秀景総大将の1万、浅間山麓小田井原に来援布陣の報、武田晴信に届く。甘利・板垣・横田・多田の武田4将3千、小田井原へ急行。6日、上杉軍を攻撃。上杉壊滅。11日、笠原父子・来援の高田憲頼父子討死。22日、晴信、甲府凱旋。
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8月10日
・大風雨。禁中陣座・宣陽殿・月華門など転倒。民家・山林が破損(「御湯殿上日記」)。翌日、幕府内談衆(引付衆)協議。名乗りなし。
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8月12日
・三好長慶、細川晴元命により木沢長政・波多野秀忠・池田長政らと協同で摂津多田一庫城(ヒトクラ、塩川政年、川西市一庫)攻撃。
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塩川の妻は細川高国の縁者で高国残党とみられており、長慶との間に疎意を生み、長慶に亡ぼされるのではないかと危機感にさいなまれ、伊丹親興、三宅国村など長慶の摂津支配に脅威を感じている国人と結び、笠置の木沢長政に泣きつき、この月、幕府に叛旗。
晴元は直ちに三好政長、三好長慶、丹波八上城主波多野秀忠らを派遣、一庫城を包囲、攻城2ヶ月に及ぶ。
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8月14日
・京都大徳寺と賀茂神社とが京都大宮郷の堀川用水を争う(「京都御所東山御文庫記録」)。
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8月29日
・トルコ軍、ブダ占領。ハンガリー中央部を直轄地とする。ハンガリー国土を3分割。
東部はサーポヤイ・ヤーノシュ息子ジグモンドに与えトランシルヴァニア候国、ハプスブルク家支配はハンガリー西部・北部のみ。1699年1月26日カルロヴィッツの和約で、ハンガリーはトルコ支配より解放。
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8月30日
・フランソワ1世、全高等法院に「異端」の捜索を厳命。
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9月
・織田信秀、前年、豊受大神宮仮殿造営費用を寄進し、三河守に任ぜられる。信秀は幕府に守護職を求めず。
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9月13日
・宗教改革者ジャン・カルヴァン(32、1509~1564、位1541~1564)、ジュネーブ復帰。ジュネーヴ教会再建。「神政政治」(カルヴァニズム) 樹立。ファレル派が勢力を盛り返し、カルヴァンに復帰を要請。カルヴァンは、条件付で復帰承諾。ジュネーヴ、支配権を狙ったサヴォア公からの独立目指し宗教改革を 実施。
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9月20日
・天皇、執政細川晴元に前月破損した禁裏修理を内命。「四方の柴垣」を取敢えず請負う。
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10月2日
・木沢長政、一庫城で叛旗を翻す。
木沢長政3万、摂津一庫城(細川晴元に反旗)を救援。三好長慶、一庫城包囲解き越水城へ撤退。
29日、細川晴元、木沢長政上洛の兆しのため岩倉へ避難。
30日、将軍義晴、木沢長政が京都に迫り、子義輝らと慈照寺に避難。志賀越から近江坂本に移る。
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10月31日
・ミケランジェロ「最後の審判」完成(システィーナ礼拝堂正面壁画)。
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11月13日
・尼子氏の租・尼子経久(84)、没。尼子詮久は将軍足利義晴から「晴」の字を貰い「晴久」と改名、体制を立て直そうとする。
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11月18日
・細川晴元、義晴に請うて伊賀守護仁木某に宛てて御内書を出し、笠置城を攻撃するよう指示。
下旬、伊賀・甲賀の地侍70~80人で城に進入、城塞一部と某舎を焼き打ち。
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11月20日
・ジュネーブの宗教改革。
宗教改革者ジャン・カルヴァン、ジュネーヴで「教会規則」を議会に承認させる。
新たな教会制度と政治権力との関係を定め、地域共同体と一体化した何ものにも従属しない教会制度確立。
4種類の教会の職制(牧師、教師、長老、執事)。
牧師と長老からなる「長老会」が最高決定機関(①迷信、「教皇派」書物を取締:自由主義者、涜神者、酔っぱらい、娼婦等を告発。演劇、奢侈を禁止。「破門」の決定。②当初、牧師(司牧者)5人と長老12人で一種の異端審問法廷:6年間で死刑56人、追放刑78人)。
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12月2日
・朝廷、近江坂本に退避した将軍義晴へ音問の勅使として山科言継を差し向ける。
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「緑阿御使として来入す。禁裏様(後奈良天皇)より当時坂本に御在の御儀、御懇(オンネンゴロ)の御使進(マイラ)せられ候間、御対面候て御盃下され候て、御使山梨家(言継)へ御太刀を下さるべしと思し食され候。但しそれまでも御座候まじき事候哉。尋ね下され候由仰なり。遠路はるばる御使に参られ候御事候間、御太刀下され候て然るべしと存じ奉り候由、これを申し上ぐ。」(幕府内談衆大館尚氏の日記「大館常興日記」)。
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12月8日
・細川晴元、木沢長政討伐挙兵。2万5千、摂津芥川城入城。三好長慶、参軍。長政軍と木津・淀川へだて対峙。伊賀・紀伊等近隣の守護に命じて包囲網を敷き、河内・大和・南山城に勢力をもつ長政を牽制させる。
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