明治17(1884)年11月1日~2日の官憲側の動き
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困民党が小鹿野~大宮郷の占領を敢行し、高利貸し打毀しなどを行っている間、官憲側は何をしていたかの纏め。
まずは、深追いした警官隊と困民軍との戦いから。
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①阿熊渓谷の戦い
11月1日午前1時30分、松山警察署長吉峰警部指揮の警官隊15名は、皆野村の大宮郷警察署長以下の警官隊を援助するため、寄居町を出発。
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午前3時頃、本野上分署に立寄り、ここで、分署長や寄居から応援の小川分署長深滝警部補指揮の警官隊は、困民軍を求めて下吉田村方向に向ったと聞く。
吉峰警部は、弱体の皆野村に巡査4名を派遣し、自らは主力を率いる。
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午前5時30分頃、金崎村にさしかかり永保社の被害を聞く。本野上分署長雨宮警部補が永保社を検証中。
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午前6時30分頃、吉峰警部は、困民軍を追う為、皆野村に引き揚げている斉藤警部の警官隊を呼び寄せ、これと合同して金崎村を出発。このときの警官隊は、吉峰・斉藤両警部と坪山警部補、巡査20名の計23名(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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下日野沢村に達した時、困民軍に人質として連行され逃亡して来た平善吉と行きあい、永保社襲撃の困民軍は40~50名で、阿熊村に向ったとき聞く(「松山警察署長吉峰警部履歴書」)。
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午前11時頃、警官隊は阿熊渓谷に入る。この時、山影で竹法螺の音がして、前方に武装農民の一団(上州の上・下日野村から応援に来た一隊)を見つける。これを追跡すると、農民兵たちは渓谷の左右に逃げ込む。
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この直後、警官隊は両側の山の斜面から「数十ノ暴徒一時ニ発砲」の銃撃を受ける。
この地は「左右険阻ニシテ、谿間ニ一条ノ狭径アルノミ」で、警官隊の武器はサーベルだけなので、銃撃には対抗の術がない。
このため吉峰警部は「此地ニ於テ賊卜決戦センカ、彼ハ衆ニシテ銃砲、我ハ寡ニシテ刀剣ノミ、故ニ此険阻ノ地ヲ避ケテ、平地ニ出デ決戦スルニ如カズ」と判断し、「抜刀切り込メ」を号令し、斬り込む素振りをして下吉田村に向って谷間の一本道を一目散に駈け下りる。
約1里(約4km)の間は、銃撃を受け、また抜刀で背後に迫る困民軍と接戦を演じ、やっとのことで清泉寺に逃げ込む。
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この時までに斉藤警部と金子・窪田の両巡査の3名は一行から脱落し、その姿は見えなくなる(「松山警察署長吉峰警部履歴書」)。
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この警官隊襲撃を指揮したのは、前夜永保杜を襲った新井周三郎、城峰山の陸軍測量師を拘引した柏木太郎吉らで、銃手100名ほどを両山腹に配置し、待伏せ攻撃をかける(「門平惣平裁判言渡書」)。
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②窪田巡査殺害
一行から遅れた大宮郷警察署長斉藤警部、金子巡査・窪田巡査(残された記録には「脚疾」とある)は、近くの守岩太吉の家に逃げ込み、二階に潜伏。
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困民党12~13名が同家に押しかけるが、老婆は潜伏する警官を庇い、困民党は戸棚や縁の下を捜索するものの二階には上らず、潜伏の警官は難を逃れる。
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その後、潜伏の警官は制服・帯剣を脱し、同家より下吉田村戸長役場に向う。
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しかし、窪田巡査は一行から遅れ、困民党の柏木太郎吉らに発見され捕縛される。
新井周三郎は窪田巡査から、警官出動の情報を聞き出そうとするが、窪田巡査は従わず。怒った周三郎は、午前11時30分頃、窪田巡査を斬首(「大宮郷警察署長警部斉藤勤吉履歴書))。
窪田巡査は21歳、静岡県士族で、この年7月埼玉県巡査になったばかりで、松山警察署の会計係をしていたが、署長の吉峰警部と共に前日寄居警察署の応援に来て、この災厄に遭遇。
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斉藤警部ら3警官を匿った守岩太吉(37)は、2日後それと知った困民軍の新井周三郎らに連行され、下日野沢村の根古屋橋の傍で惨殺され、大渕村の長楽寺の門前に梟首される。
事件鎮定後吉田県令(知事)は遺族に弔慰金30円を贈って哀悼の意を表す(鎌田冲太「秩父暴動実記」)。
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③清泉寺の戦い
(阿熊渓谷の入口右手の高台にある。椋神社は阿熊川を隔ててその左手にある)
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阿熊渓谷で警官隊を駆逐した困民党兵士たちは、一旦、椋神社に引き揚げるが、逃げた警官が清泉寺に退避したのを知り、新井周三郎・柏木太郎吉・門平惣平らは、抜刀で新志坂を攻め上り、警官隊に接戦を挑む。
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柏木太郎吉は、「余ハ神奈川県士族、イザ腕ノ力ヲ試サン」と名乗り、警官隊に斬り込み、接戦の末斬り倒される。
警官隊は初め寺の門前で瓦石を投げていたが、柏木太郎吉が抜刀して迫って来ると、吉峰警部は遂に「抜刀接戦」を号令。
撃剣の達人石川支巡査(松山警察署)が、柏木太郎吉と対戦し、太郎吉に重傷を負わせるが、自らも右腕などに負傷し、持っていたサーベルは「ガタガタ」になり、使いものにならなくなる。
新井周三郎は、形勢非を判断し、門平惣平に苦悶する太郎吉の首を切り取らせ、椋神社に引き揚げる。
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困民党側はもう1人、蒔田村の年代道蔵が警官に斬られて戦死。
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坪山警部補が述べる戦いの様子。
「賊追馳シテ清泉寺前ニ迫ル、我軍礫ヲ投擲シテ賊ノ先駆ヲ防グ、然レドモ賊ハ我軍ノ寡兵ヲ軽侮シ、抜刀シテ我軍ヲ破ントス、因テ部下ノ巡査ニ接戦ヲ命ジ、賊ノ先駆スル三、四名ヲ斫リ、数名ニ負傷セシメケレバ、賊我鋭鋒ヲ怖レ敢テ進ム者ナシ、我軍ハ巡査ノ傷疾スル者四名アルノミ」(「大宮郷警察署在勤警部補坪山需経歴書」)。
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警官隊は前日から不眠不休の活動が続き、「身体疲労シ且空腹ナルヲ以テ」、午後1時頃、負傷した巡査を介抱して下吉田村戸長役場に移る(「巡査神沼芳生開伸書」)。
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