2009年8月9日日曜日

1871(明治4)年4月9日 ドンブロウスキ、ヴェルサイユ軍を追払う

1871(明治4)年4月9日
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・ヴェルサイユ軍のパリ砲撃続く。
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ヌイイの戦闘
9~10日の夜、
J・ドンブロウスキ指揮の連盟兵の1隊、アニエールを占領。
J・ドンプロウスキとⅤ・ジャクラール指揮の1隊は、アニエール~クールブヴォワの道路を制するペべコンの城を占領
(12日、ヴィノワはこれの奪回を企図するが、クールブヴォワまで撃退される)。
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9日夜、ドンプロウスキは、モンマルトルの2個大隊と共に、ヴェルモレルを伴い、アニエールのヴェルサイユ軍を奇襲し追い払い、敵の大砲と装甲車輌のあった鉄道を奪取し、クールブヴォワの側面とヌイイ橋を砲撃。
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パリはこの成功を知らなかった。
この頃の総司令部は全く退化しており、この作戦の成功はドンブロウスキ個人の判断と働きによるもの。
諸要塞の守備も国民軍の自発性に依っている。
中央の命令はなく、やろうという意志のある者が勝手に行っている状況。
大砲や増援を得たい者は、要塞、パリ市庁、中央委員会、クリュズレの総司令部などのどれかに駆けつけて要求している。
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・コミューン、
国民軍中央委員が設置した各区の小委員会が無分別に諸問題に介入する為、これの廃止を布告。
国民軍中央委員会は、この命令執行を麻痔させる。
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この時期のパリには、
①文民権力を代表するコミューンと、
②軍事権力としての国民軍中央委員会の、
一種の「二重権力」が形成されている。
26日、委員会がたえず権限の甚だしい侵害を行っており、コミューンは再び解散を決議。
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3月28日、コミューンに権力を移譲した国民軍中央委員会は、尚もそれを保持し続けようと策動。
軍経理部の支配権を握り、各区の「小委員会」を鼓舞し、独断的な物資徴発、国民軍服役忌避者追及・家宅捜査などを行ない、細かい日常問題に口を出し、コミューンの行政機能・軍事指揮系統を混乱させる。
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・リゴーの命令により、若干の教会は礼拝を止めさせられ、革命派のクラブが教会を占拠。
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・馬具工たちが総会を開く。
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・「諸県への執行委員会声明」、発表。
パリがフランスを支配する意図のないと強調し、「諸君の努力をわれわれの努力に結びつけよ。そうすれば、われわれは勝利を収めるだろう」と呼びかる。
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パリ・コミューンの中央政府としての地位を否定し、市会的権限にとどまると主張。
ヴェルサイユ側の攻撃への抵抗という差し迫った現実の要請との間にずれがある。
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「自由なコミューン連合」の中の「自律的コミューン」という主張は、未来社会への針路を示すもの。
ブルジョア的集権国家破壊、疎外状況からの人間性(個体)回復)として、現代的意義を持つと評価する意見もある(桂圭男「パリ・コミューン」岩波新書)。
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・コミューン、補欠選挙延期を決定。
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・コミューン綱領起草委員会を設置。
ドレクリューズ、ヴァレス、テイス、クールネ、マロン、ピイオレが入る。この綱領普及の為、コミサール(委員)を地方に派遣する決定。国民軍の被選出代表(代表委員)と、それと司令部との相互関係についての国民軍中央委員会の決定(クリュズレの承認をうけている)の確認。
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○[コミューン群像:ブノア・マロン(1841~93]
貧農出身。
幼年時代、羊飼い、その後染色工、書店勤務。
1865年5月、インタナショナルパリ諸支部ビューロー入り、ジュネーヴ大会(1866年)代議員。
第2次インタナショナル裁判で、禁錮・罰金判決。
1869年、パリ、ルベー、リール、トゥルコアン、クルーゾのインタナショナル諸支部を組織。
1870年4月、インタナショナルパリ諸支部連合設立に参加。
第3次インタナショナル裁判で、禁固1年と罰金判決。1870年9月4日の革命により釈放。
普仏戦争に関して、インタナショナル総評議会の呼び掛けに基づき起草され、インタナショナルパリ連合が各県支部に呼び掛けたアピールに署名。
20区中央共和委員会の一員として、1870年10月31日と1871年1月22日の蜂起に参加。
第17区助役。
1871年2月、ボルドー国民議会代議士に選挙されるが、間もなく議会をぬける。反動的な気分を持つ区長・代議士グループは、パリ住民の広範な層に人気のあるマロンを利用して、3月18日の革命を非難
する宜言に彼の署名を付けるが、マロンは出版物でこの文書とは無関係である事を示す。
3月26日、パリ・コミューン議員選出(第17区)。労働交換委員会委員、第17区区長。
公安委員会設置に反対投票し、「少数派」の宣言に署名。
1871年5月の最後の諸戦闘に積極的に参加。
コミューン弾圧後、スイスに亡命、欠席裁判で死刑判決。
マロンは左派ブルードン主義者に属し、バクーニン主義者と接近、スイスでは、給評議会とマルクスに反対するバクーニン主義者の闘争を支持。
1880年の恩赦後、帰国し、改良主義的傾向をもつ歴史・理論雑誌「ルヴュー・ソシアリスト」を創刊、日和見主義的ポシピリストの党の指導者になる。
パリ・コミューンについての著書「フランスのプロレタリアの三度目の敗北」「社会主義の歴史」を発行。
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○[コミューン群像:アルフレド・エドゥアール・ビイオレ]
画家。
ドイツ軍のパリ攻囲中、国民軍第103大隊に勤務、
1871年1月~、色々なクラブや集会で演説、第14区では非常に人望がある。
3月15日、国民軍中央委員に選出。3月19日付の中央委員会の人民への呼び掛け(「パリの人民は、自分のうえにおしつけられようとしたくびきをふり切った」)に署名。
3月26日、第14区パリ・コミューン委員に選出。3月29日~公共事業委員会委員、4月21日~財政委員会委員。
4月9日のコミューン会議で、宗教教団員が指導する全学校閉鎖とこれらを非宗教学校に取り替えること、コミューン綱領を起草し、地方に普及させるとの提案を提出。
4月17日提出のその綱領草案で、パリ・コミューンが全フランスを支配することに反対する。
5月12日、軍服発注を私的請負業者にではなく、職業組合に任せる事に賛成、「これは社会主義への道での最初の重大な一歩となる」と言明。
公安委員会設置に賛成し、新ジャコバン派に近い「多数派」の有力な活動家として、5月12日に公安委員に選出。
5月1日、各区区役所に中央警察委員部をこ置くとの公安委員会委員としてのビイオレの命令が公布。
ビイオレはコミューンが「もっとも重要な立法問題、社会経済問題」をとり上げる事ができるように、全権力を委員会に集中しなければならないと考える。
5月20日、軍事行動を中止し、コミューンとヴェルサイユ政府との協定を結ぶという問題について商工業および労働全国同盟と会談を始める。
5月21日、ヴェルサイユ軍パリ侵入とのドンブロウスキの至急便を受け取り、コミューンの会議でそれを読み上げる。
5月25日~地下に逃亡、6月3日逮捕、第3軍法会議により要塞地流刑の判決。1875年3月逃亡するが逮捕される。1875年6月ニュー・カレドニアに送られ、その地で没。
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・コミューン議会、会議欠席者から手当をとり上げると議決。
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この頃、議会を欠席する議員が増える。
3月30日、4月4日、5日の会議は、数時間後には定足数を割り込むほどの状況。
リサガレーは、「研究の不足」、「重大な責任を理解」していない議員が多い、「多くの者が何の準備もなしに出席し、意見の対立があるとすぐ投票に移ろうとする。市庁はコルドリー街の労働者組織の会議に似ていた。前日の決定はもう忘れられているのである。」、と記す。
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・酒保の女商人M・ラシュ-ズの英雄主義について書いた、第6大隊の国民兵75名の手紙が「官報」に掲載。
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4月3日の戦闘で、「一日中戦場にとどまり、あられのようにとんでくる弾丸のもとで、負傷者をだきおこし、包帯をまきながら、最大の勇気を発揮した」。
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to be continued

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