2009年8月2日日曜日

昭和12(1937)年11月 南京戦中の日本(1) 社会大衆党、ファッショへの転向はもう少し情勢をみてからでもよいのではないか、とたしなめられる。

南京戦中(昭和12年11月~12月)、日本国内で何が進行していたのか(一言で云えば、思想、教育、政治、娯楽などあらゆる面での「総動員(体制)化」の進行)、当時の新聞記事によって見てゆく。
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今回は、「無産政党」社会大衆党に関する記事を三つご紹介。
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昭和12年(1937)11月15日
社会大衆党第6年度大会、党綱領を改正し、国体の本義に基づき日本国民の進歩発達を図るとし、挙国一致体制への参加を表明。
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●11月16日付け「報知新聞」の論評
(見出し)
「無産からフアッシヨへ 社大百八十度の転換 幹部の政権欲遂に表面化」。
(記事)
「過去数次の選挙において中央、地方を通じ異常の発展を遂げた社会大衆党がこの事変下に処して如何なる政治的コースをとるかは単に議会における第三党の政治的動向を知るといふより以上に更に重大な意義を持つて無産大衆は勿論一般知識階級からすこぶる注目されてゐたが、十五日芝協調会館において開催された年次大会においてかねてうはさの通り百八十度の転換を決定し、いよいよファッショ陣営に投ずることゝなった
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同大会においては立党以来常に高揚し、これを唯一のスローガンとして戦って来た綱領 ・・・(略)・・・
にくらぶればあまりにもあざやかな転向振りである、かつていばらの道を我往かんと勇ましく無産運動に身を投じた闘志が歩武堂々くつわを並べてファッショ陣営に突入したのである、勤労大衆の生活擁護の声は人類文化の向上に置換えられ、無産階級の解放は国民生活安定に変った、・・・
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同党の転向は一見突如として行はれた如くであるが、同党が過去数年来麻生、龜井、平野(學)氏等を中心とせるファッショ分子によって支配されて来たことを思へば今日あるは当然である、ただ今次事変がその機会を彼等に与へただけである、・・・時局の風潮はつひに同党をファッショに一元化したものである
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事変が拍車
無産階級の解放を捨てたヾ政権に近づくをこれ事とするならば、或ひはファッショに転向することも一方であらう、好むと好まざるとに拘らず最近の我国政党の風潮はそれを教へてゐる、だが無産政党は異なった使命と政策を持ってゐた筈である、だからたヾ単に政権を唯一の目標にいばらの道を捨て、易きにつくならば、その時最早無産政党は既成政党と選ぶ処がないのである、更に弾圧に名をかりてファッショ分子が反対分子を引ずった事も事実であるが、事変後にファッショ的傾向が益々著しくなるとの見透しから先物を買ったものであらうが、果して事変後にさういふ時代が来るか、これは容易に判断出来ない問題である、今少し事変後の社会情勢、経済情勢を真剣に国家的見地から検討して転向を決定しても遅くはないのではなからうか、・・・」。
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●12月8日付け「中外商業」
(見出し)
「社大、国民戦線へ驀進 極秘複に労資懇談会に出席 事変下 転向に拍車」。
(記事)
「去月十五日芝協調会館で開かれた社大党年次大会で同党が立党以来の行動精神とし、しかもそれ故に選挙民大衆の支持を得て、「躍進社大党」の根本となつをものと自負してゐた社会民主主義的綱領をアツサリと日本主義的なものに置き換へ事変下の国民精神動員に協力を誓ふ態勢を整へるに至ったが最近更に同党がこの所謂「転向」に拍車を加へて来たことが明かにされた
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協調会常務理事町田辰次郎氏は数日前
陸軍省整備局長山脇正隆、海軍省艦政本部総務部長澤本頼雄、内務省社会局長官木村清一、同
社会部長山崎巌、同労働部長成田一郎、同庶務課長持永義夫、内閣情報委員会委員長構渕光輝、全産連常務理事膳桂之助、社大党書記長麻生久、全労働同盟会長松岡駒吉、産労常任西山仁三郎、愛労全国懇話会常任高山久蔵
の諸氏を極秘裡に丸の内会館に招待し数時間に亘って懇談するところがあった、尤も軍部側並に目下旅行中の麻生氏は欠席し膳桂之助氏に代って全産連からは書記長森田良雄氏が出席したが、この懇談会は既に第二回目であり(前回会合は軍部からも出席)この日の会合の席上総同盟松岡氏は
総同盟が既に争議放棄を声明し日本主義的立場を取る以上、純日本主義陣営から社大党の所謂転滴を指してやゝもすれば人民戦線的転向なりとの非難もあるは不当なり
と高山氏辺りに釈明したことに対し、高山氏は
社大党は頭がファッショで胴が社民で足が人民戦線にあらずやと質されてゐるが、いづれにせよ、看板塗り換への党大会直後、同党の金城湯池の地盤たる深川区を含めて施行された東京区議選において意外にも四十二名の同党立候補者中僅々十名といふ四分の一以下の当選者を出した成績が種々論議されてゐる際、社大党の名実ともに転向精神を強化するものと思惟さるゝこの極秘懇談会の内容は注目されてゐる、
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右について協調会町田常務理事は語る
協調会が招待の形式で懇談会を開きましたがこれは労資とも平素の抗争を忘れ事変勃発によつて示してくれた嬉しい挙国一致の態度を事変後も持続して貰ひたくお互に語り合ったらと、関係方面に集っていたヾいたもので、本当に胸襟を抜いて貰ふためには秘密がよいと思ったから極秘裡にやりました
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社会局持永庶務課長は語る
特別に会談の題目といふのはなくて、まあ飯でも食ひながら話そうではないかといふ協調会の趣旨らしいのですが、時局柄非常に面白いので僕も喜んで出席したわけです」。
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●12月19日付け「東京朝日」
(見出し)
「民族的使命達成へ 社大解党、大団結期成同盟声明を発表」。
(記事)
「社大党解党期成同盟では十八日午前麹町中央ホテルで次の如き声明を発表した
声明書
○…吾人は社会大衆党の即時解党を要求する、過去十数年資本主義経済機構に対する無産政党の批判的運動は日本国民の各階層に深く浸透してこれに多大の感化影響を与へ、既成政党、軍部、官僚其他すべての政治勢力をして今日一様に資本主義の改革終生を號ばざるを得ざるに至らしめた、これ実に無産政党の政治一大貢献である、
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○…然れども他面無産政党は、その国家民族観において互いに相異るところがあり、党内これが帰一を見るを得ずして、常に外交対策の決定に就て躊躇逡巡し、満洲事変、日支事変に関してもまた遂に一の予見的政策を国民大衆の前に明示するを得なかったのである、
斯る日本国民史上未曾有の重大政治事実の発生に対して得ざりし政党なるものはこれすでに政治団体として自殺を遂げたものである、
現在社大党内に巣喰へる一連の醜劣なる日和見主義的ボス幹部はなはも自己の私党的小支配欲を持続せんとし今日に及びて遂にその綱領を急変更し党の外面を糊塗して大衆を欺瞞せんことに焦慮するものは定心無き夢遊病者の燐む可き擬装たるに過ぎぬ、魂を喪失をせる政党は存在することを許されない
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○…今やアジアの情勢は一変し世界は日本国民によって将に変革されんとしつゝある、旧き政治観念
は全的に棄却され新なる民族的感激と共にこの国民的偉業達成のために志を等しくする者の大同団結が完行されなければならない、真の挙国一致は永遠なる国民的生命力の融一焔焼にまで高揚さるゝことを要する、我等はこゝに無産政党の過去及び現在における一切の功罪を自己清算し、清新溌剌たる確信的再出発の基礎を築かんがために一たび現社会大衆党の解体を完成せしめんこと期するものである
右声明す
昭和十二年十二月十八日
社会大衆党解党期成同盟」。
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社会大衆党は、既に「陸軍パンフレット」に対し全面的支持を表明し、親軍的姿勢を明確にしていた。
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昭和9年(1934)10月1日
・陸軍新聞班、陸軍パンフレット「国防の本義とその強化の提唱」頒布。国防国策強化・広義国防、統制経済の必要性を主張。
この年3月、永田鉄山少将が軍務局長に就任して以来、続々と陸軍省から刊行されている「空の国防」「近代国防の本質と経済戦略」「躍進日本と列強の重圧」などの総仕上げ。
陸軍の政治への干渉(統制派幕僚の「国家総力戦体制」)。軍事課政策班長池田純久少佐原案・新聞班清水盛明少佐が手を入れる。
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「たたかいは創造の父、文化の母である。試練の個人に於ける、競争の国家に於ける、斉しく夫々の生命の生成発展、文化創造の動機であり刺戦である。・・・」。
冒頭から戦争を讃美し、「”国防”は国家生成発展の基本的活力の作用である。従って国家の全活力を最大限度に発揚せしむる如く、国家及社会を組織し、運営する事が、国防国策の眼目でなければならぬ」と、いわゆる広義国防国家の建設を捷唱。
「国家の全活力を綜合統制する」、「国家を無視ずる国際主義、個人主義、自由主義思想を芟除」「統制ある戦時経済への移行」などの文言が目立つ。
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憲法学者美濃部達吉は、陸軍パンフレットを批判。
国際主義を捨てるのは「世界を敵とすること」にほかならない、「個人的な自由こそ実に創造の父であり、文化の母である」。
「本冊子を通読して最も遺憾に感ぜらるるところは、本冊子が熱心に民心の一致を主張しながら、みづからは政府の既定の方針との調和一致をもはからず、ただ軍部だけの見地から自分の独自の主張を鼓吹し、民心をして強ひてこれに従はしめんとする痕跡の著しいことである」(美濃部達吉「中央公論」11月号)。
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10月2日
・民政党幹部会、陸軍が勝手に社会政策や経済政策にまでロを入れるのは、秩序ある政府の許すべき事でないと態度を決める。
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10月3日
・政友会、陸軍パンフレットを軍部の政治関与と非難声明。
社会大衆党書記長麻生久は、軍隊と無産階級の結合説いて陸軍支持、親軍的姿勢強める。
日本の国情においては、資本主義打倒の社会改革において、軍隊と無産階級の合理的結合を必然ならしめている」と唱え、軍部との提携を強調
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また、昭和12年度闘争報告では、下記。
「我党は今次の支那事変に際し、政府の提唱する挙国一致に欣然参加し、日本民族の歴史的使命達成の聖戦を積極的に支持」する。
党幹部は「皇軍慰問旅行」と称し、河上丈太郎・片山哲両団長のもと、華北・華中戦線に赴き、兵士を激励。
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