2009年8月22日土曜日

天文11(1542)年 大平寺の戦い(木沢政長討死) 武田信玄の諏訪・伊那侵攻 小豆坂の合戦(義元敗れる) 家康誕生 [信長9歳]

天文11(1542)年 [信長9歳]
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この年
・北条氏康、相模・武蔵に検地(「代替わり検地」)実施。翌年も伊豆・相模・武蔵で実施。
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・若狭守護武田信豊、この年より千石頼母子(憑子、頼子)を実施、2年で破綻。
通常の互助金融的頼母子ではなく、頼母子奉行という家臣を任命し、「御頼子斗」とよばれる専用の桝を定めて、寺社・商人などから500石・10石と懸米を徴収し、家臣への切米に充てる。頼母子に名を借りた収奪。
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・イングランド、下院議会にウェールズ地元名士27名が選ばれて議員席を与えられる。
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・フランス、「ユダヤ人迫害禁止令」。
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・トスカナ(フィレンツェ)大公コジモ・デ・メディチ、ピサ大学再建着手。
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・フランス人ジョアン・ロドリゲス・カブリリョ、アメリカ西海岸北上。サンフランシスコ湾に達する。
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1月11日
・毛利元就、大内義隆の出雲遠征(11日、遠征軍を発す)に1万5千率い出陣。小早川正平・吉川興経ら、従う。
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1月18日
・大内義隆、安芸の大願寺に命じて厳島の修造をさせる。
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2月
・木沢長政方と幕府方の間で勢力争い激化。
「細(細川元常)播州分国(泉州)くる(狂)い候間、成敗の為御暇申さる。下国の由風聞これあり。」(内談衆大館常興の日記)。
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2月1日
・六角軍、高畠長直(細川晴元部将)と交戦し下京を焼失させる(「言継卿記」)。
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2月13日
・英、王妃キャサリン・ハワード、公権喪失法(結婚前の愛人との関係)によって処刑。
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2月18日
・スペイン、ヴィ
リャロボス探検隊、フェリペ皇太子にちなみ「フィリピン諸島」命名。
ルイ・ロペス・ド・ヴィリャロボスは、船団6隻(自分はサン・ファン号に乗船)で
メキシコのアカプルコ港を出帆。フィリピン・香料諸島へ向う。
モルッカ諸島(香料諸島)に到達後、香料を満載しての帰途、風に流され、海上で没(といわれる)。
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2月28日
・将軍義晴、近江・坂本から帰京。
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2月末
・末、フランシスコ・ザビエル(36)、モザンビークを発ち2月~3月メリンデとソコトラ島へ
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3月8日
・河内南半国守護代(高屋城)遊佐長教、かつて廃立した前守護畠山稙長(現守護政国の兄)を擁立するため、木沢長政方の守護畠井政国配下斎藤山城父子、暗殺。10日、南半国守護畠山政国、木沢氏の大和信貴山城へ逃亡。
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3月9日
'・武田晴信、小笠原・諏方・村上・木曽の連合軍を信濃瀬沢で破る。
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3月13日
・幕府、紀伊に亡命中の畠山稙長に宛てて、政国追討軍勢催促御内書を送る。稙長は、熊野・竜神・玉置・湯川など紀伊奥地の山侍、根来・高野・粉河3ヶ寺の僧兵まで集め、総勢万余騎と称する軍勢を率い、13日、高屋城入り。
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3月17日
大平寺の戦い
河内飯盛城を出て高野街道を南下し高屋城へ向かった木沢長政の一軍、太平寺(柏原市太平寺)で三好長慶・畠山稙長ら晴元方と遭遇、大敗北。木沢政長、討死
河内一国は半国守護制が廃され、紀伊守護畠山稙長が兼帯することになる。
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この戦いでは遊佐長教が謀略の中心で木沢方を翻弄。
笠置城から信貴山城に移った木沢長政は、斎藤山城謀殺に激怒し、高屋城を見下す要害、尼上山(現、南河内郡太子町)山頂の城郭を占拠し、塩川・伊丹など木沢党へ檄を飛ばし、高屋城攻撃の構えをみせる。
尼上山に参じた木沢党には、数年前、若狭守護武田信豊に背いて出奔した粟屋元親もいる。
17日、高屋城から誉田山城守の一軍が打って出、尼上山から飯盛方面へ向おうとする木沢軍と遭遇。山城守の子息で三宝院という名の荒法師が先陣となって木沢方に喚きかかる。
長政は、味方不利とみて、山頂に3千人を残し、残りの全軍を前線に投入。両軍は高野街道から飯盛方面へ北進し、落合川の上畠という在所で白兵戦。長政は、飯盛城主畠山在民の援助を期待し、少しでも北へ移ろうとする。
しかし、高屋城には、新手の三好長慶・三好政長の援軍が入り、人数、戦意とも幕府方が圧倒的に優る。長慶は、亡父の遺恨もあって猛然と斬りかかる。木沢方7千余中300余が討死。長政・元親らは討死。
長政が、畠山義堯被官として飯盛城に現われて僅か12年。この戦いは、河内の政治情勢については、半国守護制が廃され、前守護畠山稙長の守護復帰遊佐長教台頭をもたらし、畿内全体では、三好長慶の軍事力の強大化と晴元政権内での隠然たる重みを証明する。
晴元は長慶のこれ以上の強大化を恐れ、長政が占めていた山城守護代を長慶に与えない。
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幕府内公事(裁判関係)は政所執事伊勢貞孝軍事は三好政長・三好長慶が大きな位置を占めるようになる。これより先、長慶は太平寺合戦のすこし前頃、丹波八上城主波多野秀忠の娘と婚を結び、摂津の北方の安全としている。
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「昨日河内国大(太)平寺に於いて合戦これあり、木沢左京亮(長政)討ち死にの由風聞候い了んぬ。後日連々委しき沙汰これあり、遊佐(長教)手へ取る首は木沢左京亮・同右近・同又八郎・粟屋(武田の内)右京亮.同修理亮以下七十九人、三好(長慶)方へ粟屋孫三郎以下若狭衆首八人、三好神五郎(政長)方へ遊佐又五郎以下九これを取る。以下九十六歟。指せる者に非ざるの間名字注すに及ばず。年来誇り候者即時に滅し候。浅増(アサマシ)き事なり。不便の至なり。志(信)貴・二上の城去夜これを焼くと云々。飯守(盛)の城堅固にこれを持つと云々。木沢の父・同孫・左京亮の弟中務丞・同石馬允は苦しからずと云々。今日河州方々焼き候い了んぬ。」(「言継卿記」)。
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3月26日
・細川晴元、帰洛。
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閏3月20日
・武田晴信、小笠原長時を信濃平沢で破る
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4月8日
・室町第が竣工。足利義晴、相国寺より移徙。
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4月8日
・幕府、撰銭令発布。永楽銭などの撰銭が禁止。
この時期、銭貨流通は発展し、銭貨の需要は高まるが、天徳2年(958)に最後の乾元大宝が造られた皇朝十二銭以来、国内で銭貨が鋳造されておらず、中国からの渡来銭又は私鋳銭がその需要を賄う。
当時日本で標準的渡来銭として流通したのは永楽通宝(明銭)。
但し、洪武銭(明銭)が14世紀後半の鋳造であるのに対し、永楽銭は15世紀前半から鋳造され輸入時期が遅れたという事情があり、日本で用いられた当初は今銭(輸入されたばかりの銭貨)として撰銭(悪貨として請取り拒否)の対象になる。幕府は「根本渡唐銭」として永楽・洪武・宣徳通宝の撰銭を禁止するが、後もこれらの銭が撰銭の対象となる。
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15世紀後半以降、撰銭は益々顕著になり、幕府も明応9年(1500)以降20回近く撰銭令を発布して撰銭を規制するが効果なし。
このように悪銭が貨幣流通を阻害し、銭の信用が低下し、1570年代頃から米が銭に代わって価値基準・支払い手段として活用されてくる。
また、17世紀頃からは、米の使用から銀の使用へと変化してゆく。
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4月24日
武田信玄の諏訪郡侵攻
この月、武田晴信、甲府進発、諏訪郡乱入。暫く甲信国境近くの巨摩郡の大井ヶ森(北杜市)に滞在。
この日、信濃に向い御射山(長野県富士見町)に布陣。7月2日、伊那郡高遠の諏方頼継と協同して、諏訪頼重居城上原城に迫る。
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この頃の諏訪郡域には、
①諏訪大社上社を支配する諏訪氏と下社を支配する金刺氏との対立、
②諏訪氏一族で高遠領を分割支配する頼継との対立、
③上社内でも権祝(ごんのほうり、次席神官)矢島氏が頼重に反発、などあり。
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5月1日
・斎藤道三、美濃国守護土岐頼芸を追放。
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5月3日
・北条為昌(23、氏綱第3子、氏康弟)、病没。
兄氏康とともに北条家の武蔵進出に尽力。河越城を差配。
北条為昌の跡を継いで玉縄城・河越城を預かるのが福島綱成(北条綱成)。今川家家臣の父正成が武田勢との合戦で討死した後、氏綱の元で育てられる。氏綱は綱成の才を買い、北条家の養子とする。
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5月末
・末、フランシスコ・ザビエル(36)、インド・ゴアに着く。インド西側での宣教司牧。1544年12月まで南インドで宣教。
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6月
・上杉憲政(関東管領)、北条氏康討伐に出陣
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7月1日
諏訪頼重1千、居城上原城(茅野市)を出て矢崎原・犬射馬場進出。夜、城下十日市場へ後退。2日、晴信方の伊那高遠諏訪頼継勢、諏訪郡乱入。安国寺門前放火。3日、諏訪頼重、上原城より桑原城(諏訪市)へ移動。
4日、武田晴信、桑原城を攻略。諏訪頼重、和睦・開城。5日、諏訪頼重、甲府護送。城下の古屋敷に幽閉。21日、諏訪頼重・頼高兄弟、甲斐東光寺で切腹。28日、諏訪下社の金刺氏が甲府に出仕。諏訪郡宮川以西を高遠・諏訪頼継領地、以東を武田領とするが頼継不満。
翌天文12年5月、上原城を修築し板垣信方を城代とする。信玄の諏訪領支配始まる
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12月15日、武田晴信、禰津元直の女(実は諏方頼重の娘、13~14)を側室にする。信玄の家臣らは反対するが、「甲陽軍鑑」によれば、山本勘助が賛成したとする。勝頼の母。諏訪御料人と呼ばれる。弘治元年(1555)11月6日病没。 
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7月1日
・フランス、新教関係書物の出版禁止勅令。エチエンヌ・ドレ、リヨンで逮捕、投獄(~43/秋、禁断書の焼却条件付きで赦免)。
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7月12日
・フランソワ1世、カール5世に宣戦布告、戦争再開。
(1540年2月ガンの叛乱征伐の為フランス国内を通過した際、フランソワ1世の歓待を受け、カール5世はフランソワ1世にミラノ宗主権を王子に譲渡しても良いと公言。真に受けたフランソワ1世、カール5世に約束の実行を依頼。カール5世、拒否)。
王太子アンリ(2世)、4万でスペインとの国境ルシジョン地方を攻撃。王太子弟オルレアン公シャルル、3万でルクセンブルク方面を攻撃。他の3軍、フランドルとブラバントとピエモントを攻撃。
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ペルピニャン攻撃のフランス軍、3ヶ月の攻囲後、帰国。
ルクセンブルク攻撃のオルレアン公シャルル、兄王太子が武勲をあげるのは癪だと、東武戦線を引き上げてペルピニャンへ駆けつける。ペルピニャン守備隊司令官はアルバ公(初陣)。
又、カール5世がドーリア提督に指示して多量の武器弾薬と食料を装備、攻撃難行。フランス軍に疫病が蔓延しだすと戦意が喪失し、3ヶ月の包囲の後、帰国。
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7月21日
・教皇パウルス3世(74)、検邪聖省(異端審問所)を設置(イタリアでプロテスタント迫害)。教皇庁教会改革委員会で強硬派が優位に立ち設置。初代長官カラファ枢機卿。枢機卿6人で構成(夫々が異端審問官で逮捕・処刑・財産没収権限を保有)。
イタリアでは宗教改革と対決姿勢、新教徒の徹底的迫害によりプロテスタントを一掃。
検邪聖省(異端審問所)の最初の調査対象は教皇パウルス3世。情婦と非嫡出子の問題(孫と14才と16才の甥を枢機卿任命)。
教皇パウルス3世への最終勧告書には教皇の絶対主義・聖職売買・不適当者への司教区授与の乱発等が記述(外部に漏れプロテスタントは自分たちの主張が正しかったと確信)。
カラファが教皇即位後、自ら手がけた文書を禁書目録とする。
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8月10日
三河小豆坂の合戦(今川義元の三河奪回戦)。
義元自身も三河田原(愛知県田原町)に親征、先鋒は岡崎城外に迫る。
織田信秀、弟らと安城城より矢作川へ出撃、三河小豆坂(岡崎市)で今川義元を破る。佐々成政、初陣。
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8月上旬、駿河衆、三河正田原に進出、7段に布陣(三河安祥は織田方)。駿河勢は由原衆が先陣、小豆坂まで出兵。
信秀は安祥から矢作に出て、弟信康・信光・信実らの一門衆を中心に小豆坂で合戦。
信秀・信康・信光・信実は勇戦。内藤勝介は名高い武者を討取り、佐々隼人正・山口左馬助らも勇戦。駿河勢の由原衆が清洲衆那古野弥五郎を討取るもが退却。(「信長公記」)
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「あづき坂合戦の事 
八月上旬、駿河衆、三川の国正田原へ取り出で、七段に人数を備へ候、其の折節、三川の内・あん城と云ふ城、織田傭後守かゝへられ侯ひき。駿河の由原先懸けにて、あづき坂へ人数を出だし侯。
則ち備後守あん城より矢はぎへ懸け出で、あづき坂にて傭後殿御舎弟衆与二郎殿・孫三郎殿・四郎次郎殿を初めとして、既に一戦に取り結び相戦ふ。
其の時よき働きせし衆。織田備後守・織田与二郎殿・織田孫三郎殿・織田四郎次郎殿、織田造酒丞殿、是れは鑓きず被られ・内藤勝介、是れは、よき武者討ちとり高名。那古野弥五郎、清洲衆にて侯、討死侯なり。下方左近・佐々隼人正・佐々孫介・中野又兵衛・赤川彦右衛門・神戸市左衛門・永田次郎右衛門・山口左馬助、三度四度かゝり合ひ貼、折しきて、お各手柄と云ふ事限りなし。前後きびしき様体是れなり。爰にて那古野弥五郎が頸は由原討ち取るなり。是れより駿河衆人数打ち納れ侯なり。」(「信長公記」巻首、改行を施す)
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8月23日
・斎藤利政(道三)、守護土岐頼芸を美濃大桑城に破り、土岐頼芸は尾張織田信秀を頼る。
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9月10日
・「誓願寺門前釘貫事件」、茨木長隆、町組小河一町へ釘貫撤去を命じる。
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9月10日
信玄の伊那郡侵攻
高遠の諏訪頼継・上社禰宜矢島満清、上原城(部将侍大将秋山信友)攻撃。城を捨て退却。11日、武田晴信、板垣信方2千を先手派遣。上原城奪回。19日、武田晴信3千、甲府進発。妹と頼重の間の子寅王を擁し諏訪衆の結束を求める(便宜的な対処、のち寅王は流浪に末に果てる)。
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9月25日
・武田勢、諏訪安国寺門前・宮川畔進出。合戦。武田勝利。諏訪頼継弟頼宗・矢島満清の2子討死。頼継は高遠城へ敗走。
26日、駒井政武らが上社神長官(かんおさ、筆頭神官)守矢頼真ら頼重叔父諏訪満隆・満隣を案内として伊那郡の藤沢口に押し出し福与城(箕輪町)を攻撃。28日、城主藤沢頼親は降服、甲府に出仕。のち、諏訪頼継と結び叛く。
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10月1日
・池坊専応、花道の口伝を著す。「いけばな発祥地」はコチラ
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11月
・大内義隆、風雪のため本陣を馬潟(八束郡)正久寺に移す。毛利元就父子、白潟(松江市)にて冬営。
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11月14日
・後奈良天皇、法華宗21ヶ寺の洛内還住を勅許。
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11月20日
・スペイン、カルロス1世、インディアス新法制定。インディオの人口激減に憂慮しインド新法公布。征服者のエンコミエンダ所有を厳しく制限。
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11月21日
・スコットランド国王ジェイムズ5世、軍勢約2万でエディンバラを出陣。
ダムフリースシャのロッホバインで二手に別れ、国王ジェイムズ率いる一隊は海岸を進撃、残りの部隊は腹心の武将オリヴァー・シンクレアに預けてイングランド領内へ進撃させる計画。
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自らの離婚問題から宗教改革を進めるへンリ8世は、スコットランド教会を味方につけようとするが不調。また、スコットランド国王ジェイムズ5世との会談申入れを無視され、軍勢を動かす。
スコットランドは常に大国イングランドの脅威に晒され、代々のスコットランド王達はフランスと結ぶことでイングランドを牽制する伝統的外交政策をとり、ジェイムズ5世もフランスから妃マリを迎えている。ヘンリ8世との会談申入れ無視も、フランスとの友好関係破棄強要を嫌う重臣の進言によるもの。
しかし、スコットランド人にとってイングランドは余りに強大で、約30年前、ジェイムズ5世父ジェイムズ4世がフロドゥンの戦いで惨敗した記憶がまだスコットランド人に残っており、今回の出陣に際しても、兵士達は進撃を拒否する事態もある。枢機卿ビートン等の忠臣の奔走によりようやく国王に忠実な部隊を結集。
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11月24日
・スコットランド、ダムフリースシャのロッホメイバン、国王ジェイムズ5世武将オリヴァー・シンクレア率いるスコットランド軍、イングランド軍の罠にかかりソルウェイ・モスの沼沢地に誘い込まれ混乱。投降者多く戦わず敗北。シンクレア捕虜。
敗戦の報に、30日、国王ジェイムズ5世、エジンバラに退却、そのまま病床につき、1ヶ月後没。
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11月26日
・三好長慶部将松永弾正が山城に着陣、近日乱入との風聞、大和に流れる。
確実な記録における松永久秀の初見。
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12月
・細川氏綱(細川高国の従兄弟(高国弟の子)尹賢(ただたか)の子)、高国の相続者として名乗り、高国の旧被官を集め、堺で挙兵。
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大永6年(1526)に、高国に讒言して香西元盛を殺させ、翌年の畿内大乱の原因をつくった細川尹賢は、大物崩れの翌日、摂津で木沢長政に殺されているが、その遺子氏綱が突如、和泉堺で挙兵、高国の跡目と称して幕府に叛旗を翻す。
氏綱は高国や木沢の残党、紀伊根来寺衆徒らを糾合、和泉の槙尾寺に籠城するが、和泉守護細川元の将、松浦興信らによって堺から撃退される。この時、長慶は晴元の軍勢催促を受けて、堺へ出陣。氏綱はこの後もしばしばゲリラ戦を挑み、蠢動をくり返す。
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12月7日
メアリー・スチュワート、誕生(1542~1587)。エディンバラ近郊リンクスゴーの宮殿。父ジェームズ5世はヘンリー8世姉マーガレット・チューダーの子。母マリー・ド・ギーズ(メアリー・オブ・ギーズ又はマリー・ド・ロレーヌ)はフランス大貴族ギーズ家出身。
14日、スコットランド王ジェームズ5世(30)、没。生後1週間のメアリー・スチュワート、母后メアリーを摂政として即位。翌年1543年9月9日、スターリング城で戴冠。
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12月26日
松平竹千代(後の徳川家康)、三河岡崎城に誕生。松平広忠の嫡男。母は三河刈谷城主水野忠政の娘於大の方。
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