2009年8月21日金曜日

治承4(1180)年4月29日~5月10日 京につむじ風 熊野の別当湛増、以仁王の叛乱を清盛に通報 清盛、上洛す

治承4(1180)年
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4月29日
・申刻(午後4時頃)、京都につむじ風
暴風によって人家が多く破損し、七条高倉の辺では落雷、白河の辺では雹が降るなど、重なる天候異変で京中の人々は不安に襲われる。
高倉上皇はこの暴風は朝家の大事であるとして、祈祷などを行うよう命じる。
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「又、治承四年卯月のころ、中御門京極のほどより大きなる辻風おこりて、六条わたりまで吹ける事侍りき。三四町を吹きまくる間に、こもれる家ども、大きなるも小さきも一つとして破れざるはなし。さながら平に倒れたるもあり、桁・柱ばかり残れるもあり。
門を吹きはなちて四五町がほかにおき、又垣を吹きはらひて隣とひとつになせり。いはむや、家のうちの資財、数をつくして空にあり。桧皮・葺板のたぐひ、冬の木の葉の風に乱るるが如し。
塵を煙の如く吹たてたれば、すべて目も見えず。おびたゝしく鳴りどよむほどに、もの言ふ声も聞えず。
彼地獄の業の風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる。
・・・辻風は常に吹くものなれど、かゝる事やある、たゞ事にあらず、さるべきもののさとしか、などぞ疑ひ侍りし」」(鴨長明(26歳)「方丈記」、改行を施す)。
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「四月廿九日。天晴ル。
未ノ時許り雹降ル。雷鳴先ヅ両三声ノ後、霹靂猛烈。北方ニ煙立チ揚ル。人焼亡ヲ称フ。是レ飄ナリ。
京中騒動スト云々。木ヲ抜キ沙石ヲ揚ゲ、人家門戸幷ニ車等皆吹キ上グト云々。古老云ク、末ダ此ノ如キ事ヲ聞カズト。
前斎宮四条殿、殊ニ以テ其ノ最トナス。北壷ノ梅樹、根ヲ露ハシ朴ル。件ノ樹、簷ニ懸リテ破壊ス。権右中弁二条京極ノ家、又此ノ如シト云々。」(藤原定家(19歳)「明月記」)。
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「廻飄忽チ起り、屋ヲ発シ木ヲ折ル、人家多ク以テ吹キ損ズ」(九条兼実「玉葉」)。
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「平家物語」巻3「飄」(つじかぜ):
正午頃、京の内に辻風が激しく吹き、人家が多く倒れる。「平家」では前年5月12日のことと記載される。
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5月1日
・藤原定家(19)、4月29日の台風被害の大きかった前斎宮亮子内親王を見舞う。2日、八条院の鳥羽院御忌日仏事の参仕。10日、法勝寺三十講結願に参仕。29日、百座仁王講の堂童子を勤める。
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「五月一日。晴天。斎宮二参ジ、健御前ヲ訪ネ申ス。姫宮ヲ抱キ奉ル。心中又存命スベキノ儀ヲ存ゼズト云々。檜皮庭上ニ分散。破損ロノ宣ブベキニアラズ。」(「明月記」)。*
(前斎宮亮子内親王を見舞う。同母姉の健御前が、後白河院の第一皇子以仁王の姫宮を抱いて出て来て、生きた心地がしないという)。
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亮子内親王は以仁王の姉で以仁王の娘5歳を引き取って育てている。定家の姉の健御前は、姉京極殿(坊門殿)と共に仕えた建春門院の没後、この内親王(前斎宮)に出仕。
この主従は、その後辻風のために損傷した四条殿から、三条高倉の以仁王の邸宅に移る。10日にもまた定家は、大破した四条殿から、栄全法眼坊の手配で、六条高倉に避難していた亮子を見舞っている。
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「五月十一日。晴天。院ニ参ズ(二藍ノ狩衣。猶張衣ヲ着ス)。隆房中将単衣許リヲ着ス。今ニ於テハ暑気己ニス。単衣許り宜シキ由、相示サル。右近ノ馬場真手結ヒノ日、女車ヨリ歌ヲ送ル(花田ノ薄様ニ書ク)。返歌等態(ワザ)々注ヲ付ケ、授ケラル。家君ニ覧ゼシメンガタメナリ。退出シ、八条院二参ズ。」(「明月記」)。
(高倉院に参じる。暑気の候、単衣ばかりでもよいと藤原隆房が示す。右近馬場の競馬があり、女車から縹(ハナダ)色の薄様にしたためた歌を送られる。恋文かと思いきや、俊成に送る詠草だったのでがっかりする。)。
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5月2日
・高倉上皇、天変(暴風)に危惧。
2日末刻(午後2時頃)、前大納言邦綱が兼実に対し、新院は、昨日の暴風は「朝家の大事」である、御祈以下の事をすべきではないか、宗盛らは一向に沙汰しない、どうしたものだろう、と相談をもちかけている、と言う。
また、邦綱は、「三井寺に召さるるの輩、一人すでに出来(シュッタイ)公顕僧正搦め進む、残四人いまだ出来せず。件の張本ら、世間云々の上、本寺に落書あり。その状云々の説の如し。よってかれについて張本を召さると云々。」(「玉葉」同日条)。
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5月10日
・熊野の別当堪増、行家の動静から謀反を察知し源氏を攻撃するとともに、清盛に通報。
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[謀反発覚]
[源平両派に分れた熊野別当家の対立抗争]
第18代別当湛快は、久安4年(1148)、兄長兼の跡を継いで熊野別当職につくが、新宮に住まず本宮を拠点としたことから、本宮・新宮両派の分裂が生じ反目しあうようになる。
平治の乱で湛快は平家方に味方するが、その跡を継いだ甥の行範は源為義の娘を娶り、また為義が新宮別当家の女に生ませたのが新宮十郎行家であることなどから、新宮派は源氏色を強める。
一方、本宮系は、湛快が別当に任ぜられるときに平家の支援を受けたこと、その妹が薩摩守忠度の妻となったことなどから平家色が強い。
この頃の別当は、平家寄りの本宮派の湛快の子湛増であり、新宮十郎行家の行動を知り、これを平家に内報するに至る。但し、日付は、清盛が対策の為に上洛する5月10日の前と推測される。
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「平家物語」では、新宮十郎が高倉の宮の令旨を得て謀反を企てているると判断した湛増が、「平家の御恩を天山(アマヤマ)に蒙りたれば、いかでか背き奉るべき。矢一つ射懸けて、其の後都へ子細を申さん」と言い、兵1千余で新宮に押し寄せたとある。
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新宮側は、兵1,500余でこれを迎撃。
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両軍は、鬨の声をあげ、矢合わせをし激しく挑み合う。3日間にわたる戦いの結果、新宮側が勝利し、湛増は配下の家の子・郎党を失い、自分も負傷し本宮に逃げ帰る。
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「其の比(コロ)の熊野の別当湛増は、平家に心ざしふかかりけるが、何としてか洩れ聞いたりけん。
「新宮十郎義盛こそ、高倉宮の令旨給は(ッ)て、美濃、尾張の源氏ども、触れもよほし、既に謀反をおこすなれ、那智新宮の者共は、さだめて源氏の万人をぞせんずらん。
湛増は、平家の御恩を天山(アメヤマ)とかうむ(ッ)たれば、いかでか背き奉るべき。那智新宮の者共に、矢一つ射かけて、平家へ子細を申さん」
・・・ 」(杉本本)。
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「同日(5月15日か)ニ高倉宮ノ御謀叛ノ事顕ハレ御(オハ)ス。
去(イン)ジ四月廿八日ニ、十郎蔵人行家、高倉宮ノ令旨ヲ潜(ヒソカ)ニ給テ、伊豆国へ下テ兵衛佐ニ奉り、
・・・行家ハ平治(の乱)ヨリ以来、能野ニ居住シケレバ、新宮(行家)ニ与力スル者多カリケレバ、何卜無ク其用意ヲゾシケル。此事世ニ披露アリケレバ・・・
覚悟法橋(等々・・・)申ケルハ「新宮十郎義盛コソ、高倉宮ニ語ラハレ奉リテ、平家ヲ討ムトテ、源氏共ヲ催(モヨホ)サムガ為ニ、東国(頼朝)へ下向シケル由聞ユレ。サ様ノ悪党ヲ熊野ニ籠タリケリト、平家ニ聞工奉ラム事、甚ダ恐アリ。当時義盛(行家)コソ無ケレドモ、新宮ヲ一失射バヤ」トテ、
・・・五月十日、新宮ノ湊ニ押寄テ・・・」(延慶本)。
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○熊野別当湛増(1130~1198):
熊野の田辺(和歌山県田辺市)在、熊野3山の統括者、源為義の娘で行家の姉鶴田原(たつたはら)の女房の娘を妻とし、従って湛増にとり、行家は叔父で頼朝・義経や義仲とは従兄弟にあたるが、親平家の立場をとる。
湛増の父の第18代熊野別当・湛快が拠点を新宮から田辺に移して以来、熊野別当家は新宮家と田辺家に別れ、新宮家(本家)は源氏寄り、田辺家(分家)湛増は新宮家に対抗する為か、妹を平忠度(清盛の弟)の妻とするなどして平家に近付く。
湛増の支配は自拠点田辺と熊野3山中の田辺に近い本宮で、新宮・那智は源氏に近い。
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湛増は、田辺勢を率い本宮勢と共に新宮・那智に攻め込む。
新宮には鳥井の法眼(第19代熊野別当行範の子、行全)、高坊の法眼(行範の子、行快(行全の兄))、侍には宇井・鈴木・水屋・亀の甲、那智には執行法眼(行範の子、範誉。行快・行全の兄)以下、1500余が迎撃。
3日ほど戦い、湛増は、家の子・郎等の多くを討たれ、自らも負傷し本宮へ撤退。
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湛増は、治承4年の段階では平家方につき、熊野における行家の動向を清盛に報告
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元暦元年(1184)新宮別当。
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元暦2年2月屋島の戦いでは、源氏に合力して参戦(「吾妻鏡」元暦2年2月21日条)。
「平家物語」では、田辺の新熊野の神前で紅白の鶏を競わせる鶏合によって源氏への味方を決めたという。
更に3月、義経軍に属し、「追討使を承り、去ぬる比(コロ)、讃岐国に渡り、今また九国に入」るとされる(「吾妻鏡」元暦2年3月9日条)。
壇ノ浦合戦でも活躍。
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文治2年(1186)上総国畔蒜(アビル)庄を知行(「吾妻鏡」文治2年6月11日条)。
翌年、熊野湛増の使者永禅、関東に参着、巻数(カンジュ)に相副え綾30端を献ずるが頼朝はこれを返却(「吾妻鏡」文治3年9月20日条)。
建久6年(1195)、頼朝と対面、御甲(ヨロイ)を頼家に献ずる(「吾妻鏡」建久六年5月10日条)。
熊野別当家の請所である紀伊国南部庄の下司職を湛増・湛政兄弟が争い、500石増額することで湛増が勝利。
建久9年(1198)5月8日没(69)。
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5月10日
平清盛、突然、上洛。武士が洛中に充満。翌日、福原に戻る。
以仁王の叛乱が発覚し、その対応を措置。
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「玉葉」は、「五月十日・・・今暁入道相国(清盛)入洛、武士洛中に満つ。世間又物恖(騒)と云々」と記し、「十二日、・・・昨日禅門(福原へ)下向し了んぬ云々」とある。
清盛は、以仁王謀反露顕にあたり、以仁王逮捕という処置を済ませ福原へ帰ったと推測できる
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5月10日
・「下河邊庄司行平使者を武衛に進し、入道三品用意の事を告げ申すと。」(「吾妻鏡」)。
□「現代語訳吾妻鏡」。「五月大 十日、辛酉。下河辺庄司行平が武衛(源頼朝)に使者を送り、入道三品(源頼政)が挙兵の準備をしていることを報告したという。」
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○下河辺行平
下河辺行義の男。秀郷流藤原氏で、八条院領下総国下河辺荘の荘司。父は源頼政の郎党として活躍。行平も頼政の配下にあり、頼政挙兵を頼朝に告げる。
頼政敗死後、頼朝に従い、信任を受け、平氏追討や奥州攻めで武勲をあげる。
平氏追討では、範頼に従い鎮西を攻める。兵糧不足に苦しむも、自らの甲胃を手放し、小船を入手して戦おうとする。
弓の名手で、頼朝命により頼家の弓の師範ともなる。
また、武家の故実にも通じる。建久6年(1195)11月には、頼朝より源氏門族に准じる待遇を与えられる。
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to be continued

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