南京戦中(昭和12年11月~12月)、日本国内で何が進行していたのか(一言で云えば、思想、教育、政治、娯楽などあらゆる面での「総動員(体制)化」の進行)、当時の新聞記事によって見てゆく。
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1.東大「学内自粛運動」と矢内原教授辞任
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(1)「東京朝日」11月25日付。
(見出し)
「帝大、事変の突風に大転回 超然派を克服して敢然・時局に献策 経済学部態度を決定」。
(記事)
「支那事変に対する一般国民の関心、熱意は至る所に銃後の美談を咲かせ 『国民精神総動員』の実を挙げてゐるが、従来超然として『象牙の塔』に立籠り世間の動きには冷然としてゐた我国の最高学府帝国大学内にも大きな動揺が起り 『学問をする上に於ても常に国家を念頭に置くべきであり、従ってかかる時局に際しては徒らに傍観的な態度を執らず進んで我々の研究の成果を当路に吐露し、以て国家惹いては東亜永遠の平和の為に寄与すべきだ』との意見が東大経済学部内に力強く持上り、最近数度の教授会で真摯な討議が続けられ、或日の如きは全教授、助教授を交へて前後五時間に亙る討論が行はれた結果、この程同学部としていよいよ今回の事変収拾後の諸問題に対して具体的な意見をまとめ積極的に政府に対し種々の献策をなす事に態度が決まった、
同学部教授、助教授連のこの態度は実社会各方面に『頭脳の貧困』を叫ばれる折柄将に一大妙案ともいふべく、又或る意味における『象牙の塔』百八十度大転回ともいふ事が出来、長与東大総長もこの根本的な方向には良き理解を持ってゐるだけにこれが描き出す波紋は頗る大きなものがあり、東大各学部のみならず我国全学界に大影響を与へるものと見られてゐる」。
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(2)「東京朝日」11月27日付。
(見出し)
「経友会問題を機に 帝大・時流の粛正 委員二十四名総辞職」。
(記事)
「東京帝国大学では去る十一月三日明治節の佳宸に当り法学部祿会委員の提唱により、既報の如く皇軍の武運長久を祈るため職員、学生団の明治神宮参拝を行つたが、これに対し経済学部関係者の自治団体たる「経友会」の学生委員中神宮参拝の趣旨の徹底を欠いた者があり、その結果同学部学生の不参加を見るに至った
処が此の不参加問題を繞って学内外に兎角噂さが出始めたので、教授会でも重大視し委員数名を招致してその真相を究明した処右は全く経友会委員会の手続上の手落と一部委員の現時局に対する認識不足とから起ったものである事が判明した
然し同学部としては時局柄これをそのまゝ放置して置く事は学内自粛の大乗的見地からして却て面白くない結果を招く恐れがあるといふのでこゝにその処置を如何にすべきかの問題が教授会に持上つて来た教授会での此の問題を取上げるに先づ此の種の問題に対する根本的態度を決する必要に迫られ去る二十四日中央大講堂会議室に全教授、助教授参集、討議した結果既報の如く学部として時局に処する態度は
『学究とあくまで国家的であらねばならぬ』
との論が大勢を決し、此処に更に教授のみの会合を開いて経友会委員の処分問題を議した結果同委員二十四名(各学級八名宛)に対し委員の辞任を申渡す事になった
同教授会のこの決定は去る昭和六年東大食堂事件こ際する緑会委員処分問題以来経友会は東大学生諸団体のリーダーシップを取ってゐただけにその影響如何は頗る憂慮されてゐだが
二十六日午前十一時呼出を受けて演習室七号に出頭した二十四名の委員は土方経済学部長より別項の如き訓示(略)を存々説き聞かされてその意のある所を汲み、一同進んで委員辞職を申出たので此処に問題は学内では一応全く平穏に解決を見るに至った
土方部長は委員のこの態度を非常に喜び直ちに経友会規約で許された会長としての最大権限を行使して辞任した委員の半数を委員に再任命した・・・」
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(3)「東京日日」12月2日付け。
(見出し)
「問題の矢内原教授 けふ遂に辞職 東大自粛運動に絡んで」。
(記事)
「帝大経済学部の学内自粛運動の関連して同学部植民政策の教授矢内原忠雄氏の時節柄不穏当な言動が教授会の問題となり同教授の進退も問題視され廿九日以来長輿総長を中心に土方経済学部長その他関係者が協議を重ねた結果一日午前十時矢内原教授は長輿総長に辞表を提出、総長はこれを受理した
【長輿総長談】矢内原教授の言論が問題となつてをりましたことについて私は先般来慎重に研究考慮中でありましたが本日同教授は自発的に私の手許まで辞表を提出いたしました、私は熟慮の上これを受理することにいたしました
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矢内原教授は神戸一中、一高を経て大正六年東大政治学科を卒業、大正九年別子銅山から抜推されて故新渡戸博士の後任として助教授として赴任、三年後教授となり植民政策を担当、クリスチャン的学徒として特異な学説を発表してゐたが本年中央公論九月号に発表した「国家の理想」が発禁処分に付されたことやら各所で行った講演が不穏当であるとて問題となり同教授はこの間題で学内を騒がし大学及び同僚に迷惑をかけることを忍びないとして辞表を提出したものである
「民族と平和」も発禁処分
帝大教授矢内原忠雄氏の「国家の理想」と題する論文を掲載した中央公論九月号を発禁に処した警保局は同教授の著作なる全部の出版物を再検討した結果その内容は何れも『国家の理想』と同一論調であり特に昭和十一年六月廿五日岩波書店発行の『民族と平和』は論調最も激烈で頒布を黙認し得ぬところから馬場内相の考慮を求め、一日出版法第十九条によりこれまた発禁処分にすることになり正午岩波書店に馬場内相より通達した
【大坪図書課長談】かうした評論家が出てくることは因ったことだ、その他にも多数かうした人がゐるので当方も目下専心検閲中だから発禁処分は今後続々出ることゝ思ってゐる、お互いに戒心してかゝる言論に惑はされぬやう国民諸君の慎重な態度を望む次第である
矢内原教授談
東大経済学部では矢内原教授の辞表提出に関して一日午後一時から中央大講堂で同学部教授会を開き矢内原教授は退職に関する所信を述べ同二時十五分退席、教授会は更に退職問題を審議中である、
矢内原教授は退職に関し左の所信を述べた
自分は本来日本国を衷心熱愛するものであるが発表の言論に開し問題を惹起したことを遺憾に思ふ、自分としてこの上在職するのは大学に対し御迷惑をかける所以となることを知ったので本日総長に辞表を提出した
なは 『今後はどうしますか』といふ記者の問ひに対し『サアそれはわからない』と悲壮な面持をさらに暗くした」
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2.同志社大学湯浅総長、辞意表明。
「京都日出」12月15日付。
(見出し)
「腹背に敵うけて 湯浅同大総長 遂に辞意を表明 けふ、突如評議員会招集」。
(記事)
「同志社学院の内部抗争は様々の暗闘を生み近くは本年夏の法学部教授上申書問題となり、やつと過般解決を見たばかりであるが、果してその決意も単なる表面的のものにすぎず依然として暗闘は更に一層深く潜行するのみ、しかもその学内抗争には外部勢力まで介入して事態は更に悪化、湯浅総長必死の解決工作も遂に絶望視されるに至り学内には更に困難な事情が噴出するので茲に湯浅総長も退陣の己むなきを観念し十四日午後三時その諮問機関たる学問評議会を突如招集し来る廿二目の理事会に辞表を提出する旨表明するに至った
世間の注目を惹いた所謂法学部上申書事件は
当時瀬川次郎氏らより成るファッショ的な思想傾向の教授団が田畑、具島氏らを”赤”或は〝半赤色〝教授なりとして総長に上申を提出した為め果然大騒ぎとなったものであったが之は学内多年の暗闘の一表現にすぎぬものであり、またそれだけに渦根は深く、上申組教授団は当時より緊迫の一途を辿りつゝあった時局の背景を負って様々な外部勢力を動員するに至り問題は愈々迷路に入ったかの観があつたがその間題も当時憲兵司令官であった中島今朝吾中将が個人としての資格で仲裁に入り学校当局でも上申、非上申組教授を喧嘩両成敗の名目で各二名宛を辞任、各一名を休職として発表し問題は一応落着したかの観があった
しかるに事実は一向問題解決ではなく上申書の側では
自分等は正常であるのに学資(学校?)当局は不当な処分をした 当局の思想は赤である
といって湯浅総長攻撃に必死の術策を用ひ非上申組の側でも
自分等は上申書提出といふ形で責られた喧嘩を買はなかつただけなのに何故両成敗されねばならぬか
と不服であり学生交友間にも当局は非上申組は赤ではないと擁護してゐたに拘らず両成敗処分は定見なしとして攻撃するもの出て、以来湯浅総長は腹背に敵をうけるに至って辞任の時日の問題であるとまでいはれてゐた」。
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「新聞集成」という分厚い本を参考にしてますが、この本、誤字(変換ミス)が多すぎる。
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