治承4(1180)年
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4月11日
・藤原定家(19)、八条院の平頼盛邸御幸に供奉。
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4月17日
・醍醐の辺で清盛を調伏する祈祷が行われたとの噂が伝えられる。
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4月22日
・安徳天皇即位。
清盛は天皇の外祖父の地位を得る。
藤原定家は内の殿上人になれず、高倉院の殿上人として出仕。
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関白近衛基通、関白を止め新帝の摂政とされる。基通の義母は清盛の娘の白河北政所平盛子で基通の正室もまた平清盛の娘。「是程ニ不中用ナル器量ノ人ハイマダナシ。」(「愚管抄」)。
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即位の儀は、安元3三年(1177)4月の大火(「太郎焼亡」)で大極殿が焼失しているため、やむなく紫宸殿で行われる。
盛儀の様は、蔵人左衛門権佐(ゴンノスケ)定長が書面で清盛に報告、それを聞いた清盛の妻八条の二位(時子)は笑みを含んで悦ぶという。
「平家物語」はそれに続いて、「か様に花やかにめでたき事どもありしかども、世間はなほ苦々しうぞ見えし」と書く。
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4月27日
・源行家(頼朝の叔父)、以仁王の平家追討令旨を伊豆の北条館にもたらす。その足で甲斐・信濃に向かう。
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□「吾妻鏡」。
「廿七日 ・・・高倉宮の令旨、今日前の武衛将軍伊豆の国北條館に到着す。八條院の蔵人行家持ち来たる所なり。
武衛水干を装束し、先ず男山の方を遙拝し奉るの後、謹んでこれを披閲せしめ給う。
侍中は、甲斐・信濃両国の源氏等に相触れんが為、則ち首途すと。
武衛は前の右衛門の督信頼(平治の乱)が縁坐として、去る永暦元年三月十一日、当国に配すの後、歎きて二十年の春秋を送り、愁えて四八余の星霜を積むなり。
而るに項年の間、平相国禅閤恣に天下を管領す。近臣を刑罰し、剰え仙洞を鳥羽の離宮に遷し奉る。上皇の御憤り、頻りに叡慮を悩ませ御う。
この時に当たり、令旨到来す。仍って義兵を挙げんと欲す。寔にこれ天の與うるを取り、時至りて行うを謂うか。
爰に上野の介平の直方朝臣五代の孫、北條の四郎時政主は当国の豪傑なり。武衛を以て聟君と為し、専ら無二の忠節を顕わす。茲に因って、最前に彼の主を招き、令旨を披かしめ給う。」(「吾妻鏡」同日条、但し、改行を施した)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「二十七日、壬申。高倉宮の令旨が、今日、前武衛(頼朝)のいる伊豆国の北条館に到着した。八条院蔵人の行家が持ってきたものである。
頼朝は水干に改め、まず男山の方を遥拝した後に謹んで令旨を開いて見られた。
侍中(行家)は、甲斐・信濃の源氏に触れるため、すぐにその国へと向かった。
頼朝は、前石衛門督(藤原)信頼に縁坐し、永暦元年三月十一日に伊豆国へと流されて以来、嘆きつつ二十年の歳月を送り、愁えながら三十二歳あまりとなっていた。しかしここ数年、平相国禅門(清盛)が自分勝手に天下を管領し、院の近臣を罰しただけでなく、上皇を鳥羽の離宮に幽閉し奉るなど、上皇のお怒りは誠に深いものであった。
まさにそのような時に、この令旨が到来した。そこで頼朝は、平氏討減のための義兵を挙げようと考えた。これは、まさに「天の与えるものを取り、時が来たら行う。」という謂のとおりである。
上総介平直方朝臣の五代の孫にあたる北条四郎時政主は、伊豆国の豪傑であり、頼朝を聟として以来、常に無二の忠節を頼朝に示していた。そこで頼朝は、真っ先に時政を呼んで令旨を開いて見せられた。」
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(註)
○信頼(1131天承元~59平治元)。
藤原北家道隆流。忠隆の4男。保元3年、正三位・権中納言、右衛門督を兼ねる。後白河の近臣。同じ近臣藤原通憲(信西)と対立、源義朝と共に挙兵、平清盛軍に敗れ、六条河原で誅せられる(平治の乱)。
○「永暦元年三月十一日」。
この日、前権大納言藤原経宗が阿波に、前権中納言源師仲が下野に、前参議藤原維方が長門に配流。
○「鳥羽の離宮に幽閉」:前年の治承3年6月、後白河は故藤原基実の遺領で清盛娘盛子が相続する庄園を没収、7月、清盛孫維盛の知行国越前を収公。11月、基実の子で清盛が中納言に推挙していた基通を超えて、藤原師家を中納言に任じる。この一連の処置を契機に後白河と清盛の対立が強まり、11月、福原より京に戻った清盛は院近臣を解官し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉、後白河院政を停止。
○「謂」:
『史記』推陰侯伝に「天、与うるに取らざれば、反って其の咎を受く。時、至りて行わざれば、反って其の殃を受く。」とある。
○直方(生没年未詳):
平維時の男。摂関家に仕え、平忠常の乱の際、追討使に任ぜられるが、降伏させることができないまま、源頼信に替えられる。源頼義を娘婿に迎え鎌倉を譲る。
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□「平家物語」巻4「源氏揃」(げんじそろえ):
「先づ新宮十郎義盛を召して、蔵人になされ、行家と改名して、令旨の御使(オツカヒ)に東国へこそ下されけれ。四月二十八日都を立って、近江国より始めて、美濃・尾張の源氏どもに、次第に触れて下る程に、五月十日には、伊豆の北条蛭が小島に着いて、流人前右兵衛佐殿に、令旨を取出いて奉る。
「信太三郎先生義教は、兄なれば賜(タ)ばん」
とて、信太の浮島へ下る。木曽冠者義仲は、甥なれば取らせんとて、山道へこそ赴きけれ。
こゝに熊野別当湛増は、平家重恩の身なりしが、何としてか聞き出しけん、
「新宮十郎義盛こそ高倉宮の令旨賜はつて、既に謀叛を起すなれ。那智・新宮の者どもは、定めて源氏の方人(カタウド)をぞせんずらん。湛増は平家の御恩を天山に蒙りたれば、いかでか背き奉るべき。矢一つ射懸けて、其の後都へ子細を申さん」
とて、混甲(ヒタカブト)一千余人、新宮の湊へ発向す。
新宮には鳥井法眼・高坊法眼、侍には宇井・鈴木・水屋・亀甲(カメノカフ)、那智には執行法眼以下、都合其の勢一千五百余人、鬨(トキ)作り矢合せして、
「源氏の方にはとこそ射れ、平家の方にはかうこそ射れ」
と、互に矢叫びの声の退転もなく、鏑(カブラ)の鳴り止む隙もなく、三日が程こそ戦うたれ。されども、覚えの法眼湛増は、家の子郎等多く討たせ、我が身手負ひ、辛き命生きつゝ、泣く泣く本宮へこそ帰り上りけれ。」
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「平家物語」では、
4月28日、源行家、令旨を持って京を出発。
近江源氏→美濃源氏→尾張源氏→(5月10日)伊豆の源頼朝→常陸の志太三郎先生(センジョウ)義教(ヨシノリ)→甲斐源氏→木曽の源義仲。
伊豆への途中、熊野新宮に寄り令旨の件を伝えるが、対立関係の熊野本宮に知られ、平家へ通報され、謀反が発覚する。
(「湛増」は後出します)
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「信太の三郎義教」:
六条判官為義の3男、義朝の異母弟。信太(シダ)は霞が浦の東南岸で茨城県江戸崎町付近。土浦~江戸崎に八条院領信太荘がありその一画(稲敷郡桜川村)の東端の湖上に浮島がある(現在は干拓されて陸つづき)。
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□「源平盛衰記」:
「三位入道(頼政)申けるは、令旨の御使をつとめ候はんには、無官にてはその恐れあるべしと申せば、然るべしとて当座に蔵人になされけり。十郎蔵人は義盛を改名して行家と名乗る。(『源平盛衰記』巻13「行家使節の事」)
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「諸国の源氏」の状況についてはコチラ
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以仁王の令旨、義仲にも届く。
義仲は木曽周辺の軍勢を纏め、旗挙げ。平氏に味方する豪族を討ちつつ、新たな本拠地・依田城(長野県丸子町)に移り、軍事的後見役・根々井行親の勢力圏内の武将達を従える。また、義仲は父の領地にも兵を求め、従う軍勢は長野県から群馬県北部に及ぶ。
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以仁王・源頼政らの平氏追討挙兵後、反乱(治承・寿永の内乱)は全国に広がる。
内乱は、
①源平或は平氏・反平氏の覇権争いに止まらず、
②平氏に代表される国守・荘園領主勢力と在庁官人・郡郷司・下司ら在地領主層を先頭とする国衙・荘園の住人との対立、
③或は、支配階級の集住地京都と収奪の対象の地方農漁山村の抗争、
を底流に含む。
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■源十郎蔵人行家(?~1186):
熊野・新宮に隠れ住む故源為義の10男(末子)源義盛(「為義は思ひ者おはかりければ、腹々に男女の子ども四十二人(46人説も)ぞありにける」)。
源義朝・義賢(よしかた)・義憲・為朝の弟、頼朝・義経・義仲の叔父。
八条院の蔵人になり行家と改名。八条院は鳥羽天皇と美福門院得子の皇女、後白河法皇の妹。父母から全国数百ヶ所の荘園を受け継ぎ、巨万の富を有する。以仁王を猶子(兄弟の子を養子)とし、以仁王の挙兵に賛同。新宮十郎義盛(行家)を自身の蔵人(近習)とし、全国各地の荘園への使いを名目として、行家を令旨伝達の使者に立てる。
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「八条院」はコチラをご参照下さい
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保元の乱(保元元年(1156)7月10日~29日)で、父為義、8男八郎為朝を除いて、4、5、6、7、9男の5人が斬られ、十郎義盛が外れ、彼の弟の乙若13歳、亀若11、鶴若9、天王7までも船岡山で斬首。
平治の乱(平治元年(4459)12月9日~26日)で兄義朝が斬られる。
尚、八郎為朝(1139~70)は、
「十三歳にて筑紫へ下り、九国を三年にうちしたがへて、六年をさめて十八歳にて都へのぼり、保元の合戦に名をあらはし、廿九歳にて鬼が島へわたり、鬼神をとツて奴(ヤッコ)とし、一国の者おぢおそるといヘども、勅勘の身なれば、つひに本意をとげず、三十三にして自害して、名を一天にひろめけり。
「いにしへより今にいたるまで、此為朝ほどの血気の勇者なし」とぞ諸人申ける。」(「保元物語」末尾)とある。この時、8男為朝が18歳とすれば、十郎義盛は15歳前後か?
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平治の乱の最初の山場「待賢門の軍の事」に、「義朝たのむ所のつはものどもには、嫡子悪源太義平、十九歳、次男中宮大夫進朝長、十六歳、三男兵衛佐頼朝、十三歳、義朝が舎弟三郎先生義憲(「範」とも)、同十郎義盛、伯父陸奥六郎義隆・・・その勢、二百余騎にはすぎぎりけり」とあり、「軍は(十二月廿六日)巳の刻(午前10時)半ばより」始まりる。
決戦は六波羅合戦で、十郎義盛も、甥頼朝、兄三郎先生らと「六波羅・・・へをしよせ、一二の垣楯(ダテ)うちやぶりておめひてかけ入、さんざんに戦」う。
ところが戦半ば、長老源頼政300余騎をあげて官軍方(平氏)へつき、戦の帰趨が定まる。
かくて義朝軍は、敗北、「叡山西坂本を過ぎ、小原(大原)の方へ」落ちる。
ここで「三郎先生(義範)、十郎蔵人は、義朝に申しけるは『いかにもして東国へ御下向候て、(関東の)八ヶ国の兵共はみな譜代の御家人にて候へば、彼等をさきとして、都へせめのばらせ給はん事、何の子細か候べき。其時まで、われらも山林に身をかくして待奉り、先途の御大事には、などかあはで候べき。御なごりこそ(惜しく候へ)』とて、泣き泣きいとまをこひ、小原山の方へぞ落行ける」。
これが、十郎の、長兄で、頼朝・牛若らの父、左馬頭義朝との訣別の時。この時の状況は、「愚管抄」5に「義朝ガ方ニハ郎党ワヅカ二十人ガ内ニナリケレバ、何ワザカハセン」とあり、義朝の運命はほぼ極まっている。
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平治元年(1159)平治の乱後、熊野新宮に逃れ成長し、新宮十郎と称される。
この年治承4年、八条院蔵人となり行家と改名。5月、以仁王の平氏追討令旨を持って東国に下り、頼朝ら諸国の源氏蜂起を促す。
翌養和元年(1181)、尾張・三河の武士を率い、平重衡らの軍勢と墨股川で戦うが敗走。頼朝を頼るが容れられず、木曽義仲軍に加わり、寿永2年(1183)7月、平氏西走後の京都に入り、従五位下備前守に補任される。
その後、義仲と不和になり義経と結ぶ。
平氏滅亡後の文治元年(1185)、義経と頼朝の対立が表面化すると義経に協力し、後白河法皇から頼朝追討宣旨を得て、四国の地頭に補される。
しかし、軍勢が得られず挙兵に失敗。両人に対する追討院宣が諸国に下され、文治2年(1186)5月12日、和泉国小木郷に潜伏している所を発見され、子の光家と共に斬殺(「吾妻鏡」文治2年5月25日条)。
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○為義(?~1156保元元):
源義親の男。左衛門少尉に任ぜられ、久安2年正月26日、大尉に転じて検非違使兼官の宣旨を受ける。同6年、従五位下に叙せられるが、検非違使・左衛門大尉の官には留まる(叙留)。
久寿元年、子息為朝が鎮西において濫行を行ったことにより解官される。
為義は、藤原忠実・頼長に仕えていたことから、保元の乱が起こると崇徳・頼長側の軍事力の中心となる。戦に放れて出家、保元元年3月10日、長子義朝に斬られる。
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■令旨の内容。
「下す 東海・東山・北陸三道諸国の源氏、ならびに群兵らの所、
まさに早く清盛法師ならびに従類叛逆のともがらを追討すべき事
右、前の伊豆守上五位下源朝臣仲綱宣す、 最勝王の勅を奉るにいはく、
清盛法師ならび宗盛ら、威勢をもって凶徒を起こし、国家を亡ぼし、百官万民を悩乱し、五畿七道を虜掠す。皇院を幽閉し、公臣を流罪し、命を断ち、身を流し、淵に沈め、楼に込め、財を盗み、国を領し、官を奪い、職を授け、功無きに賞を許し、罪にあらざるにとがに配す。
あるいは諸寺の高僧を召しとり、修学の僧徒を禁獄し、あるいは叡岳の絹米を給下し、謀叛の粮食に相具す。百王の跡を断ち、一人の頭を切り、帝皇に違逆し、仏法を破滅すること、古代に絶するものなり。時に天地ことごとく悲しみ、臣民皆愁ふ。
よって吾は一院の第二皇子として、天武皇帝の旧儀を尋ねて、王位をおし取るの輩を追討し、上宮太子の古跡を訪ひて、仏法破滅の類を打ち亡ぼさんとす。
ただに人力の構へを憑むのみにあらず、ひとへに天道のたすけを仰ぐところなり。これによつて、もし帝王・三宝・神明の冥感あらば、なんぞたちまちに四岳合力の志なからんや。
しかればすなはち、源家の人、藤氏の人、兼ねては三道諸国の間、勇士に耐へたるものは、同じく与力して追討せしめよ。
もし同心せざるにおいては、清盛法師が徒類になぞらへ、死流追禁(しるついきん)の罪過に行ふべし。
もし勝功ある者においては、まず諸国の使節に預らしめ、御即位の後、必ず乞ふに従ひて勧賞[けんじょう]を賜ふべきなり。
諸国よろしく承知し、宣に依ってこれを行ふべし。
治承四年四月九日 前伊豆守正五位下源朝臣(仲綱)」(「吾妻鏡」同日条、改行を施す)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「下命する 東海東山北陸三道諸国源氏ならびに群兵等の所に。
早く、清盛法師およびその従頬たち謀反の輩を追討すべきこと。右のことは、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱が命ずる。
「最勝王(以仁王)の勅命を承った。清盛法師と宗盛らは、権勢に任せて凶徒に命じて国を滅ぼし、百官万民を悩ませ、五畿七道の国々を不当に支配し、上皇を幽閉し、廷臣を流罪に処して、命を断ったりその身を流し淵に沈めたり幽閉するなどして、財物を掠め取り回を領有し、官職を奪い与え、功の無いものを賞し、罪の無いものを罰している。
諸寺の高僧を拘禁して学僧を獄に下し、また比叡山に絹や米を下して謀叛の際の兵糧米としている。
百王の継承を断ち、摂関を抑え、天皇・上皇に逆らい、仏法を滅ぼすとは、前代未聞のことである。そのため、天地は皆悲しみ、民は皆愁えている。
そこで私は、一院(後白河)の第二皇子として、天武天皇の昔にならって王位を奪うものを追討し、上官太子(聖徳太子)の先例にしたがい、仏法を滅ぼすものを打ち滅ぼそうと思う。ただ人力による用意のみを頼みとせず、ひたすら天道の助けを仰ぐものである。もし三宝と神明の思し召しがあれば、どうしてすぐにも全国の合力を得られぬことがあろうか。
そこで、源氏の者、藤原氏の者や、前々より三道諸国に勇士として名高い者は、追討に協力せよ。
もし同心しなければ、清盛に従う者に准じて死罪・流罪・追討・拘禁の刑罰を行う。
もし特に功績のあった者は、まずは諸国の使節に伝えおき、御即位の後に必ず望み通りの褒賞を与える」。
諸国は、よく承り、この命令どおりに実行せよ。
治承四年四月九日 前伊豆守正五位下源朝臣(仲綱)」
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○最勝王:
以仁王をさす。信仰する者は諸天の加護を得ることができるという護国の経典『金光明最勝王経』への信仰から、最勝王と称す。
○仲綱(1126大治元~80治承4):
頼政の嫡男。母は源斉頼の娘。蔵人・隠岐守を経て、伊豆守。
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□宣旨の意義。
「東海・東山・北陸三道諸国の源氏ならびに群兵等」に宛てて、「右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣す、最勝王の勅を奉はるに稱(いわ)く」と、
①国家護持の経典「金光明最勝王経」にちなみ、仏敵平家への諌筆をそこに仮託させ、自ら「最勝王」と名乗り、
②自己を王位継承者と想定し、令達を「勅」と表現する。
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本文のポイントは、
「一院」第二皇子として、天武天皇の「旧儀」に基づき、王位を推し取る輩を追討する、
・「上宮太子」(聖徳太子)の例にならい、仏法の破滅者を討滅する、
・即位の後には、必ず賞賜する、と示すところ。
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平家の罪状は王位奪取(後白河院幽閉、高倉天皇退位・安徳天皇即位)という叛逆と仏法破壊をあげ、自己の行為を壬申の乱における天武天皇の旧儀になぞらえ革命の正当化を行う。
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令旨に呼応する東国源氏勢力の2つの方向。
①頼朝を中心とする立場。
以仁王を旗頭に推戴し、令旨それ自体を行為の源泉とするもの。平氏中心の京都の王権とは別個の立場を堅持し、例えば、「治承」の年号を用い続け、反乱勢力としての自己を主張する頼朝の意識。
裏返せば、頼朝の治承年号の放棄は、京都の王朝勢力との新たな関係創出、反乱軍からの脱却、王朝再建路線への方向の明確化、以仁王の「革命」路線の放棄を意味する。
②義仲のように最後まで以仁王の路線を堅持する勢力。
義仲入京後、以仁王遺子北陸宮を帝位に推す。
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挙兵には、寺院勢力との連携も窺え、また、唐突なものでもなかったことが窺える。
兼実は、令旨は「状の体を見るに偏へに山寺の法師の所業なり」(「玉葉」養和元年9月7日状)とする。
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「玉葉」治承4年(1180)11月22日条:
「伝へ聞く、関東より一院第三親王「伐害(バツガイ)せらるるなり」の宣と称し、清盛法師を誅伐すべし、東海・東北・北陸道等の武士、与力すべき由、かの国々に付す。又三井寺の衆徒に給ふと云々。その状、前伊豆守仲綱奉ると云々」とある。
令旨が関東において高倉の宮の令旨と信じられ、広く流布し効果を発揮していたと推測される。
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4月27日
・藤原定家(19)、高倉院の七瀬御祓の使を勤める。
「四月二十七日。晴天。未ノ時許リニ、院ニ参ズ。七瀬御祓ノ使ナリ(此ノ儀内裏ノ如シ)。台盤所ノ北面ニ於テ、御撫物ヲ取ルノ儀、禁裏ノ如シ。一条末ニ向フ。御祓了り、帰参シ、退出ス。今日御牛ヲ御覧ズ。蔵人引クナリ。内々ノ儀カ。」(「明月記」)。
「撫物」は、玉体を撫でて祓う代のこと。賀茂川一条末が祓の場所。
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