南京戦中(昭和12年11月~12月)、日本国内で何が進行していたのか(一言で云えば、思想、教育、政治、娯楽などあらゆる面での「総動員(体制)化」の進行)、当時の新聞記事によって見てゆく。
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「日経新聞」が、公開なった「BC級裁判記録」の連載をこの11日より始め、13日には「百人斬り競争」が取り上げられていたので、今日は私もこれに便乗する。
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戦争は公認の殺人であると云えばそれまでだが、「××人斬り」なる「ムキ出し」の殺人に関する記事が受容されるか称賛をもって迎えられる社会というものに驚く。
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1.昭和12年11月18日付け「松陽新報」(同盟上海16日特派員発)。
(見出し)
「二八人斬りの体験 軍刀はからを 二尺二寸以上 有馬兵曹長が割出した操刀法」。
(記事)
「陸戦隊士師部隊○隊長有馬三郎兵曹長(鹿児島県出身)は応召まで剣道教師をして居た練士で去月十一日以来士師部隊に配属後攻撃の日には虎徹の銘ある愛刀を揮って支那兵二十八人を斬り倒しその体験に基いて日本刀による支那兵斬突について注意すべき事項を記録し又戦争に於ける銃剣突撃の場合の注意についても実際に試みて附記した
日本刀斬突
・・・(略)・・・
銃剣突
・・・(略)・・・」。
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2.12月13日付け「東京日日」
(見出し)
「百人斬り″超記録″向井106-105野田 両少尉さらに延長戦」。
(記事)
「【柴金山麓にて十二日浅海、鈴木両特派員発】南京入りまで〝百人斬り競争〞といふ珍競争をはじめた例の片桐部隊の勇士向井巌少尉は十日の柴金山攻略戦のどさくさに百六対百五といふレコードを作って十日正午両少尉はさすがに刃こぼれした日本刀を片手に対面した
野田「おいおれは百五だが貴様は?」
向井「おれば百六だ!」……
両少尉は”アハハハ〞結局いつまでにいずれが先に百人斬ったかこれは不問、結局「ぢやドロンゲームと致さう、だが改めて百五十人はどうちや」と忽ち意見一致して十一日からいよいよ百五十人斬りがはじまった、
十一日昼中山陵を眼下に見下す柴金山で敗残兵狩真最中の向井少尉が「百人斬ドロンゲーム」の顛末を語ってのち知らぬうちに両方で百人を超えてゐたのは愉快ぢや、俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともこ唐竹割りにしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ、
十一日の午前三時参戦術紫金山残敵あぶる出しには俺もあぶり出されて弾雨の中を「えいまゝよ」と刀をかついで棒立ちになつてゐたが一つもあたらずさ、これもこの孫六のおかげだ
と飛来する敵弾の中で百六の生血を吸った孫六を記者に示した」。(改行を施した)
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一連の記事は、11月30日付から始まる。
この頃は、戦意高揚のための「武勇伝」が記事になることは多いという。
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2人は、戦後、中国の戦犯裁判で死刑となり処刑される。
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昭和22年4月、向井は東京軍事法廷に召換されるが、新聞記事は事実と認めぬとして釈放される。
2ヶ月後、再召換され、向井・野田両名は、12月18日、南京戦犯裁判(第21号事件)において「百人斬りの獣行によって日本女性の欲心を買わんとしたことは現代人類史上聞いたことがない」との理由で死刑宣告(1日のみの即決裁判)を受け、翌23年1月28日、南京雨花台刑場で銃殺。
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(向井弁護人の上申)
向井少尉は12年12月、迫撃砲弾を受け、手と足に重傷を負い、15~16日頃に担架で帰隊し、その後も治療を続けた。従って、インタビューを受けたとされる12月10日は新聞記者とも野田少尉とも会っていない。
記者に会ったのは南京の手前で、その際、冗談まじりで「花嫁を世話してくれ」と言ったら、浅海記者は「天晴れ勇士として報道されれば花嫁候補はいくらでも集まる」と言い、行軍ばかりで面白い記事がないとこぼしていた。
向井は何を書かれたか全然知らず、5年後に初めて百人斬りの紙面を見て驚き、恥ずかしかったと述べる。向井は砲撃の指揮官でもあり、第一線の白兵戦に参加したこともないなど新聞記事の事実無根を主張。
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裁判では、個々の殺人に関する立証はされず新聞記事のみが根拠とされ、また、起訴状では戦闘中の百人斬りであったものが、捕虜・非戦闘員の殺人に変更されている。
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この裁判の粗雑さが、「戦犯裁判は報復であり、中国が主張する他の残虐行為も疑わしい」という論者に格好の材料を提供したと、「日経」は指摘。
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