明治17(1884)年11月4日(5)
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▽本営瓦解後の困民軍の行方は、・・・。
①大野苗吉は寄居方面に進撃。
②落合寅市は釜伏峠の方向に遊撃戦を展開。
③菊池貫平・坂本宗作は信州へ転戦。
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□皆野村戸長役場の記録によると。
「午後四時頃ニ至り、総軍ヲ三分シ、一ハ本野上村、一ハ下吉田村ヲ指シテ繰出シ、一ハ下日野沢村根古屋橋ノ固メトシ繰出シタリ、是ニ於テ皆野村ノ暴徒ハ悉皆引払ヒタリ、時ニ午後五時三十分ナリ」
とある。
本野上村と根古屋橋に向った隊は、秩父新道を八幡山町(児玉町)へ進うもので、下吉田村に向った隊は、目標を失い自然と旗上げの地に向った者たちや、信州転戦を目指すものである。
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■金屋の夜戦(秩父蜂起最大の戦闘)。大野苗吉戦死。
・午後3時、大野苗吉率いる困民軍200~300、本野上に進出。
軍は500に膨れ、警察・役場に乱入、軍用金を調達。
夕方、寄居より警備隊が進出との報あり、児玉・八幡山町への秩父新道より児玉軍へ進出。児玉郡金崎村では軍は500~600となる。
11時半、金屋村に到着。ここで平田大尉指揮鎮台第3大隊70余と小銃戦。
農民戦死6(大野苗吉戦死)・収容後死亡4・負傷9。軍・警察負傷4。
本陣解体後も平野部に積極的に出撃した意義。
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□本野上村に向った隊の高岸駅蔵(石間村、44)の供述。(改行を施す)
「四日ニハ寄居町ヲ襲撃セントノ手配ナリシガ、憲兵ガ中野上ニ繰出シタリトノ報アルユエ、更ニ方向ヲ転ジ児玉町ニ押出サント評議一決シ、
隊長分高岸善吉、落合寅市等ハ味方三百計(バカリ)ヲ引率シ、大浜ノ渡船ヲ渡り、児玉町新道(秩父新道)ヲ進ミ、
自分等ハ姓名知ラザル隊長分卜親鼻之渡船ヲ越へ、本野上村戸長役場ニ参り、味方ヲ募り、左折シテ出牛峠ヲ越へ、出牛村(金沢村字出牛)ニ於テ、先キニ大浜ヲ越へ新道ヲ進ム高岸善吉等卜出合ヒ、合併シテ襲撃スルノ手配ナルヲ以テ、
自分等ハ姓名知ラザル隊長分(大野苗吉)ニ随ヒ、味方二百計ヲ引卒シ、親鼻ヲ出発シテ本野上村戸長役場ニ参り、味方二百名計ヲ募り、惣勢四百名計リニテ同所出発、出牛峠ヲ越へ出牛村(金沢村出牛)ニ至りタルトキ、高岸善吉等ハ約束ノ如ク参ラザルニ付」
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彼らは、中野上村に憲兵がいることを知っており、出牛峠~秩父新道~大浜の渡船場~八幡山に向かい、高岸善吉らの隊と合流する計画であった。
しかし、高岸善吉は、既に加藤織平らと、蓑山から東京へ逃走の道を進んでいる。
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□この日午前中、本野上村方面へは高岸駅蔵が数十名を率い先手として向かう。
大野苗吉は、2~300を率い荒川を渡り、藤谷淵村で先手に追いつく。
藤谷淵村では、困民軍の要求により、戸長の指示で100余名が加わる。
こうして本野上村に入った困民軍は700~800名で、一部は野上下郷の宮沢まで進出。
ここでも20人ほどが戸長役場に押入り、公証割印簿を差し出させようとするが、戸長・筆生とも不在のためそれができず、ついで警察分署に入り、中のものを毀す。
さらに高利貸兼質屋を襲い、貸金証書51通(1,746円85銭分)と質征書4通(123円50銭)を焼く。
その後、夜のうちに児玉町(八幡山町)に押し出すために出牛峠に向かう。
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□八幡山口の警備
八幡山分署長浜田警部補は、31日午後8時、寄居警察署長から巡査5名の応援を求められるが、余裕がなく、自署員3名を派遣し、2名は本庄警察署に代員を頼む。
翌1日午後2時、「寄居警察本部ヲ皆野村へ移サレ、江夏警部長モ出張セラル」の急報を受け、浜田分署長は直ちに八幡山町を出発、途中本野上分署に立寄り、同署に居た巡査6名に随行を命じ、皆野村の現地警察本部に入る。
従って、八幡山・児玉両町方面の警備は「一時空虚」となるが、2日、皆野から寄居に後退した警部長は、暴徒は秩父新道を八幡山町方向に進出する虞があると判断し、警察本署の大西警部(山口県士族、36)と八幡山分署長浜田警部補に巡査30名を与えて八幡山口警備を命じる。
この隊は児玉町の池田清三郎宅を警察出張所とし、太駄村に巡査10名を進出させて見張所を設け、秩父方面の警戒にあたる。
また、郡吏に依頼して民間のピストル20余挺を借り上げ、地雷を埋設する計画のもとに火薬と鉛を購入し、烟火筒2個、野砲1門を借り入れて散弾発射の準備をするなど武装を強化する。
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4日、本庄警察署長伊藤警部(山口県士族、35)、加須警察署長脇田警部(長崎県士族、38)が巡査を率いて応援に駆け付け、この方面の警官隊は、警部・警部補4・巡査50名になる。
児玉・賀美・那珂郡役所(郡長諸井興久)は本庄町にあるが、2日以降、県庁より電報で、また本庄警察署よりも「秩父郡暴徒蜂起の実況」が伝えられ、郡長は郡吏を分派して各聯合戸長役場に対し「郡内動揺ハ勿論、該徒ニ応接セザル様毎戸無洩懇諭スベキ旨」戸長に伝えさせ、自らは児玉町警察仮出張所に出向き、秩父新道に煙火用木炮を備えることを進言し、郡史に児玉・八幡山両町にある木砲と火薬を収集させるなど警備力強化に奔走。
さらに秩父新道沿いの金屋村聯合戸長役場、河内村聯合戸長役場を訪れ「暴徒襲来セバ、男子ハ必ズ皆山間ニ潜ミ、決シテ附随セザル様」部内各戸に通知させ、役場書類の避難を指導。
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□鎮台兵派遣
3日午後、児玉町・八幡山町は「人民驚愕、老幼婦女ハ他ニ立退キ、男子ハ家財ヲ運搬スル等大ニ動揺」し始め、郡長は「僅々四十余名ノ巡査ヲシテ、夥多ノ暴徒ニ充ルモ到底其功奏スル能ハズ」と判断し、警備力強化要請のため寄居町に出向き、午後11時すぎ吉田県令に巡査増員を要請。
しかし、県令はこれに応じず。
郡長は次に春田少佐に憲兵の児玉町分遣を要請するが、春田少佐も承知せず。
郡長は再度県令に会い、改めて「今部民危急存亡ノ時ニ至レリ、彼我之別ナクヨロシク防禦ノ指揮アラン事ヲ」進言。
遂に吉田県令は、来援予定の東京鎮台兵を児玉町方面に投入することを郡長に約し、県庁の笹田少書記官あて電報を打ち、郡長には兵食手配を命じる。
「鎮台兵着セバ、直ニ本庄マデ汽車ニテ送り、新道ヲ進ミ、金沢村ノ宝登山ニ楯龍ル賊ヲ撃払ヒタシ、人力車其他諸賄ハ児玉郡役所ニテ手配ス、尤出発時聞及人員ハ其郡役所へ通報アレ」
これによりこの日出動の鎮台兵4個中隊のうち、1個中隊が児玉口に配備される。
この夜、「金屋の夜戦」となる。
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□金屋の夜戦
大野苗吉は、寄居町への官兵集結を知り、本野上村から出牛峠を越え、金沢村字出牛に出る。
斥候による太駄村の様子では、警官隊が引揚げているとのことなので、午後9時頃松明をかかげ、鯨声を作って太駄村に押し入る。
「其物音凄クモ又恐ロシキ有様」で、群衆は約400人、「秩父新道ニ透間(スキマ)ナク、只黒ク、一時間人跡ノ絶間ナシ」と云う。
ここでは隊長分1人に5、6人~20人位が附添い、毎戸に武器人夫の差出しを迫るが、村の者は逃去っており応ずる者はいない。
その後、この村を通り抜け、午後10時頃、河内村に入る。
ここで、隊長分4人が「何レモ袴羽織ヲ着シ、紫ノ頭巾ヲ冠リ、何モ白ノ鉢巻ニ白ノ襷ヲ掛ケ、抜刀ヲ携エ」聯合戸長役場に押入り、「戸長ハ居ルカ」と聞くと、居合せた小使が、「戸長ハ阿久原村へ出張ニテ不在ナリ」と答える。
「然レバ是非ナシ、戸長帰庁次第部内ノ人民ヲ悉ク集メ、児玉町へ差出スベキ様達スベシ」と言い置いて、村の高利貸2軒を放火。
この時、隣家への延焼防止が指示されているが、2戸に延焼し、馬1頭(時価110円)が焼け死ぬ。
困民軍は次の元田村で夜食をとり、金屋村に向う。
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4日東京を出発した東京鎮台歩兵1個大隊(4中隊)の内3中隊は、深谷で下車し寄居町に向うが、1中隊(中隊長歩兵大尉平田尚介以下70)は本庄で下車し、午後5時40分児玉町に進出。
この方面を警備する伊藤禄三警部(本庄警察署長、山口県士族、35歳)は平田大尉と「明日ノ進行ノ方略」を協議するが、平田大尉は「鬼石町出張ノ群馬県官ニ談ゼザレバ一決シガタシ」と云う。
大西謙輔警部(警察本署詰山口県士族、36歳)が群馬県側と交渉することになり、児玉町から鬼石町交番所の河野警部長を訪ねる。
河野警部長は、甘楽郡村民は秩父の暴民の到来を待って応ずる気配があり、できれば児玉町の鎮台兵の派遣を得て、賊徒の進出を防ぎたいという。
伊藤警部は、良策だが鎮台兵と協議しなければならない、もし鎮台兵動員が不可能な場合は、児玉町一丸となって戦うと言明する。
河野警部長との協議をおえて帰途についた伊藤警部が、渡瀬川を渡った時、夜空に河内村の火災が望見され、「是賊ノ放火シテ児玉町へ進入シタルモノ」と判断し児玉町に戻る。
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児玉町でも、河内村方向に2ヶ所で火災が発生、半鐘が鳴り、住民は「愕然トシテ色ヲ失ヒ」「老人婦女子ヲ逃走セシメ、家財器具ヲ取纏メ、各所へ送致スル有様ハ、実ニ見ルニ忍ビザル」状況となる。
遂に中隊長平田大尉は中隊全員を率い、伊藤・浜田・佐藤警部(警部補)が指揮の巡査10名の誘導で金屋村に進むと、ここで脇田警部・永井警部補らが元田見張所から引き揚げてくるのに会い、近くに困民軍の喊声を聞く。
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金屋村聯合戸長の記録による困民軍の状況。
「十一時四十分、暴徒大凡八百名、内小銃ヲ携ヘル者三十人計り、余ハ悉ク竹槍・抜刀ニテ大声ヲゲ、巡査ニ非ザル者ハ逃ルナ、トロ々ニ怒鳴り押寄セ、金屋村字中倉林吉蔵ノ居宅前ニ来リ一発々砲ス、同所中林喜三郎ノ蚕室ニ放火セントスルアリ、或ハ字池内蓄財家倉林太郎兵衛方ノ門ヲ打破ラントスルアリ、暴行実ニ言フ可カラズ。」
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平田大尉は、左翼半隊をその場におき、右翼半隊を率い兵に「提ケ銃」の姿勢をとらせて2町程前進する。困民軍は大声を発し、火縄銃の火縄の火は「宛(アタカ)モ群蛍ノ飛散スル如ク」に見える。
距離が15、6間になったとき、困民軍が射撃を始め、平田大尉も応射を命じ、「弾丸雨ノ如キ」銃撃戦となる。
しかし、困民軍は「味方が一発打ツ内ニハ、敵ノ弾丸ハ二十発モ飛ビ来リ」(「高岸駅蔵訊問調書」)という有様で火力の差は歴然としている。
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この夜は月明りであったが、道路の傍らが森林であるため付近は暗黒で、鎮台兵は困民軍の火縄を目がけて狙撃。
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金屋の戦闘は4日午後11時30分に始まり、射撃戦は30分ですみ、家屋捜索などすべては、5日午前1時30分に終了する。
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「金谷村ニ至ルト、人家ノ竹薮ヨリ兵隊ニ砲撃サレ、於是姓名知ラサル味方之隊長分、「抜刀隊ハ進メ々々」卜下知シタレドモ、砲撃裂シク、味方カ一発打ツ内ニハ敵ノ弾丸ハ二十発モ飛ビ来ルニ付進ミ兼テ居ルト、敵ノ弾丸先キニ進メ々々卜指揮シタル隊長分ニ当り、忽チ人家ノ戸ノ傍ニ斃レタルヲ見受ケタルニ付、自分ハ直ニ同所ヲ逃ゲ去り・・・」(「高岸駅蔵訊問調書」)
この「姓名知ラサル味方之隊長分」が大野苗吉とされ、この戦闘で戦死したと推測されている。
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困民軍兵士の記録。
「八幡ノ町ヨリ二、三丁手前迄行ト、向ヨリ敵兵出来り、蔵ノ問ヤ杉薮ノ中等ヨリ発砲シ、ピカピカ火ノ出ルヲ見タリ、自分ノ方ヨリ鉄砲方ノモノガ撃出シ、双方撃合、凡ソ五、六分ニシテ鉄砲ノ打方ヲ止メロト云フ令ニテ一同発砲ヲ止メルト、スグ抜刀方ノ者三十名斗り切り込ムトテ前へ出ルノヲ見テ、自分ハ直ニ逃ゲ去りタルニヨリ、後ハドウナリシヤ存ゼズ」(「高田坂蔵訊問調書」)。
射撃戦後は白兵戦となった様子がわかる。
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そして、「午後十二時二十分砲声止ム」、戦場は死傷者で「実ニ目モ当テラレヌ」惨状を呈し、死傷者は近くの円通寺に収容される。
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鎌田冲太「秩父暴動実記」による戦場の状況。
「激戦アリシ地ハ即チ円通寺西方秩父街道ナルヲ以テ、附近ノ家屋一トシテ其弾痕ヲ留メザルモノナシ、最モ街道ニ面セシ牆壁ノ如キニ至テハ、蜂巣ノ如クナラザルモ、痕跡稠密ナルガ故ニ、行人顧ミテ以テ其暴動ノ往事ヲ想到セザル者ナカリキ」
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翌5日、県は金屋小学校(現、円通寺)を「埼玉県仮病院」とし、地元医師2名が治療にあたるが、設備もなく負傷者がここに担ぎ込まれたというだけのもの。
6日夜、鎮台兵付添医師がここの立ち寄った時も、
「何レモ重傷ナリ、或ハ雨戸ニテ荷ヒ込ミシ儘ナルアリ、或ハ単ニ藁菰ヲ被テ呻吟スルアリ、或ハ重傷ノ為メ庭前ニ倒レテ既ニ死スルアリ、実ニ其ノ景況憫然ナリキ」
という状況。
それでも、周囲住民の中には「余りに暴徒の負傷に手当の厚きに過る」と批判するものもあった(「東京日日新聞」明治17年11月10日)。
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金屋の戦闘における困民軍側の即死は6名(何れも「郷貰氏名不知者」)で、病院収容後さらに6名が没する。
引間元吉(秩父郡下日野沢村小学校の授業生、18歳、上日野沢村の自由党員門平惣平(伝令使)の義兄弟、惣平のすすめで4月に入党。11月1日、惣平からの連絡を受け蜂起に参加)はこの負傷者の一人。彼は「衆潰散シタルヲ以テ逃走セントスル際、両股ニ銃丸ヲ受ケ、遂ニ捕縛セラレ」、「煽動シテ勢ヲ助ケタル者」として重禁錮1年6月に処せられる。
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金屋仮病院で負傷者の治療にあたった八幡山町の医師中神貞作の報告には、入院者14名の名がある。うち、入院してからの死亡者は上日野村太田政五郎(5日没)、河原沢村黒田広吉(5日没)、藤倉村東市重(6日死)、金沢村桜井喜十郎(8日没)、金尾村新井助三郎(10日没)、下田野村田島丑五郎(12日没)の6名。引間元吉ら8名は、まもなく退院、裁判所へ護送。
即死者は5名。胸や膝を「銃丸ノ為メニ貫カレ」、人家前の「往還」や「桑畑ノ中」に「斃死」していた。
「生擒」された者15名。
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金尾村新井助三郎(25)は入院してから死亡した6名のなかの1人で、「右足脛ノ中部ニ銃傷ヲ被ムリ脛骨全ク折断」の重傷だったが、命を救うために「該骨ヲ切断セン事ヲ諭」した中神医師に、「譬ヒ死ストモ其術ヲ受ケス」と、「自若トシテ強情ス」と言い、自死を図って刀で頚を突く。
「十一月十日午前十時実ニ眠ルカ如クニシテ斃レタリ」
という。
尚、金尾村からは新井三四郎ら数人が信州転戦隊に加わり、東馬流まで闘いつづける。
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□「土陽新聞」の報道。
「鎮台兵は最初暴徒の手強き勢ほひに当り得ず、引退いて暫らく其鋭気を避け竹薮に籠り、暴徒の右翼を砲撃せしより今まで斃るる者を踏こえ踏こえ町角へ競ひ集りし暴徒も遂にたまりかねけん、向ふの人家に引取り、畳を積みて胸壁に代へ、凡午前一時廿五分頃まで戦ひしは、百姓一揆に稀なる天晴の剛兵なりとぞ。死体等を所々に見出すあれど、いずれも股引脚半草鞋にて百姓体なり、或は十四五歳の少年が手を負ひ助けを乞ひ、声をあげて叫ぶ者、又五十有余の老夫が健気に奮闘して斃れたる者等あり。」(「土陽新聞」)。
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官側は台兵3名、巡査1名が負傷。いずれも銃創。
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翌5日午前6時、鎮台兵と警官隊は長冲村を出発、秩父新道を進み、大淵村長楽寺で青木巡査(前日、新井周三郎を斬りかかり殺害された)を仮埋葬し、この夜はここに宿泊。
6日、下日野沢村の藤原峠に残徒屯集の情報を得て同村に向い、「自由党ノ巣窟」重木の村上泰治宅などを捜索し、藤原峠を越えて午後8時頃児玉町に戻る。児玉・八幡山両町は、鎮台兵と警官に「酒壱樽卜家鴨十羽」を贈って慰労。
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「★秩父蜂起インデックス」をご参照下さい
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