2010年6月5日土曜日

明治5年(1872)8月~9月 学制発布「・・・邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン・・・」 琉球藩設置 初めての軍艦の海外派遣 [一葉0歳]

明治5年(1872)8月
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この月
・東京府が、一葉の父、則義を貫族士族と認定。
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・地租改正局設置。
地租改正事業を推進するため、大蔵省租税寮に地租改正局が置かれる。この年6月18日、大蔵大輔井上馨が神奈川県令から大蔵省租税頭に抜擢した陸奥宗光が、権頭松方正義と共に地租改正法案策定にあたる。
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・為替座廃止。
三井・小野組合銀行に大蔵省為替御用命ず。第一国立銀行設立準備機関的役割。
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・大蔵省が建議して、地方官の任期延長と国税府県税の区別が決まる。
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・開拓使、羅卒屯所をクシュンコタンに置く
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・星亨、車夫殴打事件により、司法省に閉門100日の刑を科せられ、この月、大蔵省租税寮御雇を免職。
免職後の生計の為、星は西洋偉人伝の翻訳、出版により生計の資を得ようとし、「海外万国偉績叢伝」として出版。しかし、食客を抱える所帯を維持できず、食客ともども深川清澄河岸の陸奥宅の食客となる。
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・坪内逍遥(13)、長兄の勧めで名古屋県の洋学校に入学、英語を学ぶ。
翌年12月、県立成美学校と改称。明治7年9月、新設の官立愛知外国語学校(のち愛知英語学校と改称)に入学。外国人教師からシェークスピヤの講義などを受ける。
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・「資本論」フランス語版第1分冊1万部、刊行。
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・オイステルウェイクの学校に通っていたゴッホ弟テオ(15)がハーグを訪れる。
これを機に4歳違いの兄弟の間の生涯にわたる文通が始まる。
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8月2日
・大政官、「学事奨励ニ関スル被仰出書」布告。個人の自立に不可欠な学問の効用を力説、全国民教育実現への決意宣言。
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8月3日
学制発布。全国53,760校の小学校設立布告。
8年の義務就学(但し、有名無実)。この日、設置を決めたのは4校のみ。3月、文部卿大木喬任により原案作成
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学制の理念:
前文(「被仰出書」太政官第214号)に
「人々自ラ其身ヲ立テ其産ヲ治メ其業ヲ昌ニシテ、以テ其生ヲ遂ル所以ノモノハ他ナシ身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ長スルニヨルナリ、而テ其身ヲ脩メ知ヲ開キ才芸ヲ長スルハ学ニアラサレハ能ハス」
と学校設立の趣旨が述べ、
「以後一般ノ人民華士族農工商及婦女子必ス邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメン事ヲ期ス」
と国民皆学の原則をうたう。
但し、学問にかかる費用は、民衆自らが負担することも述べられる。
当初の学制構想は日本全体を8大学区・256中学区・5万3760小学区に分け、小学校は人口600人に1校、中学校は人口13万人に1校の割合で設置するというもの。
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8月3日
・太政官、「司法省職務章程」制定。
22章108条。司法省職制・事務章程・裁判所構成・判検事職制・裁判事務規定。近代的司法制度の体系化。
司法省の役割は「全国法憲を司り各裁判所を統轄す」。
省務は、裁判所、検事局、明法寮に分ける。
地方官(府知事・県令・府県参事など)から裁判権接収。
5種類の裁判所(司法省臨時裁判所、司法省裁判所、出張裁判所、府県裁判所、区裁判所)。
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8月5日
・府県裁判所設置開始。
神奈川・埼玉・入間3県裁判所開設。12日、足柄・木更津・新治・栃木・印旛・群馬・宇都宮の8県。9月13日、兵庫。19日、山梨。10月7日、京都。20日、大阪裁判所開設。
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8月7日
・一葉家族の住居移転。
一葉が生まれた長屋が東京師範学校の前身東京府教則講習所の建設予定地にかかるため立ち退き、第5大区4小区(現台東区)下谷練塀町43番地桜井重兵衛方(4小区扱所に隣接)に転居。
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8月8日
・池上四郎、太政官正院から清国派遣の命を受ける。池上、外務省十等出仕に任官。池上四郎・武市正幹・彭城中平(さかきちゅうへい)、「御用候條清国牛荘へ差遣」する旨の命を受ける。
9日、外務省から清・露・鮮探偵として派遣の命を受ける。同日、樺山資紀、台湾生蕃琉球人暴殺の件で池上四郎に面会。
15日、外務卿副島種臣から外務省十等出仕池上四郎(薩摩)・外務省十等出仕武市正幹(土佐)・外務権中録彭城中平(肥前)への内諭「外務省十等出仕池上四郎外二名清牛荘差往探察ノ要件」あり。
16日、英船セート号で横浜を出航、神戸で下船。
18日、神戸で劉少丞と会う。25日、神戸出航、9月1日午後2時、上海に到着。
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8月9日
・鎮西鎮台第2分営長(鹿児島)陸軍少佐樺山資紀、上京。陸軍元帥兼参議西郷隆盛・実弟陸軍少輔西郷従道に報告。琉球総難事件への積極的対処建言。
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8月10日
・司法卿江藤新平、「聴訴ノ儀ハ人民ノ権利ヲ伸シムル為二、・・・」布達。
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8月12日
・清国でアメリカ留学開始。中国初の官費による留学生が米に旅立つ。
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8月13日
・文部大輔福岡孝弟(元土佐藩士)、司法大輔に転任。
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8月14日
・鹿児島県使者伊地知真馨、副島外務卿に面会。琉球宮古島民の台湾遭難の報告、及び、鹿児島県参事大山綱良の問罪の軍隊派遣建言、提出(台湾出兵論登場)。
先に東京に来ていた樺山資紀は、伊地知とも打ち合わせ、いきなりの「問罪の」軍隊派遣でなく、とりあえず現地調査を行う穏当な線に後退。
当初「異論」をみせた西郷隆盛もこれには了解。
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8月15日
・教育費受益者負担が確定
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8月17日
・(旧7/14)使節団、イギリス着。アメリカ滞在が長びき、イギリス到着は遅れる。女王・政府高官は避暑にでかけており、使節団はロンドンで空しく待機。
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8月18日
・諸派合同の第1回宣教師会議が開催
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8月19日
・この日付の樺山資紀の日記。「台湾事件により琉球王を出府せしめ、三ヶ条の条約を立てられ、そのうえ何分の決断する内議なり」。
琉球藩設置と宮古島島民遭難(台湾出兵問題)とが結合。
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8月23日
・太政官布告。華士族・平民相互の結婚許す。
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8月25日
・マリア・ルーズ号事件。裁判長大江卓、移民契約書は人身売買にあたる、清国人は帰国させる判決。
ペルー側に雇われた在日イギリス人弁護士ディッキンズは、遊女売買の実情を紹介し、これを許す日本政府に外国人を裁く資格はないとの弁護を展開。
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8月28日
・近代警察の始め。司法卿江藤新平、軍事・警察を分離。東京府の羅卒約4千人を司法省管轄下に入れ警保寮(2等)とする。羅卒総長川路利良を警保助に昇格、大警視兼務とする。9月3日、司法大丞大検事(検事総長)島本仲道を警保頭に兼任させ、司法省3等出仕(勅任官処遇)とする。警保寮は近衛兵(約5,500人)と拮抗する勢力となる。
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下旬

・マルクス、ハーグ大会に提出する総務委員会報告書作成。30日の総務委員会で採択。
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9月
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この月
・東京市町鑑が東京市内町名を公示。
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・大谷光瑩、成島柳北ら欧米視察に出発
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・クシュンコタン公議所を開拓使樺太支庁に改称
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9月1日
・清・露・鮮探偵の外務省十等出仕池上四郎(薩摩)・同武市正幹(土佐)・外務権中録彭城中平(肥前)、午後2時、上海着、田代屋弥平宅に寓居し通訳兼案内人周紫卿を傭う。
5日、池上四郎、西郷宛に書簡。16日、池上ら英国郵船四川に乗船。17日、上海出発、
21日、山東省煙台(芝罘)到着。25日、池上四郎、外務省経由で西郷に書簡と朝鮮地図を送る。26日、煙台出発、
28日、遼寧省海城県営口(牛荘)到着、通訳兼案内人蓋平県人王某を傭う。以後、営口で商人として清国の地形・政治・兵備・財政・風俗・人情を探索。28日~10月17日、外務卿副島種臣、正院・外務省・大蔵省間で追加金1500弗送付調整を行なう。
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9月1日~7日
・国際労働者協会(第1インタナショナル)第5回ハーグ大会。
マルクス出席。階級廃止を終局目的とする「社会革命」のために闘う労働者政党設立の必要性を規約化。総務委員会の権限拡大、バクーニンとギヨムの国際労働者協会からの除名、総務委員会のニューヨーク移転、可決。
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9月3日
・琉球使節伊江王子朝直(尚健)一行、東京着。
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9月4日
・大元帥の制服を定める。
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9月7日
・田畑作付け自由を許可する。
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9月8日
・マルクス、アムステルダム支部集会にハーグ大会代議員多数と共に出席、大会成果に関する演説。
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9月12日
・新橋~横浜間、鉄道開業式。新橋(現汐留)と横浜(現桜木町)間鉄道開通(開通式)。片道1時間で運行。9日の予定が台風の為この日に延期、実施される。
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9月13日
・マリア・ルーズ号の奴隷清国人の苦力229人解放。清国使節(江蘇補用同知の官職にある陳福勲、3世紀ぶりに公式に来日した中国官人)に引き渡す。清国船で帰国。
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9月14日
琉球藩設置
天皇、琉球国王尚泰の名代伊江王子朝直(尚健)に尚泰を琉球藩主・華族とする詔勅。鹿児島県からの自立。
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9月14日
・(10/16)司法少丞河野敏鎌、明法助鶴田皓、権中判事岸良兼養、警保助川路利良、司法中録井上毅、司法省七等出仕沼間守一、同名村泰蔵、同八等出仕益田克徳、フランス郵船「ゴタベリイ」で出発。同船者に、姉小路公義・松田正久、かつての幕臣(騎兵頭、外国奉行)で後の「朝野新聞」社長成島柳北。
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9月15日
・外務大丞花房義質、陸軍中佐北村重頼・同大尉別府晋介らと軍艦「春日」で朝鮮派遣、草梁倭館着(明治政府の初めての軍艦の海外派遣)。
16日(10/18)、旧対馬藩役人を退去させ、「草梁倭館」を外務省に接収、一方的に外務省直轄「日本公館」とする(元来は朝鮮政府の所有、伝統的に対馬藩が役人・商人を滞在させていた)。朝鮮側は硬化、全ての交渉を拒否、生活物資供給制限などする。
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9月15日
・スイス、サン・ティミエ、バクーニン指導アナキスト国際会議開催。
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9月18日
・司法省明法寮教育開始。ボアソナード、プスケ招聘。
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9月18日
・アメリカ公使デロング、副島外務卿に1854年琉球条約を日本が引継ぐか否か問い合せ
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9月21日・東京府下の劇場に興行免許鑑札を交付。3座以外の芝居も認められる。
これまでは、劇場は浅草の3座に限定。
①中村勘三郎の主宰する1丁目の猿若座、
②市村羽左衛門の主宰する2丁目の市村座、
③守田勘弥が営む3丁目の守田座
であった。
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明治5年以降、各地に劇場を建てることが自由になり、多くの劇場が東京の方々に出来る。
芝の森元町に森元座、その近くに開成座、高砂座など。次に池之端七軒町に大和座、日本橋の浜町に中島座、中橋広小路に結城座等ができる。
明治7年には、金杉2丁目に河原崎権十郎が河原崎座を作り、養家の河原崎 家を去り生家の市川家に戻り、9代目市川団十郎を名乗る。
守田勘弥は明治5年、市内進出を志し、島原跡の新富町に守田座を作り、やがて新富座と改称。守田勘弥は、12代目であるが、俳優としてより劇場経営者、企画者として優れ、新時代にふさわしい劇場建築、演出技術、舞台装置等の改良を考え、実行する大胆な演劇企業家である。
守田は市川団十郎と和解し、明治9年から団十郎を新富座の主演俳優として招く。
市川団十郎は、この頃、大根役者と言われていた。彼の演技は新しく、古風な誇張的な科白を止め、日常会話の形を生かそうとし、また身体を徒らに大きく動かす派手な演技よりも、精神的な印象を客に伝える表現を作り出すのに苦心した。
それは守田勘弥の企てた演劇改良の思想と一致するものであった。
「明治の新しい知識階級者は、団十郎のこの写実的でかつ人間的な迫力のある演技に次第に慣れ、彼を認めて当代第一の役者と見なすに至った。 」(伊藤整「日本文壇史1」)
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9月24日
・メートル原器が制定
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9月25日
・副島・デロング会談。アメリカ公使デロング、外務省に副島を訪問。厦門駐在米領事リゼンドルの存在、台湾に関する知識紹介。
台湾は「浮きもの」(国際法上どの国家にも属さない無主の地)と教える。リゼンドル流の先住民との平和的交渉を勧め、副島の派兵論を牽制。
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リゼンドル:
1830年フランス生まれ。1854年アメリカ人と結婚しアメリカに移住。南北戦争従軍、負傷、退役。1866年清国厦門駐在領事就任。難破アメリカ商船が台湾に漂着、船長以下14人が先住民に殺害。アメリカは軍艦を派遣するが、うまく行かず。1867年リゼンドルが現地に赴き、島内を踏査し、先住民代首長トウキトクと交渉、今後は渡来の西洋人に危害を加えないという約定を締結。以降、リゼンドルは台湾通として知られるようになる。
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9月26日
・副島・リゼンドル会談、外務省横浜出張所。27日、東京迎賓館で続行。リゼンドル、清国政府に灯台設置要請から台湾領有論まで展開。
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9月28日
・外務省、琉球藩の外交権回収し外務省に移管。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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