「一葉日記抄」は、並行している「一葉年譜と一葉の生きた明治」のリンク先として構築するものです。
読み易くするために適宜改行を施します。
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七つといふとしより草々紙(クサゾウシ)といふものを好みて、手まり、やり羽子をなげうちてよみけるが、其中にも一と好みけるは、英雄豪傑の伝、仁侠義人の行為などのそゞろ身にしむ様に覚えて、凡(スベ)て勇ましく花やかなるが嬉しかりき。
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かくて九つ計(バカリ)の時よりは、我身の一生の、世の常にて終らむことなげかはしく、「あはれ、くれ竹の一ふしぬけ出でしがな」とぞあけくれに願ひける。
されども、其ころの目には、世の中などいふもの見ゆべくもあらず、只雲をふみて天にとゞかむを願ふ様成りき。其頃の人はみな、我を見て、「おとなしき子」とほめ、「物おぼえよき子」といひけり。父は人にほこり給へり。師(*1)は弟子中むれを抜けて秘蔵にし給へり。
おさなき心には、中々に身をかへり見るなど能ふべくもあらで、天下くみしやすきのみ、我事成就なし安きのみと斬みける下のこゝろに、まだ何事を持ちて世に顕はれんともおもひさだめざりけれど、只利欲にはしれる浮よの人、あさましく、厭はしく、これ故にかく狂へるかと見れば、金銀はほとんど塵芥(チリアクタ)の様にぞ覚えし。
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十二といふとし学校をやめける(*2)が、そは母君の意見にて、「女子にながく学問をさせなんは、行々の為よろしからず。針仕事にても学ばせ、家事の見ならひなどさせん」とて成き。父君は、「しかるべからず、猶今しばし」と争ひ給へり。「汝が思ふ処は如何に」と問ひ給ひしものから、猶生れ得てこゝろ弱き身にて、いづ方にもいづ方にも定かなることいひ難く、死ぬ計悲しかりしかど、学校は止になりけり。
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それより十五まで、家事の手伝ひ、裁縫の稽古(*3)、とかく年月を送りぬ。
されども猶、夜ごと夜ごと文机にむかふ事をすてず。父君も又、「我が為に」とて、和歌の集など買ひあたへ(*4)たまひけるが、終(ツヒ)に万障を捨てゝ、更に学につかしめんとし給ひき。
其頃、遠田澄庵(*5)、父君と心安く出入しつるまゝに、此事かたりて、「師は誰をか撰はん」との給ひけるに、「何の歌子とかや、娘の師にて、としごろ相しりたるがあり。此人こそ」とすゝめけるに、「さらは」とて英人をたのまんとす。苗字もしらず、宿処(スミカ)をも知らざりしかば、荻野君にたのみて尋ねけるに、「そは下田(*6)の事なるべし。当時婦女の学者は、彼の人を置て多にあるまじ」とて、かしこに周旋されき。然るに、下田ぬしは、当時華族女学校の学監として寸暇なく、「内弟子としては取りがたし。学校の方へ参らせ給はゞ」との答へなりけれど、「我がやうなる貧困なる身が、貴紳のむれに入なんも侘し」とてはたさず。
兎角日を送りて或時、さらに遠田に其はなしをなしたるに、「我が歌子と呼ぶは下田の事ならず。中島とて、家は小石川なり。和歌は景樹(カギキ、香川)がおもかげをしたひ、書は千蔭(チカゲ、加藤)が流れをくめり。おなじ歌子といふめれど、下田は小川のながれにして、中島は泉のみなもとなるべし。入学のことは我れ取はからはんに、何事の猶予をかしたまふ」とて、せちにすゝむ。
はじめて堂にのぼりしは、明治十九年の八月二十日成りき。
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(*1) 下谷区元黒門町17(池之端)の青海(セイカイ)学校(校長山本正義)教師。福島県出身の松原喜三郎という。
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(*2) 明治16年12月23日、青海学校小学高等科第4級を首席で修了し退学。
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(*3) 湯島新花町の松永政愛の妻から裁縫を習う。
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(*4) 父則義から伝えられた蔵書:「万葉集」「古今集」「新古今集」「類題拾野集」「類題鴨川集」「初学和歌式」「歌枕秋の寝覚」「和歌八重垣」「はまのまさご」など。
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(*5) 幕府の侍医を勤める。維新後、神田一ツ橋の府立脚気病院(明治十一年七月創立)で治療にあたる。
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(*6) 下田歌子。実践女子大の創立者。1856~1936.八田知紀と高崎正風に和歌を学び、明治19年、華族女学校の学監に任ぜられる。
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■7~9歳の頃
①「手まりやり羽子」を見向きもせず、草双紙に読み耽る。文学への萌芽を見出すこともできる。
②「英雄豪傑」「仁侠義人」を愛し、「金銀はほとんど塵芥の様に」考える心のありよう。金融業まがいの副業をする父と父の周囲に集まる大人たちを見てのものであろう。
③「くれ竹の一ふしぬけ出しがな」という明治女性の立志の道、また祖父~父へ受継がれた出世意欲が見てとれる。
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