2010年6月11日金曜日

明治5年(1872)10月~12月 人身売買禁止と芸妓・娼妓・前借金による年季奉公人の無償解放 富岡製糸場操業開始 リゼンドルの台湾平定軍事作戦計画 太陽暦採用 国立銀行条例 徴兵告諭 山城屋和助事件 大分県中4郡一揆 [一葉0歳]

明治5年(1872)10月
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10月1日
・アルフォンス・ドーデー「アルルの女」、ビゼーの随伴音楽でパリ、テアトル・ド・ボードヴィルで初演。
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10月2日
・(新暦11/2)人身売買禁止と芸妓・娼妓・前借金による年季奉公人の無償解放、大政官布告295号。
マリア・ルーズ号事件の影響。神奈川県権令大江卓の具申。
7日、司法卿江藤新平、「達第22号」。娼妓・芸妓解放に伴う金銭返済不請求(10月2日以前の契約から生じた一切の債務を無効とする)、人身売買者の処罰。
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「娼妓・芸妓ハ、人身ノ権利ヲ失フ者ニテ、牛馬ニ異ナラス、人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」(司法省第22号)と説明したことから、娼妓・芸妓を「牛馬」と呼ぶ風潮が広まる。
8年1月「貸座敷渡世規則」「娼妓規則」が施行。区長の免許鑑札をうけた娼妓が貸座敷業者から座敷を借りて営業する方式に切り替えられ、公娼制度は形を変えて存続
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10月2日
・台湾問題に関する外務省意見書、正院提出。リゼンドル第1覚書が下敷、清国の先住民対策徹底を要請。正院裁可。
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10月4日
富岡製糸場、フランス製機械を使って操業を開始。
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10月7日
・司法省三等出仕樺山資綱・司法大丞(四等官)島本仲道・司法権中判事(五等官)早川景矩ら、京都府庁訪問。府知事(三等官)長谷信篤(54)、府参事(五等官)槇村正直(38)。
同日、長谷は正院に裁判所設置、聴訴・断獄事務引渡しについて問い合わせ。12日、正院より、二条城内に裁判所設置、司法省官員への事務引渡しの達し。
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槇村正直:
天保5(1834)年5月23日長州美祢郡に誕生。
21歳、密用方聞次役や右筆を務め藩内の検察・探索にあたる。
文久3年七卿落ちでは、国境まで出迎え。
明治元年9月、立法府議政官に出仕。後、京都府に出仕。開化・勧業政策推進。
明治2年7月権大参事、4年9月大参事、同11月参事とスピード出世。参事になってからは「槇村府政」と呼ばれる。
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10月8日 ・永井尚志(58)、三等議官に任命。
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10月9日
・太政官、陸軍少佐樺山資紀に台湾視察派遣命令。明治6年3月、出発。
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10月10日
・司法卿江藤新平主宰の司法省民法会議発足。
司法省御雇外人ジョルジュ・ブスケ、左院御雇外人デュ・ブスケを顧問格に、司法大輔福岡孝弟、兼大判事松本暢、同玉乃世履、左院2等議官細川潤次郎、明法権頭楠田英世、警保頭島本仲道ら出席。
箕作訳「仏蘭西法律書(民法)」を底本として「皇国民法仮規則」(楠田・左院纏め)を参考にして進める。
明治年3月10日、「民法仮法則」全9巻88箇条完成。江藤の参議就任などあり実施に至らず。後、明治23年に民法公布されるが、フランス法系に反対論強く施行されず。明治29年、ドイツ法系の保守的な民法が制定、同31年施行となる。
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10月10日
・司法卿江藤新平、白州での取扱いで官員・華士族・平民同等と布達。
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10月10日
・マルクス長女ジェニー(28)、シャルル・ロンゲと結婚。1883年1月14日、39歳で病没。
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10月13日・12世守田勘弥、新富町に新守田座建設。
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10月15日
・リゼンドル第2覚書、起稿。
日本側の台湾領有を清が拒否することを前提にした台湾平定軍事作戦計画とそれに必要な兵員数・輸送方法・兵要地誌・清側配備状況など。また、根拠地は宮古島より長崎が良いと追加。
第3覚書では先住民確保の具体的方法・先住民地域の地理風俗に関して記述。第2・3覚書は翌々年(1874)の台湾出兵で基本的に踏襲される。第4覚書では、国際社会の権力政治の観点から日本の台湾領有を理論付ける。
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10月15日
・岡本綺堂、誕生。
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10月15日
・リストとワグナーの和解。
リスト(61)、熱心なワーグナーの誘いに応じ15日~1週間バイロイト訪問。双方完全に和解。 
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10月17日
・文部省教科書編成掛を置き、編集に着手
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10月18日
・京都府(二条城の府庁門内)に裁判所開設。所長司法権中判事早川景矩。京都府庁の聴訴・断獄の2課は司法省に接収。
21日、京都府知事長谷信篤・参事槙村正直、地方官の裁判権留保の上書を太政官正院に提出。民刑事裁判権という住民統治に不可欠な手段を失えば、人民の教育や行政施行も困難になると主張。
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10月20日
・大阪裁判所、開設。
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10月21日
・国際労働者協会ハーグ大会決議文、マルクスとエンゲルスの署名入りで公刊。
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10月21日
・大蔵省三等出仕渋沢栄一起草意見書、大蔵大輔井上馨より太政大臣三条実美へ提出。財政に打撃あるため清国との戦争回避すべき。
この頃、外務卿副島は、リゼンドル台覚書の提出を受け、台湾先住民族地域の領有を清に認めさせることができるのは自分だけであると上奏。
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11月
・朝鮮より帰国した外務大丞花房義質、利権に絡んだ旧対馬藩役人を追放したので、朝鮮との交渉はうまく行くだろうとの楽観的報告。
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・原敬(16)、マリン神学校に入る(約1年5ヶ月)。秋に海軍兵学校受験失敗。翌明治6(1873)年4月12日、洗礼。
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11月1日
・福井市の第1私立小学とされる「尚義舎」、市中第1、5区有志で結ばれた「尚義会社」経営により開校式。
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この年8月の「学制」以降、旧藩時代の藩学や私塾・寺子屋などを一旦廃止して、「学制」に準ずる学校創立設置がすすめられ、11月段階で、福井市中では、旧藩学明新館(中学・小学・外塾)を前身とする私立中学と、官立4・私立16校の小学設立が見込まれる。
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翌6年1月、「尚義舎」は新聞紙集読局を付設し、毎週日曜日には政府発行「太政官日誌」や他の新聞、西洋翻訳書などを無料閲覧できるようにする。
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また、6年1月8日、第2私立小学とされる「含章舎」が「女児小学」として開校。入学生140。
「従来之弊習トシテ、均ク天地ノ間ニ人ト生レナガラ、男子同様尊キ所以ノ道理アルヲ知ラズ・・・方今、世界一般、文明開化ノ時ニ生レテハ、婦女子ニモ学問之ナクテハ」と開明的論調で開校趣旨が読みあげられる。
一方では、同舎規則で、往来途中での男子との立ち話、「婦人ニ不似合麁暴、不作法ノ挙動」、かんざしや衣服、履物、傘にいたる「奢侈、美麗ナル粧ヒ」などを禁じ、違犯したときの過料・罰料を定める。
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11月1日
・消防組、再び東京府に属する。
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11月4日
・大蔵大輔井上馨、辞職をほのめかして家に引籠もる。翌年1月14日、しぶしぶ再出勤。
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11月5日
・礼服に洋服を採用
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11月5日
・使節団岩倉具視、英ヴィクトリア女王謁見。
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11月8日
太陽暦採用決定(太陰暦明治5年12月3日を明治6年1月1日とする)。19日、各国に太陽暦採用通告。
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11月10日
・西郷隆盛、太政大臣三条より島津久光の西郷弾劾書簡を見せられ、鹿児島に帰省。
西郷は久光に謝罪の手紙を書き、久光に呼出され出頭するが「むちゃの御論あきれ果て候」(12月1日付黒田清隆宛手紙)。
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11月11日
・この日付「ニューヨーク・タイムズ」、マリア・ルーズ号事件への日本の人道主義的対応を激賞。
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11月15日
・神武天皇即位の年を紀元とし、即位日の1月29日を祝日とする
(1873年10月14日に2月11日に変更する)
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11月15日
・国立銀行条例、発布。
第1国立銀行は資本金300万(3万株)。発起人三井・小野組が各1万、残りの1万は公募。
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11月16日
・高島炭坑で坑夫の暴動
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11月16日
・(12/16)使節団、パリ着。26日、ティエール大統領謁見。
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11月18日
・児島惟謙、任司法少判事の辞令受け大阪出向。司法卿江藤に嘱目されて大阪築港問題を処理。明治6年4月1日、大阪裁判所に転勤。5月5日、司法省裁判所民事課詰となって帰京。
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11月19日
・天皇、外務卿副島種臣を清国派遣勅命。修好条規批准交換、同治帝成婚祝意など。
この時から対外的には外務卿を外務大臣と呼ぶ。命令には台湾問題や琉球民遭難事件の処置などには触れられず。
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11月23日・女性が、大相撲を見学することを許可
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11月28日
・徴兵告諭(「全国募兵ノ詔」)
大政官「諭告」。種々の封建的身分が撤廃され、士族の特権と「常職」の解消が必然化。
当初、山県ら陸軍省首脳は士族と卒の小規模軍隊を計画。左院が、四民平等原則に反すると反対。山城屋和助事件で窮地に陥り、また薩土派が掌握する近衛を解隊したい山県は、これを飲む。
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11月28日
・司法卿江藤新平、司法省通達第46条布告。
地方官(府県知事)・戸長の人民権利侵害には、人民は裁判所に救済を求められる
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11月28日
・運上所が「税関」と改称
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11月29日
山城屋和助、陸軍省で切腹自殺
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山城屋和助:
元奇兵隊幹部で山県の僚友。維新後、商人に転じ、山県の手引きで軍需品納入を請負い大儲け。
贈収賄の噂。山城屋は陸軍省公金を貸付けて貰い、生糸相場で大損。借用金は国家予算の1%、陸軍省予算の10%。
更に、生糸をパリに輸出するとの触れ込みでパリに渡り、毎夜の豪遊。駐在中弁務使鮫島尚信は本国へ通報。別に英駐在大弁務使寺島宗則から外務卿副島にも報告。
近衛局の士官・兵士は山県を追及。7月、山県は辞表を出すが、西郷に救われる(陸軍元帥・近衛都督は西郷が引受け、山県は陸軍大輔に専任)。
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副島外務卿は疑惑の報告を司法卿江藤に伝達。
江藤は陸軍少将桐野利秋が山城屋店舗封鎖を計画しているのを知り、西郷経由でこれを止めさせ、大検事島本仲道に捜査を命じる。
山県は、山城屋をパリから呼び戻し貸付けた陸軍省公金の即時返済を迫るが、山城屋には金もなく切腹自殺をはかる。
陸軍省会計監督長船越衛が公金貸付けの責任をとって辞職。閉門98日の処罰をうける。
明治6年政変で江藤が政府を去ると、船越は新設の内務省に入省し戸籍権頭となる。後、千葉・石川・宮城の知事、貴族院議員、宮内顧問官、男爵となる。船越長男は山県二女と結婚。
一方、内部告発した種田は、熊本鎮台司令長官に移され、明治9年神風連の乱で没。
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11月30日
リゼンドル、外務省准2等出仕(次官待遇)。月俸千円、外務卿の倍
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12月2日
・大分県中4郡一揆。
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大分県成立1年後、県治機構が整備された矢先のこの日、農民一揆が大分郡庄内谷(庄内町)から旧府内城内の県庁に押し寄せる。
翌3日、一揆農民側は13ヶ条の願書を県に提出。
第1条「牛馬ヲ殺シ之事」を掲げ反開化主義が前面に出ているが、「諸役人給銭ハ官銭ヨリ御出方奉願」「出銀ノ儀ハ官銭ヨリ御出方ノ事」「井出公役ハ是迄ノ通、官銭ヨリ御出方奉願」など要求事項の中心は新しい地方税「民費」(みんぴ)の軽減。
3日、大分郡の一揆は府内・鶴崎・三佐・臼杵兵により鎮圧されるが、2日には大野郡、3日海部・直入両郡に引火。
6日、4郡にわたる一揆は竹田(竹田市)を最後に収束。
政府・県当局は厳罰主義をとり死刑4を含む2万7,913を処罰(内、士族・卒族312)。
一揆の対象は、県庁・その末端機構の役所・副戸長(初代大分県長官(知事)森下景端(かげなお)下宿、官宅、布告取扱店、多くの副戸長宅が含まれる)で、新政への不満(特に増税)による一揆といえる。
尚、この後、大分県最後の農民一揆として、西南戦争に呼応・蜂起する増田宋太郎に触発された県北4郡一揆が起こり、その後、この地から自由民権運動が始まる。
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12月3日
・(1/1)太陽暦実施。明治6年1月1日とする
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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