2010年6月27日日曜日

明治6年(1873)1月 司法卿江藤新平、大蔵省の予算削減に抗議し辞表提出 [一葉1歳]

明治6年(1873)
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1月7日
・(露暦12/26)チャイコフスキー、ペテルブルクのリムスキー・コルサコフの夜会訪問
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1月9日
・4鎮台を6鎮台、3万1,690を平時常備現役とする。
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1月10日
徴兵例発布
国民皆兵。士族の常職廃止(家禄支給の根拠は抹消。職業階層としての斉一性が士族から剥奪)。
しかし、財政的制約と山県の少数精鋭主義により広範な免役条項あり、軍主力は旧藩兵の寄集めとなる。
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1月10日
・京都府参事槙村正直、地方官が裁判権管轄する建白書「京都裁判所の弊害」を太政官正院へ提出。
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1月12日
・正院、敦賀~京都~大阪の鉄道は大蔵省の意見を入れて民営化の決定。
これまで京都中心に「西京鉄道株」として募集していたが、社名も「関西鉄道会社」と改め、追加70万円を募集。応募少ない。
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1月13日
・吉田清成、ロンドンでオリエンタル・バンク(英国東洋銀行)を引受け先とする契約調印。募集は好調、1,083万円余の実収を確保。
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1月14日 
・大蔵大輔井上馨、三条・大隈・渋沢らに説得されてしぶしぶ再出勤。
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1月14日
・足羽県(もと福井県)、敦賀県へ併合される。県庁所在地を巡る対立、惹起。
決着つかないまま、9年8月21日、敦賀県が消滅、越前7郡は石川県に、敦賀郡と若狭3郡は滋賀県に編入。 
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足羽県職員が全て同県内出身者で占められ、特に県庁は旧福井藩士の牙城の観を呈しており、これを除去したいとの政府の意図があると云われる(宮武外骨「府藩県制史」)。
実際、合併後、旧足羽県職員の多くが県庁を去る。
この敦賀県の成立は、越前7郡と若狭3郡及び敦賀郡との間に県庁の位置を巡る対立を起こすことになる。
前足羽県権大属富田厚積は、併合の非を訴える建白書を政府へ提出。
「県都」は、港湾都市としての将来性に疑問のある敦賀よりも、人口稠密で文化的伝統の蓄積された「閑静」な都市(福井)に置かれるべきであるとする富田の建白は、横浜で発行されている「日新真事誌」にも掲載され反響を呼ぶ。
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1月15日
・政府、各府県に公園候補地を選出する旨の指示
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1月19日
・大久保・木戸に召還勅命。
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1月21日
・(朝鮮)外務大丞花房義資、対馬厳原滞在外務省七等出仕(領事相当)守山茂宛に三越社員3名の釜山公館訪問伝える。厳原商人は朝鮮側商人と組んで、三井排斥に取り掛かる。
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 1月22日
・尼僧の蓄髪・肉食・婚姻・帰俗が自由となる
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1月24日
・江藤新平司法卿、大蔵省の予算削減に抗議し辞表提出(4千字の長文)。大蔵大輔井上馨・三等出仕渋沢栄一と対立。
司法大輔福岡孝弟・明法権頭楠田英世ら司法省官員、司法卿擁護の意見書、正院へ提出(江藤・井上の対立は、予算問題と大蔵省管轄地方官から裁判権と司法省に移管する司法権問題)。
2月5日、太政官正院、辞表却下(司法省の言分に根拠ありと認めたことになる)。
正院が歳入歳出を見直した結果、大蔵省の歳入見込みが過少であることが判明、各省予算減額に固執していた井上の面目失墜する。
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1月26日
・国際労働者協会分離派のロンドン大会、開催。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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