2010年6月5日土曜日

治承4(1180)年8月24日~25日 小坪合戦(由比ヶ浜の合戦)。平氏方の畠山重忠破れる。甲斐源氏挙兵。波志田(ハシダ)合戦

治承4(1180)年8月24日
小坪合戦(由比ヶ浜の合戦)
平氏方の畠山重忠(父重能は京都大番役で在京)、頼朝敗戦を知り帰還する源氏方の三浦義澄(母方の伯父)・和田義盛(従兄弟)の軍勢に遭遇。
三浦は小坪の峠に300、畠山は稲瀬川の辺に500で対陣、戦闘の末、畠山重忠は逃走。上総広常70余、三浦軍に参戦。
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□「吾妻鏡」。
「三浦の輩城を出て丸子河の辺に来たり。去る夜より暁天を相待ち、参向せんと欲するの処、合戦すでに敗北するの間、慮外に馳せ帰る。その路次由比浜に於いて、畠山の次郎重忠と数刻挑戦す。多々良の三郎重春並びに郎従石井の五郎等命を殞す。また重忠が郎従五十余輩梟首するの間、重忠退去す。義澄以下また三浦に帰る。この間上総権の介廣常が弟金田の小大夫頼次、七十余騎を率い義澄に加わると。」(「吾妻鏡」同日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「三浦の者たちが城を出て丸子河(酒匂川)の辺りまでやって来て、昨夜から夜が明けるのを待って参上しようと思っていたところ、合戦ですでに敗北したというので、思いがけぬことと急ぎ帰った。
その途中の由井浦で、畠山次郎重忠と数刻にわたって戦った。
多々良三郎重春ならびにその郎従の石井五郎らが命を落とした。
一方で重忠の郎従五十余りの首が取られたので重忠は退去した。
義澄らはまた三浦へと帰っていった。
この間に、上総権介広常の弟である金田小大夫頼次が七十余騎を率いて義澄の軍に加わったという。」
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○畠山重忠(1164~1205):
父は畠山重能。母は三浦義明の女。本領は武蔵国畠山庄。
大蔵合戦(久寿2年8月)後、秩父平氏の家督と武蔵国の留守所惣検校職(武蔵国の事務・国内武士の統率権)は、河越氏が継承し、庶流となり、父能重と共に平家に仕える。
石橋山合戦直後、由比ヶ浜で三浦氏に遭遇し敗北、河越重頼を介して軍勢を集め、衣笠城の三浦義明を自害させる。
しかし、同年10月、頼朝に帰順、鎌倉入りの先陣を勤める
義仲追討・平家追討で軍功を挙げ、文治5年(1189)8月、奥州合戦では頼朝本隊の先陣を命ぜられ、阿津賀志(アツカシ)山の戦いで藤原国衡と合戦、恩賞として陸奥国葛岡郡の地頭職を得る。
神楽の付歌や今様などの芸能に通じ、「京都に馴るるの輩」(「吾妻鏡」元暦1年6月1日条)と称され、文治2年(1168)4月、鶴岡八幡宮で催された静御前の舞では銅拍子を伴奏。
二度の頼朝上洛(建久元、6年)で先陣を任され、頼家の後見役として頼朝の指名を受けた有力御家人であり、北条時政の娘との間に子の重保がいる。
文治元年(1185)、河越重頼に替わり留守所惣検校に任じられ、武蔵国の事務・軍路を掌握。元久元年(1204)10月、重保と武蔵守平賀朝雅(時政の娘婿)との口論を機に、武蔵の国務を巡り北条氏と対立。時政・牧方(マキノカタ、時政の後妻)と政子・義時との内部抗争に巻き込まれる。
「吾妻鏡」では時政・牧方が畠山父子追討を画策とするが、追討軍を主導したのは義時。
翌年6月22日、稲毛重成の招きで鎌倉入りしていた重保が三浦義村・佐久同家盛に謀反人として討たれ、同日、男衾郡菅谷の館から鎌倉に向かう途中、武蔵国二俣河の鶴ヶ峰で事態を知り、義時を大将とする討伐軍と合戦を決意、愛甲季隆に射られ討死。後、
妻(時政の娘)は足利義純に嫁ぎ、畠山氏の名跡は足利氏に継承。
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8月25日
・甲斐源氏、挙兵。波志田(ハシダ)合戦
安田義定・工藤景光ら、富士北麓波志田山(正確な場所は不明)において平家方の俣野景久・駿河目代橘遠茂軍を破る。
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□「吾妻鏡」。
「大庭の三郎景親、武衛の前途を塞がんが為、軍兵を関に分ち方々の衢を固む。俣野の五郎景久、駿河の国の目代橘の遠茂が軍勢を相具し、武田・一條等の源氏を襲わんが為、甲斐の国に赴く。而るに昨日昏黒に及ぶの間、富士の北麓に宿すの処、景久並びに郎従帯する所の百余張の弓弦、鼠の為喰い切られをはんぬ。仍って思慮を失うの刻、安田の三郎義定・工藤庄司景光・同子息小三郎行光・市川別当行房、石橋に於いて合戦を遂げらるるの事を聞き、甲州より発向するの間、波志太山に於いて景久等に相逢う。各々轡を廻し矢を飛ばし、景久を攻め責む。挑戦刻を移す。景久等弓弦を絶つに依って、太刀を取ると雖も、矢石を禦ぐこと能わず。多く以てこれに中たる。安田已下の家人等、また剱刃を免れず。然れども景久雌伏せしめ逐電すと。
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武衛筥根山に御坐すの際、行實が弟智蔵房良邏、故前の廷尉兼隆の祈祷師を以て、兄弟行實・永實等に背き、忽ち悪徒を聚め、武衛を襲い奉らんと欲す。永實この事を聞き、武衛と兄行實とに告げ申すの間、行實計らい申して云く、良暹の武勇に於いては、強ち怖るべきに非ずと雖も、謀り奉るの儀に及ばば、景親等定めてこれを伝え聞き、競い馳せ合力せんか。早く遁れしめ給うべしてえり。仍って山の案内者を召し具し、實平並びに永實等、筥根通を経て土肥郷に赴き給う。北條殿は事の由を源氏等に達せんが為、甲斐の国に向かわる。」(「吾妻鏡」同日条)。
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□「現代語訳吾妻鏡」。
「乙巳。大庭三郎景親は武衛の行く途をふさごうと軍勢を分散させ、方々の道を固めた。
俣野五郎景久は、駿河国目代の橘遠茂の軍勢を引き連れ武田・一条らの(甲斐)源氏を襲撃するために甲斐へ向かった。
しかし昨日、辺りが暗くなったので富士山の北麓を宿としていたところ、景久ならびに郎従が持っていた百余の弓の弦が鼠によって食いちぎられてしまった。そこでどうしようかと途方に暮れていたところに、安田三郎義定、工藤庄司景光、その子息小次郎行光、市河別当行房が石橋で合戦が行われた事を聞き、甲斐国を出発していたので、波志太山において景久らに遭遇した。おのおのが轡を廻らし矢を放ち、景久を攻め立てた。
戦うこと数刻、景久らは弓の弦が絶たれていたので太刀を手にとって戦ったが矢を防ぐことができず、多くがその矢に当たった。また安田以下の家人らも剣刃をまぬがれることはなかった。こうして景久は敗れ去ったという。
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頼朝が箱根山にいる間に、行実の弟の智蔵房良邏は故廷尉(山木)兼隆の祈疇師だったので、兄弟の行実・永実らに背いてすぐに悪徒を集め、頼朝を襲おうとした。
永実はこれを聞いて頼朝と兄の行実に報告したので、行実は考えて、
「良邏の武勇は大したことはないけれども、謀を企てようならば、景親たちはきっとそれを伝え聞き、我先にと急ぎ来て合力するであろう。早く逃げて下さい。」と云う。
そこで山の案内人を連れになって、実平と永実とともに箱根路を経て土肥郷へ向った。
時政は、これまでの事情を源氏に伝えるために甲斐国へと向かった。
・・・しかし、頼朝の到着する場所を見定めなければ、源氏の軍勢を集めようとしても彼らはやって来ないだろう。それならば、すぐに(頼朝の)後を追って参上し、御居所から御使者として彼らに会うのが良い、と思案したので、途中で引き返して土肥の方へ(頼朝を)尋ねて行った。・・・」
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○工藤景光:
頼朝の伊豆蜂起、石橋山の戦いの報を聞き、子の行光や安田義定等と共に進発、波志太山で平家方大庭景親の軍兵俣野景久等と戦う。
黄瀬川の陣で、頼朝に拝謁し、波志太山合戦で忠節したことを自ら言上(「吾妻鏡」治承4年10月18日条)。
翌年早河合戦の際、北条宗時を殺害した平井紀六を生け捕る(「吾妻鏡」治承5年1月16日条)。
文治5年(1189)7月頼朝奥州進発、建久元年(1190)11月頼朝上洛に際し供奉。
建久4年(1193)5月頼朝富士野夏狩の際、無双の大鹿一頭が、頼朝の前に走り来たところ、工藤庄司景光が矢を射るが命中しなかった。
景光は、「十一歳より以来、狩猟をもって業となす。しかうしてすでに七旬余、いまだ弓手に物を獲ずということなし。しかるに今心神惘然としてはなはだ迷惑す」と述べ、さらに鹿は山の神の化身であって自分の「運命縮まりおはんぬ」と予言し、その晩より発病(「吾妻鏡」建久4年5月27日条)。
この後、景光に関する「吾妻鏡」 の記載はなく、この病気がもとで没したと推測される。
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「治承4年記インデックス」をご参照下さい。
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