2010年6月7日月曜日

大逆事件への処し方(2) 与謝野鉄幹 詩「大石誠之助の死」 平出修への被告弁護の依頼

大逆事件への処し方(2) 与謝野鉄幹の場合
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紀州派の頭目とされ死刑となった大石誠之助を悼む詩
明治44年(1911)4月1日
鉄幹は、「三田文学」に詩「誠之助の死」を発表。
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大石誠之助は死にました
いい気味な
機械に挟まれて死にました。
人の名前に誠之助は沢山ある
然し
然し
わたしの友達の誠之助は唯一人。
わたしはもうその誠之助に逢はれない。
なんの
構ふもんか
機械に挟まれて死ぬやうな
馬鹿な
大馬鹿な
わたしの一人の友達の誠之助。
それでも誠之助は死にました
おお死にました。
日本人で無かった誠之助
立派な気ちがひの誠之助
有ることか
無いことか
神様を最初に無視した誠之助
大逆無道の誠之助。
ほんにまあ
皆さん
いい気味な
その誠之助は死にました。
誠之助と誠之助の一味が死んだので
忠良な日本人は之から気楽に寝られます。
おめでたう
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(一部不適切な表現がありますが、原本の表現をそのままにしました)
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彼なりに精いっぱいの怒りをぶつけている、と思います。
1月24日に誠之助は処刑されていますので、鉄幹は処刑直後に堪らず筆をとったんでしょう。
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被告崎久保誓一・高木顕明の弁護を平出修に依頼
大逆事件の検挙は、明治43年(1910)5月25日の明科で宮下太吉が、ついで新村忠雄が検挙されたことに始まります。
その後、6月1日に幸徳秋水が逮捕されます。
大石誠之助については、6月3日に家宅捜査がなされ、新村忠雄からの絵葉書2枚が押収されています。
6月4日から宮下太吉の予審が始まりますが、翌日5日に、松室検事総長と平沼民刑局長主導で、誠之助の起訴が決定され、誠之助は、この日午後11時30分に新宮署に拘引されます。
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そして、7月、鉄幹は紀州派の被告崎久保誓一・高木顕明の弁護を平出修弁護士に依頼します。
依頼までの経緯は、被告崎久保誓一が新宮の牧師沖野岩三郎に相談し、沖野が知り合いの鉄幹に相談、鉄幹は親しい平出修に依頼したといいます。
紀州派の被告大石誠之助は、明星派歌人でもあり、鉄幹や沖野とも親しい間柄でした。
また、高木顕明、崎久保誓一は誠之助と親しく、沖野とも知り合いです。
更に、平出修の法律事務所の事務員和員彦太郎は、新宮出身の明星派歌人で、鉄幹・誠之助とも親しく崎久保、高木顕明の友人として、平出修に仲立ちか助言出来る立場にいました。
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その後、平出修は、弁護に備えて鉄幹とともにしばしば鴎外を訪れ、思想問題の理解を深めています。
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のちに鉄幹は、この事に関連して、
「私の間接直接に知っている二三の被告のために、弁護士である平出君を弁護に頼んだが、研究心に富んだ平出君は私に伴われて行って一週間ほど毎夜鴎外先生から無政府主義と社会主義の講義を秘密に聞くのであった。」
と書いています(1928年)。
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誠之助の大逆罪とは
明治41(1908)11月19日~23日、誠之助は幸徳の平民社に滞在します。
実は、10日頃に上京し医療器具・書籍など調達していました。
22日、「大石誠之助君を歓迎する集い」が開催されます。この時、誠之助は初めて新村忠雄と会います。
誠之助は、26日に帰郷しますが、裁判では、この間の誠之助の平民社滞在が天皇暗殺の共同謀議とされます。
幸徳・大石二人きりで、身を捨てて働く者が50人もいれば、二重橋に迫り錦旗革命のようなものができるとの「革命ばなし」をしたといいます。
被告奥宮健之「調書」では、幸徳が「二重橋をおそい番兵を追っばらって、宮城のなかにはいり、天子を擁して綸旨をうけようじゃないか」との「笑話」をしたといいます。
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誠之助は27日に京都に着き、ここに2日間滞在します。歯科医山路二郎のところで歯に治療をし、宿舎柊屋に「日の出新聞」記者徳美松太郎が訪問したので、東京の土産話で「革命ばなし」をします。
そして、29日に大阪に着き、12月1日夕方には、食事後、旅館の裏の下座敷で茶菓をだして雑談しますが、ここでも東京の「革命話」の茶のみ話を話題にします。
出席者は武田九平・岡本頴一郎・三浦安太郎・岩出金次郎・佐山芳三郎で、裁判ではこれが「同志糾合」の策略とされます。
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鉄幹は、明治39年10月と明治42年(1909)年8月に新宮を訪れ誠之助と交遊しています。
鉄幹という人は、若い頃は閔妃暗殺事件に絡み(関与の度合いは不明ですが)、またずっと後年の60歳の時、上海戦争での肉弾三勇士に感動し讃える歌の懸賞募集に応募(昭和7年3月)するなど、思想的には社会主義・無政府主義を理解する(できる)人ではなかったと思います。
決めつけは危険ですが、どちらかというと国権派~皇国思想の系譜に属する人であったんでしょうが、その鉄幹がこの事件の被告の弁護を頼むほどに、この事件のフレームアップぶりが明白であったということなんでしょう。

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尚、平出修が弁護を担当した、高木顕明は、新宮市の浄泉寺の住職で、死刑判決後、翌日特赦で無期懲役に減刑され、秋田監獄に服役しますが、1914年6月に自殺します。特赦された12名中の5名は狂死、自殺、病死で獄死してます。
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もう一人の崎久保誓一は、「牟婁新報」記者で、死刑判決後無期懲役に減刑され、秋田監獄で服役、昭和4年(1929)4月に仮出獄、1955年10月に死亡します。
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