「何故、光秀は謀反し、信長父子を殺害するに至ったか」の動機に関する議論には、諸説かしましく、ややうんざりするところではあるが、一歩踏み込むと「はまり込む」説も多い。
「信長と十字架」(立花京子「集英社新書」)もその一つだった(もはや過去形である)。
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□フロイス「日本史」:(改行を施した)
安土を訪れる家康の饗応について信長と光秀が打ち合わせている際、
「人人が語るところによれは、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上り、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたと言うことである。だが、それは秘かになされたことであり、二人だけの間での出来事だったので、後々まで民衆の噂に残ることはなかったが、
あるいはこのことから明智は何らかの根拠を作ろうと欲したかも知れぬし、
あるいは〔おそらくこの方がより確実だと思われるが〕、その過度の利欲と野心が募りに募り、ついにはそれが天下の主になることを彼に望ませるまでになったのかもわからない。
(ともかく)彼はそれを胸中深く秘めながら、企てた陰謀を果す適当な時機をひたすら窺っていたのである。・・・」(フロイス「日本史」)。
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フロイスは、光秀の遺恨について触れてはいるものの、主な動機は天下取りの野望と考えている。
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また、
①大村由己(秀吉のお伽衆)「惟任退治記」は、光秀の謀反は当座の存念ではなく、年来の逆意と推察されるという。
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②江村専斎(光秀の同時代人)「老人雑話」は、光秀にはもともと謀反の宿意があったという。
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③竹中重門(半兵衛の息子)「豊鑑」は、光秀には恨みがあったのか、日頃から信長を討とうという志があったいう。
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④太田牛一「信長公記」は、「信長を討果し、天下の主となるべき調儀を究め」たとしている。
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戦国武将である以上は誰でも天下取りを狙う。
天正10年6月は、有力な信長の武将が全て関東、北陸、中国に出払っており、天下を狙う光秀には絶好のチャンスが到来した、とうところが妥当な解釈なんでしょう。
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「怨恨説」は不利な状況
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①丹波八上城攻城の際、人質の老母を殺される。
丹波八上城を開城させる際に光秀が老母を人質に差し出すが、信長が城主波多野兄弟を礫にしたために、老母を殺されてしまう(「総見記」)。
しかし、老母を人質に出した事実はない。
光秀の兵糧攻めにより、城内に餓死者が続出し、城兵は波多野兄弟を捕縛して降伏したとある(小瀬甫庵「信長記」)。
「信長公記」では、兵糧攻めをして計略で兄弟を捕えたとある。
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②家康饗応に失敗し罷免される。
光秀は、安土訪問の家康接待を担当するが、不手際を信長に咎められ饗応役を罷免される(「太閤記」)。
しかし、「兼見卿記」「信長公記」には素晴らしい御馳走だったとあり饗応に失敗した事実はない。
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この接待役罷免の怨恨を謀反の動機の一つとするのが、「川角(カワスミ)太閤記」(江戸初期、秀吉の事蹟を纏めた書物)。
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□「川角太閤記」が描写する謀反の決意。
6月1日酉刻(午後5時~7時)に亀山城外の柴野に人数を集め、これを3隊に分ける。光秀が人数を聞き、斎藤内蔵助が1万3千人くらいと答える。そして、重臣5人に謀反の決意(信長に対する遺恨)を告げる。
3千石から25万石に昇進したため、家臣を増やそうと他家の家臣を召し抱えるが、それが原因で、3月3日、岐阜城で大名・高家の面前で恥をかかされた、諏訪の陣中で折檻された、安土城での家康接待に関して叱られ、急に西国出陣を命じられた、の3点。
三度も譴責を受けた以上、そろそろ自分に一大事が振りかかる。有為転変は世の習いだ、せめて老後の思い出に、一夜でよいから天下を我が物にしたいと決意を示す。
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「川角太閤記」の接待失敗のディティールはこうだ。
信長が家康の宿所を明智邸に決め、接待準備の下見をしたところ、夏場のため魚が腐って悪臭を放っていた。激怒した信長は、家康の宿所を堀秀政邸に変更した。
面目を失った光秀は、料理の材料や食器など城の堀にぶち込み、悪臭を安土中にまき散らしたという。
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③斎藤利三を抱える際の紛議。
光秀が稲葉家重臣であった斎藤利三を召し抱えこれが紛議となり、信長が利三を稲葉家に戻すように命じる。光秀は承諾せず、信長は光秀を打つ。
稲葉家との紛議は、明智家重臣となった斎藤利三が、稲葉家中のかつての同僚那波直治(ナワナオハル)を明智家に呼んだことによる。
そして、この紛議は、信長裁定により、那波を稲葉家に戻す形で決着した。
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④国替に対する悲観、反撥。
信長が明智領の近江坂本と丹波を召し上げ、その代わりに出雲・石見への国替を命じ、光秀が将来を悲観する。
「明智軍記」に、居城で出陣準備中の光秀のもとへ、信長使者青山与三が訪れ、出雲・石見2ヶ国を与える代わりに、丹波と近江志賀郡の領地は召し上げるとの信長命令を伝え、明智家中は途方に暮れたとある。
「光秀并家子・郎等共闇夜に迷ふ心地しけり。其故は、出雲・岩見の敵国に相向ひ、軍に取結中に、旧領丹波・近江を召上れんに付ては、妻子脊族少も身を置く可き所なし」とある。
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出雲・石見は毛利領で、毛利家滅亡に際しては、明智を旧毛利領に転封する予定であった可能性は高い。
政権安定のためによくとられる措置で、既に滝川一益は伊勢長島から上野に転封され、秀吉も長浜城を召し上げ奉行堀秀政に与えることが内定している。
光秀の中国地方転封案が浮上していても、それは明智を狙い撃ちにするものではなく、光秀が絶望するような話でもない。
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⑤信長の四国政策の変更(光秀は板挟み状態となる)。
光秀が取次役(外交窓口)をしていた長宗我部家に対して信長が一方的に討伐を決定し、更に四国攻めからも外され面目を失う。
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天正3年、長宗我部元親が織田家に誼を通じてきた際、光秀の重臣斎藤利三の縁によりに光秀が取次役となる。
利三の実兄は幕臣の石谷家に養子に入り、その石谷家の娘が長宗我部元親に嫁いでおり、利三は元親の義兄という関係。(利三は「今度謀叛随一也」(「言経卿記」)と云われ、謀反に深く関わっている人間と見做されている)。
元親と信長の関係は友好的で、元親は嫡男に信親と名付け、信長も四国については元親の斬り取り次第と承認する。
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しかし、天正9年、長宗我部が四国制覇に向けて邁進し、信長が石山本願寺を降して西部方面に勢力圏を拡大したことで、両陣営の利害が衝突。
信長は、将来、本拠を安土から本願寺跡地の石山(大坂)に移す構想を持っているが、その石山と海を隔てて相対する四国に強大な外様大名が存在することは許容できず、信長は、既に伊予・讃岐の大半を攻略している元親に対して本領の土佐の他に阿波南部だけの領有を認めようと申し渡すが、元親は、「四国の御儀は某(ソレガシ)が手柄を以て切り取り申す事に侯。更に信長卿の御恩たるべき儀にあらず」(「元親記」)と拒否。
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長宗我部は約30万石、総兵力は2万人程度で、織田家に敵対するのは自殺行為も同然で、光秀は、使者を派遣して元親を説得し、織田家中でも長宗我部救済のために奔走。
しかし、天正10年2月に長宗我部討伐が決定し、5月に信長の3男織田信孝が新編成の四国方面軍の総指揮官に任命される。
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高柳光寿「明智光秀」は、結論としては、天下取りの野望説であるが、四国政策変更による光秀の不満、不安は別のところにあるとする。
問題は四国遠征軍の指揮が信孝と丹羽長秀に委ねられたこと、先手が三好康長とされたことである、とする。
康長は、秀吉の甥秀次を養子とする程秀吉と関係が深く、長秀と秀吉は光秀のライバルであり、これが光秀の不満と将来への不安をかき立てたという。
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かつで、長女の嫁ぎ先の摂津国主荒木村重謀反の際、光秀は信長命により摂津に攻め入ったことがあり。
その荒木よりもずっと縁の薄い長宗我部の為に、光秀が敢えて謀反に踏み切るとは考えにくい。
光秀が四国方面軍から外された件は、来るべき毛利との決戦に明智を待機させたと理解すべきである。
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■謀略説。黒幕説。
本能寺の変の背後に謀略があり、光秀を陰で操って本能寺の変を起こした者がいたという説。
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光秀を操る、或は手を組んだとされる人々(黒幕)には:
正親町天皇、誠仁親王、公家衆、足利将軍、本願寺、信長の正室、信長の同盟者家康、信長配下の部将秀吉、光秀の重臣斎藤利三、信長に敵対する毛利輝元・上杉景勝・長宗我部元親ら諸大名や高野山の僧徒、かつて敵対した伊賀衆、弾圧された法華宗徒、堺の豪商たち、イエズス会の宣教師など。
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更に、事件への関与の度合いも、主犯、共同正犯、教唆犯、幇助犯などのヴァラエティがある。
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概略は次回とします。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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信長と十字架 ―「天下布武」の真実を追う (集英社新書)
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信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う (新書y)
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本能寺の変―光秀の野望と勝算 (学研新書)
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織田信長 最後の茶会 (光文社新書)
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