2010年6月5日土曜日

本能寺の変(14) 信長の京都の宿所の移りかわり 妙覚寺 相国寺 二条御新造 本能寺 義昭の二条御所について

京都における信長の宿所の移りかわり
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第1回上洛(永禄2年(1559)2月2日~7日):
この年1月下旬、信長(26歳)は、家臣500余率い、清洲城~伊勢路~八風峠を越えて近江入り。
琵琶湖畔の志那の渡しから坂本に着岸し、志賀越えに京都の北白川口に至る。
2月2日、「室町通り上京裏辻(上京区裏築地町)」の宿に入る(「言継卿記」、「信長公記」首巻)。
「異形者多云々」(「言継卿記」)という。
近江朽木から5年ぶりに帰京した将軍足利義輝に謁見し、2月7日に帰国。
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足利義昭を奉じて上洛した永禄11年(1568)から天正10年(1582)までの15年間に本能寺を宿所として利用した時期は、元亀元年と、天正9、10年の前半・後半がある。
この二つの時期には11年間の隔たりがあり、併せて4回ほどが本能寺利用となっているに過ぎない。
この11年間は、妙覚寺・相国寺などの寺院や、本格的な京都屋敷として造営された二条御新造が宿所として利用されている。
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初めての本能寺宿泊
元亀元年8月23日、三好三人衆と本願寺を攻撃するため上洛した信長は初めて本能寺に宿泊。
翌9月23日、摂津攻撃からの帰陣の際にも宿泊。
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12月、信長は本能寺に3ヶ条の禁制を与える(「本能寺文書」)。
「条々     本能寺
一為定宿之間、余人寄宿停止之事、付、四壁竹木不可伐採事、
一祠堂物之儀、御代々任御下知之旨、不可有相違之事、
一非分諸役不可申懸之事、
右、於違背之輩者、速可被處厳科者也、仍執達如件、
元亀元年十二月 日 弾正忠(朱印)」
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第一条「定宿たるの間、余人の寄宿停止の事」と、本能寺を定宿と定め余人の寄宿を禁止すると指令する。
しかし、実際は天正9年2月20日の上洛まで11年間の間、本能寺を宿舎とはしていない。
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妙覚寺と相国寺
永禄12年(1569)1月5日、将軍義昭の居所本圀寺(下京区堀川五条西南一帯)が三好三人衆に攻撃され、信長は6千を率いて急遽10日に上洛。
1月27日、信長は、本圀寺の防御が弱いことを懸念して村井貞勝・島田秀満に命じて二条御所(勘解由小路室町真如堂の足利義輝旧邸の再興)の造営を着工させる。
2月2日、石垣普請開始。14ヶ国衆(通常2万5千、少ない時でも1万5千)が従事。
7日午前、山科言継、普請場に信長を見舞う。西方石垣は大方完成。聖護院道澄・三好義継が見舞に来訪。聖護院道澄・徳大寺公維以下方々より多くの贈物が届けられ山科言継は驚く。
9日、石垣南岸が崩壊し人夫7、8人が死亡。普請には日々数千人が携わる(「言継卿記」4)。
13日、義昭が見物。
14日、山科言継、普請場に信長を見舞う。19、23、24、26~29日、3月1、2日にも。以降も続く。
信長は工事現場に泊まり込んで普請指揮を取っている。
4月13日、この御所が竣工し、信長は妙覚寺を宿所とする。
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二条御所跡はコチラ(三つの二条城①)
現在の二条城(家康の二条城)内にある旧二条城の石垣遺構はコチラ
現在の京都御苑内にある旧二条城の石垣遺構はコチラ
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以後、妙覚寺はしばしば宿所と使用され、特に元亀2年以降、天正5年(1577)に二条御新造が竣工するまでは妙覚寺と相国寺が恒常的な宿所となる。
但し、義昭との対決で知恩院に宿陣するという例外もある。
相国寺はコチラ
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また、元亀3年3月、本能寺を宿所とする予定が妙覚寺に変更されたこともある。
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しばらく妙覚寺が宿所となった後、天正2年~3年には、相国寺が使用されるようになる。
この時期に相国寺を宿所したのは、信長が、足利将軍に代わり京都の支配者となったことをアピールする狙いがあったと考えられる。
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天正2年3月17日、信長は正倉院の名香木「蘭奢待」切り取りの為に上洛。
「蘭奢待」の切り取りは、将軍義政以来一度も許されなていない「唯ならぬ事」で、信長は、義政の香火所である相国寺塔頭慈照院に寄宿した後、奈良に下り、帰洛後の相国寺での茶会で陪席した堺の豪商に「蘭奢待」を分け与えるという政治的演出を行う。
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3月12日

・信長、岐阜発。佐和山に逗留。16日、永原宿泊。17日、志那から坂本へ琵琶湖を渡る。初めて相国寺泊。東大寺所蔵「蘭奢待」を所望する旨を正親町天皇へ奏聞。
3月18日
・信長、従三位・参議勅定。
信忠・信雄・信孝・信包・家康、従五位上。柴田・佐久間・林・滝川・明智・丹羽・稲葉・伊賀・蜂屋、羽柴従五位下。大内義隆は従二位だが官は兵部卿・太宰大弐、六角当主は権中納言・参議。
3月22日
・塙直政、奈良に下向、蘭奢待の存在を確認。その後、天皇の了解と東大寺への受け入れを依頼。正親町天皇は、これを憤り、口を極めて信長の理不尽を罵倒。23日、塙直政、大和多聞山城に在番(「多聞院日記」2)。
3月24日
・信長、蘭奢待拝領希望を禁裏奏聞。
この日、・信長、相国寺茶会。堺衆を招く。茶会の後、宗久・宗及・宗易(利休)のみ、書院で千鳥の香炉を拝見。
3月26日
勅許。勅使日野輝資・飛鳥井大納言を奈良に派遣、東大寺へ蘭奢待切り取り院宣が下された旨を伝えさせる。東大寺僧衆は蘭奢待開封を認める。
3月27日
・信長出迎えのため大和国神人は100人、地下衆は1町より10人ずつ肩衣・袴の装束で木津に出向く。信長、原田直政・菅谷長頼・佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀・蜂屋頼隆・荒木村重・武井夕庵・松井友閑・津田某らの奉行衆を従え、軍勢3千余を率い大和国多聞山城へ到着、奈良中僧坊以下へは陣取りを厳重に禁止。筒井順慶、大和国多聞山城で信長に夕飯を振る舞う。
3月28日
・信長、正倉院に入り、勅使立会いのもとに御物の香木「蘭奢待(らんじゃたい)」を運び出してその一部5.5cmほどを切り取る。切り取りの奉行は9名、柴田勝家・丹羽長秀・松井友閑など。荒木村重も随行(正倉院へは名代を派遣、信長自身は多聞山城で到着を待つ)。
「自らを将軍に擬するパフォーマンス」(今谷明)。
4月1日
・信長、朝早々に奈良を出立。
4月4日
・信長、相国寺茶会。堺衆のうち宗及・利休のみ蘭奢待を扇に添えて与えられる。
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この天正2~3年は、室町幕府滅亡後の軍事作戦で各地の一向一揆を討ち、長篠の戦いで武田勝頼を大破して、織田家領国の安定化と信長の中央政権樹立の時期である。
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次に、天正3年10月13日、長篠の戦い勝利の凱旋記念祝賀と、翌11月に従三位権大納言に叙任され、さらに右近衛大将を兼任する為の上洛の際には、再び妙覚寺が宿所となる。
公卿に列せられ、頼朝以来の武門の棟梁としての地位を確保し、足利将軍を凌駕した信長にとって、相国寺を宿所とする意味あいも薄れ、再び妙覚寺が2年間ほど信長の宿所となる。
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幻の京都屋敷:
元亀3年(1572)3月21日、将軍義昭命で、徳大寺公維邸跡地(新町今出川下ル)に屋敷の普請が始まる。
・義昭が、信長の京都「御座所」として上京武者小路の空地(徳大寺公維邸地)に屋敷を構えるよう指示。義昭命で「畿内の面々」による普請着手を決定。尾張・美濃・近江3国の信長御供衆は普請役を免除(「信長公記」巻5)。
大覚寺尊信・久我通堅・高倉永相・北野社・吉田兼見ら諸家にも普請夫役を賦課。
22日には、安威藤治・三上輝房・狩野光茂ら幕府衆、吉田兼見へ信長屋敷普請に際し、「御使」として簀板用に社頭の木の徴収を伝達。
吉田兼見は、神木の免除を申請するも宥免されず(「兼見卿記」1)。
24日、信長の京都屋敷普請の「御鍬始」。「御普請奉行」は村井貞勝・島田秀満・「御大工棟梁」池上五郎右衛門(「信長公記」巻5)。
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この普請は、公家、幕府奉公衆、信長配下の部将を動員する大規模な工事であったが(「兼見卿記」「信長公記」)、翌天正元年4月、信長との抗争が激化する中で、義昭は屋敷の破壊を命じる。
この頃までには門が完成し、座敷の普請に着手していたが、破壊が始まると良質な資材を略奪する者が現れたという。
その直後、大軍を率いて入京した信長は、義昭を威嚇するため上京を焼き討ち(4月3~4日)、この屋敷も灰燼に帰すことになる。
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4月3日
洛外の堂塔寺庵を除外して放火(「信長公記」6)。
賀茂から嵯峨に至る在所を悉く焼き払う(「兼見卿記」1)。
洛外を悉く放火(「京都市小石暢太郎氏所蔵文書」)。
4月4日
足軽以下を派遣し洛中諸所に放火、二条より上京が焼失。類火が禁裏近辺に及ぶ(「兼見卿記」1)。
京都上京を放火(「信長公記」6)。
「同地にあった全ての寺院、僧院、神、仏」が財産、家屋もろとも焼失、都周辺の平地2~3里は「(最後の)審判の日の情景さながらであったという」(フロイス)。
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二条御新造:
天正4年(1576)4月、信長が安土に築城する頃、押小路室町の関白二条晴良邸跡地(妙覚寺の隣)に居館が造営される。
御池あるいは龍池と呼ばれる泉水に囲まれた名園として知られている二条邸であったが、信長は、半強制的に二条晴良を報恩寺(一条川端)に移住させ、所司代村井貞勝を奉行として普請を開始。
居館は翌5年9月晦日に竣工し、信長は、閏7月6日に新邸に入る。
以後、この居館は二条御新造と呼ばれ、信長政権の京都政庁となり、信長の宿所ともなる。
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その後、天正7年11月、この二条御新造は誠仁親王を囲い込むために親王に献上され、天皇の御所に対して下御所あるいは二条御所と呼ばれた。
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11月16日
・信長、二条屋敷を出て、妙覚寺へ座を移す。
11月22日
誠仁親王、二条屋敷に移る。
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「その邸は天下において安土についで比べるものがないほど美しく豪華」であるとフロイスは記す(フロイス「日本史」)。
二条御新造跡(三つの二条城②)はコチラ
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本能寺の小城郭化:
その後は、再び妙覚寺が宿所となるが、翌8年2月26日、所司代の村井貞勝に対し本能寺を新たな京都宿所に改造する普請を命じる(「信長公記」)。
付近の民家を退去させ四方に掘りをめぐらし、内側に土居を築いて木戸を設け、内には仏殿以下客殿その他の殿舎を建て、厩舎も造り、小城郭ともいえる機能を持つ居館であった。
起工の1年後の天正9年2月20日の上洛によって、四条西洞院に所在する本能寺は、信長の本格的な京都宿所となる。
しかし、大規模造営を終えたこの本能寺には、信長は2度宿泊しただけである(「信長公記」)。
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「★信長インデックス」をご参照下さい。
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