2010年6月27日日曜日

「紅旗征戎、非吾事」(「明月記」)と堀田善衛

前回の私の「治承4年記」は、堀田善衛さんの「定家明月記私抄」で有名な「紅旗征戎、非吾事」の部分であった。
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改めてご紹介しようと思って読み直したところ、やはりこの部分は原文そのままがよいと思いましたので、以下に引用致します。
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堀田善衛「定家明月記私抄」の冒頭部分です(読み易くするために改行を施す)
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「序の記

国書刊行会本(明治四十四年刊)の『明月記』をはじめて手にしたのは、まだ戦時中のことであった。
言うまでもなく、いつあの召集令状なるものが来て戦場へ引っ張り出されるかわからぬ不安の日々に、歌人藤原定家の日記である『明月記』中に、

世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ。

という一文があることを知り、愕然としたことに端を発していた。

その当時すでにこの三巻本を入手することはまことにむずかしかった。私は知り合いの古本屋を、いつ召集されるかわからぬのに、この定家の日記を一日でも見ないで死んだのでほ死んでも死にきれぬ、といっておどかし、やっとのことで手に入れたものであった。

定家のこの一言は、当時の文学青年たちにとって胸に痛いほどのものであった。

自分がはじめたわけでもない戦争によって、まだ文学の仕事をはじめてもいないのに戦場でとり殺されをかもしれぬ時に、戦争などおれの知ったことか、とは、もとより言いたくても言えぬことであり、それは胸の張裂けるような思いを経験させたものであった。

ましてこの一言が、わずかに十九歳の青年の言辞として記されていたことは、衝撃を倍加したものであった。
しかもこの青年が、如何にその当時として天下第一の職業歌人俊成の家に生れていて、自分もまたそれとして家業を継ぐべき位置にあったとしても、この年齢ですでに白氏文集中の詩の一節、「紅旗破賊吾ガ事ニ非ズ」を援用して、その時世時代の動きと、その間に在っての自己自身の在り様とを一挙に掴みとり、かつ昂然として言い抜いていることは、逆に当方をして絶望せしめるほどのものであった。

そうしてその当時に私が読んでいた解説書などもがどういうものであったかはすでに記憶にないのであるが、

「紅旗」とは朝廷において勢威を示すための、鳳凰や竜などの図柄のある赤い旗のこととをいい、「征戎」とは、中国における西方の蛮族、すなわち西戎にかけて、関東における源氏追討を意としていること、

つまりは自らが二流貴族として仕えている筈の朝廷自体も、またその朝廷が発起した軍事行動をも、両者ともに決然として否足し、それを、世の中に起っている乱逆追討の風聞は耳にうるさいほどであるが、いちいちこまかく書かない、と書き切っていることは、戦局の推移と、頻々として伝えられて来る小学校や中学校での同窓生の戦死の報が耳に満ちて、おのが生命の火をさえ目前に見るかと思っていた日日に、家業とはいえ彼の少年詩人の教養の深さとその応用能力などとともに、それは、もぅ一度練りかえすとして、絶望的なまでに当方にある覚悟を要求して来るほどのものであった。」
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しかし、実際には定家は、「之ヲ注セズ」としながらも、あちこち情報をよく集めている。
現実は、定家にとっては、また堀田さんにとっても、我々にとっても、「紅旗征戎」は重大な「吾事」なのである。
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この一節、承久3年(1221)5月に定家が筆写した『後撰和歌集』奥書にも記されていることなどから、後世の補筆であろうと指摘する論者がおられるという。
若い定家には出来過ぎた一句とも思われたのか。
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これに対し、
「若い時に覚えた好きな文章の一節は長く口ずさまれるものである、とそれには答えておきたい」の反論も勿論ある(五味文彦「明月記の史料学」)。
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「★治承4年記インデックス」をご参照下さい。
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定家明月記私抄 (ちくま学芸文庫)
定家明月記私抄 (ちくま学芸文庫)
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定家明月記私抄 続篇 (ちくま学芸文庫)
定家明月記私抄 続篇 (ちくま学芸文庫)
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