2010年7月3日土曜日

本能寺の変(17) 明智光秀という人 「・・・裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的で・・・謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人・・・」(フロイス)

今回は明智光秀とはどんな人だったのか? を探ってみたい。
ずっと昔、20年以上も前のこと、確か大河ドラマであったか・・・。信長が、浅井長政のシャレコウベ(頭蓋骨)に金箔を施して、それに酒を注ぎ、部将たちにそれを飲ませる。躊躇する光秀。
また、これに続くシーンか、それとも家康饗応の際のシーンかは忘れたが、信長が光秀を足蹴にする個所があった。
少し乱暴な印象かも知れないが、秀吉における三成のような、行政能力により引き立てられた吏僚のように描かれていた記憶がある。
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しかし、本能寺の直前段階では、光秀は、北陸の柴田勝家、中国の羽柴秀吉、関東の滝川一益、四国の神戸(織田)信孝にならぶ近畿方面軍(管領軍)の司令官であった。
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まず、よく引用されるフロイスの文章から(読み易くするために改行を施す)
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□フロイス「日本史」
「信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。

彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、公方様の屋敷の一貴人兵部大輔と称する人に奉仕していたのであるが、その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。

殿内にあって彼は余所者であり、外来の身であったので、ほとんどすべての者から快く思われていなかったが、自らが(受けている)寵愛を保持し増大するための不思議な器用さを身に備えていた。

彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己れを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。

また、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持主で、選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。

彼は誰にも増して、絶えず信長に贈与することを怠らず、その親愛の情を得るためには、彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり、彼の嗜好や希望に関しては、いささかもこれに逆らうことがないよう心掛け、彼の働きぶりに同情する信長の前や、一部の者がその奉仕に不熱心であるのを目撃して、自らは(そうではないと装う)必要がある場合などは涙を流し、それは本心からの涙に見えるほどであった。

また、友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために七十二の方法を深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、ついには、このような術策と表面だけの繕いにより、あまり謀略(という手段を弄すること)に精通してはいない信長を完全に瞞着し、惑わしてしまい、

信長は彼を丹波、丹後二カ国の王に取り立て、彼(信長)がすでに破壊した比叡山の大学(延暦寺)の全収入--それは(別の)国の半ば以上の収入に相当した--とともに彼に与えるに至った

そして明智は、都から四レーグアほど離れ、比叡山に近く、近江国の二十五レーグアもあるかの大湖(琵琶湖)の辺りにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。・・・」
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浪人~細川藤孝の配下~越前朝倉家家臣~義昭の足軽衆~信長配下
出身は美濃守護土岐氏の一族明智氏とされている。
前半生は浪人暮らし、朝夕の食事にも事欠く有様という。
「一僕の者、朝夕の飲食さへ乏かりし身」の上であり(「当代記」)、「信長の宮廷に名を明智といふ賎しい生まれの人があった。彼は信長の治世の初めには一貴族の家来であった」という(「イエズス会日本年報」)。
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その後、将軍足利義輝の奉公衆細川藤孝に仕える。
「多聞院日記」天正10年6月17日条に、「惟任日向守ハ、細川ノ兵部大夫カ中間ニテアリシ」と記され、宣教師ルイス・フロイス「日本史」で、「公方様の邸の一貴人兵部太輔と称する人に奉仕していた」と記されている。
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永禄5年(1562)、越前朝倉家に仕官。知行は500貫(中堅クラス)。鉄砲の指南役。
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のち、奈良を脱出して、将軍就任への支援を求め朝倉義景の居城越前の一乗谷に身を寄せる足利義昭(奈良興福寺一乗院門跡覚慶、前将軍義輝の実弟)に仕える。永禄10年頃の側近の交名を記した「霊陽院殿御番帳」に、足軽衆として「明智」が記されている。
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この後、義昭上洛を巡り信長と交渉を重ねるなかで信長の麾下となっていったと推測される。
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光秀初見文書
永禄12年(1569)1月5日、三好の兵が将軍義昭の本圀寺を襲撃した際には、義昭を守る部将に初めて明智光秀の名が見える。彼らの奮戦ぶりは凄まじく、さして堅固でもない本圀寺を三好軍は破れなかった。
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京都行政を担当
この後、この年4月16日付け文書を初見として、光秀は京都奉行として丹羽長秀・木下秀吉・中川重政とともに京都・畿内の行政を担当する。但し、まだこの頃は、将軍義昭は光秀を幕臣と考えており、光秀は信長・義昭に両属する立場であったと考えられ、じの状態が元亀3年(1572)頃まで続く。
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宇佐山城(志賀城)主から坂本城主へ
元亀元年(1570)12月、信長が苦境に陥った志賀の陣で朝倉・浅井軍と講和した後、戦死した森可成に代って光秀が宇佐山城(志賀城)に入る。
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元亀2年(1571)9月の比叡山焼き討ちに先立ち、比叡山に近接する宇佐山城主光秀は、地元の土豪を懐柔し、包囲を迅速ならしめる。
この功績によって近江志賀郡5万石の大名に抜擢され、山門領を容赦なく接収し、自らの知行地に編入。坂本に築城し、信長の有力部将として各地に転戦。
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坂本城の革新性
①琵琶湖畔の平地に城を築き、商工業発展の基盤となる城下町を整備
②領主の権威の象徴として、壮麗な天守を本丸に設置
③家臣団の屋敷を城内に取り込み、防御施設と一体化させる
④外堀の脇(=鉄砲の射距離内)に北国街道を通し、さらに城内に船着き場を設け、水陸交通をコントロールし、攻勢時の部隊移動や防御時の交通封鎖を容易にする
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①②:城の役割を単なる軍事施設から「領国統治のための行政機関」へ転換させる。
③④:兵力の機動的・集中的運用を可能にする。
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安土城は坂本城の拡大発展型。
天守が最初に建築されたのは、松永久秀の多聞山城と言われているが、光秀は、諸要素を組み合わせ、新しい城郭の概念を創り上げる。
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検地を断行し、家中の軍法を制定
検地で判明した知行高に応じて家臣たちに軍役を割り当てる。
財政基盤を確立し、且つ家中の部隊編成を統一。
例えば、千石取りの家臣は、騎馬武者5人、旗指物を付けた足軽10人、槍を装備した足軽10人、幟(ノボリ)を差した足軽2人、鉄砲足軽5人の計32人を動員するよう規定。
信長は、この検地システムの有用性に着目し、光秀を「検地の伝道師」として各地に派遣。
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越前・大坂などで遊撃軍として活躍~丹波平定
天正3年(1575)5月の長篠の戦い後の6月、光秀は丹波攻略の司令官に任命される。
しかし、信長は越前一向一揆殲滅を優先し、光秀は秀吉と共に凄惨な一揆掃蕩・宗徒虐殺を敢行(「府中町は死骸ばかり」(信長の村井貞勝宛て手紙)。
9月にようやく光秀は丹波に入る。また、この間の7月3日には、信長の奏請により朝廷より惟任の姓を授けられ日向守に任官する。
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光秀の丹波平定戦は、守護代内藤氏・有力国衆宇津氏を難なく落とすものの、翌年1月、波多野秀治(八上城)が寝がえり頓挫する。
信長は、石山本願寺・播磨平定を優先させる作戦をとり、光秀は丹波にはおさえの兵を置くだけで、信長に従い転戦する(天王寺籠城戦、雑賀攻め、松永久秀の信貴山城攻め)。
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1年8ヶ月後の天正5年10月、第2次の丹波・丹後制圧戦に着手。しかし、その後も、播磨神吉城攻め、荒木村重糾問使、摂津有岡城攻め、三田城攻めには参加しながら、天正7年6月1日に八上城を開城させる(波多野秀治兄弟は安土で斬られる)。
そして、同年8月9日に黒井城(城主赤井直正は既に病没)を陥落させ、丹波の大方を平定。
丹波平定戦と並行して丹後へも兵を出し、これには細川藤孝も協力して両者の軍事協力関係は定着する。翌天正8年8月、丹波一国が光秀に与えられ、光秀は亀山を居城とする。
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大和「指出」検地の執行
天正8年(1580)9月25日、上使として明智光秀と滝川一益、大和興福寺成身院に到着。
26日、大和一円に「指出」提出が通達。この日、明智光秀、興福寺東北院へ、大和の諸給人の知行方と寺社本所の指出を命令する信長朱印を通達。
興福寺の寺領糺明を実施する旨を通達、光秀折紙が到着次第に「老者」と「知行方存知衆」を出頭させるよう指示。
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「指出」のチェックポイント
(①当寺領・私領・買得分・皆一転、②諸談議・唐院・新坊、③名主得分、④百姓得分、⑤当寺・老若・衆中・被官・家来の私領・買得分・扶持分)と誓約書雛型を添える。
大和国興福寺衆徒中、大和指出に関する全5ヶ条の「霊社起請文前書」を信長上使滝川一益・明智光秀に提出。(「永井円次郎氏所蔵文書」)
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滝川一益は大和興福寺成身院に、明智光秀は吉祥院に陣取る。
興福寺は10日程で指出本帳草稿提出。上使は2日間点検、不備有りとして突っ返し、10月23日に完成(10829石)。
その他、10月に大社寺の法隆寺・多武峯(8千石)、薬師寺(2千)、東大寺(1500)、大仏供(500)、大きな国侍所領の箸尾氏(1万4千)、越智(1万2千)、片岡(3500)、高田(3千)、ナラ中地下(3千)、岡(2千)、戒重(1500)が完成。
10月末、失態を口実に国侍の戒重・高田・岡氏らを「生害」(自殺)させる。11月2日、上使引上げ。
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「天正八年九月廿六日、
当国中寺社・本所・諸寺・諸山・国衆悉く以て一円に指出す可きの旨、悉く以て相触れられおはんぬ。沈思沈思。申出さる一書の趣、これを写す。

敬白 霊社起請文前書の事。 
一、当寺領并びに私領買得分皆一職。何町何段の事。 
一、諸談義唐院・新坊何町何段の事。 
一、名主拘分、何町何段の事。 
一、百姓得分、何町何段の事。 
一、当寺老若・衆中・被官・家来私領并びに買得分、扶持分、何町何段の事。 
右、五ケ条の書付以て申入れ、田畠・屋敷・山林聊も隠置き申す儀これ無く候。その為、何れも本帳御目に懸け候。若し此の旨御不審に於ては、急度百姓前直ちに御糺明なさるべく候。その上多少に寄らず出来分これあるに到らば、曲事たり。惣寺領悉く以て御勘落あるべし。安土、上聞に達せらるべし。証文として、宝印を飜し、血判を据え申上ぐる者なり。
仍て前書件の如し。 九月 日 興福寺衆徒中 滝川左近殿 惟任日向守殿 此の如く申したる。

前代未聞是非なき次第。日月地におちず、神慮頼み奉る計りなり。

・・・。十一月二日。・・・滝川・惟任今暁七つ時分より帰了と。三十八日ばかり滞留か。その間の国中上下の物思ひ・煩ひ、造作苦痛迷惑、既果たる衆地獄の苦しみも同じならん」(「多聞院日記」)。
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馬揃(イベント)を奉行
天正9年正月の左義長(新年の飾り物を焚く伝統行事)の際、盛大に爆竹が鳴り響く中を騎馬衆が疾駆するというイベントを開催。
翌2月、馬揃え(軍事パレード)を実施。
「御分国」に「御馬揃」に集結せよと朱印状で伝え、内裏の東を馬場とする。
華麗な出立ちで駿馬に跨った諸将数百名が馬場を駆け巡る。見物の群衆は20万人に達し、臨席した正親町天皇は「かほど面白き御遊興、天子御叡覧、御歓喜斜ならず」との給旨を受ける。
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信長の評価は・・・
天正7年10月24日、光秀が丹波・丹後平定を報告した際、「永永丹波に在国侯て粉骨の度々の功名、名誉比類なし」との感状を与える。

天正8年の佐久間信盛折檻状では、「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし侯」と述べ、光秀の功労を家中随一とする。

信長は、信盛を追放し、光秀を近畿方面軍司令官とする。北陸方面軍の柴田勝家、中国方面軍の羽柴秀吉と並び、家臣団の中では最高位である。

所領の近江志賀郡・丹波計34万石に加え、丹後の細川家、大和の筒井家、山城衆などを与力に持ち、総戦力は約3万に達す。

天正10年正月の安土城での参賀で最初に信長に拝謁する名誉を与えられる。フロイスは、「信長は奇妙なばかりに親しく彼(光秀)を用いた」と評す。
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最後に、光秀と秀吉の関係はどうであったか?
一言でいえば、「共に織田家主流から外れている」「戦友」ということ。

・永禄11年~元亀元年、共に京都の政務を担当。
・天正3年の越前一向一揆殲滅に際し、共に掃討作戦を実施。
・天正6年の荒木村重謀反の際、共に村重の有岡城に乗り込み説得。
・天正6年以降、光秀の丹波と秀吉の播磨は隣接しており、作戦支援のために相互に部隊を融通し合う。
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「★信長インデックス」をご参照下さい
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